第2話 「優しい人」と呼ばれた最恐の魔術師
俺は、数時間前から背後にまとわりつく気配を感じていた。
最初は気のせいだと思った。
雨に煙る街道。
灰色の空。
泥を含んで沈み込む足元。
こんな場所を歩いていれば、鳥獣の一匹や二匹が後を追ってくることもある。
ましてや、ここは人の往来も少ない辺境の街道だ。何かが潜んでいたところで不思議ではない。
だが、違った。
気配が一定すぎる。
距離が変わらない。
近づくこともなく、離れることもない。
まるで、こちらが歩みを止めるまで永遠についてくるつもりのようだった。
泥濘んだ街道を踏みしめながら、小さく息を吐いた。
いい加減、面倒になってきた。
振り返ることすらせず、背後へ向かって声を投げる。
「おい。どこまで付いてくるつもりだ?」
返事はない。
ただ――。
ぬちゃり。
ぬちゃり。
俺の足音から少し遅れて、小さな足音が重なる。
それだけだった。
「……無視かよ」
呆れ混じりに呟き、仕方なく横目だけを向ける。
そこには少女がいた。
三歩後ろ。
決して近づきすぎず、しかし離れもしない距離。
まるで、それが彼女に許された唯一の歩き方であるかのように。
青白い顔。
雨に濡れて頬へ張り付いた桃色の髪。
骨ばった肩。
風が吹けば折れてしまいそうなほど華奢な身体には、布切れと呼ぶ方が相応しい奴隷服がまとわりついている。
その薄汚れた布には、雨では洗い流せなかった赤黒い染みが残っていた。返り血。
誰のものかは聞くまでもない。
首元には鉄の首輪。
両手には拘束具。
その二つだけが、少女の身体には不釣り合いなほど頑丈だった。
まるで、人間ではなく逃げ出す可能性のある荷物を縛るための道具。
少女は俺の視線に気付いているはずなのに、顔を上げなかった。
俯いたまま、黙って立っている。
「……」
寒さで震えている。
雨で体温を奪われ、まともに立っていることすら辛いはずだ。
それでも、その足は止まらない。
「……忠告しておくが」
前を向いたまま言う。
「俺は、お前が期待しているような善人じゃねぇぞ」
もちろん、返事など期待していなかった。
肩を竦め、再び歩き出す。
追い払うことは簡単だった。
一言、来るなと言えばいい。
この少女なら、おそらく逆らわない。
命令された通り、雨の中で立ち尽くすだろう。
そして――。
明日の朝日を見ることなく、どこかで力尽きる。
それでも。
俺の足は止まらなかった。
「……奴隷ってのは」
思わず、独り言が漏れる。
「解放されても、そんなもんなのか」
返事はない。
少女はただ歩く。
三歩後ろを。
主人でもない俺の後ろを。
命令されていないのに、まるで命令を待つように。
ぬちゃり。
ぬちゃり。
泥を踏む音が、雨音の中に沈んでいく。
俺が離れろと言えば、きっと離れる。
俺が消えろと言えば、きっと消える。
それでも少女は、言われるまではそこにいるつもりらしかった。
「……ったく」
小さく舌打ちをする。
やがて、崩れかけた石積みの向こうに目的地が見えてきた。
街道脇に捨てられた、小さな廃小屋。
屋根は半分以上崩れ、壁にはいくつもの亀裂が走っている。まともな人間なら、こんな場所を住処とは呼ばないだろう。
だが、雨風を凌げる屋根があり、夜を越せる柱が残っている。
それだけで十分だった。
軋む扉を押し開ける。
湿った木の匂いが鼻をついた。
「……相変わらず、ひどい有様だな」
床板は腐り、ところどころ穴が空いている。
置き去りにされた家具は埃を被り、誰にも使われなくなって久しいことを物語っていた。
それでも、ここなら眠れる。
少なくとも、雨に打たれ続けるよりはましだ。
濡れた外套を軽く払う。
「水よ。絞り落ちろ」
次の瞬間、衣服に染み込んでいた雨水が、まるで見えない糸に引き抜かれるように浮かび上がった。
水滴は、蛇口を捻ったかのような勢いで床へ落ちる。
やがて足元には、小さな透明の水たまりができた。
それを見下ろしてから、ひび割れた革張りのソファへ身体を沈める。
深く沈み込んだ座面が、悲鳴のような軋みを上げた。
そこで初めて気付く。
少女がまだ入口に立ったままだということに。
「……」
雨はもう当たっていない。
なのに少女は動かない。
濡れた髪。
震える身体。
青ざめた唇。
それでも両手は拘束具の前で揃えられ、ただ主人の許可を待つ奴隷の姿勢を崩さない。
しばらく、その姿を見ていた。
そして、小さく息を吐く。
「入れ」
少女の肩がわずかに跳ねた。
「そこに立ってても、濡れるだけだ」
命令。
その言葉に反応したのか。
それとも、ようやく許可されたからなのか。
少女はゆっくりと一歩を踏み出した。
湿った足音が、静まり返った廃小屋の中に響いた。
しばらくの間、廃小屋には沈黙だけが漂っていた。
外では雨が降り続いている。
屋根を叩く無数の雨粒の音。
風が隙間から入り込み、古びた木材を震わせる音。
それ以外には、何もない。
二人分の呼吸だけが、同じ空間に存在していた。
少女は入口から少し離れた場所に立っている。
座るでもなく。
壁にもたれるでもなく。
ただ、そこにいる。
「……あなたは、何者なの?」
開口一番に出た言葉に俺は思わず鼻で笑う。
「まずは人に聞く前に、自分から名乗るのが人間の礼儀じゃねぇか。……奴隷に言っても仕方ねぇか」
少女の身体がびくりと震えた。
怒鳴られると思ったのか、首をさらに深く垂れる。
「名前は……ありません」
その答えはあまりにも淡々としていた。
悲しそうでも、悔しそうでもない。
まるで空が青いと言うのと同じくらい当たり前の事実を口にするような声音だった。
眉をひそめる。
「奴隷ですから」
それだけだった。
主人から呼ばれる時は番号か商品名。
必要があれば「おい」と呼ばれ、不要になれば殴られる。
名前など、一度も与えられなかった。
そんな人生だったのだろう。
短く息を吐く。
「……そうかよ」
それ以上、何も言えなかった。
何を言ったところで、今さら埋まるものじゃない。
沈黙が落ちる。
雨音だけが、崩れかけた屋根を叩いていた。
少女は立ったまま動かない。
座れとも、休めとも言われていないからだ。
その様子を見て、呆れたように頭を掻いた。
「そこまで従順だと見てるこっちが疲れる。座れ」
少女は顔を上げないまま、小さく首を横に振った。
「奴隷は……主人と同じ高さに座ってはいけません」
思わず額に手を当てる。
「俺はお前の主人になった覚えはねぇぞ」
その言葉に、少女は初めて戸惑ったように唇を震わせた。
ほんの僅か。
だが、今まで見せなかった感情だった。
「……では、私は誰の命令に従えばいいのでしょう」
その問いは、あまりにも静かで、あまりにも空っぽだった。
「知らねぇーよ、んなこと」
少女は俯いた。
怒られたと思ったのかもしれない。
再び静寂という空気が廃小屋を満たす。
雨音だけが、二人の間を埋める。
その時だった。
――くぅ。
かすかで、情けない腹の虫の音が静寂を破った。
雨音に紛れてしまいそうなほど小さかったが、静まり返った廃小屋の中ではよく響いた。
少女の肩がびくりと震える。
俯いたまま、ぎゅっと唇を噛み締める。
聞こえなかったことにしてほしい。
そんな願いが伝わるほど、小さく身体を縮めた。
だが腹は容赦がなかった。
――ぐぅ……。
今度は少しだけ大きく鳴る。
少女は耳まで真っ赤に染め、消えてしまいたいと言わんばかりに俯いた。
「……すみません」
だが、その謝罪が何に向けられたものなのかは分からない。
腹を鳴らしたことか。
迷惑をかけたことか。
食欲を見せたことか。
生きていること、そのものなのか。
ソファにもたれたまま頭を掻く。
「腹ぁ減ってんのか」
少女は迷うように視線を泳がせ、やがて観念したように小さく頷いた。
「……昨日から、何も」
言いかけて止まる。
「そうか」
腰の革袋を外した。
一見すれば煤けた古い革袋。
だが、内部には空間拡張の魔術が施されている。
それを少女へ放る。
「ひゃっ……!」
少女は両手で慌てて受け止める。
恐る恐る袋と俺を見比べた。
「……これは?」
「収納袋だ。食料も道具も入ってる。あとは勝手にしろ」
少女は袋を抱えたまま固まった。
「……食べても、いいのですか」
「聞こえなかったか」
俺は目を細める。
「勝手にしろって言ったんだ」
それでも少女は動かなかった。
食べていい。
その当たり前の行為が彼女にとって、どうしても信じられないようだった。
「……ですが」
「今度は何だ」
「主人より先に食べることは……」
「だから俺は主人じゃねぇ」
即座に返す。
「拾った覚えはねぇが、死なれても迷惑だ」
少女はおずおずと収納袋を開く。
中を覗き込んだ瞬間、小さく息を呑んだ。
外見からは考えられないほど広い空間。
干し肉、パン、干し果物、水袋。
何に使うか分からない道具類の上には、保存食がきちんと整理されて積まれている。
少女の視線は食べ物の上を何度も往復した。
欲しい。
でも、取っていいのだろうか。
そんな葛藤が、手の震えだけで伝わってくる。
やがて彼女は干し肉を一本だけ取り出した。
一本だけ。
他には一切手を伸ばさない。
そしてまた俺を見る。
「……本当に、いただいても?」
ため息を吐いた。
「何度言わせる」
少女は肩を震わせる。
そして――
「い、いただきます……」
消え入りそうな声でそう告げると、少女は両手で干し肉を包み込むように持った。
まるで壊れ物でも扱うような手つきで、ゆっくりと口へ運ぶ。
小さく歯を立てる。
硬い。
噛み切るだけでも力がいる。
それでも少女は表情を変えなかった。
いや、変えられなかった。
口の中へ広がる塩気と肉の旨味。
それを逃がすまいと、何度も何度も噛み締める。
瞳が少しだけ潤み、ようやく飲み込む。
喉が小さく上下する。
それだけで幸せそうに目を閉じた。
それから二口目。
三口目。
四口目。
最初は遠慮がちだった手が、少しずつ早くなる。
夢中だった。
腹が命令するままに食べ続ける。
だが、そこでぴたりと止まった。
干し肉を運んでいた手が、途中で止まる。
ほんの少し迷い、名残惜しそうに唇を離すと、何処から出したか分からない布切れを取り出して丁寧に包み始めた。
まるで宝物でも扱うような手つきだった。
眉をひそめる。
「食わねぇのか」
少女は小さく首を振る。
「……残します」
「何でだ」
「次に食べられるのが、いつか分からないので」
その答えに、廃小屋の中から音が消えた。
飢えることを前提に。
目の前の空腹より、未来の絶望を優先する。
……それが、この少女に染み付いた生き方だった。
しばらく黙って少女を見ていた。
革袋の中には、まだ食料は山ほどある。
それでもこいつは、一欠片たりとも無駄にしようとはしない。
少女は包み終えた干し肉を、胸に抱くように両手で持った。
失くせば二度と手に入らない宝物のように。
「……そういうところまで、躾けられてんのか」
俺はその様子を見つめ、小さく鼻で笑った。
「そういえば、お前、俺が何者か聞いてきたな」
ソファから身体を起こし、仰々しい態度をとる。
少女は包んだ干し肉を胸に抱えたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「なら、教えてやる」
目の前の少女は、俺の正体を知らない。
知らないまま、俺を善人か何かだと思っている。
……なら、今のうちに言っておくべきだ。
雨音だけが響く廃小屋の中で、俺の声が落ちた。
「俺は――」
一拍置いて、続ける。
「――『支配の魔術師』だ」
その言葉が落ちた瞬間、少女の表情を見つめた。
怯えるか。
逃げ出すか。
あるいは、俺を化け物でも見るような目をするか。
……そう思っていた。
「まじ……しはい、の」
少女は小さく呟く。
「まじゅつし……?」
聞き慣れない言葉を確かめるように、少女は所在なさげに、ゆっくりと繰り返した。
首を傾げる。
「それは……何ですか?」
思わず言葉を失った。
「……知らねぇのか?」
少女は困ったように視線を伏せる。
「ごめんなさい……」
小さく首を振る。
「私は、字も読めません」
ぽつり、と続けた。
「歴史も、お話も……何も教わったことがないので……」
主人に命じられた仕事を覚えるだけ。
失敗すれば殴られる。
それが少女の世界のすべてだった。
「だから……『支配の魔術師』が、どんな人なのかも……分かりません」
大陸中の子供たちは、幼い頃からその名を聞かされる。
恐怖と戒めの物語として。
――人の心を操り、自由な意思を奪った魔術師。
――魔物を兵器として従え、幾多の国境を戦火に包んだ魔術師。
――あらゆる事象、世界を縛る理さえも支配した、最恐の魔術師。
そう語り継がれる存在。
人々は俺の名を耳にすれば恐れを抱き、その存在に戦慄し、やがて憎悪の眼差しを向ける。
……そんな俺のことを。
目の前の少女だけは、本当に何も知らなかった。
少女は怯えることもなく、ただ不思議そうに首を傾げている。
俺のことを恐れずに見た人間なんて初めてだった。
自然と俺の口からは笑みが漏れた。
「なら、お前にとって俺は何だ?」
少女は少しだけ考えたあと、胸に抱えた干し肉へ視線を落とした。
「……何もない私に、ご飯をくださり、私を助けてくださいました」
それから、おずおずと顔を上げる。
「優しい人……です」
思わず鼻で笑う。
「お前、見る目がねぇな」
小さく息を吐く。
雨はまだ降り続いていた。
だが、不思議とさっきまでより、少しだけ静かに感じた。




