第二話:天使の皮を被ったバーサーカー
——あれから、六年という月日が流れた。
王国有数の武門として名高いシルフィード男爵家。その広大かつ手入れの行き届いた中庭には、毎朝夜明けとともに、およそ貴族の屋敷とは思えない異様な重低音が轟くのが日常となっていた。
「フッ……! セイッ……! ヌンッ……ッ!!」
ドォン、と大気が軋むような風切り音。
木製の刃先が空気を鋭く爆ぜさせるたび、中庭の芝生が突風に煽られたように波打つ。
中庭の中央で汗を散らし、猛然と木剣を振るっているのは、今年で十歳を迎えたアルティナ・シルフィードだった。
朝焼けの光を浴びてキラキラと眩しく輝く、雪のように透き通った銀髪。陶器のように滑らかな白磁の肌と、強い意志を湛えた翡翠色の大きな瞳。フリルをあしらった上質なワンピースドレスに身を包んだその立ち姿は、誰がどう見ても絵本から抜け出してきた可憐な妖精か、神に愛された無垢な天使そのものである。
——ただし。
その天使の可憐な両手が握り締めているのは、子供用のおもちゃなどでは断じてない。
芯に超高密度の魔鉱鉄を鋳込み、大人の屈強な騎士が両手で抱えてようやく持ち上がるほどの重量を誇る、特注の【超重量鉄芯木剣】。
さらに、ふんわりとしたスカートや長袖の裏側には、鉛と鉄板をぎっしり縫い付けた特製のアンクルウェイトとリストウェイト——総重量にして五十キロを超える拘束具が、隙間なく仕込まれていた。
「八千九百九十八……八千九百九十九……九千ッ……!」
ピタリ、と切先を水平の位置で静止させる。
重さで腕が千切れそうなはずの木剣は、指先一本分のブレすらなく、完全に静止していた。
額に浮かんだ玉の汗を、細い手首で乱暴に拭い、アルティナは荒い呼吸を整える。
「ふぅ……。よし、まだ体幹がブレてないな。昨日に比べて前腕の筋肉の収縮速度がコンマ数秒上がったか……」
ぷにぷにとした可愛らしい自分の二の腕を指で押し込みながら、アルティナは真剣な眼差しで分析を重ねていた。
前世の惨めな記憶を取り戻した四歳のあの日から六年。
アルティナの生活は、前世の近代知識である【筋肉の超回復理論】【効率的なプロテイン(タンパク質)摂取】【体幹トレーニング】を異世界の過酷な鍛錬法と融合させた、狂気の肉体改造スケジュールによって埋め尽くされていた。
(まだまだだ……これくらいで満足してどうする! この世界には、魔獣もいれば凶悪な盗賊、さらには好戦的な隣国の軍勢までいるんだ。いつ何時、どんな理不尽な暴力に巻き込まれるか分かったもんじゃない)
前世で受けたいじめのトラウマが、アルティナの背中を容赦なく鞭打つ。
無力なまま地面に這いつくばり、笑いものにされた屈辱。
もしこの世界で油断し、力のないか弱い美少女のまま育ってしまえば、敵に生け捕りにされ、鎖に繋がれ、あの悪夢のような言葉を吐かされる未来が待っているに違いないのだ。
(『くっ……殺せ!』だぁ? ふざけんな、死んでも口が裂けても言ってやるものか! 敵が俺を捕まえようと手を伸ばしてきた瞬間、その腕をへし折って顔面に正拳突きを叩き込んでやるんだよ……!!)
美しく透き通る翡翠色の瞳を爛々と輝かせ、獰猛な闘志を燃え上がらせる十歳の幼女。
そんな我が子の鬼気迫る姿を、テラスの物陰から青ざめた顔で見つめる二つの影があった。
「ねえ、エリス……。わしは何か、とてつもなく恐ろしい悪夢でも見ているのか……?」
震える声で呟いたのは、アルティナの実父であり、現シルフィード男爵のヴォルクだった。
数々の国境紛争で武功を立て、戦場では『赤髭の猛虎』と恐れられた歴戦の騎士である。しかし今、その屈強な巨漢は、娘の常軌を逸した修羅っぷりを前にガタガタと膝を震わせていた。
「旦那様、残念ながら現実でございます。アルティナ様は今朝も未明の四時に起床され、生卵入りの搾りたて山羊乳を一気飲みされた後、両手足に重りを巻いた状態で裏山を十往復走破してこられました」
「なぜだぁぁぁッ!? なぜ我が家の愛らしい天使が、戦場で敵兵の首を狩るようなバーサーカーの修行をしているのだッ!?」
ヴォルクは頭を抱えてテラスの床に崩れ落ちた。
「わしは……わしはただ、あの子に可愛いリボンをつけ、美味しいお菓子をあてがい、誰よりも幸せなお姫様として育てたかっただけなのに! 先週など、誕生日に贈った特注のフリルドレスを『関節の可動域が制限されて回し蹴りが撃ちにくい』という理由で突き返されたのだぞ……!?」
「旦那様、お気を確かに……。アルティナ様はただ、少し……いえ、かなり防犯意識が高いだけでございます……」
「高すぎるわッ! 国境警備隊より警戒レベルが高い幼女がどこにおるッ!!」
絶叫する父親の声が届いたのか、庭のアルティナがすっと視線をテラスへ向けた。
そして、木剣をまるで木の枝のように軽々と小脇に抱えると、タタタッと軽やかな足取りで駆け寄ってくる。
「おはようございます、お父様、エリス」
にっこりと微笑むその笑顔は、まさに天上の光。世界中の誰もが心を奪われるであろう無垢な可憐さだった。
しかし、その足元からは、一歩踏みしめるごとに『ズシン……ズシン……』と五十キロの重りが地面を削る鈍い地響きが鳴っている。
「ア、アルティナ……。今日も精が出るな……。だが、女の子がそんなに無理をしては体に毒だ。ほら、厨房長に頼んで、甘いベリーのタルトを焼かせたんだ。一緒に食べよう?」
「お父様、お心遣いは感謝いたします」
アルティナは鈴を転がすような美声で、しかし一片の迷いもない真顔で言い放った。
「ですが、急激な血糖値の急上昇はインスリンの過剰分泌を招き、筋肉の分解と体脂肪の蓄積を促進します。今の私の筋繊維の修復に必要なのは、良質なタンパク質とアミノ酸です。朝食には赤身肉のステーキを五百グラム、レアで用意していただけますか?」
「たんぱく……あみの……すてーき……五百ぐらむ……?」
理解不能な単語の羅列と肉食獣のような要求を叩きつけられ、歴戦の騎士ヴォルクは白目を剥いて卒倒した。
「だ、旦那様ーーッ!?」
「エリス、お父様は体幹が衰えているわね。明朝から私と一緒にスクワット三百回から始めさせましょう」
「悪魔のようなご提案をおやめくださいませアルティナ様!!」
大騒ぎする屋敷の日常をよそに、アルティナは静かに拳を握り締め、青空を見上げた。
(肉体は着実に仕上がってきている。だが、本当の試練はこれからだ……)
シルフィード家の慣例では、十五歳になれば王都にある『王立騎士学園』へと進学することになっている。
身分ある貴族の子弟が集まり、次代の騎士や魔法使いを育成する学び舎。
だが、前世のオタク知識と照らし合わせるならば——そこは、いかにも【イベント】が多発しそうな、危険極まりない舞台だった。
(もし学園で悪漢に絡まれたり、罠にハメられて捕まるような『イベント』が発生したらどうする? ……決まってる。力こそパワー。鍛え上げたこの筋肉で、すべての理不尽を粉砕してやる)
可憐な美少女の胸の内に燃え盛る、不退転の鋼の意志。
こうしてさらに五年後——十五歳となったアルティナは、自らの『くっころ回避』と『完全自衛』を胸に誓い、王都へと旅立つことになるのだった。




