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支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
序章 『鎖の先へ 』

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第8話 帰る場所

 人の話し声、馬の蹄が石畳を叩く音、開店の準備を始める店先から聞こえる木戸の音。


 昨日聞いた喧騒とは違う。


 一日が始まる前の、穏やかな街の音だった。


 街の朝は、もう始まっている。


 そんな中、俺は目を覚ました。


 窓の隙間から差し込む朝日が、簡素な部屋を淡く照らしている。


 旅先の宿の、見慣れない天井。


 目を開いた瞬間、昨日の出来事が脳裏をよぎった。


 少女は役所にいる。


 三十日。


 それだけを思い浮かべ、すぐに意識を切り替えた。


 寝台から起き上がり、身支度を整える。


 机の上に置いていた収納袋を手に取り、中から石鹸を取り出した。


 昨日、少女と使ったものだ。


 まだ残っている。


 続いて黒いローブを広げる。


 裾には乾いた泥が筋になってこびりついていた。少女には大きすぎる一着だった。街まで歩く間、何度も地面を擦ったのだろう。


 幸い、布地は傷んでいない。


 泥を落とせば使える。


 石鹸とローブを抱え、宿の裏庭へ向かった。


 井戸の傍らに置かれた桶へ水を汲み、ローブを静かに沈める。


 乾いた泥がゆっくりと溶け出し、水が茶色く濁っていく。


 石鹸を泡立て、裾を中心に丁寧に揉み洗いした。


 余計な力は加えない。


 布を傷めれば、買い替えが早まる。


 何度か水を替え、泡が完全に落ちたところで軽く水を切る。


 ここから先は、一瞬で終わらせることもできる。


 魔術で水分を飛ばせば済む話だ。


 だが、街中で無用に魔術を使う理由はない。


 濡れたローブを物干し竿へ掛ける。


 朝風を受け、黒い布がゆるやかに揺れていた。


 昼頃には乾くだろう。


 急ぐ理由もない。


 手についた泡を井戸水で洗い流し、石鹸を収納袋へ戻す。


 そのまま宿の中へ戻った。


 食堂には焼きたてのパンと温かなスープの香りが満ちていた。


 旅人や商人たちが、静かに朝食を取っている。


 昨夜の賑わいはない。


 一日の始まりらしい、落ち着いた空気だった。


 空いている席へ腰を下ろすと、宿の主人が近づいてきた。


「おはようございます。朝食でよろしいですか」


「ああ」


「メニューはパンと野菜のスープになりますが」


「それでいい」


 主人は一礼して厨房へ戻る。


 ほどなくして、木製の盆が運ばれてきた。


 焼きたての黒パン。


 湯気を立てる野菜のスープ。


 塩漬け肉が一切れ。


 質素な食事だが、腹は満たせる。


 無言で食べ進める。


 温かなスープが胃へ落ち、固い黒パンを噛み締める。


 気づけば、皿は空になっていた。


 水で口を潤し、席を立つ。


 朝食代を払い、主人へ声を掛けた。


「裏庭のローブは昼頃に回収する」


「承知しました。触れないよう従業員にも伝えておきます」


「そうしてくれ」


 宿を出る。


 朝日に照らされた石畳が白く光っていた。


 向かう先は決まっている。


 昨日は閉まっていた貸家仲介の店。


 今日は営業しているはずだった。


 人通りが増え始めた通りを歩き、昨日訪れた店の前へ辿り着く。


『貸家仲介』の看板が掲げられ、扉も開いていた。


 扉を押すと、入口の鈴が澄んだ音を鳴らした。


 店内は外から見るより広い。


 壁一面には街の地図が掛けられ、棚には分厚い帳簿が整然と並んでいる。


 年配の男が帳簿から顔を上げ、小さく笑った。


「おや。昨日のお客さんですね」


 無言で頷く。


「朝一番に来てくださるとは。どうぞ、お掛けください」


 勧められた椅子へ腰を下ろす。


 男は帳簿を開き、羽根ペンを手に取った。


「それでは、ご希望をお聞かせください」


「一人で住む」


「はい」


「広すぎる家はいらん」


 男は手際よく書き留める。


「ご予算はございますか」


「相場が分からん」


 男は苦笑した。


「旅のお方でしたか。それでしたら、一人暮らし向けの方でご案内いたします」


「頼む」


「ほかにございますか」


 少し考える。


「庭があると助かる」


「庭ですか。家庭菜園でも?」


「違う。洗濯と装備の手入れに使う」


「なるほど。それでしたら共同井戸が近い家が便利ですね」


 軽く頷く。


「承知しました」


 男は何冊か帳簿をめくり、一つのページで手を止めた。


「条件に合う家が二軒ございます」


 街の地図を机へ広げ、一軒を指差す。


「まずはこちらをご覧になりますか」


「案内しろ」


「かしこまりました」


 男は壁の鍵束から一本を外し、店を出る。


 俺はその後を追った。


 表通りを離れるにつれ、人の喧騒は次第に遠ざかっていく。


 住宅が並ぶ静かな区画だった。


 庭先では洗濯物が揺れ、どこからか子どもたちの笑い声が聞こえてくる。


「この辺りは静かで住みやすいと評判です。商店街まで徒歩十分ほど、共同井戸も近くにございます」


 俺は黙って歩き続けた。


 やがて男が一軒の家の前で立ち止まる。


「こちらになります」


 木造平屋建て。


 白く色褪せた外壁に、小さな庭が付いた質素な家だった。


 新しくはない。


 だが、屋根や壁に大きな傷みは見当たらない。


 庭の草は少し伸びているものの、手を入れれば問題なく使えそうだ。


 裏手には物干しを設ける場所もある。


 男が鍵を差し込み、玄関を開けた。


「どうぞ」


 室内へ入る。


 窓が開かれると朝日が差し込み、薄暗かった部屋が明るくなった。


 空気は少しこもっている。


 長く人が入っていなかっただけだろう。


 床を踏む。


 軋みはない。


 壁にも湿気や腐りは見当たらなかった。


 窓から外を眺める。


 外から室内は見えにくい。


 裏口への動線も無駄がない。


「居間はこちらです」


 奥へ進む。


 四人掛けの卓が置けそうな居間。


 その隣に寝室。


 さらに奥には小さな台所があり、竈も残っていた。


「家具はそのままお使いいただけます」


 机が一つ。


 椅子が二脚。


 寝台が一つ。


 棚もある。


 収納袋がある以上、それ以上は必要ない。


「庭もご覧になりますか」


「ああ」


 二人で裏へ出る。


 朝露が草の上で光っていた。


 洗濯にも装備の手入れにも困らない広さだ。


 低い木柵が周囲を囲み、外からの視線もある程度遮ってくれる。


 遠くには街の音。


 だが、耳障りなほどではない。


 静かな場所だった。


「共同井戸はあちらになります」


 歩いて一分ほどの場所に井戸が見える。


 毎日水を運ぶにも苦労はしない距離だ。


「家賃は」


「家具付きで、月銀貨二枚になります」


 家を見渡す。


 条件は満たしている。


 それでも、比べずに決める理由もない。


「もう一軒だ」


「承知しました」


 男は玄関へ鍵を掛け、歩き出す。


 俺は何も言わず、その後に続いた。


 再び住宅街を歩く。


 一軒目から、そう離れてはいないらしい。


 こちらも似たような住宅が並んでいた。


 ただ、人通りは一軒目より少し多い。


 通り抜ける者の姿もあり、荷車の音も時折聞こえてくる。


「こちらになります」


 男が立ち止まり、一軒の家を示した。


 木造二階建て。


 一軒目より新しい。


 庭も広く、外観だけを見れば悪くはなかった。


 鍵を開け、中へ入る。


 窓が開けられ、光が差し込む。


 二階も一通り見て回った。


 一人で住むには広すぎる。


 掃除の手間も増えるし、使わない部屋は無駄になる。


 裏庭へ出る。


 一軒目より広い。


 だが、その分だけ手入れにも時間が掛かる。


 庭の向こうには隣家が近く、洗濯物を干せば視線も届きやすい。


 落ち着いて作業をするには向いていない。


「いかがでしょう」


 男が様子を窺うように尋ねる。


「こちらは少々お高くなりますが、その分人気もございまして――」


「家賃は」


「月銀貨三枚になります」


 一軒目より銀貨一枚高い。


 金額そのものは問題ではない。


 だが、その差額に見合う利点はない。


 庭を見回す。


 広い。


 それだけだ。


 俺に必要なのは、広さではない。


 静かで、洗濯ができて、装備の手入れができる場所。


 それだけあればいい。


「最初の家に戻る」


「かしこまりました」


 男はすぐに鍵を掛け直し、来た道を引き返した。


 再び一軒目の前へ戻る。


 玄関先に立ち、家を眺める。


 派手さはない。


 広くもない。


 だが、必要なものは揃っている。


 庭の広さ。


 共同井戸までの距離。


 周囲の静けさ。


 一人で暮らすには、ちょうどいい。


「こちらでお決めになりますか」


「ああ」


 短く答える。


 男は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。それでは契約のお手続きをさせていただきます」


「今日から住めるか」


「もちろんでございます。前家主の退去後、清掃も済ませておりますので、すぐにお使いいただけます」


「そうか」


 それなら都合がいい。


 宿へ戻り、乾いたローブを回収するだけで済む。


「では、店へ戻りましょう」


 男の後に続き、不動産屋へ戻る。


 店内へ入ると、男は帳簿を開き、契約書を取り出した。


「それでは、お手続きをいたします」


 机へ書類を並べながら、男が口を開く。


「家賃は一か月ごとの前払いとなります。初月分として銀貨二枚をお願いいたします」


 収納袋から銀貨を二枚取り出し、机へ置く。


 男は一枚ずつ確かめ、小さく頷いた。


「確かに、お預かりいたしました」


 そのまま帳簿へ羽根ペンを走らせる。


 必要な手続きは、それだけだった。


 やがて男は立ち上がり、壁へ掛けられた鍵束から一本を外して戻ってくる。


「こちらが鍵になります」


 差し出された鍵を受け取る。


 手の中へ収まった鉄の感触は、思っていたより重かった。


「本日より、あの家はお客様がお使いください」


「ああ」


 鍵を収納袋へしまう。


 当面の拠点は決まった。


「ご利用ありがとうございました」


 男へ一つ頷き、店を出る。


 次に向かう先は宿だ。


 裏庭へ干したローブも、そろそろ乾いている頃だろう。

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