第1話 利息の差額
床は石だった。
それが佐藤翔の理解した最初のことだった。膝と手のひらが冷たい。四つん這いになっている。視界の端で、床に描かれた円が消えかけの熾火の色をしていた。
その外側に、人の足が並んでいる。革の靴。刺繍の入った長い裾。数えると10を超える。
音がしていた。人の声だとは分かるが、言葉にならない。低い声が続き、短い声が重なる。
その音が、途中で言葉になった。
「――成功だ」
腕を掴まれて立たされ、廊下を歩かされ、天井の高い広間に入れられた。両側に人が立っている。誰も座っていない。
正面から一人が進み出た。銀の髪を後ろで結った女だった。
「アルバナ王国宰相、フリーデリケ・アイヒホルンです。あなたを召喚したのは我々です。20年に及ぶ戦争によって、王国は疲弊しております。国土は荒れ、民は困窮し、財政は――」
「危機、ですか」
遮ったつもりはなかった。相手の言葉の切れ目に落ちただけだった。
「……はい。危機にあります」
「その危機というのは、いくらですか」
広間が静かになった。
「いくら、とは」
「不足額です。歳入と歳出の差がいくらあって、借入がいくら残っていて、手元にいくら残っているか。危機と呼ぶからには、どれかは分かっているはずです」
誰も答えなかった。両側に立った男たちが、互いの顔を見ている。翔はその動きを一通り眺めた。答えを持っている人間がいる場合、視線は一人に集まる。集まっていなかった。
「莫大な、としか」
答えたのは宰相だった。
「莫大では計算できません」
言ってから、自分の口調が硬いことに気づいた。相手を責めたいわけではなかった。ただ、莫大という言葉では何もできない。足せないし、引けないし、いつまで保つかも出ない。
どこかで誰かが「若い」と言った。
「失礼しました」翔は言い直した。「先に聞くべきことがありました」
「どうぞ」
「帰れますか」
今度は視線が動かなかった。全員が宰相を見た。
彼女はしばらく黙っていた。それから、目を逸らさずに答えた。
「分かりません」
「分からない、というのは」
「呼ぶ術は残っておりました。戻す術は、どこにも書かれておりません」
「試した人はいますか」
「あなたが最初です」
翔は自分の手のひらを見た。石の粉が付いている。払っても、跡は残った。
今日は木曜だった。残業して、会社を出て、それから記憶が飛んでいる。冷蔵庫に買ったばかりの牛乳がある。来週の月曜に月次の締めがあって、その資料は自分の机の上に置いてきた。誰かが探すだろう。探して、見つからなくて、それから自分がいないことに気づく。順番はたぶんそうなる。
「なぜ、私なんですか」
声が思っていたより低く出た。
「術は、条件を示せば条件に合う者を連れてきます」フリーデリケは言った。「誰が来るかまでは選べません。あなたである理由は、ありません」
「条件というのは」
「記録を扱う者」
翔はその四文字を頭の中で置き直した。剣でも、魔法でも、王の血筋でもない。
該当してはいる。ただ、それだけだった。31歳、食品卸の経理課で7年目。簿記2級。会計士でも税理士でもない。課長でも主任でもなく、前任者が辞めたから空いた席に座っているだけの人間だ。同じ条件を満たす者なら、あの会社の同じ階に4人いる。
「なぜ、それを条件にしたんですか」
宰相は答えなかった。答えるのを避けたというより、この場所で言うことではないと判断した顔だった。両側に人が立っている。
翔もそれ以上聞かなかった。今すぐ結論を出すべきではないことに結論を出そうとすると、仕事が止まる。7年でそれだけは覚えていた。
「その帳簿は、どこにありますか」
フリーデリケが顔を上げた。
「帳簿」
「不足額が分からないということは、誰も計算していないということです。記録がないわけではないでしょう」
「……財務府に、あります」
「見せてください」
彼女は答えず、横に立つ男に何か短く言った。男が出ていった。広間の空気が、少しだけ動いた。何をしていいか分からない人間が十数人、同じ場所に立っている音だった。
7冊が卓に運ばれてきたのは、それからしばらく後だった。
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佐藤翔が異世界に来て4時間が経ち、そのうち3時間を帳簿に費やしていた。
石の卓に革表紙の帳面が7冊。表紙に題はなく、背に焼き印で数字だけが入っている。開いているのは一番厚いもので、王国の歳出を記した簿冊だと聞かされた。文字までは読めないだろうと思っていたが、読めた。声のときと同じで、いつそうなったのか分からない。
読めたせいで3時間が消えた。
歳出の列は、上から軍事費890,000グルデ。利払い310,000。宮廷費185,000。行政費125,000。
単位はグルデ。金貨のことらしい。銀貨と銅貨もあるが、繰り上がりが十ではないと言われて、そこは後回しにした。
310,000グルデ。ただし、この国の金貨がどれだけの重さなのかを、翔はまだ知らない。
並んでいる、というのが引っかかった。入ってくる金と出ていく金が、同じ列に、日付の順で書いてある。残高の欄がない。
7年間、翔が扱ってきた帳簿には残高があった。ここにはない。誰かが最初の行から最後の行まで足して引かない限り、この国が今いくら持っているのかは誰にも分からない。
もう一つ、単位が揃っていない。同じ列に「小麦 120」と「銀貨 120」が並ぶ行がある。どちらも120としか書かれていない。前が現物で後ろが貨幣だと分かるのは、品名を読んだ場合だけだった。
それから、分からない行が四つあった。年に四度、「組合へ」とだけ書かれた支出がある。額は毎回違い、相手の名も、何の対価かも書いていない。翔はその四行に指を当て、後で聞こうと決めて先へ進んだ。
紙は分厚く、端が波打っている。文字は3人分ある。筆圧の弱い書き手が2年ほど続き、そこから角の立った筆跡に変わり、最後の50枚ほどでまた別の手になっていた。引き継ぎのたびに様式が少しずつ動いていて、同じ費目が二つの呼び方で出てくる箇所がある。
翔は羽根ペンの先を紙に当て、当てただけで動かさずにいた。
前の会社で、月末に1,200円が合わなかったことがある。売上高は4億を超えていた。1,200円は誤差にもならない。それでも6時間かけて探した。上司には笑われたが、翌月、同じ担当者が桁を一つ間違えた伝票を切っていて、そのときは1,200円では済まなかった。
後から見れば読みが当たったことになる。実際は違う。探し方が上手いわけでも、勘が働いたわけでもない。合わないまま帰ると、その晩は眠れないというだけだった。6時間は、眠るための6時間だった。
合わない額の大きさは関係ない。合わないこと自体が、その先に何かあるという合図になる。
だから今も、指が止まっている。
扉が開いた。
「まだそれを見ているのですか」
フリーデリケは卓の向かいに立ったが、椅子は引かなかった。外套の裾に泥が跳ねている。どこかから戻ったばかりらしい。
「4時間で7冊は速い方だと思いますが」
「速さは求めていません」
彼女は帳面の一冊に指を置いた。
「先ほどの質問に答えます。この部屋には、私とあなたしかおりません」
翔は羽根ペンから指を離した。
「召喚に際して、何を呼ぶかで22の案が出ました。将軍。鍛冶師。医師。農学に通じた者。3日議論して、私は記録を扱う者を選びました」
「なぜですか」
「剣を持てる者なら、この国に32,000人おります」
彼女はそこで一度切った。
「傭兵です。足りているのです、兵は。足りないのは、彼らに払う金のほうです。将軍を一人増やしても、払う額は増えるだけです」
翔は帳面の上に目を落とした。32,000という数が、さっきまで読んでいた軍事費890,000と繋がった。
「あなたを呼ぶと決めたのは私です。その選択を、私はまだ正しいと思っていません」
指が帳面から離れた。
「異界から人を呼ぶというのは、こちらの人間では足りないと認めることです。私は10年、財務を見てきました。その10年に、今日、値がつきました」
窓の外で鐘が鳴った。数えると六つ。翔はそれが夕方の六時なのか、六度目の何かなのかを判断できなかった。この4時間で分からなかったことの一つだった。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「この利払い310,000は、1年分ですか」
フリーデリケの目がわずかに動いた。
「どういう意味です」
「そのままの意味です。1年でこれだけ払った、という数字なのか。それとも別の区切りなのか」
「……年です」
「区切りはいつからいつまでですか」
彼女は答えなかった。答えないというより、質問の形を測っているようだった。
「徴税は収穫の後にまとめます」しばらくして、そう言った。「宮廷の支出は王の御代の何年目という数え方をします。軍のほうは、遠征ごとに一区切りとして計算します」
「三つとも別ですね」
「別です」
「では、この帳面の1年は、そのどれですか」
沈黙が来た。翔は羽根ペンを置いた。置く音が、思っていたより響いた。
フリーデリケは廊下に向かって短く名を呼んだ。
入ってきた男は50前後で、黒い上着の袖口がすり切れていた。財務府長官ギレス・タウン、と名乗った。名乗り方に、宰相への礼と、翔への値踏みが同じ量だけ入っていた。
「収穫後から次の収穫までです」長官は扉を閉めながら言った。「歳出も歳入も、そこで締めます。宮廷費だけは御代で数えますが、こちらで読み替えて入れております」
「読み替えの記録は残っていますか」
「頭の中に」
翔は少し間を置いた。
「借用の証書は、どこにありますか」
「法務庫です」
「写しは財務府にありませんか」
「ありません。証書は法務庫、帳簿は財務府。先代の王の頃からそう分けております」
「では、両方を見られる方は」
ギレスは口の端だけを動かした。
「おりません」
翔は帳面の背に指を掛けたまま、その言葉を三度、頭の中で繰り返した。おりません、と長官は言った。困った顔ではなかった。当たり前のことを聞かれた顔だった。
「不便ではありませんか」
「何がです」
「借りた条件と、実際に払った額が、突き合わされないままになります」
「突き合わせて、どうなさる」
ギレスは卓に片手をついた。指の関節が太く、爪の際にインクが染みている。書く人間の手だった。
「佐藤殿。私は12年この職におります。どこに誰からいくら借りているかは、頭に入っております。ヴェルマー侯爵家ほか11家に1,350,000、八分。ハーレン商会に1,720,000、一割二分。聖アルディス教会に680,000、四分」
言い終えると、長官は少し顎を上げた。証書など要らない、という顔だった。
「以上です」
翔は羽根ペンを取り直した。
紙の端に三つ並べる。
1,350,000の八分。108,000。
1,720,000の一割二分。206,400。
680,000の四分。27,200。
足す。341,600。
「長官。今おっしゃった条件で計算すると、1年に払うべき利息は341,600になります」
「それが」
「帳簿の利払いは310,000です」
ギレスの肩が、わずかに落ちた。落ちた、と分かる程度には動いた。
「31,600の差ですな」長官は言った。「端数の処理でしょう。長い年月のうちには、そういうこともございます」
「端数、ですか」
「31,600は、この規模の帳簿では誤差です」
翔は帳面を手前に引き寄せた。三時間かけて開いた頁のうち、指を挟んでおいた四箇所を順に開く。
「これは何ですか」
「……何が」
「年に四度、『組合へ』とだけ書いてある行です。額が毎回違う。相手の名も、何の対価かも書いていない」
長官は答えなかった。
「四行あります。この4年ぶんは、どの費目に入っていますか」
「あれは」ギレスは言った。「つなぎです」
「つなぎ」
「王都両替商組合から、収穫までの間を繋いでおります。半年ごとに更新して、返して、また借りる。借入とは数えておりません」
「返しているなら借入です」
「帳簿にそう書いた年は、一度もございません」
翔は羽根ペンを持ち直した。
「残高は」
長官は黙っていた。フリーデリケが顔を上げて、長官を見た。
「530,000」ギレスは言った。
「利率は」
「……二割二分」
紙に四つ目を書き足す。
530,000の二割二分。116,600。
341,600に足す。458,200。
指が止まった。もう一度、上から足した。数字は動かなかった。
「1年に払うべき利息は458,200です」翔は言った。「帳簿の利払いは310,000。差は148,200」
窓の外の鐘は、もう鳴っていなかった。
「148,200は端数ではありません。行政費125,000より多い」
長官の手が、卓から離れた。それから、また戻った。
「佐藤殿。仮にその数字が合っていたとしましょう」
「仮に、ですか」
「合っていたとして。その148,200を帳簿に書き入れたとする。どうなるか、お考えになりましたか」
翔は羽根ペンを置いた。
「貸し手が読みます」ギレスは言った。「未払いの利息が積み上がっていると、こちらが自分で認めた記録になる。両替商組合はそれを延滞と読みます。読めば、次のつなぎを出しません。組合が止まれば、来月の傭兵の給与が払えない」
「払えないとどうなりますか」
「お聞きになっていないので」
長官はフリーデリケのほうを見た。宰相は答えなかった。
「傭兵の給与は、すでに2か月分が滞っております」ギレスは続けた。「3か月で契約は切れます。切れた部隊が何をするかは、この国では法ではなく慣例で決まっている」
部屋の中で、誰も動かなかった。窓の外を、荷を積んだ荷車が通っていく音がした。
翔は歳出の列に目を戻した。軍事費890,000。3時間、この数字を見ていた。列の中の一行として見ていた。
32,000人。2か月分の遅配。割れば一人あたりの額は小さい。小さい額が32,000人分あって、その一人ひとりが剣を持っている。
指先が冷たくなっているのに気づいた。石の粉は、まだ落ちていなかった。
「ですから佐藤殿。書かないのです。書かないのは、隠しているのではない。書けば止まるからです。私は12年、書かずに回してまいりました」
長官の声には、詰るところがなかった。説明していた。翔は12年という数を頭の中に置いた。12回、この人はこの判断をしたことになる。
紙の上の四つの数字を見下ろす。458,200と、310,000と、その下の引き算の跡が残っている。
「長官」
「はい」
「書かなくても、増えていますよ」
ギレスの眉が動いた。
「払っていない利息は、消えません。契約に利子がつく条項があれば、来年はその148,200にも利がつく。書かないのは、止めるためではなく、見ないためです」
「……」
「12年前にこの帳面を開いた人は、いくらの差を見ましたか」
長官は答えなかった。
一礼して、扉を開けて出て行った。
翔は紙を回して、フリーデリケの前に置いた。
宰相は紙を見た。それから、卓の上の7冊を見た。
廊下を遠ざかっていく足音が、途中で止まった。そのまましばらく、動かなかった。
「明日の朝、法務庫を開けます」フリーデリケは紙から目を上げずに言った。「鍵は宰相府にあります。12年、誰も持ち出しを求めませんでした」




