第八話:触手イベントは筋肉で引き千切るもの
王立騎士学園の敷地外れに口を開ける、地下迷宮の入り口。 苔むした古代石のアーチの奥からは、ひんやりとした冷気と、魔力が帯電した独特の湿った空気が漂っていた。
新入生たちによる【初級迷宮実習】。 三〜四人の小隊を組み、教官たちの監視のもと、地下三階に生息する指定魔獣を討伐して帰還するという毎年恒例の登竜門である。
入り口付近には、重装備に身を包んだ生徒たちが緊張した面持ちで群がっていた。 しかし、その中でただ一人、軽装の制服姿で佇むアルティナの周囲だけは、相変わらず冷え切った静寂が支配していた。
(よし、準備運動は完了だな)
アルティナは手首を軽く回し、関節の鳴りを確かめた。 制服の裏地に仕込まれた百キロの鉛シートに加え、今日のために新調した魔鉱石のアンクルウェイト。 一歩踏み出すたびに、砂利を踏みしめる音がやけに重々しく響く。
(薄暗い洞窟、視界の悪さ、ぬめり気のある湿地帯……。乙女ゲームにおける『くっころハザード』の役満みたいなステージだ。一秒たりとも油断はできん)
前世のいじめられっ子の記憶が、最悪のシナリオを次々と脳裏に投影して警報を鳴らす。 魔獣に拘束され、服を引き裂かれ、涙目で見下ろされるような情けない事態だけは、死んでも阻止しなければならない。
「これより実習を開始する! 各小隊、点呼を終えた者から順次突入せよ!」
引率教官の号令が響いた。 生徒たちが鬨の声をあげて洞窟へと足を踏み入れていく。 アルティナもまた、単独で悠然と暗がりへと歩き出そうとした——その瞬間。
「お待ちになって、アルティナ・シルフィードさん!」
キィン、と響くヒステリックな声。 見事な黄金の縦ロールを揺らしながら立ちはだかったのは、公爵令嬢のエレノアだった。 その背後には、いかにも筋骨隆々といった取り巻きの上級生男子が二人、用心棒のように控えている。
「あら、クロイツァー様。まだ私に机を砕かれたいのですか?」
「な、なんですってぇぇッ!? ぶ、無礼な口を利きやがって……ですわ!」
一瞬で地が出かかったエレノアが、扇子をバッと広げて顔を隠す。 しかし、その真紅の瞳には、明らかに危険な企みの光が宿っていた。
「いくら規格外の腕力をお持ちでも、単独での迷宮探索など学園の規律違反ですわ! どうしても行くと仰るなら、私の小隊の後ろを歩かせて差し上げますわよ。まあ……暗闇で何が起きても、助けてあげませんけれど!」
(ふむ……)
アルティナは冷ややかに観察した。 あからさまな【罠への誘導】だ。 原作ゲームの知識によれば、エレノアはこの迷宮実習でヒロインを危険区域へ誘い込み、強敵に襲わせて孤立させるはずだった。
(わざわざ自分からトラブルの種を撒きに来るとはな。まあいい、奥深くでまとめて片付ける手間が省ける)
「ええ、構いませんよ。ご自由にどうぞ」
「ふ、ふん! 後悔なさいませ!」
エレノアたちが先頭を切って洞窟へと入っていく。 アルティナは無言でその数メートル後ろを追随した。
地下二階へと続く細い通路。 岩肌から滴る水音がポタポタと響く中、アルティナの研ぎ澄まされた聴覚が、前方の天井の異変をいち早く察知した。
(——上か!)
ズズズ……と地を這うような不快な粘着音。 鍾乳洞の天井の裂け目から突如として現れたのは、巨大なタコと毒蜘蛛を混ぜ合わせたような紫色の魔獣——【ケーブ・オクトパス】だった。 それも、初級迷宮に出現するはずのない、明らかに誰かが誘き寄せた変異種の大型個体。
「きゃあああっ!? な、なんでこんな浅い階層に大型の変異種が……!?」
エレノアが悲鳴をあげ、取り巻きの男子生徒たちも腰を抜かして後ずさる。 太い触手の一本が、ビシッと空を切り裂いてエレノアの足元へと伸びた。
「ひっ、助けて——」
「邪魔だ、退いていろ」
冷徹な声とともに、アルティナが風となって割り込んだ。 百キロの重りを纏っていることなど微塵も感じさせない、鋭利な踏み込み。 アルティナは腰の剣を抜くことすらなく、伸びてきた紫色の触手を両手でガッシリと鷲掴みにした。
「なっ……!? 素手で触手を……!?」
エレノアが目を丸くする。 魔獣の触手から分泌される強力な溶解粘液。 しかし、アルティナの手袋の下、体内の魔力を神経伝達に合わせて極限まで圧縮した【金剛体】の皮膚の前には、酸などただの生温い水に過ぎなかった。
(ぬるぬるして掴みにくいな……。だが、握力で押し潰せば関係ない!)
ギリギリと音を立てて、アルティナの指先が触手の肉へめり込む。 リンゴを握り潰すどころではない。万力のような握力によって、魔獣の神経系が一瞬で圧壊した。
「ギシャアアアッ!?」
魔獣が激痛に悶え、暴れ狂う。 十数本の触手がアルティナの細い手足や胴体へと一斉に巻き付き、天井の闇へと引きずり上げようとした。 まさに、可憐な女騎士が魔獣に絡め取られ、なす術なく捕らわれる『くっころ』のお約束シーン——。
「おいおい……」
触手に全身を縛り上げられた状態で、アルティナは心底呆れたように吐き捨てた。
「こんな軟体動物の筋肉で、俺の骨格を締め上げられるとでも思ったか?」
フッと息を吐き、丹田に力を込める。 大胸筋、広背筋、脊柱起立筋——全身の筋繊維を極限までパンプアップさせ、外側へ向けて一気に爆発させた。
ブチチチチチッッ!!!!
それは、生肉が破断するおぞましい破壊音だった。 アルティナの華奢な肉体を締め上げていたはずの極太の触手たちが、彼女の筋内圧の上昇に耐えきれず、まるで古びた輪ゴムのように一斉に破裂・引き千切れた。
「ギエェェェェッ!?」
「全身の力比べなら、スクワット五百キロをこなしてから出直してこい!」
自由になったアルティナは、千切れ残った主幹の触手を肩に担ぎ上げた。 背負い投げの要領で、腰を低く落とし、強靭な体幹のバネを使って一気に前傾する。
「せぇぇぇぇの……ぬんッッッ!!!」
ドガァァァァァンッッ!!!!
巨大な質量が、天井から引きずり下ろされ、迷宮の岩盤へと叩きつけられた。 洞窟全体が激震し、落石の嵐が巻き起こる。 巨大魔獣は地面に巨大なクレーターを作って埋まり、全身を痙攣させて絶命した。
「…………は?」
腰を抜かしたエレノアの口から、魂の抜けた声が漏れた。 触手を素手で引き千切り、数トンの巨体を一本背負いで叩き落とした銀髪の美少女。 あまりの光景に、取り巻きの男子生徒たちは泡を吹いて倒れている。
「ふぅ……。前腕の筋肉を少し使いすぎたか。乳酸が溜まる前にストレッチをしておかねばな」
アルティナが平然と肩を回した、その時だった。
「見事だ、アルティナ嬢ッ!!」
崩れた通路の岩を軽々と飛び越え、白銀の剣を抜いた第二王子レオンが駆け込んできた。 どうやら異様な地響きを聞きつけて急行してきたらしい。
「巨大魔獣の変異種を、武器すら使わずにねじ伏せるとは……! その圧倒的な闘志、まさに天晴れだ!」
レオンは興奮に頬を染め、アルティナの前に膝をついた。 その瞳には、か弱い少女を守ろうとする色気など微塵もなく、純粋な【武人としての敬意と熱狂】がギラギラと輝いていた。
「君のその気高き力、ぜひ私にも学ばせてほしい! どうか私を、君の修練の相手にしてはもらえないだろうか!?」
「……は?」
アルティナは眉をひそめた。 てっきり「怪我はないかい、お姫様」などと甘ったるいセリフを吐かれるかと思いきや、返ってきたのは筋トレの合同合宿の申し込みのような熱血発言だった。
(なんだコイツ……? 攻略対象のイケメン王子って、もっとこう、甘い言葉で女を口説くタイプじゃないのか……?)
前世のオタク知識とあまりにもかけ離れた王子の反応に、アルティナの脳がわずかにバグを起こす。
「殿下。私は毎日、百キロの負荷を背負って素振り一万回をこなしていますが、ついて来られますか?」
「望むところだ! どこまでも君の高みについていこう!」
爽やかな笑顔で親指を立てるレオン。 背後でへたり込んでいたエレノアが、「なんなのよこの空間……脳筋しかいないじゃありませんの……!」と涙目で床を叩いていた。
(やれやれ……。変な奴に懐かれたな。まあ、頑丈な肉壁が一人増えたと思えば悪くないか)
アルティナは小さく息を吐き、さらに奥へと続く迷宮の闇を見据えた。 しかし、彼女はまだ気づいていなかった。 この変異種の出現が、単なる偶然ではなく——学園の深部に潜む『本物の悪意』によって仕組まれたものだったということに。




