第6話 予定どおりのはずだった
街へ入ると、森とは違う音が耳についた。
人の声。
馬の蹄が石を叩く音。
荷車の車輪が、荒い石畳を削る音。
うるさい。
森の静けさに慣れた耳には、どれも必要以上に響いて聞こえる。
だが、少女には違うらしい。
周囲を見回す目が忙しなく動いている。
道を歩く人々。
店先に並ぶ商品。
色鮮やかな果物。
焼き立てのパンから立ち上る白い湯気。
鎧を着た冒険者。
露店で値切る客。
見るものすべてが珍しいらしい。
少女の視線は、初めて見る世界を追い続けていた。
……まあ、当然か。
まともな服もなく、昨日まで森の中にいた奴だ。
「……」
俺は気にせず歩く。
やることは決まっている。
魔物の素材と拾った金品を換金する。
少女の服を買う。
預けていたローブを回収する。
それで終わりだ。
こいつとは、そこで別れる。
その予定だった。
「……あの」
背後から声がした。
「何だ」
「この街は……大きいですね」
「そうだな。見れば分かる」
少し間が空く。
「……すみません」
「謝るな」
「でも……」
「怒ってない」
事実、怒ってはいない。
ただ、何度目になるか分からない謝罪に、少し疲れていた。
しばらく歩く。
通りの先に、大きな看板が見えてきた。
その周囲には露店が並び、商人や冒険者が行き交っている。
「まずは金を換えてくる」
「はい」
少女は素直に頷いた。
人通りの多い道を、そのまま進んでいく。
やがて、一軒の店の前で足を止めた。
古びた木製の看板。
その下には、金貨と宝石を描いた紋章が掲げられている。
「ここで待ってろ」
少女がわずかに目を見開く。
「……一緒に行かないんですか?」
「何故だ」
「でも……」
少女は周囲を見る。
知らない建物。
知らない匂い。
行き交う人々。
その視線に肩を竦め、小さな手が無意識にローブの裾を握り締めていた。
「店の前から動くな」
「はい」
「勝手に消えるな」
「……はい」
「ローブがなくなる」
少女は一瞬だけ目を丸くした。
そして、小さく笑う。
「……分かりました」
何故笑ったのかは分からなかった。
俺は店の中へ入る。
扉が閉まると、外の喧騒が少しだけ遠くなった。
店内には、金属と薬品の混ざった独特の匂いが漂っている。
壁際には魔石や装飾品。
奥の棚には、見たことのない素材が丁寧に保管されていた。
受付に座っていた中年の男が、こちらへ視線を向ける。
「いらっしゃい。売却か?」
「あぁ」
収納袋から魔物の素材、装飾品、そして昨日拾った金品をいくつか取り出す。
男は慣れた手付きで、一つずつ確認していった。
「……随分と珍しい物を持っているな」
「そうか」
「この魔石なんか、並大抵の冒険者じゃまず手に入らんぞ」
男は魔石を光に透かしながら呟く。
「たまたまだ」
「たまたま、ねぇ」
男は苦笑する。
それ以上は聞いてこない。
商人というものは、余計な詮索をしない方が儲かることを知っている。
査定が終わるまで、しばらく時間がかかった。
受け取った金貨を収納袋へしまう。
これで当面、金に困ることはない。
俺は店を出た。
そして――
少女は、まだそこにいた。
先ほどと同じ場所で、一歩も動かず待っている。
通り過ぎる人間に何度も見られている。
それでも、気にした様子はない。
命令だけを頼りに立ち続ける兵士のように、俺が出てくるのを待っていた。
「……」
少し意外だった。
逃げると思っていたわけじゃない。
だが、奴隷だった人間なら、自由になった瞬間にどこかへ行く可能性もあると思っていた。
少女は俺を見ると、小さく頭を下げる。
「おかえりなさい」
「家じゃねぇよ」
思わず返す。
少女はわずかに驚いた顔をした。
「すみません……」
「だから謝るな」
頭を掻く。
ため息が漏れた。
何を言っても謝る。
本当に何故こいつは、いちいち俺を困らせる方向に動くのか。
「次へ行くぞ」
「はい」
少女は素直についてくる。
誰も近寄ろうとしない俺の背中を、何故か迷いなく追っている。
「……まあいい」
小さく呟く。
服さえ買えば、あとは役所に届けるだけだ。
俺は次の目的地へ向かって歩き出す。
向かう先は、衣服を扱う店。
汚れたローブの隙間から、奴隷紋が覗いている。
街中でそんな少女を連れて歩けば、余計な視線を集める。
仕事が増えるのは避けたい。
それだけだ。
しばらく歩くと、一軒の店の前で足を止めた。
派手な看板ではない。
だが、質の良さそうな布が店先に並んでいる。
「入るぞ」
「はい」
扉を開ける。
店内には、布の匂いが広がっていた。
土でも、木でもない。
誰かが作り、誰かが使うための匂いだった。
「いらっしゃいませ」
奥から女性店員が出てくる。
俺を見る。
次に少女を見る。
最後に、少女が着ているローブへ視線を落とした。
一瞬だけ、表情が固まる。
店員は少女の首元を見る。
そこにある奴隷紋。
何か言いたげな顔をした。
だが、すぐに視線を逸らした。
慣れているのだろう。
この街では、珍しくない光景なのかもしれない。
「服を買いに来た」
先に言う。
店員は少し戸惑ったように瞬きをした。
「えっと……こちらのお嬢さんの分でしょうか?」
「あぁ」
少女の肩が僅かに揺れる。
――お嬢さん。
その呼ばれ方が珍しかったのか、困ったような顔をした。
店員は気にせず、店の奥へ向かう。
「普段着でしたら、こちらの辺りがよろしいかと」
何着かの服を持って戻ってくる。
柔らかな布。
丁寧に縫われた袖。
汚れ一つない襟。
少女は黙って見つめている。
その瞳には、小さな光が灯っていた。
指先が少し動く。
服に触れようとする。
だが――
触れる前に、宙で止まった。
「何をしている」
「……え?」
「選べ」
少女は目を伏せる。
「私が……選んでもいいんですか?」
意味が分からない。
「着るのはお前だ」
「でも……」
少女は服を見る。
「高そうなので」
「金ならある」
「そういう問題では……」
そこで言葉が止まった。
「……またそれか」
思わず口から出る。
少女の身体が少し強張った。
「さっさと選んで、俺のローブを返せ」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
それから、少し時間が経った。
「お待たせしました」
店の奥から声がする。
振り向くと、少女が立っていた。
先ほどまで着ていた古びたローブはない。
代わりに、質素な布の服を身に着けている。
飾り気はない。
街で暮らす人間なら、どこにでもいるような服だ。
だが――
印象が違った。
汚れた布に隠れていた細い肩。
整えられた髪。
不安げに揺れていた瞳。
同じ人間のはずなのに、別人のように見える。
「いかがでしょうか?」
店員が微笑む。
「よくお似合いですよ」
少女は返事をしない。
自分の袖を見つめている。
指先で何度も確かめるように、布を撫でていた。
「……」
服一枚で、そんな顔をするものなのか。
理解できない。
「どうだ」
声を掛ける。
少女が顔を上げた。
「……変じゃないですか?」
「俺に聞くな」
少女は困ったように笑う。
店員は期待するようにこちらを見る。
……視線が鬱陶しい。
「……そうですよね」
「ただ」
何故か、口が勝手に動いた。
「前よりはマシだ」
少女の目が、わずかに見開かれる。
驚いたように瞬きを繰り返す。
やがて、口元がゆっくりと緩んだ。
控えめで、遠慮がちな笑顔だった。
なのに、何故か目を逸らせなかった。
「……ありがとうございます」
またそれか。
「感謝されることじゃねぇ」
「はい」
返事はいつも通りだった。
けれど、声の震えは少し減っていた。
それが意外だった。
会計を済ませ、店を出ようとする。
その時、少女が足を止めた。
「……あの」
「何だ」
少女は自分の服を見る。
それから俺を見る。
少しだけ迷うような表情。
「ローブ……返します」
差し出されたのは、丁寧に畳まれた外套だった。
「……」
ようやく戻ってきた外套を受け取る。
魔力で編まれた外套。
別に高価な物ではない。
だが、長く使っている俺にとって必要な物だ。
収納袋へしまう。
「これで終わりだな」
「……」
その言葉に、少女の表情が僅かに曇った。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
だが、見えた。
「門番に指示された以上、役所へ向かうぞ」
「役所……」
「奴隷紋の確認だ」
少女の動きが止まる。
「……まだ、私は奴隷なんですか」
小さな声だった。
「紋が残っている以上、そう扱われる」
「……」
「主人が死んだなら、手続きが必要だ」
さっきまで嬉しそうに触れていた新しい服。
その袖を、今度は弱く握っている。
「……」
こういう時、何を言えばいいのか知らない。
だから――
「行くぞ」
「……はい」
少女は少し遅れて、俺の後ろにつく。
新しい服を着ている。
首には奴隷紋を残したまま。
そして、もう俺のローブは着ていない。
予定通りだ。
全部、予定通りのはずだった。
――なのに。
役所へ向かう途中。
俺は何度も、後ろを振り返っていた。
理由は分からない。
ただ、いつもなら気にもしないはずの足音が、少しでも遠ざかると妙に耳についた。
……別に、気にしているわけじゃない。
そう思った。




