第1話 奴隷の少女
世界には、魔術師が畏れられた時代があった。
炎を操る者。
死者の声を聞く者。
未来を覗く者。
そして誰もが、その名を知らぬ者はいなかった。
――人の心と運命を支配する魔術師。
そんな魔術師と、一人の奴隷少女が出会ったのは、とある雨の日だった。
——————————————————————————
「……寒い」
唇から漏れた言葉は、湿った空気に溶けていく。
誰にも届かない。
膝を抱えても、震えが止まらない。
それは、薄い衣のせいだけではなかった。
十数人の奴隷たちが押し込められた荷馬車は、息苦しいほど狭い。
腐臭と血の匂いが入り混じっている。
白い布を被せただけでは、雨風を凌ぐこともできない。
冷たい雨が肌を刺す。
「黙れ! 騒ぐと鞭打ちだぞ!」
御者台から怒声が飛んできた。
また、どこかの女が泣き出したらしい。
涙すら贅沢品だと知ればいいのに。
揺れる車輪の軋みが、肋骨に響く。
雨は次第に勢いを増していった。
荷台の隙間から、滝のように流れ込んでくる。
地面を叩く蹄の音さえ掻き消すほどの豪雨だった。
前方から、男たちの会話が聞こえてくる。
「道がぬかるんでる」
「明日まで進めるかどうか……」
――どうでもいい。
彼らの計画より重要なのは、今夜、屋根のある場所で眠れるかどうか。
ただ、それだけだった。
ふと。
後方から、不吉な唸り声が聞こえた。
獣の呼吸?
いや、違う。
もっと深く、湿った音だった。
荷台の隅にうずくまっていた老婆が、突然顔を上げる。
「魔物だ……」
呟いた直後だった。
荷馬車の外で、何かが木々を薙ぎ倒す音がした。
次の瞬間――
馬車が激しく揺らぐ。
叫び声とともに木片が飛び散り、荷台の壁が外側から破られた。
そこから、赤い目が浮かび上がる。
歪んだ口元から、鋭い牙が覗いていた。
一匹の巨大な魔物が、こちらを覗き込んでいる。
「おら、さっさと振り切れ!!」
「無理です! これ以上はスピードが出ません!!」
馬が悲鳴のような嘶きを上げる。
車輪が泥を跳ね上げる。
それでも、横を走る赤い瞳は離れない。
荷台の中も、たちまち阿鼻叫喚となった。
誰もが悲鳴を上げる。
耳が劈きそうだった。
魔物が、再び攻撃を仕掛けてくる。
衝撃で馬車が大きく傾いた。
そして――横転する。
その拍子に、御者と奴隷たちは外へ投げ出された。
御者たちが戦闘態勢を取ろうと、剣を抜く。
だが、遅かった。
最初の一撃で、首が宙を舞う。
血しぶきが舞う。
悲鳴が弾ける。
奴隷たちは四方へ逃げようとした。
だが、魔物はそのすべてに反応する。
巨大な体躯が突進する。
爪が振り抜かれる。
人の体が二つに分かれ、粉雪のように吹き飛んだ。
私は逃げることもできず、ただ地面に突っ伏していた。
足腰に力が入らない。
立とうとしても、身体が言うことを聞かなかった。
視線の先で、魔物だけがゆっくりと近づいてくる。
私には、死を受け入れることしかできない。
――ここで、終わるのか。
冷たい土に額をつけながら思う。
誰の目にも留まらず、踏みつけられ、最後は魔物の餌食になる。
それが、私の運命?
悔しさが、初めて胸の底から湧き上がった。
けれど、それと同時に妙な静けさもあった。
ああ。
これで終わりなら、それでいいじゃないか。
牙が迫る。
鋭い爪が空気を裂く。
そして――
「……え?」
突然、魔物の動きが止まった。
静寂が訪れる。
赤い瞳は虚空を見つめたまま、微動だにしない。
まるで、時間が止まったかのようだった。
「にしても、酷い有様だなぁ」
すると、一人の男性の声が聞こえてきた。
若々しい。
けれど、どこか冷たく澄んだ声だった。
魔物の四足の隙間から、人影がこちらへ近づいてくる。
まだ二十歳にも満たないであろう白髪の青年。
青年は魔物の巨体の脇に立つと、まるで市場で欠陥商品を検分するかのように淡々と言った。
「こんな街道沿いで魔物に襲われるとは。こいつらも運がねぇなぁ」
魔物の赤い瞳が青年を捉えている。
だが、襲う様子はない。
「今回は見逃してやるから、どっか行きな」
そう言った瞬間――
魔物の硬直が解けた。
「グルルルルッ!」
咆哮が雨音を切り裂く。
怒り狂った巨体が自由を取り戻し、隣に立つ青年へと襲いかかった。
「はぁ。人様の優しさを無碍にするなんて、いただけねぇなぁ」
青年は、ひらりと攻撃を躱す。
「そんなお前は、自分で喉でも裂いて死ね」
次の瞬間。
魔物が、自らの鋭い爪を喉元へ振り抜いた。
血しぶきが吹き出す。
そして、重量のある音を響かせながら、巨体が地面へ倒れ込んだ。
私は、目の前の光景が信じられなかった。
先ほどまで青年を襲おうとしていた魔物が、その言葉通りの行動を取り、自ら死んだのだから。
「まあまあの見応えだったじゃねぇか」
青年は魔物を見下ろす。
「さてと。お前の死体と、テメェらの金品は俺が利用してやるよ」
青年は何事もなかったかのように首を鳴らした。
「解体せよ」
そう呟いた瞬間。
魔物の巨体が、一瞬で牙、爪、骨、毛皮、魔石へと分かれていく。
青年は価値のある素材だけを革袋へ放り込んだ。
そして今度は、死人たちの荷物を物色し始める。
「お、いいじゃねぇか、これ!」
青年が荷物を漁る。
「あっ、こっちの奴は高く売れそうじゃねぇか!」
「た……す……け……て……」
私は、声を絞り出した。
「なんだ? お前、生きていたのか?」
「た……す……け……て……」
「それは、助けろって意味での『助けて』なのか?」
「は……い……」
私は、地面に額を擦りつけるようにして頷いた。
「別に助ける義理はねぇんだけどな」
そう言いながら、青年は空を見上げる。
「……今日は気分が悪くねぇ」
そして、淡々と告げた。
「だから、助けてやる」
私が何かを言うより早く、青年は呟いた。
「治れ」
その瞬間。
熱が全身を駆け巡った。
さっきまで弱りきっていた身体に、力が戻っていく。
それまで立つことすらできなかった足に、力が入った。
私は、その場で立ち上がることができた。
「勘違いするなよ」
青年は興味なさそうに、再び金品を漁り始める。
「今日のお前は、たまたま運が良かっただけだ」
「俺はここから離れる。じゃあな」
金品を漁り終えると、青年はそそくさとその場を離れようとした。
彼の背中が、少しずつ小さくなっていく。
私は周囲を見渡した。
湿り気を含んだ血生臭い臭気が、辺りに漂っている。
魔物の死体。
無残に倒れた御者や奴隷たちの死体。
そして、散乱した馬車の残骸。
そのすべてを、雨音だけが包んでいた。
青年の背中は、泥濘を踏みながら遠ざかっていく。
私は、その背中と周囲に転がる死体を交互に見つめた。
……戻る場所なんてない。
奴隷商は全員死んだ。
商品だった奴隷も、もう誰一人として息をしていない。
ここに残れば、次の魔物が来るだけだ。
かといって、一人で生きていけるほど私は強くない。
あの人が怖い。
魔物を殺した力も。
人の死体を漁る姿も。
何もかも、普通ではない。
それでも――
あの地獄の中で、私に手を差し伸べたのは彼だけだった。
震える足を、一歩踏み出す。
もう一歩。
泥に足を取られながら、それでも必死に縋るように。
私は、青年の背中を追いかけた――。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、派手な展開が次々と起こるタイプの物語ではありません。
主人公と少女が出会い、少しずつ関係を築きながら、この世界での日々を過ごしていく物語です。
もちろん、この先にはファンタジーらしい出来事も待っています。
けれど、それだけではなく、二人がどんな毎日を過ごしていくのかも、ゆっくり描いていくつもりです。
気長に付き合っていただければ嬉しいです。




