第2話 書庫の鍵
「12年です」
法務庫の扉が開いた音に、ギレス・タウンの声が重なった。
地下は乾いていた。壁に沿って棚があり、年号を焼き印した木箱が並んでいる。手前の箱に指を当てると、埃が積もっていて跡が残った。宰相の権限で開くという通達を受けて、朝いちばんに降りてきていた。断らなかったのは、断る理由を用意できなかったからだろう。
「12年、誰も来なかったということですか」
「先々代の長官が退任なさるときに、一度。それきりです」
フリーデリケが守衛に何か言い、守衛が燭台を運んできた。地下には窓がない。
「書き取る者を呼びました」宰相が言った。「羽根ペンと蝋板を持たせてあります」
階段の上から足音が降りてきた。
入ってきたのは若い女で、翔より十ほど下に見えた。灰色の服の袖を紐で縛り、蝋板を胸の前で抱えている。指の第二関節までインクが染みていた。
「書記課、エリス・ヴァルナーです」
名乗り方が早口だった。怯えている様子はない。そういう喋り方らしい。
「読み書きができるのは、この課で4人です」ギレスが横から言った。「そのうち手が空いているのが彼女だけでした」
エリスは何も言わなかった。反論する立場ではないと分かっている顔だった。
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木箱の中の証書は、思っていたより薄かった。
一枚目はヴェルマー侯爵家との貸借契約で、羊皮紙に書かれ、封蝋が三つ押してある。翔は日付と金額と利率を確認した。1,350,000グルデ。八分。ギレスの言った通りだった。
二枚目、ハーレン商会。1,720,000。一割二分。ここには附則があり、関税収入を担保に供する旨が書かれている。
三枚目、聖アルディス教会。数字の書き方が違った。
「16,320,000……銀貨、ですか」
「教会は銀貨で証文を作ります」ギレスが言った。「昔からそうです」
他の三通は金貨で書かれている。このままでは足せない。
1金貨が24銀貨。1銀貨が12銅貨。だから1金貨は288銅貨になる。翔は昨日、この数え方を三度聞き直した。十で繰り上がらない世界に来たのだと腹に落ちるまでに、それだけかかった。
16,320,000を24で割る。翔は紙のほうへ手を伸ばした。桁が多い。筆算のほうが速い。
「680,000です」
言ったのはエリスだった。
顔を上げると、彼女は蝋板を見ていなかった。数字も書いていない。
「今、どうやって出しましたか」
「16,320,000を24で割りました」
「それは分かります。手順を聞いています」
エリスは少し黙ってから、答えた。
「16,000,000を24で割ると666,666と余り16です。残りの320,000を24で割ると13,333と余り8。足して679,999と余り24。余りが24なので、もう1になります。680,000」
「毎回そうやっていますか」
「はい」
蝋板には、本当に何も書かれていなかった。
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四枚目の箱は、他の三つと違って厚かった。
一枚ではない。何十枚も重なっている。翔は一番下から順に取り出した。
王都両替商組合。半年ごとの更新証書だった。一番古いものの日付は12年前で、金額は180,000。
「180,000ですね」
「はい」ギレスが答えた。
次の証書を取る。半年後。金額が増えている。その次も。その次も。
「長官。この12年で、組合から新しく金を受け取ったのは何回ですか」
「……最初の一度です」
「あとは」
「更新です。返しきれなかった分に、次の利息を乗せて、また借りる形になります」
一番上の証書の日付は今年だった。金額は530,000。
180,000が530,000になっている。新しく借りた金は、一銭もない。
「利息を全部払っていれば、元本は180,000のままだったはずです」
「全部は払えませんでした」
「払えた年もありますか」
「三年ほど」
だから530,000で済んでいる、と翔は思った。全く払わずに二割二分を12年転がしていたら、この数字ではない。誰かが、払える年には払い続けた結果として、この数字がある。
証書の裏に短い一文があった。更新の際、未払いの利息は元金に組み入れる。
昨日、自分が言ったことだった。契約に利子がつく条項があれば、来年はその148,200にも利がつく。仮定として言った。仮定ではなかった。
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翔は蝋板を借りて、四つの数字を縦に並べた。
1,350,000
1,720,000
680,000
530,000
足す。
4,280,000。
エリスが横から蝋板を覗き込んだ。合っているかを確かめる目つきだった。
「宰相。この国の1年の歳入はいくらですか」
「1,150,000です」フリーデリケが答えた。「今年の見込みで」
翔は4,280,000を1,150,000で割った。
「3.72」
「何がですか」
「借金が、歳入の3.72年分あります。1年の収入を一枚も使わずに全部返済に回して、3年8か月と少しかかる計算です」
言いながら、翔はもう一度蝋板に書き足していた。3.72は今の数字にすぎない。歳入1,150,000に対して歳出は1,610,000。差の460,000は毎年借りることになる。そこに、昨日見つけた148,200が乗る。
4,280,000に608,200を足す。4,888,200。それを1,150,000で割る。
「来年は4.25年分です」
フリーデリケが顔を上げた。
「3.72が」
「来年4.25、その次は4.8を超えます。返済に回せる金は最初からありません。この国は、返していないのではなく、増やしています」
地下の空気は動かなかった。燭台の火だけが、一度だけ横に揺れた。
「その数字を」ギレスが言った。「誰に見せるおつもりですか」
翔は蝋板から目を上げた。宰相は棚のほうを向いたまま、こちらを見ていない。
「今、宰相にはお見せしました。あとは陛下です」
「その先は」
「その先とは」
ギレスは棚のほうへ一歩動いた。手前から二番目の箱に指を置く。
「ヴェルマー侯爵は、ご自分が1,350,000を貸していることをご存じです。当然です。ご自分の金ですから」
「ええ」
「侯爵は、ハーレン商会が1,720,000を貸していることをご存じない」
棚に目を戻す。一枚目と二枚目が並んで入っていた箱に。
「12年、両方を見た者はおりません」ギレスは言った。「私も、頭の中では別々に持っておりました。並べたことはない」
「並べると、何が起きますか」
「侯爵は、自分より多く貸している者がいることを知ります。その者が関税収入を担保に取っていることも知ります。国内の筆頭貴族が、異国の商会より下に置かれていると知る」
「侯爵は何を要求しますか」
「担保です」ギレスは言った。「あるいは、返済の順位。どちらにしても、王領地か鉱山を差し出すことになる。今それを渡せば、来年の歳入がさらに減ります」
蝋板の4,280,000に目を落とす。
昨日から、数えるたびに数字が悪くなっている。
「書かなければ、侯爵は知りませんね」
「はい」
「知らないまま、いつまで持ちますか」
ギレスは答えなかった。
「長官。あなたが12年やってきたのは、時間を買うことです。それは分かりました」翔は言った。「買った時間で、何をしましたか」
燭台の火が、また揺れた。
「……次の半年を買いました」
「その次は」
「その次の半年を」
エリスが蝋板から顔を上げて、ギレスを見た。それから翔を見た。何を聞かされているのか、この場でいちばん分かっていないのは彼女のはずだった。それでも、目を逸らさなかった。
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地下から出たのは昼過ぎだった。
エリスは階段の途中で一度立ち止まり、翔のほうを振り返った。
「一つ、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「さっきの割り算は、何のためのものですか」
足が止まった。
「3.72のことですか」
「はい。私は数を合わせる仕事を3年しています。写して、足して、合っているかを見る。それは分かります。でも、割ったところを見たのは初めてです」
「割ると、比べられます」
エリスは蝋板を持ち直した。それだけで、階段を上がっていった。
翔は返事をしなかった。返す言葉がなかったわけではない。彼女が何を聞かなかったのかが、途中まで分かって、最後まで分からなかった。
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翌朝、翔が卓に着くと、蝋板ではない紙が一枚置いてあった。
表になっている。左の列に銀貨、右の列に金貨。24ずつ増えていく。その隣に銅貨の列があり、288ずつ増えていた。桁が上がるところに細い線が引いてある。
エリスが扉のところに立っていた。
「昨日、証書ごとに単位が違いました。毎回頭で割るより、これを見たほうが速いと思いまして」
表の一番下に目を落とす。
金貨の列は、5,000,000まであった。
「4,280,000より上まで要るかと思って」
翔はもう一度、上から下まで表を見た。金貨、銀貨、銅貨。三列とも揃っている。
昨日の証書には、麦の量で書かれた条項があった。担保に供する穀物の数量が、トンではない土地固有の単位で入っていた。あれを換算する列は、この表にない。
言おうとして、やめた。彼女は昨日見たものだけで、これを作っている。見ていないものは入れようがない。
「助かります」翔は言った。「今日、もう一つ頼めますか」
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