第4話 御前会議
「帳簿には、書かれるのですか」
会議の前に、ギレスがそれだけを聞きに来た。廊下で、両手を体の前で組んで立っていた。
「今日は書きません」翔は言った。「口で申し上げます」
「口と紙では違うと」
「組合が読むのは紙です。集まる人の耳ではない」
ギレスは目を伏せた。承服したのか、そこまでは甘くないと思ったのか、どちらとも取れる伏せ方だった。
「38日目を過ぎたら書きます」翔は続けた。「更新が済んでからなら、半年は間があります」
「それまで、この部屋の外に出ないとお考えですか」
「出ると思います」
「では、なぜ今日話すのです」
翔は壁の掛け時計を探して、そんなものはないことを思い出した。
「知らない人間に、金の使い道を決めさせないためです」
---
謁見の間の卓は長かった。
正面に王。左手にフリーデリケ、その隣にギレス。右手にヴェルマー侯爵、軍務府長官のブラント、それから灰色の法衣の女がひとり。聖アルディス教会の大司教セラフィナだと、入る前にエリスが教えてくれた。
王――レオポルト四世は、思っていたより若かった。四十を少し過ぎたくらいで、背をまっすぐにして座っている。手は卓の上で組まれていた。動かない。
翔は紙を六枚配った。エリスが昨夜のうちに書き写したものだった。
「歳入から申し上げます」
誰も紙を見なかった。ヴェルマー侯爵だけが、指の先で紙を少し押して、卓の縁と平行に揃えた。
「地租420,000グルデ。塩税180,000。関税と通行税155,000。人頭税130,000。王領地95,000。鉱山70,000。官職の売却60,000。貨幣鋳造の差益40,000。合わせて1,150,000です」
そこで一度切った。
読み上げながら、下の二行に指を当てていた。官職の売却と、貨幣鋳造の差益。
官職の売却というのは、徴税官の職を金で買わせることだと、昨日ギレスに聞いた。
買った者はその領で税を集め、集めた分の一部を自分の取り分にする。
王国は、将来入る税をいま現金にしている。
貨幣鋳造の差益がどこから出るのかは、まだ聞いていない。
「歳出です。軍事費890,000。利払い310,000。宮廷費185,000――」
そこで、卓の左手のあたりで椅子が軋んだ。フリーデリケが体を動かしたのだった。
昨夜、彼女はこの紙を一度見ている。そのとき宮廷費の行に指を置いて、ここは飛ばしなさい、と言った。翔は返事をしなかった。飛ばせば六行が五行になり、合計が合わなくなる。
「――行政費125,000。教会への献納と恩給60,000。道路と橋40,000。合わせて1,610,000」
王は動かなかった。
紙の音がした。誰かが持ち上げた。
「差は460,000です。毎年、これだけ足りません」
ブラントが顔を上げた。
「毎年、というのは」
「今年だけの話ではない、という意味です」
「では去年は」
「去年の帳面も同じ形で締めてあります。数字は少し違いますが、足りない年が続いています」
「何年」
翔はギレスのほうを見なかった。見ればそれが答えになってしまう。
「少なくとも12年」
---
セラフィナが初めて口を開いた。
「パンが上がっております」
そちらを向いた。
「救貧院に来る者が、去年より半分ほど多くなりました。麦が採れなかった年ではありません。値だけが上がっております」
「その話は、後で伺いたいです」翔は言った。「今日は、まず足りない額を出させてください」
大司教は何も言わずに視線を戻した。責める顔ではなかった。順番を待つ顔だった。
紙の下のほうを指した。
「もう一つあります。この460,000には、入っていない支出があります」
「入っていない」ヴェルマー侯爵が言った。声が低い。「支出が、帳簿に入っていないと」
「借入の証書に書かれた利率で計算すると、1年に払うべき利息は458,200になります。帳簿の利払いは310,000です。差の148,200は、払われておらず、記録もされていません」
紙を持ち上げる音が、今度は三つ重なった。
「460,000に148,200を足すと、608,200。これが実際に毎年足りている――足りていない額です」
言い直したが、直らなかった。誰も咎めなかった。
---
「その計算は、どこの数字から出ました」
ヴェルマー侯爵だった。
「法務庫の証書です」
「昨日、開けたそうですな」
「はい」
「では伺いたい」侯爵は卓に肘を置いた。「なぜ、あなたが見ておられる」
翔は答えを用意していなかった。
「宰相の命によります」
「そうではない。私は、その手続きの話をしておりません」
侯爵は紙を一枚だけ持ち上げて、また置いた。
「この部屋の者は、それぞれ失うものを持っております。私は領地を持ち、この国に金を貸しております。ブラント殿は要塞を預かり、そこにいる四千人の名を知っておられる。大司教は教区をお持ちだ。ギレス殿は――」
そこで少し止まった。
「ギレス殿にも、この国での12年がある」
ギレスは何も言わなかった。
「佐藤殿。あなたは何を失いますか」
自分の手を見た。
「あなたには領地がない。家族がない。ここで生まれた者を一人も知らない。仮にこの数字が明日、リューベルクの商人の手に渡ったとして、あなたは何を差し出して償うのですか」
「差し出せるものはありません」
「そうでしょう」侯爵は言った。「私はあなたを疑っておりません。疑いようがないのです。信じる根拠も、疑う根拠も、こちらには一つもない。それを申し上げている」
部屋は静かだった。
反論を探して、見つからなかった。この国の人間は、失うもので互いを縛り合っている。彼はその輪の外にいる。四日前に来て、帳面を七冊読んだだけの人間だった。
「侯爵」
フリーデリケが初めて口を挟んだ。
「では、12年見てきた者たちが、なぜこの数字を出せなかったのでしょうか」
侯爵は宰相のほうを見た。それから、答えなかった。
---
「まず何に使う」
ブラントが言った。
「足りない額は分かりました。では、ある分をまず何に使うのですか」
ブラントは紙を卓に置いた。
「壁の話は後でいい。うちの4,000人は、先月分の俸給が20日遅れて出ました。今月分はまだです。傭兵が二月遅れているのは存じております。ですが、こちらは一月遅れれば逃げる者が出る。契約ではなく俸給なので、逃げても罰するだけで、代わりが来ない」
「傭兵の給与が45日後に来ます」翔は言った。「120,000」
「その次は」
「決まっていません」
「決まっていない」ブラントは繰り返した。「決めるのは誰です」
答える前に、ヴェルマー侯爵が卓を指で二度叩いた。
「利息が先でしょうな」
「侯爵家への利息は、遅れておりません」翔は言った。
「では遅れているのはどこです」
「申し上げられません」
「なぜ」
「その順番を、今日ここで決めたくないからです」
言いながら、翔は昨日の地下を思い出していた。四つの箱と、蝋板の4,280,000。今日はその数字を紙に載せていない。載せれば、この部屋で誰が誰にいくら貸しているかが全員に見える。ギレスの言った通りになる。
出さなかった、というより、まだ出せていない。いつ出すかを決める日が、そのうち来る。
言ってから、自分が何をしたのかに気づいた。
足りない額を出した。それだけのつもりだった。だが数字を出した瞬間に、この部屋にいる全員が同じことを考え始めた。足りないなら、誰が先に受け取るのか。
侯爵家の利息108,000は、毎年きちんと払われている。ブラントの要塞の壁は三年崩れたままで、傭兵の給与は二月遅れている。今日まで、その三つは別々の話だった。同じ紙に載ったことがなかったからだ。
四日前まで、誰もこの競争をしていなかった。金がいくら足りないかを、誰も知らなかった。
翔が今日つくったのは、行列だった。
---
王が動いた。
卓の上の紙を、右手で自分のほうへ引き寄せる。それから、上から下まで目を通した。急いでいなかった。歳入の八行、歳出の六行、その下の差額。指が数字の列を一度なぞった。
読んでいる、と翔は思った。読めない人ではない。
読み終わると、王は紙を卓に戻した。角を揃えた。
そして立ち上がった。
全員が立った。翔も遅れて立った。
王は誰の顔も見なかった。ヴェルマー侯爵の前を通り、ブラントの前を通り、扉の手前でわずかに歩調が落ちた。落ちただけで、止まらなかった。
扉が開き、閉まった。
残された者たちは、しばらく立ったままでいた。誰も座り直さなかった。ヴェルマー侯爵が上着の裾を直し、ブラントが地図の巻いてあるほうへ目をやった。セラフィナは紙を法衣の袖に入れた。
翔は卓の上を見た。
王が引き寄せた紙が、六枚のうち一枚だけ、角を揃えて置かれていた。
お読みいただきありがとうございます! ブックマークや下の☆☆☆☆☆の評価にて応援していただけますと励みになります! どうぞ、よろしくお願いいたします。




