第一話:二度と、誰にも屈しない
頭蓋の奥を、熱した鉄杭でかき回されているような激痛だった。
呼吸をするたびに肺腑が焼け焦げるように熱く、濁流のような【記憶】の奔流が、堰を切って脳内へと雪崩れ込んでくる。
「っ……あ、が……っ!?」
思わず苦悶の声を漏らそうとして、自分の喉からこぼれ出た音の異質さに、思考が一瞬で凍りついた。
それは、低く掠れた男のうめき声などでは断じてなかった。
透き通る鈴を微かに転がしたような、あまりにも細く、可憐な——幼い少女の悲鳴だったからだ。
(な、んだ……? なにが、起きてる……っ!?)
頭痛の波が引いていくのと入れ替わりに、脳裏に浮上してきたのは、三十余年にわたる惨めで救いようのない前世の人生だった。
前世の俺は、ひ弱で、小柄で、とことん貧弱な男だった。
物心ついた頃から学校ではからかいの標的にされ、やがてそれは暴力といじめへとエスカレートした。殴られ、金を巻き上げられ、泥水をすすらされても、やり返す筋力も度胸もなかった。社会に出てからもパワハラ上司にペコペコと頭を下げ続け、陰口を叩かれ、誰かに助けを求めても冷笑されるだけ。惨めに地面を這い蹲り、擦り切れるように生きて——最後は、雨の降る歩道橋の階段から足を滑らせて転落死した。
無念、恐怖、怒り、そして自分自身の無力さに対する絶望。
そのドス黒い感情の澱と同時に、今の自分が置かれている現実が、急速に輪郭を結んでいく。
ここは、前世の近代社会とは異なる、剣と魔法が息づく中世風の異世界。
そして自分は、王国有数の武闘派貴族として知られるシルフィード男爵家の長女。
名は、アルティナ・シルフィード。弱冠、四歳。
「……あ、アルティナ様!? お気がつかれたのですね……!」
ベッドのすぐ脇から、涙声の混じった安堵の叫びが聞こえた。
視線をやれば、メイド服に身を包んだ若い女性が、胸元で両手を組んでこちらを見つめている。記憶が正しければ、幼いアルティナの身の回りの世話を一手に引き受けてくれている専属メイドのエリスだ。
「三日三晩、酷い高熱が続いておりましたのよ。旦那様も奥様も生きた心地がしなかったと……ああ、神よ、感謝いたします……!」
「エ……リス……?」
口を開くと、やはり自分のものではない、可愛らしい幼女の声が紡がれる。
アルティナ——いや、かつて惨めな男だった俺は、おそるおそる掛け布団から自分の両手を持ち上げた。
白く、透き通るような白磁の肌。
指先は小さく丸みを帯びており、手首など大人の親指と人差し指で軽々と握り潰せてしまいそうなほど細い。
天蓋付きベッドの傍らに置かれた豪奢な姿見へと視線を向ける。そこに映っていたのは——。
窓から差し込む陽光を受けて淡く輝く、雪のように純白の銀髪。
潤んだ瞳は吸い込まれそうなほど澄んだ翡翠色。
華奢な鎖骨、あどけない頬、まるでおとぎ話の絵本から抜け出してきた天使か、ガラス細工の工芸品のように儚げな超絶美少女の幼女だった。
(お、俺が……女の子……!? しかも、こんな……折れそうなくらい小さくて可憐な子供になってる……!?)
TS——性転換。
突如として突きつけられた非現実的な事態に、心臓が早鐘を打つ。
だが、その混乱と動揺は、次の瞬間——胸の奥底から噴き上がった猛烈な【恐怖】と【トラウマ】によって一瞬で塗り潰された。
(待て。待て待て待て……ッ!!)
自分の小さな両手と、か細い手首を見つめ直す。
脳裏に、前世で自分を踏みにじってきた奴らの、薄汚い嘲笑がフラッシュバックした。
『おいおい、そんな細腕で殴って痛いとでも思ったか?』
『お前みたいな雑魚は、地面に這いつくばって泣いてるのがお似合いなんだよ!』
暴力の記憶。無力感。踏みにじられた尊厳。
そして、ここは弱肉強食が常識のファンタジー世界だ。男爵家とはいえ、一歩屋敷の外に出れば魔獣や盗賊が跋扈し、いつ隣国との戦争が起きてもおかしくない。
もし、そんな世界で、この華奢で無力な美少女のまま成長したらどうなる?
(賊に襲われて捕まったら? 敵国の軍勢に城を落とされたら? 力のない女騎士や令嬢が、敵の男どもに囲まれて……ッ!)
そこで思い浮かんだのは、ファンタジーの定番にして最悪の悲劇のお約束。
泥まみれになり、ボロボロに引き裂かれ、縄で縛られ、涙目で見下ろされながら吐かされるあのセリフ——。
『くっ……殺せ……っ!』
(…………言ってたまるかぁぁぁぁぁッッ!!!!)
アルティナの背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄と、それを遥かに凌駕する憤怒の炎が走った。
二度と嫌だ。また誰かに見下ろされるのも、助けてと惨めに懇願するのも、力がないばかりに踏みにじられるのも、死んでも御免だ。
負け犬の悲鳴なんぞ、誰が吐いてやるものか!
くっころなどと言って敵に命乞いめいた屈辱を味わうくらいなら、こっちから敵の頭蓋骨を素手で粉砕してやる!!
「アルティナ様……? お顔がとても険しいようですが、まだお熱が……」
「エリス」
震えるメイドの声に応じ、アルティナは掛け布団を勢いよく跳ね除けた。
ふらつく幼い両足を踏ん張り、ベッドの上にすっくと仁王立ちする。その翡翠色の瞳には、四歳の幼女にあるまじき、獰猛でストイックな決意の光が爛々と宿っていた。
「重りを持ってきて」
「……はい?」
「重りよ。なければ、中庭に転がっている一番重い石でいいわ。両手で持てる限界のやつを三つ」
「は、はいぃぃっ!? な、何を仰っているのですかアルティナ様! 病み上がりなのですから、すぐにお横になって——」
「エリス、私は本気よ」
鈴を転がすような美声で、アルティナは一切の冗談を排した真顔で告げた。
「私は二度と、誰にも屈しない。ナメてかかってくる奴を全員返り討ちにするための、鋼の肉体と暴力が必要なの」
「ぼ、暴力ぅ……!?」
悲鳴をあげるメイドを尻目に、アルティナは幼い両手を固く、白くなるほど強く握りしめた。
(身体が小さかろうが女だろうが関係ねえ! 骨も筋肉も、今日から限界を超えて叩き上げてやる! 悲劇のヒロインなんぞになってたまるか——俺のこの手で、すべての死亡フラグを叩き潰してやる!!)
こうして、前世のトラウマを純度百パーセントの燃料に変えた、美少女アルティナの地獄の筋トレ生活の幕が上がったのだった。




