第5話 三種類の銀貨
王宮の外に出たのは、来てから五日目のことだった。
門を出るとすぐ坂で、下りきったところに市が立っていた。石畳が濡れている。雨は降っていないので、水を撒いたあとらしい。エリスが半歩前を歩いて、人の間を選んで進んだ。
「パンを売っているところへ行きたいのですが」
「三つあります。いちばん安いのは、坂の下です」
そこは店ではなく、荷車の荷台に板を渡しただけの台だった。売っているのは五十くらいの女で、布を巻いた手で釣り銭を数えていた。
「一斤ください」
女が黒い塊を一つ、布の上に置いた。値は銅貨一枚。翔は財布を開けた。
銀貨が三枚。銅貨は入っていなかった。
エリスが用意してくれたものだが、彼女は宮廷の人間が市で買い物をする前提で詰めたわけではないのだろう。翔は財布ごと台の上に傾けた。三枚が板に落ちた。
女の手が止まった。
「銅貨はお持ちでないですか」
「ありません」
「では、どれでいただくか、決めさせてください」
女は三枚を一枚ずつ持ち上げ、指で縁を撫でた。二枚は撫でただけで置き、一枚は掌に載せて上下に振った。
「これでしたら、十八です」
「十八」
「この一枚をいただけば、釣りは銅貨十八枚。ほかの二枚なら十一枚です」
「同じ銀貨ですが」翔は言った。
「同じ形をしております」
女は掌に載せていたほうを縁で立て、板の上に落とした。音が鳴った。それから別の一枚を同じように落とした。音が違った。
「銀の量が違うということですか」
「そう言う方は少ないです」女は言った。「たいていは、十八にしろとおっしゃいます。こちらがけちっていると思われる」
翔は三枚を見た。形も、刻印も、同じに見える。手に取れば違うのかもしれないが、取っても分からない自信があった。
隣でエリスが、台の上の一枚を見ていた。
「知っていましたか」
「音は、聞いたことがあります」彼女は言った。「家では、父が同じことをします。
書記課の俸給は宮廷から出ますので、私自身は市であまり使いません」
「では、なぜ言わなかったのですか」
「そういうものだと思っていました」
翔は台の上の三枚を見た。十八と十一。この差がいつからついたのかを知りたかった。
だが、それを聞くには身分を明かすことになる。パンを買いに来た客が尋ねる話ではない。
女はもう釣りを数え始めていた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「銅貨でよろしければ、十八枚ございます」
「そちらではありません」翔は言った。「王宮の者です」
女の手が止まった。
「麦の値を調べています。買いに来たのではありません、と言うと嘘になりますが」
「王宮の」
「はい」
女は台の向こうで布を巻き直した。何か言うかどうかを決めている手つきだった。
「お聞きになりたいのは」
「その、音の違うほうです。なぜ十八なのですか」
「昔の銀貨だからです」
「昔というのは」
「私が商いを始めたころのです」女は言った。「そのころは、みなこれでした。銀貨一枚でパンが19斤。今は12斤。うちだけではありません、どこもです」
翔は書き留めなかった。書けば、この場でそれが記録になる。
「もう一つ、伺っても」
「一つだけ、こちらから申し上げます」
女は釣りを台に並べながら言った。銅貨が二種類混じっていた。
「まけろとおっしゃる方は、まだ買っておられます。買わなくなった方は、何もおっしゃいません。台の前を通って、そのまま行かれる。王宮の方には、そちらは見えないと思います」
「いつからですか」
「去年の秋くらいから、多くなりました」
女はもう次の客のほうを見ていた。
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坂を上がりながら、翔は数を並べた。
銀貨一枚で19斤が、12斤になった。12を19で割ると、六割三分。銀貨一枚の買える量が、六割三分に減っている。逆から言えば、パンの値が1.58倍になった。
そして、あの女は昔の銀貨を十八枚ぶんで受け取ると言った。今の銀貨は十一枚ぶん。同じ「銀貨一枚」に、市では二つの値がついている。
「エリス。麦は採れていますか」
「悪い年もありましたが、去年は並だと聞いています」
「では麦のせいではないですね」
大司教が昨日そう言った。麦が採れなかった年ではない、値だけが上がっている、と。翔はそのとき、後で伺いたいと答えた。後、が今日になった。
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王都両替商組合の建物は、市の北の端にあった。
石造りで、窓が高い位置にしかない。中に入ると天秤が四つ並んでいて、そのうち二つが動いていた。硬貨を積んで、砝碼を載せて、傾きを見て、また積み直す。
組合長のクレメンス・ロートは六十近い男で、翔を天秤のそばに立たせたまま話した。
「王宮の方が、こちらへ来られるのは珍しい」
「鋳造の記録を拝見したいのですが」
「王宮の鋳造所にございましょう」
「ありました。三度、鋳直されています」翔は言った。「銀の量が、九割二分から七割八分、六割六分、五割八分と下がっています」
ロートは天秤のほうを見ていた。
「では、お分かりでしょう」
「何がですか」
「なぜ、我々がここにいるかです」
組合長は近いほうの天秤を指した。皿の上に硬貨が積まれている。
「同じ『銀貨』と呼ばれる物が、この国には四種類あります。市の者は重さで区別しますが、正しくは量れません。だから我々が量る。量って、両替する。差をいただく」
「その差が、組合の商いですか」
「そうです」
翔は天秤を見た。動いている二つとも、皿が水平になっていない。
「もう一つ伺います」
「どうぞ」
「王国の歳入に、貨幣鋳造の差益として40,000グルデが計上されています。これは、銀を減らして鋳直したときに出た分ですね」
ロートは初めて翔のほうを向いた。
「そのとおりです」
「つまり王国は、自分の貨幣の価値を下げることで、毎年40,000を得ている」
「毎年ではありません。鋳直した年だけです。三度ございました」ロートは言った。「帳簿に毎年40,000と書いてあるなら、それは平らに均した数字でしょう」
書き留めながら、指が止まった。
歳入1,150,000。昨日、御前で読み上げた数字だった。そのうち40,000が、三度しかなかったものを毎年に均して並べたものだとすると、その1行は今年入ってくる金ではない。
入ってこない40,000を歳入に数えていれば、足りない額は460,000ではなく500,000になる。六・一か月も、六・一ではなくなる。
ほかの七行はどうなのか。塩税180,000、関税155,000、人頭税130,000。あれは去年入った額なのか、去年入るはずだった額なのか。
翔が五日かけて読んだのは、歳出の帳面だった。歳入の帳面は、まだ一冊も開いていない。
「では、貨幣を元の重さに戻したらどうなりますか」
天秤の音が止まった。皿を押さえた職人が、こちらを見た。
「戻すとおっしゃいましたか」
「仮の話です」
「仮でも申し上げます」ロートは言った。「やめておかれることです」
「なぜ」
「王国は4,280,000を借りております」
翔は動かなかった。
「証書には枚数が書いてあります。重さは書いてありません」ロートは言った。「今の五割八分の銀貨で借りたものを、九割二分の銀貨で返すことになる。同じ枚数で、中身が六割増えます。あなたが正しいことをなさると、あなたの国の借金は明日から六割増える」
窓の高いところから入る光が、天秤の縁に当たっていた。
「組合は、どちらでも構いません。我々は量るだけです」ロートは言った。
「短期の貸付が、三十三日後に更新の日を迎えます」翔は言った。
「ございます」
「そのときまでに貨幣の重さが変わっていたら、そちらは値をつけ直しますね」
「つけ直します」ロートは言った。「それだけです」
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王宮に戻って、翔は卓に紙を広げた。
昨日出した数字を書く。歳入1,150,000、歳出1,610,000、差460,000。その下に148,200。合わせて608,200。
国庫は310,000。
まず460,000で割る。
460,000 ÷ 12 = 38,333
310,000 ÷ 38,333 = 8.1
八か月と少し。
次に608,200で割る。
608,200 ÷ 12 = 50,683
310,000 ÷ 50,683 = 6.1
六か月と少し。
翔は二つの数字を並べて置いた。
八・一と六・一。
差は、払っていない利息を数に入れるかどうかだけだった。入れなければ八か月保つ。入れれば六か月で尽きる。そして入れないという選択は、帳簿の中にしか存在しない。証書は入れている。
「エリス。収穫はいつですか」
「七か月後です」
翔は羽根ペンを置いた。
六・一か月で国庫が空になる。収穫が来るのは、その〇・九か月あとになる。
一か月足りない。二十七日ほどの空白があって、そこには何もない。
ただし六・一という数字は、毎月同じだけ減っていくと置いた場合のものだった。歳入は収穫のあとにまとめて入る、とギレスが言っていた。まとめて入るということは、それまでは入らないということでもある。
6.1の横に、印を一つつけた。あとで確かめる印だった。
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その日の夕方、翔は二つの指示を出した。
一つ。国庫にある貨幣を、鋳造年ごとに仕分けて量ること。枚数ではなく、重さで記録すること。
「310,000というのは、枚数です」翔は言った。「中身が四種類あるなら、310,000ではないかもしれません。まずそれを知りたい」
二つ。今後の支払いと受け取りについて、書面に貨幣の種類を書き入れること。どの銀貨で払うのかを決めずに約束しないこと。
ギレスが横で聞いていた。
「それだけですか」
「今日はそれだけです」
「金は一枚も増えませんが」
「増えません」翔は言った。「ですが、いくらあるのかが分かります。それが分からないうちは、何も決められない」
長官は少しの間、黙っていた。
「12年、量ったことはございません」
「では、初めてになります」
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フリーデリケは、扉のところで話を聞いていた。
翔が振り返ると、彼女は廊下に控えていた書記のほうへ向き直った。
「財務府の鍵を、佐藤に渡しなさい」
書記が復唱して、下がっていった。
その言い方が、四日前と違っていた。
初日から昨日まで、彼女は人に指示を出すとき、翔のことを客人と呼んでいた。客人を案内しなさい。客人に紙を。今、名前だけになった。
フリーデリケは何も言わずに廊下を歩いていった。翔もそれについては何も言わなかった。
卓の上には、まだ量られていない310,000の数字が置いてあった。
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