第3話 四十五日
傭兵契約の写しは、帳簿の束とは別の棚にあった。
軍務府が保管しているものを写させてもらった、とエリスが言った。原本は隊ごとに隊長が持っている。王国側の控えは、一部が欠けていた。
残っている分を日付順に並べた。
条項は短い。給与は月ごとに支払う。兵糧は現物で支給する。武具の損耗は隊が負う。
四つ目に、こうあった。
給与の支払いが三月にわたり滞りたるときは、
本契約は自ら解け、以後、隊は王国の指揮に属さず。
「解ける、というのは」
「切れる、という意味です」エリスが言った。「更新の手続きが要らない、という書き方をしています」
翔は自分で切れる契約を見たことがなかった。片方が破棄を通告して初めて切れる、というのが当たり前だった。ここでは日付が来るだけで切れる。誰の意思も要らない。
「今、何か月滞っていますか」
「二月です」
40,000グルデが二回。80,000。
次の支払日は45日後だった。その日には、遅れている80,000と、その月の40,000を合わせて120,000を渡さなければならない。渡せなければ、三月目になる。
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軍務府は王宮の東棟にあった。
長官のオットー・ブラントは五十代で、翔を立たせたまま話した。座れとは言わなかったが、意地悪でそうしているのではなく、自分も立っていた。
「120,000。用意できますか」
「金は宰相府の問題です」ブラントは言った。「私のところではありません」
「軍の給与ですが」
「軍の、ではない。傭兵の、です」
長官は壁の地図を指した。要塞の名前が七つ書き込まれている。
「王国の兵は、あの七つを守っている者たちです。約4,000。彼らは俸給で動きます。私が命じ、私が責任を負う」
「残りの32,000は」
「契約です」ブラントは言った。「隊長が王と契約を結んでいる。私ではない。私は彼らに、どこへ行けとは言えます。いくら払うとは言えません。言う権限がない」
「20年、そうですか」
「そうです」
翔はもう一度、七つの要塞を見た。
「なぜ、契約のほうが多いのですか」
ブラントは初めて翔のほうへ体を向けた。
「解けるからです」
「解ける」
「俸給兵は、戦が終わっても俸給を払い続けます。契約は、切れれば終わる」長官は言った。「20年前、誰かがそう考えました。安く済むと。今のところ、まだ切れておりません」
翔は帳面の数字を思い出した。傭兵給与480,000。それに対して、七つの要塞の維持に計上されているのは80,000。
「4,000人の俸給は、その80,000から出ていますね」
「出ています」
長官の答えに間がなかった。何度も聞かれてきた質問らしい。
「石を積む分は」
「残りません」ブラントは言った。「南の第三要塞は、三年前から壁の一部が崩れたままです。修繕の予算を出してくれと申し上げるたびに、傭兵の遅配が先だと言われる」
そこで言葉を切った。
「佐藤殿。あなたが120,000を作るとして、それはどこから出ますか。私の80,000からでないと、どうして言えますか」
答えられなかった。今はまだ、どこから出るかを一つも知らない。
「では、私は誰と話せばいいですか」
長官は答えるまでに少し間を置いた。それから、机の上の紙に名前を一つ書いた。
「ハウザー。四つの隊をまとめています。あなたが呼べば、来ます」
「来ますか」
「来ますよ。彼も数を数える人間ですから」
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ヨルク・ハウザーは翌日の午後に来た。
背は高くない。革の上着に金具がなく、遠目には商人に見えた。案内されて部屋に入り、卓の上の書類を一瞥してから座った。
「佐藤様。財務を見ておられるとか」
「三日目です」
「三日で私を呼びましたか」
ハウザーは笑わなかった。事実を確認しただけらしかった。
「二月分、80,000が滞っています」翔は言った。「45日後に、それと当月分を合わせて120,000をお渡しする必要があります」
「はい」
「そちらの認識も同じですか」
「同じです」ハウザーは言った。「加えて、兵糧が七日分遅れています。こちらは金ではないので、契約には数えません。ただ、遅れています」
翔は書き留めた。兵糧の七日。
契約に数えない未払い。数えていないだけで、消えるわけではない。昨日、同じ形のものを見たばかりだった。
ただ、今そこへ手を伸ばすと45日に間に合わない。行の端に印だけつけて、先へ進んだ。
「兵糧は、どこから買っていますか」
「王都の商人組合です。王国が買って、我々に渡す形になっています」ハウザーは言った。「組合への支払いが遅れているとは聞いております。詳しくは存じません。我々は受け取る側ですので」
「遅れていると、誰から」
「荷を運んでくる者からです。彼らは正直です」
「渡せなかった場合を伺いたい」
「三月目になります」
「そのあとは」
「契約が解けます」ハウザーは言った。「私が命じるのではありません。解けたら、私はもう彼らの隊長ではない。命じる者がいなくなるだけです」
窓の外で、荷車が石畳を鳴らして通った。
「駐屯地の慣例をご存じですか」
「聞いています」
「聞いた、という程度でしたら、はっきり申し上げます」ハウザーは膝の上で手を組んだ。「解けた隊は、その土地で自分の給与を回収します。誰も止めません。止める者が、契約上いなくなるからです」
「あなたも止めない」
「止められません」
ハウザーは初めて視線を落とした。
「佐藤様。私は止めたいのです」
翔は顔を上げた。
「私は9年この仕事をしています。二度、契約が解けた場になりました。どちらも、そのあと二年は仕事が来ませんでした。焼いた土地の名前は残ります。次に雇う者は、その名前を知っている」
「では、あなたにとっても損だと」
「損です」ハウザーは言った。「ですから私は、あなたに120,000を作っていただきたい。恫喝しに来たのではありません。取引先に、支払いの見込みを尋ねに来ました」
その言い方を、頭の中でもう一度なぞった。取引先。そう呼ばれるとは思っていなかった。
「見込みは、まだ立っていません」
「いつ立ちますか」
「分かりません。ただ、45日目に120,000を渡せるかどうかは、今日から数えて答えを出します」
ハウザーは少しの間、翔を見た。
「では、また伺います」
「ハウザー殿」翔は言った。「今日伺ったことは、あなたの四隊についての話ですね」
ハウザーは腰を上げかけたまま止まった。
「四隊です。5,200人」
「全体の何割になりますか」
ハウザーは天井のほうへ目をやった。答えは数えてから出てきた。
「一割六分ほどでしょうか」
「では、残りの八割四分について、私はまだ何も聞いていないことになります」
ハウザーは座り直しはしなかった。ただ、少し長く翔を見た。数えられる相手かどうかを、こちらも測られている。
「そのとおりです」
立ち上がって、扉のところで振り返った。
「一つだけ。私の四隊は、遅配を二月と数えております。ほかの隊は、数え方が違うところがあるかもしれません」
「違う、というのは」
「支払日を、月の初めに置いている隊と、終わりに置いている隊があります」ハウザーは言った。「私は初めです。終わりの隊は、私より半月早く三月目になります」
扉が閉まった。
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「隊ごとの支払日を、全部出せますか」
部屋に戻ってすぐ、翔はエリスにそう頼んだ。彼女は写しの束をもう一度取りに行き、半刻ほどで戻ってきた。
「25隊あります」
「支払日は」
「月の初めが14隊。終わりが5隊です」
エリスはそこで束を持ち直した。もう一度、上から数え始める。二度目は先ほどより遅かった。
「……24隊です」
「変わりましたか」
「同じ隊の写しが二枚ありました。更新のときに作り直したもので、隊の名が少し違う書き方になっています。同じ隊だと気づきませんでした」
「気づいたのは、どこでですか」
「隊長の名が同じでした」
「その隊の支払日は」
「月の初めです」
「では、月初は13」
翔は束を受け取って、その二枚を並べた。名の綴りが二文字違う。日付は半年離れている。書いた者が別で、聞き取った音をそれぞれの流儀で写したのだろう。同じ隊が二つの名で王国の記録に載り、数えるたびに一つ増える。
度量衡の話をどこかで聞いた気がした。領ごとに枡の大きさが違うと、誰かが言っていた。同じことが人の名でも起きている。
「13と5で18。控えがあるのは、その18隊ですね」
「はい」
「残りの6隊は」
エリスは束の下まで指を滑らせた。途中で止まった。
「控えがありません」
「軍務府にも」
「軍務府から借りたのが、この束です」
写しを一枚ずつ数えた。人数の記載があるものを足していく。18隊で24,600。全体は32,000と聞いている。
差は7,400。
7,400人分の契約が、どこにも写されていない。原本は隊長が持っている。いつが支払日で、何月分が滞っているのかを、王国の側は知らない。
「借りに行けますか」
「隊長に、写しをくださいと申し入れることになります」エリスは言った。「今、それを申し入れると」
「金が用意できないから確かめている、と読まれますね」
「はい」
翔は卓に紙を広げた。
45日後に120,000。それは分かった。
だが、その前に来る日がある。
昨日、法務庫で見た両替商組合の証書。半年ごとの更新。一番上の一枚の日付から数えると、次の更新は今日から38日目だった。
38日目に、組合が更新に応じなければ、530,000が一度に来る。国庫は310,000しかない。
そして組合は、更新のたびに王国の帳簿を見る。
翔は紙に二つ書いた。
38 組合の更新
45 傭兵の給与
38日目までに帳簿を整えれば、148,200が表に出る。表に出れば、組合はそれを延滞と読む。読めば、更新しない。
整えなければ、120,000をどこから出すかが分からない。
どちらの日も動かせなかった。動かせるのは、どちらを先に触るかだけだった。
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日が落ちてから、翔は炭の欠片を借りて壁の前に立った。
漆喰は古く、以前に誰かが何かを書いて消した跡があった。その上に、大きく書いた。
38
45
書いてから、二つの数の下に横線を引いた。線の下に、書いた。
7
書き終えてから、自分が何をしたのかに気づいた。数字を二つ並べると、引きたくなる。差が意味を持つかどうかを考えるより先に、手が動く。
7日。
炭を持ち直して、7の下にもう一本、線を引いた。
線の下は空けたままにした。7,400人の支払日は、書ける数字がなかった。
外で、東棟の鐘が鳴っていた。数えるのをやめた。
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