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支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
序章 『鎖の先へ 』

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第3話 鎖の消えた夜

 再びソファーに身を預け、目を閉じたまま面倒そうに口を開いた。


「俺はもう寝る」


 返事はない。


 だが、聞いていることは分かっていた。


「お前もここにいる気なら、とっとと寝ろ」


 そこで思い出したように付け加える。


「その鉄、見ていて邪魔だ」


 少女の肩がびくりと震えた。


 細い身体には不釣り合いなほど重たい鉄の拘束具。


 長年、肌へ食い込み続けたそれは、彼女にとって身体の一部も同然だった。


 目を閉じたまま、小さく呟く。


「――自壊せよ」


 次の瞬間――


 バキィンッ!!


 鈍い破砕音とともに首輪は粉々に砕け、無数の鉄片が床へ散らばった。


 続けて両手首の鉄輪にも亀裂が走る。


 ――バキンッ!!


 二つの鉄輪も内側から弾け飛び、砕けた鉄片が床を転がった。


 ガラン。


 ガラン……。


 静まり返った廃小屋に、その音だけが長く残った。


 先ほどまで大事そうに持っていた、布に包んでいた干し肉が、ぽとりと床へ落ちた。


 拾おうともしない。


 ただ、砕け散った首輪を見つめていた。


 震える指先で、奴隷紋だけが残る首筋を撫でる。


 いつも皮膚へ食い込んでいた重みも、擦れる痛みも、もうなかった。


 次に両手を持ち上げる。


 手首を締め付けていた鉄輪も、床の上で無惨に砕け散っていた。


「あ……」


 小さく息が漏れる。


 信じられないものを見るような目で、砕けた鉄と自分の手を何度も見比べた。


 恐る恐る、肘を曲げる。


 肩を回す。


 胸の前で両腕を抱く。


 止まる。


 もう一度、腕を伸ばす。


 誰にも命じられていない。


 ただ、自分の意思で腕を動かした。


 それだけのことが、彼女にとって初めてだった。


 少女の瞳が、ゆっくりと揺れる。


「……外れ、ました」


 消え入りそうな声だった。


 指先で何度も首筋を撫でる。


 何度触れても、鉄には触れない。


 恐る恐る息を吸う。


 首を締め付ける重みは、もうどこにもなかった。


 俺は目を閉じたまま鼻を鳴らす。


「命じたからな」


 それだけ言って、再びソファへ沈み込む。


 もう話は終わりだ。


 あとは寝るだけ。


 そう思いながらも、完全に目を閉じきる気にはなれず、薄く開けた瞼の隙間から少女の様子を窺っていた。


 少女はしばらく動けずにいた。


 足元に転がる砕けた拘束具を見つめ、やがて胸の前でそっと両手を握り締める。


 その手は小刻みに震え、止まらなかった。


 それから、しばらくの時間が過ぎた。


 俺はいつしか意識を手放していた。


 だが、完全に眠り込んでいたわけではない。


 理由は一つ。


 あの少女が、まったく動かないからだ。


 拘束具を壊してから、もう随分経つ。


「……」


 薄く目を開ける。


 少女は、座っていた。


 紫色に変色した唇を噛み、膝を抱えている。


 背筋を伸ばし、眠る気配がない。


 足元には、砕けた首輪と手枷の残骸。


 そして、布に包まれた干し肉。


「……おい」


 声をかけると、少女の肩が跳ねた。


「はい」


 すぐに返事が返ってくる。


 反応が早すぎる。


 命令を待つ人間の反応だ。


「何をしてる」


「……」


 少しだけ視線を落とす。


「待っています」


「何を」


「……命令を」


 思わず眉間を押さえる。


「まだ言ってんのか、それ」


 少女は困ったように首を傾げた。


「ですが……」


「俺はお前の主人じゃねぇ」


「……はい」


「なら、命令を待つ必要もねぇ」


「……」


 黙り込む。


 理解していないわけではない。


 理解しようとしている。


 だが。


 長年染み付いたものは、そう簡単には消えないらしい。


 命令が枷になるなんて考えたこともなかった。


「寝ろ」


 短く言う。


 少女の身体がわずかに震えた。


「……どこで」


「そこら辺でいい」


 顎で床を示す。


「収納袋に毛布がある。好きに使え」


 視線を落とす。


 しばらく迷ったあと、小さく頷いた。


「分かりました」


 そう言って、収納袋から毛布を取り出し、壁際の床へ向かう。


 だが。


 横になることはなかった。


 毛布を被り、膝を抱えたまま、座っている。


「……おい」


「はい」


「俺は、寝ろと言っただろ」


「はい」


 少し困った顔をする。


「……眠る時は」


 一瞬、言葉に詰まる。


「眠る時は?」


「……眠る時は、邪魔にならないように、と教えられました」


 俺は黙った。


 あまりにもくだらない。


「そんなもん忘れろ」


「……」


「横になって寝ろ」


 少し迷ってから、小さく頷いた。


「……はい」


 今度こそ、ゆっくりと身体を横たえた。


 だが、完全に力を抜くことはない。


 いつでも起き上がれるように。


 逃げられるように。


 殴られても耐えられるように。


 そんな姿勢だった。


「……」


 目を閉じる。


 しばらくして。


「あの」


 小さな声。


「何だ」


「首輪が……」


 自分の首元へ触れる。


 もう何もない場所を。


「……本当に、ないんですね」


「ああ」


「夢では……」


「ねぇよ」


 即答する。


 黙り込む。


 雨音だけが廃小屋を満たす。


 やがて、小さく続けた。


「……変な感じです」


「何が」


「首が軽いです」


 指先で首筋を撫でる。


「痛くないです」


 小さく息を吸う。


「苦しくないです」


 その声は、まるで初めて気付いたことを確かめるようだった。


「……でも」


 続ける。


「少し、怖いです」


 意外な答えだった。


「自由なのにか?」


 小さく頷く。


「自由だから……です」


「なら慣れるしかねぇな」


「朝になったら、何をすればいいのか分かりません」


「だから何だ」


「今までは全部、決められていました」


「起きる時間も」


「食べる量も」


「立つ場所も」


 指先が毛布を握る。


「だから……何も決められていない方が、怖いです」


「そうか」


 それだけだった。


 少女は返事を待った。


 だが、もう何も言わない。


「……面倒な奴が付いてきたもんだ」


 独り言のように呟く。


 少女は少しだけ目を伏せた。


「……すみません」


「謝罪に意味はない」


 反射的に返す。


 少女は少しだけ目を丸くした。


 そして。


 ほんの僅かに。


 口元が緩んだ気がした。


 気のせいかもしれない。


 だが。


 その表情は、今まで見たどんな顔よりも。


 少しだけ、人間らしかった。


 やがて。


 雨音は少しずつ弱まっていく。


 廃小屋の中には、静かな夜が流れた。


 俺は先に意識を手放した。


 そして。


 朝になって目を覚ますと、まだ眠っていた。


 昨夜のように膝を抱えてはいない。


 毛布にくるまり、小さく寝息を立てている。


 警戒も、怯えもせず、命令を待つ姿勢もない。


 ただ眠っている。


 それだけだった。


「……」


 少しだけ目を細める。


 たった一晩で何かが変わるわけではない。


 この少女に染み付いたものは、簡単には消えないだろう。


 それでも。


 昨日まで鉄に縛られていた少女は、今、初めて自分の意思で眠っていた。


 それだけなのに。


 妙に目についた。


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