第9話 相殺
41,385グルデで現金は作れない。
翔が最初に確かめたのはそこだった。過大に請求された分は、まだ払っていない。返してもらう金ではなく、払わなくて済むかもしれない金だ。
105,000のうち41,385を払わないとすれば、残るのは63,615。それでも払う当てはないが、額は減る。
そして減った分は、次に買う兵糧に振り替えられる。半年で105,000を使う相手だから、月にすれば17,500。41,385は二か月ぶんを少し超える。二か月ぶんの荷を、金を渡さずに受け取れることになる。
紙の上ではそうなる。
翔は紙の上と外の違いを一度書き出した。組合には仕入がある。仕入には金が要る。その金を組合がどこから出しているかを、まだ聞いていなかった。
「相殺です」翔はギレスに言った。「こちらが払うべき105,000から41,385を引く。引いた分を、これから納めてもらう兵糧の代金に充てる。組合には現金が渡りませんが、荷は止まりません」
長官は卓の上の集計を見ていた。馬糧の欄で指が止まっている。
「六千頭と二千頭」
「はい」
「佐藤殿。この四千頭を、誰が六千と書いたかは分かっておりますか」
「まだです」
「では、組合が書いたと決めておられる」
「決めていません」翔は言った。「ただ、届いていないものに払うことはできません。誰が書いたかは、その後の話です」
ギレスは指を離した。
「順序が逆になります」
「逆でしょうか」
「先に払わないと言えば、相手は身構えます。身構えてから調べても、出てくるものは出てきません」
「組合は身構えないと思います」翔は言った。「四千頭を書いたのが組合でないなら、身構えるのは書いた側です」
「書いた側は、この建物の中におります」
ギレスの言い方は、責めるでもかばうでもなかった。事実を置いただけの言い方だった。
「では、なおさら急ぎます」
「急がれると、こちらの手が届かなくなります」長官は言った。「十二年、私は何も止めずにまいりました。止めれば、止めた者が責を負うからです」
集計を手元へ引き寄せた。
残りは三十一日だった。
「調べてから言うと、間に合いません」
「間に合わないほうが、失うものは少ないこともございます」
翔は答えなかった。答えを持っていなかったからではない。長官の言うとおりかもしれない、と思ったからだった。
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倉庫街は前より静かだった。荷車が二台しか出ていない。
ベルガーは奥の帳場にいて、翔を見ても立たなかった。
「早いですね。十日ほど前に来られたばかりです」
「数え終わりました」
翔は紙を一枚置いた。三行しかない。馬糧34,700、小麦3,185、塩と干し肉3,500。合わせて41,385。
置いてから、これが王宮の中の話でもあることを思った。四千頭ぶんの行き先を書いた紙ではないが、四千頭が消えていることは書いてある。この人が誰かに言えば、消した側に伝わる。
伝わってもいい、と決めた。伝わらないように動けるほどの日数が残っていない。
組合長は今度は手に取った。上から順に読んで、いちばん上でしばらく止まった。
「馬」
「六千頭ぶんで請求されています。軍務府の名簿は二千頭です」
ベルガーは紙を置いた。それから立ち上がって、帳場の後ろの棚から束を一つ出してきた。麻紐で綴じてある。
「お読みください」
上の一枚を開いた。
馬糧 六千頭分 六か月
第一より第七まで
例年どおり
「発注の写しです」ベルガーは言った。「うちが六千と書いたのではありません。六千と書いてよこされたものに、六千で応じました」
「どこからですか」
「王宮からです」
「王宮の、どこですか」
組合長は束の下のほうを繰った。何枚か見て、また戻して、翔のほうへ差し出した。
「書いてございません」
紙の下に枠が二つあった。承認と、発行。どちらも空だった。
「うちにも、名のない紙が来ます」ベルガーは言った。「十二年、そうです。名のない紙が来て、こちらは名のない荷を出す。名を書いてくれと申し上げたことはございます。書けないと言われました」
束を持ったまま動かなかった。
見覚えのある形だった。三日前に214枚を数えた。あの214枚にも、承認の枠に名がなかった。同じ病が、卓の反対側にも出ている。
「では、四千頭ぶんの乾草は、どこへ行きましたか」
「うちは第一から第七まで運んでおります。運んだ先で誰が受け取ったかは、うちの仕事ではありません」
「受取の記録は」
「取っておりません。取れと言われたことがございません」
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倉の外まで出て、それから戻った。
ベルガーは帳場に座り直していた。
「一つ申し上げます」
「どうぞ」
「王国は、41,385を払いません」
組合長の手が止まった。
「調べが終わるまで、と申し上げるべきかもしれません。ですが正直に申し上げます。調べが終わる見込みは立っていません。四千頭ぶんの行き先は、王宮の中にあります。中にあるものを調べるのに、どれだけかかるか分かりません」
「その間、うちは待つのですか」
「はい」
ベルガーはしばらく黙っていた。
「佐藤様。うちは、そちらに105,000を貸しているのと同じだと申し上げました」
「伺いました」
「その105,000を、うちは別のところから借りて作っております。年二割で。貸してくれている相手に、来月なんと申し上げましょうか」
「事情を説明していただくことになります」
「事情を説明すると、貸してくれなくなります」
倉のほうで、荷を下ろす音が一度だけした。
「では、こうなります」ベルガーは言った。「今、うちの倉にあるのは三百袋です。それは運びます。買ってしまったものですから」
「三百」
「七つに割れば、二日ぶんにもなりません」
翔は動かなかった。
「その先は」
「止めるのではありません。買えないのです」ベルガーは言った。「うちは麦を先に買って、それから納めております。買う金が出ません。ないものは運べません」
「来月からと伺いました」
「借りている先に、今日のことを申し上げます」ベルガーは言った。「明日の朝には、次の仕入の金が止まります。来月まで待ってはくれません」
「兵が食えなくなります」
「そうなります」
組合長は初めて立ち上がった。
「佐藤様。私は、そちらの数えが間違っているとは申しておりません。四千頭ぶんが消えているなら、消えているのでしょう。ただ、消したのはうちではない。うちは名のない紙のとおりに運びました」
「分かっています」
「分かっておられて、うちを止められる」
「ほかに止められるところがありません」
ベルガーは翔をしばらく見ていた。
「それは、そうでしょうな」
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王宮に戻ったのは日が暮れてからだった。
ブラントが軍務府から出てきて、廊下で翔を待っていた。手に紙を持っている。
「要塞の在庫を出させました」
「早いですね」
「あなたが組合へ行かれたと聞きましたので」長官は紙を渡した。「七つ全部です」
翔は紙を受け取って、すぐには開かなかった。
この数字がいつ集められたのかを考えた。ブラントは翔が組合へ行ったと聞いてから動いている。要塞に問い合わせが飛べば、要塞の側にも数える時間がある。数える時間があるということは、揃える時間があるということだった。
八日前、自分で早馬を出さないと決めた。理由がそれだった。
「いつ出させましたか」
「昨日です」
「では、要塞は昨日、数え直したことになります」
ブラントの眉が動いた。
「私の兵が、数を作ると」
「作らないと言い切れる根拠を、私は持っていません」
長官は少し黙った。それから、責めるでもなく言った。
「ご覧になってから、疑ってください」
廊下の燭台の下で数を読んだ。
第一要塞、四日。第二、三日。第三、二日。第四、三日。第五、五日。第六、二日。第七、三日。
平均して三日分だった。
「蔵は十日入るはずです」
「入ります。空だから三日なのです」ブラントは言った。「兵糧が七日遅れていると、ハウザーが申し上げたはずです。十日から七日を引けば、三日になる」
紙を下ろした。
三日。組合が明日から納めない。次の荷が来ないなら、四日目に食べるものがない。
「佐藤殿」ブラントが言った。「あなたが今日なさったことを、私は責めません。四千頭は放っておけない」
「はい」
「ですが、三日です」
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翌朝、荷車は来なかった。
来ないという報せが来たのでもない。ただ、いつも来る刻限に何も来なかった。
翔は財務府の窓から街道を見ていた。エリスが後ろで昨日の集計を清書している。ルカと、三日目から入った書記がもう一人、卓の端で馬糧の伝票を数え直していた。四千頭ぶんの行き先を探すには、まず六千という数がどこから来たかを追うことになる。発注の写しは組合にあり、王宮にはない。
三人とも、朝から誰も口をきいていなかった。
昼を過ぎたころ、石畳を叩く音が高くなった。
荷車ではなかった。馬が一頭、門を駆け抜けてくる。乗っているのは軍装の男で、鞍の後ろに何も積んでいない。
早馬は中庭で止まった。
男が降りて、膝をついた。立ち上がるのに手間取っていた。
階段を下りた。降りきる前に、男が顔を上げて言った。
「第三要塞から参りました」
声が枯れていた。
「いつ出ましたか」
「五日前です」
翔はその数を置いた。五日前。組合へ行く前だった。相殺を持ち出す前でも、通告する前でもない。この男が要塞の門を出たとき、翔はまだ伝票を数えていた。
「兵が、食っておりません」
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