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支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
序章 『鎖の先へ 』

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第7話 三十日の約束

 少し離れた場所を、少女が俺の背中を見つめながら歩いている。


 一定の距離を保ったまま、近づきすぎることもない。


 離れすぎることもない。


 まるで、どこまで踏み込めば許されるのかを測っているようだった。


 ふと振り返る。


 目が合った。


 少女は小さく肩を震わせる。


 慌てたように視線を逸らし、何事もなかったように前を向いた。


「何だ」


「いえ……」


「何かあるなら言え」


「……いえ、何でもありません」


 いつもと変わらない曖昧な返事。


 何でもないのなら、なぜそんな顔をする。


 そう思ったが、口にはしなかった。


 街の中心へ近づくにつれ、人通りが増えていく。


 石造りの建物が立ち並び、行き交う人々の顔ぶれも変わった。


 商人。


 冒険者。


 兵士。


 そして、身なりの整った貴族たち。


 誰もが自分の目的のためだけに歩いている。


 そんな中で。


 少女だけが妙に目を引いた。


 新しい服を着せても、髪を整えても、首元に刻まれた奴隷紋だけは隠せない。


 向けられる視線。


 好奇。


 憐れみ。


 品定めするような眼差し。


 少女も、それに気づいているはずだった。


 それでも何も言わない。


 ただ黙って、俺の後ろを歩いてくる。


 以前の俺なら、こんなことは気にも留めなかった。


 誰が何を思おうと関係ない。


 奴隷でも、犯罪者でも、人殺しでも。


 俺に関係がなければ、それで終わりだった。


 俺自身、ずっとそんな目で見られてきた。


 街を一つ滅ぼした魔術師。


 国を敵に回した狂人。


 数え切れない魔物を屠った怪物。


 そんな噂だけが独り歩きし、俺を知らない連中が勝手に恐怖を膨らませる。


 だから俺も、他人の視線など気にしなかった。


 ……少なくとも、昨日までは。


 ――昨夜。


 少女は俺に尋ねた。


『……あなたは、何者なのですか』


 その問いに、俺は自分の名を告げた。


 正しくは――名乗った。


 突き放すために。


 俺が何者なのか知れば、この少女も離れていくと思ったからだ。


 その方がいい。


 俺のような人間と関わるべきではない。


 助けられた。


 ただそれだけで信じようとするには、俺はあまりにもろくでもない存在だった。


 俺の過去を知れば。


 俺が何をしてきた人間なのか知れば。


 きっと態度は変わる。


 そう思っていた。


 だが――


『……分かりません』


 少女は首を傾げ、そう答えた。


 恐怖もない。


 拒絶もない。


 ただ、本当に知らなかった。


 拍子抜けした。


 いや、それだけではない。


 なぜか少しだけ、自分の調子を狂わされた。


 やがて、街の中心から少し外れた場所に、一際大きな石造りの建物が見えてきた。


 二階建ての質実な造り。


 入口の上には、王国の紋章が掲げられている。


 華美な装飾はない。


 役目を果たすためだけに建てられた建物。


 役所だ。


 俺にとっては、面倒な手続きを済ませるためだけの場所だった。


 扉を押し開ける。


 外の喧騒とは対照的に、中は静まり返っていた。


 高い吹き抜けの天井には魔法灯が浮かび、淡い光が室内を照らしている。


 壁際には古びた本棚が並び、隙間なく収められた帳簿が、長い年月の記録を物語っていた。


 受付では役人たちが黙々と書類を処理している。


 住民や商人、冒険者たちも順番を待っていた。


 誰も俺には目を向けない。


 そのことが、少しだけ気楽だった。


 受付へ向かい、門番から渡された木札を置く。


「門番に寄越された」


 初老の役人は木札を受け取り、内容を確認して頷いた。


「城門で保護された件ですね。少々お待ちください」


 帳簿を開き、羽根ペンを走らせる。


 俺の後ろでは、少女がいつものように三歩ほど距離を空けて立っていた。


 役人の視線が少女へ向く。


 首元に刻まれた奴隷紋を確認した瞬間、その表情がわずかに引き締まった。


「発見されたのは、こちらのお嬢さんですね」


「ああ」


「発見場所をお聞かせください」


「西街道だ。森へ入る手前で見つけた」


「同行者は?」


「全員死亡した」


 役人は静かに頷き、淡々と記録を書き進める。


「主人について分かることはありますか」


「何も知らん」


「名前も?」


「知らない」


 それ以上の追及はなかった。


 役人は一枚書類をめくり、少女へ視線を向ける。


「では、奴隷紋を確認します。首元を見せてもらえますか」


 少女の肩がぴくりと震えた。


 反射的に俺を見る。


 許可を求めるような視線だった。


「見せればいい」


「……はい」


 少女は小さく頷き、髪を持ち上げる。


 白い首筋に刻まれた奴隷紋。


 魔力によって結ばれた契約の証だ。


 昨日、俺は首輪も鉄輪も壊した。


 邪魔だったからだ。


 拘束具が目障りだった。


 理由は、それだけだった。


 以前の俺なら、この紋様も同じように消していただろう。


 目の前の障害を取り除く。


 それで終わりだった。


 奴隷紋を消すこと自体は難しくない。


 契約という現象そのものを失効させればいい。


 俺にとっては、紙切れを破るより容易い。


 それでも。


 手を伸ばすことはできなかった。


 なぜなのか、自分でも分からない。


 ただ、一つだけ分かることがある。


 ここで俺が契約を消せば、また俺が決めることになる。


 少女がどう生きるのか。


 何を望むのか。


 その答えを、本人より先に俺が選んでしまうことになる。


「……奴隷契約を確認しました」


 役人は水晶板を机へ戻した。


「所有者の登録も残っています」


「なら、手続きは終わりか」


 そう尋ねると、役人は静かに首を横へ振った。


「いいえ」


 その一言で、胸の奥に嫌な予感が走った。


「奴隷契約は、主人が死亡しただけでは消滅しません」


 役人は淡々と続ける。


「法律上、奴隷は財産です。所有権は相続人、あるいは所属商会へ引き継がれます」


 少女の指先が、服の裾を強く握った。


「つまり」


 低く問い返す。


「また誰かの物になる可能性がある、ということか」


「通常であれば、その通りです」


 役人は一拍置いて続けた。


「ですが、今回は事情が特殊です」


「商隊は魔物によって壊滅しています。正式な死亡確認も済んでいません」


「そのため、所有権を主張する者が現れるまでは、この少女は一時保護となります」


「……一時保護?」


「役所で身柄を預かります。食事と寝床はこちらで用意しますが、外出は認められません」


「三十日以内に相続人、または商会が現れなければ、その後は国の管理下へ移されます」


 俺は黙って聞いていた。


 『一時保護』。


 聞こえだけは穏やかだ。


 だが、その実態は違う。


 少女が自由になったわけではない。


 次の所有者が決まるまで、一時的に保管されるだけだ。


「結局」


 自然と声が低くなる。


「誰かの物になるのか」


 役人は少しだけ目を伏せた。


「……法律ですので」


 便利な言葉だった。


 役人が悪いわけではない。


 国が俺を狙っているわけでもない。


 誰もが決められた規則に従っているだけだ。


 だからこそ、余計に腹が立つ。


 俺なら、この契約は消せる。


 奴隷紋も。


 契約も。


 すべて。


 だが、それをすれば、結局は俺が少女の人生を決めることになる。


 力を持つ者が、力を持たない者の未来を選ぶ。


 奴隷商人とは違う。


 そう思いたい。


 だが――


 本人の意思を置き去りにするのなら、何が違うというのか。


「では、保護室へご案内します」


 役人が立ち上がる。


 少女の肩が小さく震えた。


「あの……」


 そのか細い声だけが、妙に耳に残った。


 役人が振り返る。


「どうしましたか」


 少女は俯いたまま、しばらく黙っていた。


 言いたいことはある。


 だが、それを口にしていいのか分からない。


 そんな迷いが、その沈黙から伝わってくる。


 やがて、小さく息を吸い込んだ。


「質問しても……いいでしょうか」


「もちろんです」


 少女は震える指先を握りしめる。


 覚悟を決めるように。


「私は……」


 声が震える。


「私は、また……」


 そこで言葉が途切れた。


 少女の手が、そっと首元へ伸びる。


 もう首輪はない。


 それでも、そこに残る感覚を確かめるように指先が触れた。


「また……首輪を付けるんでしょうか」


 静寂が落ちた。


 たった一言。


 それだけで、部屋の空気が変わった。


 俺は何も言えなかった。


 首輪。


 それは少女にとって、ただの拘束具ではない。


 誰かの所有物である証。


 自分の意思を奪われる象徴。


 それを再び身につけるかもしれない。


 そう問いかけているのだ。


 役人は慎重に言葉を選びながら口を開く。


「制度上は……その可能性があります」


 少女は静かに目を伏せた。


 驚きもしない。


 怒りもしない。


 ただ、受け入れようとしている。


 その姿が、どうしようもなく気に入らなかった。


 なぜだ。


 こいつは奴隷だった。


 そんな人間は、この国にいくらでもいる。


 今までだって見てきた。


 見ないふりをして。


 関わらないようにして。


 それで終わりだった。


 なのに。


 拳を握る。


 爪が掌へ食い込んだ。


 役人は悪くない。


 法律も悪くない。


 誰もが決められた仕組みに従っているだけだ。


 それでも、目の前で少女が自分の未来を諦めようとしている姿だけは、どうしても見過ごせなかった。


「お前」


 気づけば声が出ていた。


 少女が肩を震わせる。


「……はい」


 怯えた返事だった。


 怒られる。


 そう思っている顔に、胸の奥がわずかに重くなる。


 違う。


 そういうつもりじゃない。


「本当に、それでいいのか」


 少女はゆっくりと顔を上げた。


 すぐには答えない。


 いつものように謝る。


 そう思っていた。


 しかし。


「……分かりません」


 その一言は、俺の予想を裏切った。


 少女自身も、そんな言葉が口をついて出たことに驚いているようだった。


「何を選べばいいのか……分からないんです」


 震える声だった。


 それでも、その言葉だけは誰かに言わされたものではない。


 初めて、自分の意思で口にした言葉だった。


「ずっと……」


 少女は途切れ途切れに続ける。


「言われた通りに生きてきました」


「怒られないように」


「捨てられないように」


 細い指先が首元へ触れる。


 もう首輪はない。


 それでも、その仕草だけは身体に染みついていた。


「そうしていれば……生きていられたから」


 そして、小さく息を吸う。


「だから……自由になっても、どうすればいいのか分からないんです」


 その言葉で、昨夜の会話が脳裏によみがえった。


『だから……何も決められていない方が、怖いです』


 あの時の俺は、


『なら慣れるしかねぇな』


 そう返した。


 今でも、その答えが間違いだったとは思わない。


 人は、いつか慣れるしかない。


 俺もそうやって生きてきた。


 だが、あの時の俺は、少女の言葉の意味を理解していなかった。


 自由が怖いのではない。


 何を選べばいいのか分からないことが、怖かったのだ。


 誰かに決められる人生しか知らない者にとって、選ぶという行為そのものが恐怖だった。


 不意に、昔の自分を思い出す。


 すべてを失ったあと、何を目的に生きればいいのか分からず、力だけを振るっていた頃を。


 あの頃の俺もまた、選び方を知らなかった。


「……馬鹿だな」


 思わず口をついて出た。


 少女がびくりと肩を震わせる。


 しまった。


 違う。


 そういう意味じゃない。


「……悪い」


 謝罪が自然と口をついていた。


 少女が目を丸くする。


 俺自身も、自分の言葉に少し驚いていた。


「お前が馬鹿なんじゃない」


 言葉を探す。


 こんなことを誰かに伝えようとしたのは、初めてだった。


「選び方を知らないだけだ」


 一度、言葉を切る。


 違う。


 それだけでは足りない。


「いや……」


 小さく首を振る。


「誰にも、教えてもらえなかっただけだ」


 少女の瞳が、大きく揺れた。


 役人は黙って俺たちを見ていた。


 やがて、静かに口を開く。


「……珍しい方ですね」


「何がだ」


「奴隷を、そこまで一人の人間として見る方です」


 俺は眉をひそめる。


「気に入らないだけだ」


 反射的にそう答える。


 だが、自分でも、それだけではないと分かっていた。


 役人は小さく首を振る。


「それでも、法律は変わりません」


「……」


「あなたが何を思おうと、この少女をあなたへ引き渡すことはできません」


「何故だ」


「現在、この少女は誰の所有物でもありません」


 役人は淡々と答える。


「だからこそ、役所が勝手に第三者へ渡すこともできないのです」


「それをすれば、今度は我々が法律を破ることになります」


 俺は黙った。


 方法ならある。


 奴隷紋を消すことも。


 契約を失効させることも。


 この場から連れ出すことも。


 俺には難しくない。


 だが――


 それは違う。


 昨日、俺は首輪も鉄輪も壊した。


 あれは少女を縛るものだった。


 だから壊した。


 だが今、壊そうとしているものは違う。


 少女自身が選ぶはずだった未来だ。


 それを俺が奪ってしまえば、結局は同じことになる。


「……分かった」


 役人がわずかに目を見開く。


「ご理解いただけますか」


「理解しただけだ」


 納得したわけじゃない。


 それでも、ここで力を振るうことだけは違うと思った。


 役人は静かに頭を下げる。


「ありがとうございます」


 そして少女へ向き直った。


「では、ご案内します」


 少女が一歩踏み出す。


 その背中を見つめながら、気づけば、また口を開いていた。


「三十日」


 役人が振り返る。


「はい」


 俺は少女を見る。


 少女も、不安そうな顔でこちらを見返した。


「その間に考えろ」


「……え」


「自分がどうしたいのか」


 少女は目を瞬かせる。


 俺は続けた。


「俺のところへ来るのか」


「別の場所へ行くのか」


「それとも、別の道を選ぶのか」


 自分でも意外だった。


 以前の俺なら、そんなことは言わない。


 俺が決める。


 俺が正しいと思う方へ連れていく。


 それで終わりだった。


 だが――


 それは違うと、今は思う。


「三十日後」


 一度だけ言葉を切る。


「その時、お前がまだ俺のところへ来たいと思うなら」


 少女は息を呑む。


「迎えに来る」


 少女の瞳が揺れた。


 戸惑い。


 驚き。


 そして、その奥に小さな安堵が浮かぶ。


「……本当に?」


 かすれた声だった。


「ああ」


「どうして……」


 少女は不思議そうに首を傾げる。


「私は……何もできません」


「役に立たないかもしれません」


「迷惑ばかり、かけるかもしれません」


 俺は少しだけ黙る。


 答えは、すぐには出なかった。


「知らん」


 少女がきょとんとする。


「そんなことは、その時になれば分かる」


 そして、少女を真っすぐ見る。


「大事なのは、できるかどうかじゃない」


 一拍置く。


「お前が、どうしたいかだ」


 少女は言葉を失った。


 まるで、初めて聞く言葉に触れたようだった。


「……私が」


 小さく呟く。


「私が……決めていいんですか」


「ああ」


 短く答える。


「お前の人生だ」


 少女はしばらく俺を見つめていた。


 やがて、小さく頷く。


「……はい」


 その返事は、今までとは違っていた。


 誰かに従うための返事ではない。


 自分の意思で受け止めた言葉へ返した、初めての返事だった。


 役人が少女へ声をかける。


「では、こちらへ」


 少女は小さく頷き、ゆっくりと歩き出した。


 数歩進んだところで、不意に足を止める。


 ためらうように振り返った。


「……あの」


「何だ」


 少女は何かを言おうと口を開く。


 だが、言葉にならない。


 視線が揺れ、指先がぎゅっと服の裾を握る。


 しばらく迷った末、小さく息を吸った。


「三十日後……」


 不安そうな瞳が、真っすぐ俺を見る。


「本当に……来てくれますか」


 少しだけ驚いた。


 約束した。


 だから迎えに来る。


 俺の中では、それだけのことだった。


「ああ」


 短く答える。


「約束する」


 少女は黙ったまま俺を見つめていた。


 その言葉を、どう受け止めればいいのか分からないように。


 やがて、小さく口を開く。


「……約束、されたことがなくて」


 かすれるような声だった。


「だから……どう返事をすればいいのか、分かりません」


 命令なら知っている。


 従うことも知っている。


 けれど、約束は違う。


 返事の仕方さえ分からない。


 そんな人生だったのだろう。


「無理に返事をする必要はない」


 少女がゆっくり顔を上げる。


「三十日後」


 一度だけ言葉を切る。


「その時、お前が決めればいい」


 少女はしばらく俺を見つめた。


 そして、小さく頷く。


「……はい」


 その返事は、約束を受け入れたものではない。


 ただ、その言葉を胸へしまい込むような返事だった。


 役人が静かに歩き出す。


 少女も、その後ろを歩いていく。


 もう振り返ることはなかった。


 小さな背中が廊下の奥へ消える。


 やがて、足音も聞こえなくなった。


「手続きは以上になります」


 役人の声で我に返る。


「ああ」


 木札を受け取り、そのまま役所を後にした。


 外へ出ると、西へ傾いた陽が街を赤く染めていた。


 思っていた以上に時間が過ぎていたらしい。


 昼間の喧騒は落ち着き始め、店先では商人たちが品物を片付けている。


 家路を急ぐ者。


 酒場へ向かう者。


 街は一日の終わりを迎えようとしていた。


 俺は城門へ向かって歩き出す。


 本来なら、それで終わりだった。


 街へ来た目的は済ませた。


 素材は換金した。


 ローブも回収した。


 役所での手続きも終わった。


 なら、この街に用はない。


 森へ戻る。


 それだけだった。


 ……はずだった。


 足が止まる。


「……三十日」


 小さく呟く。


 三十日後、迎えに来る。


 そう約束した。


 なら、その日にもう一度来ればいい。


 それだけの話だ。


 それなのに。


 なぜか、そのまま城門へ向かう気になれなかった。


 二度もこの街を往復するのは面倒だ。


 ……そういうことにしておく。


 踵を返す。


 城門とは反対の通りへ歩き出した。


 しばらく進むと、小さな木の看板が目に入った。


 『貸家仲介』


 そう書かれている。


 ちょうど年配の男が店先の戸板を閉めているところだった。


 俺に気づくと、男は手を止める。


「悪いが、今日はもう店じまいなんだ」


「まだ間に合うか」


 男は申し訳なさそうに首を横へ振る。


「すまないな。帳簿はもう閉じちまった。手続きは明日の朝からになる」


「分かった。明日の朝に来る」


「ええ。その時に条件に合う家をご案内します」


 男は安心したように頷いた。


「ああ」


 俺が遅かっただけだ。


 男に非はない。


「宿なら、この通りを戻れば何軒かある。今日泊まるなら、まだ間に合うはずだ」


「ああ」


 軽く頷き、その場を離れた。


 今日は宿を取るしかない。


 明日、家を借りる。


 三十日だけ、この街を拠点にする。


 その方が無駄がない。


 ただ、それだけのことだ。


 教えられた宿は、大通りに面した二階建てだった。


 旅人向けの、ごく普通の宿屋だ。


 受付で一泊分の料金を払い、鍵を受け取る。


 二階の部屋は簡素だった。


 寝台が一つ。


 机が一つ。


 椅子が一脚。


 部屋を見回す。


 森で野営することを思えば、十分だった。


 腰の収納袋だけを外し、机の上へ置く。


 窓の外では、街の灯りが静かに揺れている。


 酒場から漏れる笑い声も、昼間ほどの賑わいはない。


 明日は貸家を探す。


 それだけを考えながら、寝台へ横になった。


 瞼を閉じる。


 今日一日の疲れが、一気に押し寄せてきた。


 やがて意識は静かに沈み、長い一日が終わった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました! 


二人の約束はどうなるんでしょうね。


作者としては知っているんですけど、ふふ。


これからの過程もお楽しみください!

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