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支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
第一章 『名前のない日々』

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第30.5話 名前のある日々

 二人の名前が決まってから、数週間が経った。


 以前と変わらない日々が続いている。


 朝になれば目を覚まし、食事をする。


 俺は依頼を受け、アマネは家で過ごす。


 夕方になれば、俺は依頼から戻る。


 一見すれば、何も変わっていない。


 けれど、少しずつ変化も生まれていた。


——————————————————————————


 ある日の朝。


 俺は依頼組合へ向かった。


 受付へ行き、持っていた書類を差し出す。


「これを頼む」


「はい。お預かりしますね」


 受付の女が書類を受け取る。


 それは、冒険者カードの申請書類だった。


 受付の女は書類へ目を通していく。


 しばらくして、その手が止まった。


「……あ」


「どうした?」


「いえ」


 受付の女が、書類へ視線を落としたまま言う。


「カナタさん、っていうんですね」


「ああ」


 今まで提出していた書類には、名前を書いていなかった。


 だから、この女が俺の名前を知るのは初めてなのだろう。


 受付の女は少しだけ笑った。


 けれど、そのときふと思った。


 ――そういえば。


 俺は、こいつの名前を知らない。


 依頼組合には何度も来ている。


 依頼を受けるときも。


 報告するときも。


 何度もこの女と顔を合わせてきた。


 それでも、名前を聞いたことはなかった。


 最初の頃は、アマネが俺についてくるかどうかも分からなかった。


 俺自身も、この町に長く滞在するつもりはなかった。


 だから、ここで働く人とこれからも関わっていくとは考えていなかった。


 受付の女。


 それだけで十分だった。


 けれど、今は違う。


 アマネはこの町で暮らしている。


 俺もしばらくは、ここで生活することになる。


 依頼組合にも、これから何度も来るだろう。


「……そういえば、名前を聞いてなかったな」


「私の、ですか?」


「ああ」


 受付の女が少し目を丸くする。


 それから、柔らかく笑った。


「そういえば、私も名乗っていませんでしたね」


 女はそう言って、自分の名前を告げた。


「ノティです」


「ノティ……」


「はい」


 俺は、その名前を覚えた。


 これからも、この場所には来る。


 なら、知っておいてもいいだろう。


「分かった」


「これからもよろしくお願いしますね、カナタさん」


「ああ」


 俺は書類の控えを受け取り、受付を離れた。


 今までと、何も変わらない。


 ただ、今まで知らなかった名前を、一つ知った。


——————————————————————————


 その日は、ラフィアが来ない日だった。


 俺はいつものように、依頼へ行く準備をしていた。


 (今日は帰りに、雑貨屋にでも行くか)


 そんなことを考えていた。


「……あの」


 アマネが声をかけてくる。


「どうした?」


「今日はラフィアさんが来ないんですよね?」


「ああ」


「それなら……」


 アマネが少し考える。


「私が、石鹸や歯木を買ってきてもいいですか?そろそろ無くなりそうなので……」


 アマネも、日用品が残りわずかなことに気づいたようだ。


 俺はアマネを見る。


「一人で行くのか?」


「はい」


 アマネは頷いた。


「もう、お金の使い方も分かりますから」


「……そうか」


 確かに、買い物に必要なことは一通り教わっている。


 文字も読める。


 数字も分かる。


 金額を確認して、支払うこともできる。


 なら、問題はないだろう。


「分かった」


 俺は収納袋から必要な分の銅貨と家の鍵を取り出し、アマネへ渡した。


「これで買ってこい」


「はい」


 アマネは銅貨と鍵を受け取り、ポケットへ入れる。


 俺たちは一緒に家を出た。


「じゃあ、俺は依頼に行ってくる」


「はい。行ってらっしゃい」


 俺は先に歩き出す。


 後ろで、扉の閉まる音がした。


 ——夕方。


 依頼を終え、家へ戻る。


「俺だ、鍵を開けてくれ」


 扉の向こうから、足音が聞こえてくる。


 しばらくして、鍵の外れる音がした。


 扉が開く。


「おかえりなさい」


「ああ」


 中へ入る。


 アマネはそのまま机へ戻っていく。


 机の端には、石鹸と十本の歯木、歯磨き粉が置かれていた。


 どれも安価な物だ。


「ちゃんと買えたな」


「はい」


 アマネが頷く。


「教えてもらった通りに、お金を出しました」


「そうか」


 必要な分の銅貨を渡して、それで買う。


 それだけのことだ。


 けれど、少し前までのアマネにはできなかったことだった。


 また一つ。


 できることが増えたようだった。


——————————————————————————


 アマネは、これまで教わってきたことを繰り返していた。


 朝になれば自分で身支度を整える。


 家の中を掃除する。


 洗濯物を洗い、畳む。


 井戸から水を汲み、荷車を使って家まで運ぶ。


 勉強以外にも、生活に必要なことを少しずつ覚えていった。


 最初は教えてもらいながらだったことも、今では一人でできるようになっている。


 ある日、ラフィアが家へやってきた。


「こんにちはー!」


「こんにちは」


 アマネがラフィアを迎える。


「アマネちゃん。今日は、頼んでいたものが届きましたよ!」


 ラフィアが鞄から小さな包みを取り出す。


「……?」


「前に預かっていたメダルです」


 アマネが包みを開く。


 中には、メダルを使って作られた髪留めが入っていた。


 ラフィアが笑う。


「……私の」


「はい!」


 アマネは髪留めを両手で持ったまま、しばらく見つめていた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 俺は二人のやり取りを眺めていた。


「いくらだった?」


 俺が尋ねる。


「銅貨三十枚です」


「そうか」


 俺は収納袋から銅貨を三十枚取り出し、ラフィアへ渡す。


「ありがとうございます」


「ああ」


 ラフィアが銅貨を受け取る。


「つけてみますか?」


「はい」


 ラフィアがアマネの髪を軽くまとめる。


 腰まで伸びた髪の一部を後ろへ集め、髪留めで留める。


 ラフィアは鞄から小さな手鏡を取り出した。


「これを見てください」


 アマネが鏡を覗き込む。


「……」


 後ろでまとめられた髪と、そこに留められたメダルを見る。


「どうですか?」


「……嬉しいです」


 アマネが小さく笑った。


「よかったですね」


 ラフィアも笑う。


「でも、髪をまとめるなら、ちゃんと梳かしてからの方がいいですよ」


「梳かす……?」


「はい」


 ラフィアが古びた櫛を取り出す。


「これ、私が昔使っていたものです。よかったら使ってください」


「いいんですか?」


「もちろん」


 アマネが櫛を受け取る。


「こうやって使うんですよ」


 ラフィアが自分の髪に櫛を通してみせる。


 それから、アマネの手に櫛を戻す。


 アマネは鏡を見ながら、ゆっくりと髪を梳かしていく。


「そうです。そのくらいで大丈夫ですよ」


 何度か繰り返すうちに、髪が少しずつ整っていく。


 最後に、アマネが自分で髪留めをつけた。


「……できました」


「ええ」


 ラフィアが頷く。


「もう、一人でもできそうですね」


 アマネは鏡の中の自分を見つめていた。


 しばらくして、ラフィアが口を開く。


「……そういえば」


「?」


「文字も読めるようになりましたし、数字も分かります」


 ラフィアが続ける。


「お金の使い方も覚えました。生活に必要なことも、もう一人でできるようになっています」


 アマネがラフィアを見る。


「だから――」


 ラフィアが少しだけ笑った。


「私が教えることも、ここで一区切りですね」


「……一区切り」


「はい」


 アマネはその言葉を繰り返す。


 少しだけ寂しそうだった。


「でも、分からないことがあったら、いつでも聞いてくださいね」


 アマネは小さく頷いた。


 けれど、その表情には少しだけ寂しさが残っている。


 ラフィアはそんなアマネを見て、柔らかく笑った。


「これからも遊びに来ますから」


「……はい」


 アマネが頷く。


 家庭教師として教えることは、これで一区切りになる。


 文字も。


 数字も。


 お金の使い方も。


 生活に必要なことも。


 最初は何も知らなかったアマネが、今では一人でできるようになった。


 もう、ラフィアに教えてもらわなければ何もできないわけではない。


 それでも、ラフィアとの関わりがなくなるわけではなかった。


 これからも、この町で顔を合わせることになるだろう。


 ただ、家庭教師と生徒という関係は、今日で終わる。


 こうして、ラフィアとの家庭教師としての日々は終わった。


——————————————————————————


 それから、夕食を食堂で食べるようになった。


 アマネの食べる量が増えたからだ。


 ある日の夕食。


 いつものように食事を終えたところで、アマネが口を開いた。


「……カナタさん」


「どうした?」


「少し、足りません」


「そうか」


 それがきっかけだった。


 それから何度も、いつもの食堂へ通った。


 食事をする場所が変わっただけだ。


 店内で食べるようになったことで、店の人と顔を合わせる機会も増えた。


 最初は注文をするだけだった。


 それが、料理の話をするようになった。


「ガルドさん、今日の店主の気まぐれ挟みパンは、何ですか?」


「今日はウサギ型の魔物だ。安く仕入れられたんでな」


「……楽しみです」


 アマネが小さく笑う。


「そうか。じゃあ、たっぷり食ってくれ」


 ガルドも笑った。


「アマネちゃんがいっぱい食べてくれりゃ、うちも儲かる。遠慮せず、いっぱい食べてくれよ」


「はい」


「食えるときに食っとくもんだ。いっぱい食べて、大きくなれ」


 そんなやり取りを重ねるうちに、アマネはガルドとも自然に話すようになった。


 ガルドの方から声をかけてくることも増えた。


 いつの間にか、ただ食事をするだけの場所ではなくなっていた。


 食事を終えると、代金を払い、店を出る。


 それが、二人の新しい夕食の形になった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


名前が決まった後も、こうして二人の毎日は続いてます。


第一章はアマネを中心にした出来になっていると思います。


これからもよろしくお願いします。


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