第三話:イベントフラグは物理でへし折るもの
木々の葉擦れの音と、リズミカルに車輪が砂利を踏みしめる乾いた音が、車内に響いていた。 十年という月日は、人間を大きく変えるには十分すぎる時間である。
シルフィード男爵家の紋章が誇らしげに掲げられた豪奢な馬車。 そのビロード張りの座席に腰掛けているのは、今年で十五歳を迎えた少女——アルティナ・シルフィードだった。
窓から差し込む木漏れ日が、彼女の髪をきらきらと銀色に透かしている。 陶器のように滑らかな白肌に、すっと通った鼻梁。長い睫毛に縁取られた翡翠色の瞳は、深く静かな湖のように澄み渡り、瑞々しい唇はほんのりと桜色に色づいている。 シルフィード家の財力に任せて仕立てられた、濃紺と白を基調とする王立騎士学園の制服——プリーツスカートにタイトなジャケット——を身に纏ったその姿は、どんな吟遊詩人であっても言葉を尽くして讃えるであろう、息を呑むほど可憐な絶世の美少女だった。
……ただし。 その美しい制服の裏地には、特注の極薄高密度鉛シートが何重にも縫い込まれており、両手首と両足首には合計八十キロに及ぶ魔鋼製のウェイトがしっかりと装着されている。 一歩踏み出すたびに床板が微かに軋むほどの重量を、アルティナは涼しい顔で、羽毛のように軽々と制御していた。
(ふぅ……さすがに十代半ばになると筋肉の回復効率も上がって助かるな。体幹の安定性も、十歳の頃とは比べ物にならん)
アルティナは手袋越しに自分の拳を軽く握り、その感触を確かめる。 前世の記憶を取り戻したあの日から十一年。 一日たりとも欠かさず続けた血反吐を吐くような筋力トレーニング、体幹の強化、そしてシルフィード家に伝わる実戦剣術の修練。 そのすべては、ただ一つの目的のためだった。
(二度と、弱者にはならない。誰にも見下ろされず、誰にも屈しない……!)
前世で受けたいじめのトラウマ。地面に這いつくばらされ、笑いものにされた無力な自分。 あの悪夢を二度と繰り返さないために、アルティナはこの可憐な身体を、内側から徹底的に鋼へと鍛え上げてきたのだ。 そして——もう一つの脅威。
(妹が前世で狂ったように周回していた乙女ゲーム……確かタイトルは『王立聖樹学園の乙女たち』だったか)
成長するにつれて収集した貴族社会の情報から、この世界があのゲームの世界と酷似していることが判明していた。 攻略対象の王子たち、身分差の恋、そして——。
(ゲームのシナリオ通りなら、ヒロインや女騎士キャラは、やたらと敵に捕まりそうになるピンチイベントが多いんだよな。『くっ……殺せ!』的なシチュエーションで男キャラに助けられるか、最悪バッドエンドを迎えるお約束……)
アルティナの翡翠色の瞳が、冷徹な光を帯びる。
(ふざけるな、としか言いようがない。誰が助けを待つ悲劇のヒロインなんかになるか。ピンチイベントが起きるってんなら、イベントごと敵の頭蓋骨を叩き割るまでだ)
その時だった。
ヒヒィンッ! と馬が甲高い嘶きをあげ、馬車が激しい軋み音を立てて急停止した。 御者台から、焦りを含んだ叫び声が届く。
「な、なんだ貴様らッ!? ここをどなたの馬車と心得る——ぐあっ!?」
「ひゃははは! どこの誰の馬車だろうが関係ねえよ! 金目のモンと、乗ってる上玉の女を置いてきなッ!」
下品な笑い声と、鈍い打撃音。御者が引きずり落とされた気配が伝わってきた。 馬車の周囲を、十数人の荒くれた男たちの足音が取り囲む。
「おいおい見ろよ、シルフィード家の紋章だぜ! 武闘派貴族のお嬢ちゃんがお出ましだ!」
「へへっ、噂通りの極上の銀髪美少女じゃねえか。学園に入学する前に、俺たちのところでたっぷり『大人の稽古』をつけてやろうぜぇ!」
馬車の扉が、外側から乱暴に蹴り破られるようにして開け放たれた。 そこに立っていたのは、粗末な革鎧を身につけ、錆びた山刀を手にした大柄な男たち——この街道を荒らしまわっている盗賊団だった。
盗賊の頭とおぼしき男が、舌なめずりをしながら馬車の中へと手を伸ばす。 座席に座るアルティナの、透き通るような美貌と華奢な体躯を見て、男たちの下卑た笑みは一層深まった。
「おいおい、怯えて声も出ねえのか? 安心しな、手荒な真似はしねえよ。大人しく縄にかかるならな——!」
原作ゲームの知識が、アルティナの脳裏をよぎる。 ——プロローグイベント:【街道の悲劇】。 主人公が学園に向かう道中、不意を突かれて馬車を襲撃され、護衛を無力化されて絶体絶命の危機に陥る。そこで恐怖に震えながら、敵に屈服を迫られる屈辱のシーン。
(なるほどな……)
アルティナは、ゆっくりと座席から立ち上がった。 震えてなどいない。恐怖など微塵もない。 その翡翠色の瞳に宿っていたのは、ただ純粋な、獲物を値踏みする肉食獣の冷酷さだった。
(これが、お前らの言う『くっころイベント』ってやつか)
「おい嬢ちゃん、観念して『助けて』って泣き叫べよ! そしたら少しは優しく——」
男の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
ゴッッ!!!!
爆発音にも似た衝撃音が、街道の森に木霊した。 アルティナの華奢な右腕から放たれた正拳突きが、男の鳩尾へと正確無比に突き刺さっていた。 総重量八十キロの重りを纏った状態から、寸頸の要領で放たれた一撃。そこには前世のいじめられっ子の怨嗟と、十一年間の地獄の筋肉鍛錬のすべてが込められていた。
「がっ……ば……っ!?」
男の眼球がボロリと零れ落ちそうなほど見開かれ、背中側の革鎧が衝撃波で円形に吹き飛ぶ。 百キロ近い巨漢の身体が、まるで大砲の弾のように水平に射出され、後方にいた手下の盗賊三人を巻き込みながら、道端の巨木へと激突した。 メキメキと音を立てて大木にヒビが入り、男たちは白目を剥いてピクリとも動かなくなる。
「…………は?」
残された十数人の盗賊たちの時が、完全に止まった。 目の前で何が起きたのか、脳の理解が追いつかない。 可憐な銀髪の令嬢が、ただ小さく右手を突き出しただけで、自分たちの屈強な頭領が音速で吹き飛んだのだ。
馬車から、優雅な足取りで降り立つアルティナ。 カツン、とブーツが地面を鳴らす。 その天使のような美貌には、底知れない冷笑が浮かんでいた。
「誰が、誰に、泣き叫べって?」
鈴を転がすような美声が、静まり返った森に染み渡る。
「て、てめぇ……! なにをしやがったッ!? 野郎ども、構わねえ! 殺せ、女と思って油断すんじゃねえぞッ!!」
我に返った盗賊たちが、恐怖を紛らわせるように絶叫し、一斉に刃を抜いて四方から襲いかかってきた。 本来なら、可憐な少女騎士が数に圧倒され、捕らわれの身となる絶望のシチュエーション。
だが、アルティナは腰の愛剣をすら抜かなかった。 ただ静かに、両の拳を構える。
「悪いが、俺の辞書に『屈服』なんて言葉はないんだよ」
アルティナの身体が、掻き消えた。 重りをつけたままとは思えない超絶的な初速のステップ。 直後、街道の森は、盗賊たちの阿鼻叫喚と、何かが粉砕される鈍い破壊音によって埋め尽くされることとなる。




