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この国は、あと六・一ヶ月で潰れます ── 異世界に召喚された経理担当者の財政再建記  作者: 桜野結
第1部 帳簿の穴

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第1話 利息の差額

床は石だった。


それが佐藤翔の理解した最初のことだった。膝と手のひらが冷たい。四つん這いになっている。視界の端で、床に描かれた円が消えかけの熾火の色をしていた。


その外側に、人の足が並んでいる。革の靴。刺繍の入った長い裾。数えると10を超える。


音がしていた。人の声だとは分かるが、言葉にならない。低い声が続き、短い声が重なる。


その音が、途中で言葉になった。


「――成功だ」


腕を掴まれて立たされ、廊下を歩かされ、天井の高い広間に入れられた。両側に人が立っている。誰も座っていない。


正面から一人が進み出た。銀の髪を後ろで結った女だった。


「アルバナ王国宰相、フリーデリケ・アイヒホルンです。あなたを召喚したのは我々です。20年に及ぶ戦争によって、王国は疲弊しております。国土は荒れ、民は困窮し、財政は――」


「危機、ですか」


遮ったつもりはなかった。相手の言葉の切れ目に落ちただけだった。


「……はい。危機にあります」


「その危機というのは、いくらですか」


広間が静かになった。


「いくら、とは」


「不足額です。歳入と歳出の差がいくらあって、借入がいくら残っていて、手元にいくら残っているか。危機と呼ぶからには、どれかは分かっているはずです」


誰も答えなかった。両側に立った男たちが、互いの顔を見ている。翔はその動きを一通り眺めた。答えを持っている人間がいる場合、視線は一人に集まる。集まっていなかった。


「莫大な、としか」


答えたのは宰相だった。


「莫大では計算できません」


言ってから、自分の口調が硬いことに気づいた。相手を責めたいわけではなかった。ただ、莫大という言葉では何もできない。足せないし、引けないし、いつまで保つかも出ない。


どこかで誰かが「若い」と言った。


「失礼しました」翔は言い直した。「先に聞くべきことがありました」


「どうぞ」


「帰れますか」


今度は視線が動かなかった。全員が宰相を見た。


彼女はしばらく黙っていた。それから、目を逸らさずに答えた。


「分かりません」


「分からない、というのは」


「呼ぶ術は残っておりました。戻す術は、どこにも書かれておりません」


「試した人はいますか」


「あなたが最初です」


翔は自分の手のひらを見た。石の粉が付いている。払っても、跡は残った。


今日は木曜だった。残業して、会社を出て、それから記憶が飛んでいる。冷蔵庫に買ったばかりの牛乳がある。来週の月曜に月次の締めがあって、その資料は自分の机の上に置いてきた。誰かが探すだろう。探して、見つからなくて、それから自分がいないことに気づく。順番はたぶんそうなる。


「なぜ、私なんですか」


声が思っていたより低く出た。


「術は、条件を示せば条件に合う者を連れてきます」フリーデリケは言った。「誰が来るかまでは選べません。あなたである理由は、ありません」


「条件というのは」


「記録を扱う者」


翔はその四文字を頭の中で置き直した。剣でも、魔法でも、王の血筋でもない。


該当してはいる。ただ、それだけだった。31歳、食品卸の経理課で7年目。簿記2級。会計士でも税理士でもない。課長でも主任でもなく、前任者が辞めたから空いた席に座っているだけの人間だ。同じ条件を満たす者なら、あの会社の同じ階に4人いる。


「なぜ、それを条件にしたんですか」


宰相は答えなかった。答えるのを避けたというより、この場所で言うことではないと判断した顔だった。両側に人が立っている。


翔もそれ以上聞かなかった。今すぐ結論を出すべきではないことに結論を出そうとすると、仕事が止まる。7年でそれだけは覚えていた。


「その帳簿は、どこにありますか」


フリーデリケが顔を上げた。


「帳簿」


「不足額が分からないということは、誰も計算していないということです。記録がないわけではないでしょう」


「……財務府に、あります」


「見せてください」


彼女は答えず、横に立つ男に何か短く言った。男が出ていった。広間の空気が、少しだけ動いた。何をしていいか分からない人間が十数人、同じ場所に立っている音だった。


7冊が卓に運ばれてきたのは、それからしばらく後だった。


---


佐藤翔が異世界に来て4時間が経ち、そのうち3時間を帳簿に費やしていた。


石の卓に革表紙の帳面が7冊。表紙に題はなく、背に焼き印で数字だけが入っている。開いているのは一番厚いもので、王国の歳出を記した簿冊だと聞かされた。文字までは読めないだろうと思っていたが、読めた。声のときと同じで、いつそうなったのか分からない。


読めたせいで3時間が消えた。


歳出の列は、上から軍事費890,000グルデ。利払い310,000。宮廷費185,000。行政費125,000。


単位はグルデ。金貨のことらしい。銀貨と銅貨もあるが、繰り上がりが十ではないと言われて、そこは後回しにした。


310,000グルデ。ただし、この国の金貨がどれだけの重さなのかを、翔はまだ知らない。


並んでいる、というのが引っかかった。入ってくる金と出ていく金が、同じ列に、日付の順で書いてある。残高の欄がない。


7年間、翔が扱ってきた帳簿には残高があった。ここにはない。誰かが最初の行から最後の行まで足して引かない限り、この国が今いくら持っているのかは誰にも分からない。


もう一つ、単位が揃っていない。同じ列に「小麦 120」と「銀貨 120」が並ぶ行がある。どちらも120としか書かれていない。前が現物で後ろが貨幣だと分かるのは、品名を読んだ場合だけだった。


それから、分からない行が四つあった。年に四度、「組合へ」とだけ書かれた支出がある。額は毎回違い、相手の名も、何の対価かも書いていない。翔はその四行に指を当て、後で聞こうと決めて先へ進んだ。


紙は分厚く、端が波打っている。文字は3人分ある。筆圧の弱い書き手が2年ほど続き、そこから角の立った筆跡に変わり、最後の50枚ほどでまた別の手になっていた。引き継ぎのたびに様式が少しずつ動いていて、同じ費目が二つの呼び方で出てくる箇所がある。


翔は羽根ペンの先を紙に当て、当てただけで動かさずにいた。


前の会社で、月末に1,200円が合わなかったことがある。売上高は4億を超えていた。1,200円は誤差にもならない。それでも6時間かけて探した。上司には笑われたが、翌月、同じ担当者が桁を一つ間違えた伝票を切っていて、そのときは1,200円では済まなかった。


後から見れば読みが当たったことになる。実際は違う。探し方が上手いわけでも、勘が働いたわけでもない。合わないまま帰ると、その晩は眠れないというだけだった。6時間は、眠るための6時間だった。


合わない額の大きさは関係ない。合わないこと自体が、その先に何かあるという合図になる。


だから今も、指が止まっている。


扉が開いた。


「まだそれを見ているのですか」


フリーデリケは卓の向かいに立ったが、椅子は引かなかった。外套の裾に泥が跳ねている。どこかから戻ったばかりらしい。


「4時間で7冊は速い方だと思いますが」


「速さは求めていません」


彼女は帳面の一冊に指を置いた。


「先ほどの質問に答えます。この部屋には、私とあなたしかおりません」


翔は羽根ペンから指を離した。


「召喚に際して、何を呼ぶかで22の案が出ました。将軍。鍛冶師。医師。農学に通じた者。3日議論して、私は記録を扱う者を選びました」


「なぜですか」


「剣を持てる者なら、この国に32,000人おります」


彼女はそこで一度切った。


「傭兵です。足りているのです、兵は。足りないのは、彼らに払う金のほうです。将軍を一人増やしても、払う額は増えるだけです」


翔は帳面の上に目を落とした。32,000という数が、さっきまで読んでいた軍事費890,000と繋がった。


「あなたを呼ぶと決めたのは私です。その選択を、私はまだ正しいと思っていません」


指が帳面から離れた。


「異界から人を呼ぶというのは、こちらの人間では足りないと認めることです。私は10年、財務を見てきました。その10年に、今日、値がつきました」


窓の外で鐘が鳴った。数えると六つ。翔はそれが夕方の六時なのか、六度目の何かなのかを判断できなかった。この4時間で分からなかったことの一つだった。


「一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「この利払い310,000は、1年分ですか」


フリーデリケの目がわずかに動いた。


「どういう意味です」


「そのままの意味です。1年でこれだけ払った、という数字なのか。それとも別の区切りなのか」


「……年です」


「区切りはいつからいつまでですか」


彼女は答えなかった。答えないというより、質問の形を測っているようだった。


「徴税は収穫の後にまとめます」しばらくして、そう言った。「宮廷の支出は王の御代の何年目という数え方をします。軍のほうは、遠征ごとに一区切りとして計算します」


「三つとも別ですね」


「別です」


「では、この帳面の1年は、そのどれですか」


沈黙が来た。翔は羽根ペンを置いた。置く音が、思っていたより響いた。


フリーデリケは廊下に向かって短く名を呼んだ。


入ってきた男は50前後で、黒い上着の袖口がすり切れていた。財務府長官ギレス・タウン、と名乗った。名乗り方に、宰相への礼と、翔への値踏みが同じ量だけ入っていた。


「収穫後から次の収穫までです」長官は扉を閉めながら言った。「歳出も歳入も、そこで締めます。宮廷費だけは御代で数えますが、こちらで読み替えて入れております」


「読み替えの記録は残っていますか」


「頭の中に」


翔は少し間を置いた。


「借用の証書は、どこにありますか」


「法務庫です」


「写しは財務府にありませんか」


「ありません。証書は法務庫、帳簿は財務府。先代の王の頃からそう分けております」


「では、両方を見られる方は」


ギレスは口の端だけを動かした。


「おりません」


翔は帳面の背に指を掛けたまま、その言葉を三度、頭の中で繰り返した。おりません、と長官は言った。困った顔ではなかった。当たり前のことを聞かれた顔だった。


「不便ではありませんか」


「何がです」


「借りた条件と、実際に払った額が、突き合わされないままになります」


「突き合わせて、どうなさる」


ギレスは卓に片手をついた。指の関節が太く、爪の際にインクが染みている。書く人間の手だった。


「佐藤殿。私は12年この職におります。どこに誰からいくら借りているかは、頭に入っております。ヴェルマー侯爵家ほか11家に1,350,000、八分。ハーレン商会に1,720,000、一割二分。聖アルディス教会に680,000、四分」


言い終えると、長官は少し顎を上げた。証書など要らない、という顔だった。


「以上です」


翔は羽根ペンを取り直した。


紙の端に三つ並べる。


1,350,000の八分。108,000。


1,720,000の一割二分。206,400。


680,000の四分。27,200。


足す。341,600。


「長官。今おっしゃった条件で計算すると、1年に払うべき利息は341,600になります」


「それが」


「帳簿の利払いは310,000です」


ギレスの肩が、わずかに落ちた。落ちた、と分かる程度には動いた。


「31,600の差ですな」長官は言った。「端数の処理でしょう。長い年月のうちには、そういうこともございます」


「端数、ですか」


「31,600は、この規模の帳簿では誤差です」


翔は帳面を手前に引き寄せた。三時間かけて開いた頁のうち、指を挟んでおいた四箇所を順に開く。


「これは何ですか」


「……何が」


「年に四度、『組合へ』とだけ書いてある行です。額が毎回違う。相手の名も、何の対価かも書いていない」


長官は答えなかった。


「四行あります。この4年ぶんは、どの費目に入っていますか」


「あれは」ギレスは言った。「つなぎです」


「つなぎ」


「王都両替商組合から、収穫までの間を繋いでおります。半年ごとに更新して、返して、また借りる。借入とは数えておりません」


「返しているなら借入です」


「帳簿にそう書いた年は、一度もございません」


翔は羽根ペンを持ち直した。


「残高は」


長官は黙っていた。フリーデリケが顔を上げて、長官を見た。


「530,000」ギレスは言った。


「利率は」


「……二割二分」


紙に四つ目を書き足す。


530,000の二割二分。116,600。


341,600に足す。458,200。


指が止まった。もう一度、上から足した。数字は動かなかった。


「1年に払うべき利息は458,200です」翔は言った。「帳簿の利払いは310,000。差は148,200」


窓の外の鐘は、もう鳴っていなかった。


「148,200は端数ではありません。行政費125,000より多い」


長官の手が、卓から離れた。それから、また戻った。


「佐藤殿。仮にその数字が合っていたとしましょう」


「仮に、ですか」


「合っていたとして。その148,200を帳簿に書き入れたとする。どうなるか、お考えになりましたか」


翔は羽根ペンを置いた。


「貸し手が読みます」ギレスは言った。「未払いの利息が積み上がっていると、こちらが自分で認めた記録になる。両替商組合はそれを延滞と読みます。読めば、次のつなぎを出しません。組合が止まれば、来月の傭兵の給与が払えない」


「払えないとどうなりますか」


「お聞きになっていないので」


長官はフリーデリケのほうを見た。宰相は答えなかった。


「傭兵の給与は、すでに2か月分が滞っております」ギレスは続けた。「3か月で契約は切れます。切れた部隊が何をするかは、この国では法ではなく慣例で決まっている」


部屋の中で、誰も動かなかった。窓の外を、荷を積んだ荷車が通っていく音がした。


翔は歳出の列に目を戻した。軍事費890,000。3時間、この数字を見ていた。列の中の一行として見ていた。


32,000人。2か月分の遅配。割れば一人あたりの額は小さい。小さい額が32,000人分あって、その一人ひとりが剣を持っている。


指先が冷たくなっているのに気づいた。石の粉は、まだ落ちていなかった。


「ですから佐藤殿。書かないのです。書かないのは、隠しているのではない。書けば止まるからです。私は12年、書かずに回してまいりました」


長官の声には、詰るところがなかった。説明していた。翔は12年という数を頭の中に置いた。12回、この人はこの判断をしたことになる。


紙の上の四つの数字を見下ろす。458,200と、310,000と、その下の引き算の跡が残っている。


「長官」


「はい」


「書かなくても、増えていますよ」


ギレスの眉が動いた。


「払っていない利息は、消えません。契約に利子がつく条項があれば、来年はその148,200にも利がつく。書かないのは、止めるためではなく、見ないためです」


「……」


「12年前にこの帳面を開いた人は、いくらの差を見ましたか」


長官は答えなかった。


一礼して、扉を開けて出て行った。


翔は紙を回して、フリーデリケの前に置いた。


宰相は紙を見た。それから、卓の上の7冊を見た。


廊下を遠ざかっていく足音が、途中で止まった。そのまましばらく、動かなかった。


「明日の朝、法務庫を開けます」フリーデリケは紙から目を上げずに言った。「鍵は宰相府にあります。12年、誰も持ち出しを求めませんでした」


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