第4話 初めての石鹸
ソファーから立ち上がる。
半ば崩れた屋根から差し込む朝日が、ひび割れた壁を照らしていた。
室内が明るくなる。
腐った木材と、床に積もった埃。
廃小屋として見れば、酷い場所だ。
だが、そんなものはどうでもいい。
雨上がりの森の匂い。
濡れた土。
葉先に残った水滴。
遠くで鳴く鳥の声。
朝だけを切り取れば、悪くない。
問題は、それ以外だった。
視線を向ける。
そこには、毛布にくるまって眠る少女がいた。
昨日、付いてきた奴隷だ。
爪の間には、黒ずんだ汚れが詰まっている。
指先の皮膚は荒れ、何度も裂けて治った跡が残っていた。
身体を洗う以前の問題だった。
これは、汚れているんじゃない。
汚れることを放置されていた。
どれだけ放置されていたのかは分からない。
数日じゃない。
おそらく、もっと長い月日が経っている。
人間なら当然するはずのことを、何一つ許されてこなかった身体だった。
近くにいるだけで、湿った臭いが鼻につく。
昨夜は雨の匂いで気にならなかった。
だが、朝になれば嫌でも分かる。
「……」
少女を見る。
小さな身体を丸めて眠っている。
無防備に見える。
だが、違う。
警戒していないんじゃない。
限界まで疲れ切って、警戒する余裕すらないだけだ。
そんなことを考えた自分に気付き、舌打ちする。
厄介だ。
本当に。
「……起きろ」
声を掛けた瞬間、少女の身体がびくりと跳ねた。
眠っていた人間の反応じゃない。
叩き起こされた奴隷の反応だった。
「……は、はい!」
飛び起きる。
そして次の瞬間には、床へ額が付きそうなほど頭を下げていた。
「申し訳ありません!」
「謝るな」
「……はい」
返事だけは早い。
考えるより先に、口が動いている。
何かあれば謝る。
怒られる前に謝る。
殴られる前に許しを乞う。
そうしなければ朝まで生きられない場所にいた人間の反応だった。
小さく息を吐く。
「立て」
「……はい」
床に置いてあった収納袋を拾い上げる。
少女はすぐに立ち上がった。
命令されたから。
それだけの理由で。
「外へ行くぞ」
「はい」
理由を聞かない。
疑問も持たない。
ただ、俺の後ろを付いてくる。
主人の後ろを歩く奴隷の距離だった。
廃小屋を出る。
朝露を含んだ森の空気が、頬を撫でた。
木々から落ちた雫が朝日を反射し、一瞬だけ光る。
少し歩くと、小さな川が見えてきた。
透明な水が、何事もなかったように流れている。
俺は川を指差した。
「洗ってこい」
少女は川を見る。
次に、俺を見る。
「……え?」
「身体を洗え」
言葉を区切る。
「顔も髪も、全部洗え」
しかし、少女は動かなかった。
命令されたのに、珍しい反応だった。
「……洗う、ですか?」
「あぁ」
「……」
黙ったまま川を見つめている。
小首を傾げ、その顔には戸惑いが浮かんでいた。
「どうした」
しばらく沈黙したあと、少女が小さな声で答える。
「……やり方が、分かりません」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……何?」
「身体を洗ったことが……ありません」
風が吹く。
森の音だけが聞こえた。
「一度もか」
少女は小さく頷いた。
「雨の日に濡れることは、ありました」
少し間を置く。
「でも……洗うことは、ありませんでした」
額を押さえる。
「……そうかよ」
奴隷だった。
考えてみれば、不思議でも何でもない。
主人にとって奴隷は、道具で使えればいい。
壊れなければいい。
汚れようが、臭おうが、関係ない。
だから、この少女は知らない。
身体を洗うことも。
汚れを落とすことも。
自分自身を気遣うことも。
「……厄介だな」
呟いた瞬間、少女の肩が震えた。
「すみません」
「だから謝るな」
反射的に返す。
少女は口を閉じた。
「とりあえず服を脱げ。それも汚すぎる」
少女の肩がぴくりと震えた。
視線が足元へ落ちる。
擦り切れた奴隷服。
何年も使い続けた服というより、ただ身体を覆うためだけの残骸だった。
少女の指先が、その裾をぎゅっと握り締める。
何も言わない。
だが、それだけで迷っていることは分かった。
それでも命令だと思ったのか、小さく頷く。
「……はい」
か細く返事をすると、俺に背を向けた。
背を向けた瞬間、身体が僅かに震える。
服を脱げと言われたから脱ぐ。
それ以外の理由はない。
そこに羞恥はなかった。
あるのは、逆らえば何が起きるかを知っている人間の恐怖だけだった。
ぼろぼろの奴隷服に手を掛け、静かに脱いでいく。
長い間着続けていたのだろう。
泥と乾いた血で硬くなった布は肌に張り付いていた。
剥がすたびに、小さな音を立てる。
俺は収納袋に手を入れる。
中を探り、取り出したのは小さな四角い塊だった。
淡い乳白色の石鹸。
別に珍しいものじゃない。
なのに、少女は不思議そうにそれを見つめていた。
「それは……?」
石鹸を放る。
少女は慌てて両手で受け止めた。
「石鹸だ」
「……せっけん」
聞き慣れない言葉を、確かめるように繰り返す。
「水だけじゃ臭いは落ちねぇ」
少女は石鹸と自分の手を見る。
まるで触れてはいけない物を見るように。
「……どうやって使うのでしょうか」
「濡らして擦る」
短く言う。
「身体も髪も全部だ。泡が立つまで擦れ」
少女は恐る恐る石鹸を撫でた。
「泡……?」
「やってみりゃ分かる」
それだけ言って腕を組む。
「その泥と臭いをどうにかしろ」
少女は石鹸を胸元で大事そうに抱えた。
「……壊してしまうかもしれません」
思わず眉をひそめる。
「石鹸だぞ?」
「……ですが」
「使えばなくなる」
少女の指が止まる。
「……なくなる」
「あぁ」
「……」
石鹸を見る。
「……なくなっても……いいんですか?」
少し間を置いて、重ねて尋ねる。
「……怒られませんか?」
その言葉だけが、妙に引っ掛かった。
石鹸を使ったことを怒られる。
そんな発想が、俺にはなかった。
だが、こいつにとっては違う。
物を使うことは浪費じゃない。
罪だったのだ。
「だから何だ」
「使ったら、減ります」
「当たり前だ」
「……」
少女は黙る。
「物は減るように作られている」
そう言うと、少女の目が僅かに揺れた。
理解できないものを見る目だった。
「飾るためじゃない。使うためにある」
「……」
少女は石鹸を握る。
強い力ではない。
壊さないように。
まるで、自分が触れることで傷付けてしまうと思っているようだった。
「勘違いするな」
鼻を鳴らす。
「お前が臭いと、俺が迷惑なんだ」
「……はい」
「だから洗え」
少女は小さく頷いた。
「……分かりました」
川へ向き直る。
しゃがみ込み、恐る恐る石鹸を水へ浸した。
その瞬間。
透明だった水が、少しだけ白く濁った。
少女の手が止まる。
「……」
「何だ」
「……壊れました」
頭を抱えた。
「壊れてねぇ」
「ですが、水に入れたら……」
「そういう物だ」
まだ納得していない。
「使えば変わる」
「……」
「変わるために作られてる」
少女は黙った。
そして、もう一度ゆっくりと石鹸を擦った。
白い泡が立つ。
朝日に照らされ、淡く輝いていた。
少女の瞳が、少しだけ開く。
「……増えました」
「だから、さっきも言っただろ」
「でも……」
少女は泡を見る。
「減ったはずなのに」
「何がだ」
「石鹸です」
小さく呟く。
「使ったのに……」
そこで言葉が止まった。
俺には分からない。
たかが石鹸だ。
使えば減る。
それだけの話だ。
……だが、こいつには違うらしい。
俺も少女から少し離れた場所へ移動する。
少女ほどではないが、自分も埃や雨で汚れているからだ。
黒いローブ、上着とシャツを脱ぎ、腰のベルトを外す。
汚れた服をまとめ、近くの岩の上に置く。
川へ足を踏み入れる。
冷たい水が足首を包んだ。
収納袋から取り出しておいた石鹸を水で濡らす。
両手で擦ると、白い泡が立った。
顔を洗う。
首筋を擦る。
肩から腕へ泡を伸ばし、雨と埃で汚れた身体を洗い流していく。
泡とともに、黒ずんだ汚れが川へ流れていった。
髪も濡らし、指先で頭皮を掻くように洗う。
何度か水を浴びると、重かった身体が少し軽くなった気がした。
横目を向ける。
少し離れた場所では、少女も俺の真似をするように、ぎこちない手つきで石鹸を泡立てていた。
最初は怯えながら触れていた。
だが、少しずつ手つきが変わっていく。
髪を洗う。
顔を洗う。
泥が落ちるたび、黒く濁った水が川へ流れていく。
少女の輪郭が、少しずつ現れていった。
傷跡は残っている。
奴隷紋もある。
痩せ細っている。
身体は小さい。
それでも。
泥に覆われた何かではなく、一人の人間に見えた。
「……」
少女は自分の腕を見る。
何度も、何度も。
まるで、それが本当に自分の身体なのか確かめるように。
「どうした」
声を掛ける。
少女は少し迷ってから答えた。
「……知らない感覚です」
「何が」
「私の身体なのに」
指先で腕に触れる。
「知らないものみたいです」
俺は黙った。
その言葉の意味は、何となく分かった。
「……」
……余計なことをした。
俺はただ、臭いを消したかっただけだ。
それ以上の意味なんてない。
……ないはずだった。
なのに。
こいつは、たった一個の石鹸で何かを取り戻したような顔をしている。
しばらくして、川の音だけが辺りに響いていた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、岩の上に置いたローブを取る。
魔術師のローブ。
長年使っているものだ。
魔力で編まれた特別な一着だから、手放す理由はない。
軽く石鹸で洗い、魔法で水を支配する。
布に残った水分を絞り出す。
昨日もやったことだ。
乾いた衣服に袖を通す。
視線を戻すと、少女はまだ川の中にいた。
もう汚れはほとんど落ちている。
それでも、何度も手を洗っていた。
「……」
何をしているのかと思った。
だが、すぐに分かった。
汚れが残っていないか確かめている。
「もう十分だ」
声を掛ける。
少女の肩が跳ねた。
「……まだ、少し」
「汚れは落ちてる。匂いも幾分かはマシだ」
短く言う。
「でも……」
「それ以上やっても変わらない」
言い切る。
少女は黙った。
少し迷ったあと、小さく頷く。
「……はい」
川から上がる。
濡れた髪から水滴が落ちる。
今まで泥と油に隠れていたものが、少しずつ姿を現していた。
髪の色。
肌の色。
そして、その顔立ち。
汚れていたのではなく、隠されていただけだった。
傷は残っている。
奴隷の証も消えていない。
痩せ細った身体も、積み重なった疲労もそのままだ。
それでも、さっきまでとは違って見えた。
伏せられていた瞳が、初めて真っ直ぐこちらを見る。
澄んだ色をしていた。
――こんな目をしていたのか。
そこで、妙な違和感を覚えた。
昨日まで何度も見ていたはずなのに、俺はこいつの顔をまともに見ていなかったらしい。
汚れた服。
奴隷の首輪。
命令に従うだけの反応。
それだけを見て、勝手に判断していた。
……別に、今さら何か思うことがあるわけじゃない。
ただ、少しだけ居心地が悪かった。
余計なことに気付いた気がした。
そう思ってしまった自分が、少しだけ厄介だった。
収納袋からタオルを出し、少女へ投げる。
「それで体を拭け」
少女は恐る恐るタオルを両手で広げる。
指先で、そっと撫でた。
「……ふかふかです。これも使って……いいんですか?」
「お前が使わなかったら、風邪を引かれて困るのは俺だ」
体を拭き終わると、少女の手が脱ぎ捨てた奴隷服へ伸びそうになる。
「折角、マシな姿にさせたのに、そんな破けて汚らしいものをまた着ようとすんな」
「……でも、他に着るものがありません」
確かに少女の言う通りだ。
俺の荷物にも、子供用の服など持っているはずもない。
一瞬だけ躊躇した。
……だが、このまま歩かせる方が面倒だ。
舌打ちをする。
俺はローブを脱ぎ、投げる。
少女は驚いて受け取った。
「勘違いするな。一旦、貸すだけだ。それに裸で歩かれる方が迷惑だ」
少女はローブを抱きしめた。
「……私が、着てもいいんですか」
「貸すだけだと言っただろ」
「……はい」
少女は恐る恐る袖を通す。
大きすぎる布に身体が包まれる。
裾は地面を擦りそうになり、袖は指先まで完全に隠れていた。
肌へ触れる感触は柔らかい。
少女は、思わず肩を震わせた。
こちらの顔色を窺っている。
「私が着ると、その……引きずって泥で汚れてしまいます」
「んな事は分かってる。汚れたら洗う。それだけの話だ」
「物を……使っても、怒られないんですね」
「俺の物だ。どう使うかは俺が決める」
ローブからは、石鹸の匂いがした。
少女はその匂いを胸いっぱいに吸い込む。
そして、小さく裾を握り締めた。
まるで、許されているのか確かめるように。
「……はい」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
少女の無垢らしさが表現できていたら嬉しいです!




