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支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
第一章 『名前のない日々』

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第30話 雨と天

 花祭りの翌日。


 朝から雨が降っていた。


 昨日まで街を彩っていた花飾りは、雨に濡れている。


 通りを行き交う人の姿も、いつもより少ない。


 花祭りの賑わいが嘘だったかのように、街は静かだった。


 俺は窓の外を見る。


 雨粒が屋根を叩いている。


 特に何かをするわけでもなく、雨を見ている。


 ここへ来てから、これほどまとまった雨を見るのは初めてかもしれない。


 花祭りが終わった。


 その事実を、雨が改めて知らせているようだった。


「雨ですね」


 少女が窓の外を見る。


「ああ」


「昨日は、あんなに晴れていたのに」


「そうだな」


 少女はしばらく雨を眺めていた。


 俺も窓から目を離す。


 雨の日に外へ出るなら、傘が必要になる。


 だが、この家には傘がない。


 ここで暮らし始めて、雨の日に外へ出る必要がなかったからだ。


 これからもこの街で生活していくなら、傘くらいは用意しておいたほうがいいかもしれない。


 そんなことを考えていると、扉が叩かれた。


「はい」


 少女が立ち上がる。


「俺が出る」


 扉へ向かい、鍵を外す。


 扉を開ける。


「おはようございます!」


 そこにラフィアが立っていた。


 髪や肩が少し濡れている。


 服にも雨粒が残っていた。


「ああ」


「おはようございます」


 少女も挨拶をする。


「……雨、降ってますね」


「見れば分かる」


「ですよね……」


 ラフィアが苦笑する。


「傘は?」


「……忘れちゃいました」


「雨が降るとは思わなかったのか?」


「家を出たときは、まだ降ってなかったんですよ」


 人差し指同士を軽く合わせ、視線が泳いでいる。


「……帰りはどうするつもりだったんだ?」


「……本当にどうしましょう?」


「知らん」


「……まぁ、後で考えます」


 ラフィアは困ったように笑った。


 相変わらず、少し抜けている。


「とりあえず入れ」

 

 ラフィアが中へ入る。


 濡れた服から雨の匂いがする。


 俺は収納棚からタオルを取り出した。


「これを使え」


「ありがとうございます!」


 ラフィアはタオルを受け取る。


 髪を拭き、肩や袖についた水滴を拭っていく。


「服も乾かしたほうがいいだろう」


「そうですね。でも、どうしましょう?」


 俺は竈を見る。


「火を入れる」


「あ……」


「このままでは寒いだろ」


「助かります」


 俺は竈へ向かい、火を起こす。


 薪を入れ、火をつける。


 しばらくすると、竈の中で火が燃え始めた。


「これなら少し暖かくなりそうですね」


「服を椅子に掛けておけ。火の近くに置いておけば乾くだろう」


 俺は空いている椅子を示す。


「分かりました」


 ラフィアは上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。


 竈の火が、その近くで静かに揺れている。


 ラフィアは少女を見る。


 少女は椅子に座り、今日の勉強を待っている。


 俺はその横を通り、寝台へ向かった。


 寝台の脇には、冒険者カードの申請書類が置いてある。


 俺はそれを手に取り、横になる。


 以前に見たときは、ほとんど何も書かれていなかった。


 名前。


 年齢。


 種族。


 その他にも、いくつかの記入欄がある。


 あれから少しずつ、それらを埋めていった。


 年齢は、今の見た目から二十歳ほどと適当に記入した。


 種族も、自分に当てはまるものを書いた。


 その他の必要な項目にも、分かる範囲で記入してある。


 年齢など、その程度でいい。


 実際の年齢を正確に書く必要もない。


 けれど――。


 名前だけは、空白のままだった。


 適当な名前を書けば、それで済む話なのかもしれない。


 それでも、なぜか書く気にはなれなかった。


 俺はしばらく、その空白を眺める。


 そして、書類を手元へ置いた。


 その間に、ラフィアは少女の隣へ立った。


「では、今日も勉強を――」


 そう言いかけて、ラフィアが窓の外を見る。


 雨はまだ降り続いている。


「……今日は、少し違うことをしてみませんか?」


「違うことですか?」


「はい」


 ラフィアが少女のノートを見る。


「前に、好きなものについて考えましたよね?」


「はい」


「花祭りも終わりましたし、もう一度、今の好きなものを整理してみましょう」


「今の……好きなもの?」


「ええ」


 ラフィアがノートを開く。


「あのときは、好きなものが何なのかを考えるだけでしたよね」


「でも、今回は少し違います」


 ラフィアが窓の外を見る。


「昨日だけでも、たくさんのものを見ました。花を見たり、料理を食べたり、お祭りを見たり……」


 少女は黙って聞いている。


「そういう一日を過ごしたあとに、自分が何を好きだと思ったのかを考えてみるんです」


「どうしてですか?」


「自分のことを知るためですよ」


 ラフィアが少女を見る。


「新しいことを知るのも大切です。でも、自分が何を好きなのかを考える時間も大切なんです」


「自分が何を好きなのか。何が苦手なのか。何をしたいと思うのか」


 ラフィアは一度、言葉を切った。


「そういうことを少しずつ知っていくと、自分で何かを選ぶときに役に立ちます」


「これから先、自分で決めなければならないことは、きっとたくさんありますから」


 少女はノートへ目を落とす。


「自分のことを知っていれば、そのときに自分がどうしたいのかを考えやすくなります」


 ラフィアがノートを指差す。


「今なら、自分で書けますよね」


「……書く」


「ええ。自分が好きだと思うものを、自分で書いてみましょう」


 少女はノートを開いた。


 まだ何も書かれていないページ。


 そこへ鉛筆を置く。


「何を書けばいいですか?」


「まずは、思いつくものからでいいですよ」


 少女はしばらく考える。


 そして、鉛筆を動かした。


 紙の上に、ゆっくりと文字が並んでいく。


 食べること。


 甘いもの。


 クレープ。


 挟みパン。


 炭酸。


 花。


 マーガレット。


 花祭り。


 楽しいこと。


 少女は書いた文字を見返す。


「……ラフィアさん、出来ました」


「食べ物が多いですね」


 ラフィアがノートを覗き込む。


「食べることに、甘いもの。それからクレープに挟みパン……」


 少しだけ笑う。


「それだけ、食べることが好きなんでしょうね」


 ラフィアは軽く少女の頭を撫でる。


 少女は自分の書いた文字を見る。


「……好きです」


「食べることが好きなんですね」


「はい」


 少女は、自分の言葉で言い切った。


 ラフィアが頷く。


「昨日の炭酸も入っていますね」


「シュワシュワしていて、好きです」


「確かに、あれは面白い飲み物でした」


 少女はノートを見る。


「花も入っています」


「前は、『嫌いではない』と言っていましたね」


「……前は、よく分かりませんでした」


「でも、今は?」


「好きです」


 少女ははっきりと言った。


「花が好きです」


 ラフィアが微笑む。


「マーガレットも好きなんですね」


「はい。花の中でも私はマーガレットが好きです」


 少女の視線が、ノートの文字へ移る。


 昨日、自分で選んだ花。


 空になった瓶に挿した白い花。


 思い出すだけで、少しだけ嬉しくなる。


「花祭りも入っていますね」


「昨日、楽しかったです」


「それに……楽しいこと」


 ラフィアがその文字を見る。


「これも好きなものなんですね」


「……楽しいことが好きです」


 少女は少し考えてから答えた。


 ラフィアは頷く。


「それも大切なことですよ」


 少女はもう一度、ノートを見る。


 食べること、甘いもの、クレープ、挟みパン、炭酸。


 花、マーガレット、花祭り、楽しいこと。


 昨日までに経験したことが、いくつも文字になって並んでいる。


「こうして見ると、前よりもたくさんありますね」


「今は、少し分かります」


「それで十分です」


 ラフィアは少女のノートを閉じず、そのままにしておく。


「好きなものは、これからも増えていくと思います」


「今日好きだったものが、明日はもっと好きになるかもしれません。逆に、前は好きだったけれど、今はそうでもないと思うこともあるかもしれません」


「そんなときは、また今の自分が好きだと思うものを考えればいいんです」


「……今の自分」


「はい」


 ラフィアが少しだけ笑った。


「それに、これだけ好きなものが分かってきたなら、そろそろ考えてみてもいいかもしれませんね」


「何をですか?」


「名前です」


 少女の手が止まった。


「……名前」


「前に、自分で決めてもいいと言いましたよね」


 少女は自分のノートを見る。


 そこには、今の自分が好きだと思うものが並んでいる。


「好きなものから、名前を考えてみるのもいいと思います」


「好きなものから……」


「ええ」


 ラフィアが鉛筆を持ち上げる。


「名前になりそうなものを、まずはたくさん出してみましょう。綺麗な言葉でも、好きなものから連想した言葉でも構いません」


「たくさん書いて、その中から自分がこれだと思うものを選べばいいんです」


「……自分で」


「はい。あなたの名前ですから」


 ラフィアは少女に鉛筆を渡す。


「連想ってなんですか?」


「あるものから、別のものを思い浮かべることです」


 ラフィアは少女のノートを指差す。


「例えば……甘いもの、と聞いたら何を思い浮かべますか?」


「……クレープ」


「いいですね。では、クレープからは?」


 少女は初めて食べた日のことを思い出す。


「蜂蜜……、ジャム……?」


「そこから、さらに何か思いつきますか?」


「綺麗……。蜂蜜も、ジャムも……きらきらしていました」


「そうです。こんなふうに、思いついたものから次々と考えていくんです」


「少し楽しいです」


「では、今言ったものをノートに書きましょうか」


「はい」


 少女は鉛筆を握る。


 甘いもの→クレープ→蜂蜜、ジャム→綺麗。


「こうやって、どんどん増やしていきましょう。思いついたことは、どんなことでも大丈夫です」


 そこから綺麗なものを思い浮かべる。


 思いついた言葉を、ノートへ書いていく。


 ラフィアに聞きながら、少女自身も考える。


 そうしているうちに、少しずつ時間が過ぎていった。


——————————————————————————


 しばらくして、少女は鉛筆を置いた。


 ノートには、最初よりもずっと多くの言葉が並んでいた。


 食べること→料理→食堂→お店→人→種族。


 甘いもの→お菓子→砂糖→ザラザラ→石→石畳→街。


 クレープ→蜂蜜→ジャム→綺麗→宝石→光→星→夜→月。


 挟みパン→パン→小麦→畑→大地。


 炭酸→シュワシュワ→泡→水→透明→雫→雨→天。


 花→マーガレット→白→雪→冷たい→冬→暖かい→スープ。


 花祭り→祭り→賑やか。


 楽しいこと→笑う→嬉しい→幸せ。


「いっぱい書けました」


「では、この中から名前に使えそうなものを探してみましょうか」


 少女はノートを眺める。


 星。


 月。


 大地。


 雫。


 雨。


 空。


 白。


 雪。


 いくつかの言葉を指でなぞっていく。


「名前になりそうなのは、こんな感じでしょうか」


 ラフィアが別の紙へ書き写していく。


 いくつもの言葉が並んだ。


少女は、その中から一つずつ言葉を見ていった。


 指が、一つの言葉の上で止まった。


 雨。


 少女は、その文字をしばらく見つめていた。


 そして、窓の外を見る。


 雨が降っている。


 屋根を叩く、細かな音。


 一定ではない。


 強くなったり、弱くなったりしながら、静かな部屋の中へ響いている。


 少女は、しばらくその音を聞いていた。


 不思議と、その音を聞いていると落ち着く。


「……雨」


 少女が、小さく呟く。


「雨が好き、ということですか?」


 少女は少し考える。


「……分かりません」


 雨が好きなのかどうかは、自分でもよく分からない。

 

 けれど――。


「でも……雨は、私にとって特別です」


「特別?」


「はい」


 少女は窓の外を見る。


 雨は、今も降り続いている。


「雨の日に、あの人と会いました」


 その言葉を口にした瞬間、少女の中に、あの日の光景が浮かんだ。


 雨の中で出会った、あの人。


 あの日も、雨が降っていた。


 何も知らなかった。

 

 何も選べなかった。


 ただ、言われるままに生きていた。


 そんな自分の前に、あの人が現れた。


 あの日から、少しずつ何かが変わっていった。


 食べることを知った。

 

 街を知った。

 

 自分で物を選ぶことを知った。

 

 文字を知った。

 

 好きなものを知った。


 そして今は、自分の名前を自分で決めようとしている。


「……だから」


 少女は、ノートの「雨」という文字へ目を戻す。


「雨から、名前を考えたいです」


「分かりました」


ラフィアが頷く。


「では、雨をもとに考えてみましょうか。雨から連想する言葉や、雨を意味する言葉。音を少し変えたものも考えてみましょう」


「お願いします」


 ラフィアが紙の余ったスペースに鉛筆を走らせる。


 レイン。


 レイラ。


 ミレイ。


 アメリア。


 アマネ。


 ルビア。


 リュビア――。


「こんな感じで、いくつか考えてみました」


 少女は並んだ名前を眺める。


 どれも、ラフィアさんが自分のために考えた名前だった。


 その中から、自分が呼ばれたいと思うものを選ぶ。


 今度は、それを自分で決める。


 少女は、紙の上に並ぶ名前を一つずつ指でなぞっていく。


 その指が、一つの名前の上で止まった。


「アマネ、ですか?」


「はい」


「どうしてアマネがいいと思ったんですか?」


 少女は少し考える。


「……雨を思い出すからです」


「雨を?」


「はい」


 少女は、その名前をもう一度見る。


「アマネ」


 その響きを、耳で聞く。


 雨という言葉ではない。


 けれど、その音を聞くと、あの日のことを思い出す。


 雨粒の音。

 

 濡れた地面。


 そして、雨の中で出会ったあの人。


 あの日を境に、自分の世界は変わった。


 だから――。


「この名前がいいです」


 少女は、はっきりと言った。


「雨が好きだから、ではないんです」


 ラフィアが静かに少女を見る。


「雨は、私にとって特別だから……」


「……そういうことですか」


 ラフィアは少しだけ笑った。


「それなら、きっと大切な名前になりますね」


 ラフィアは紙の上に、その名前をもう一度書いた。


「今日から、あなたはアマネちゃんですね」


「……アマネ」


 自分の口から、その名前を呟いてみる。


 不思議な感じがした。


 今まで自分を呼ぶ名前はなかった。


 今は違う。


 自分で選んだ名前がある。


「アマネちゃん」


 ラフィアが、もう一度呼ぶ。


「……はい」


 少女――アマネは、小さく笑った。

 

「これでようやく、名前を呼んであげることができます」


 ラフィアも嬉しそうだった。


 アマネは椅子から立ち上がる。


 そして、寝台のほうへ向かった。


 そこでは、俺が冒険者カードの申請書類を眺めている。


「どうした?」


 俺が顔を上げる。


「……名前が決まりました」


「そうか」


 アマネは嬉しそうに笑う。


「私、アマネになりました」


 俺は少しだけ目を細める。


「聞いていたから分かる」


「……」


「……よかったな」


 その言葉を聞いて、アマネの表情がさらに明るくなる。


「はい」


 アマネが嬉しそうに頷く。


 その様子を見ていたラフィアが、俺へ視線を向けた。


「これからは、アマネちゃんのことを呼ぶのに、『お前』とか『こいつ』とか呼ばないでください!」


「……」


「ちゃんとアマネちゃんと呼んであげてください」


「分かった」


 ラフィアは満足そうに頷いた。


「では、次はあなたの名前ですね」


「……俺の?」


「はい」


 ラフィアが、俺の手元にある冒険者カードの申請書類を見る。


 そこには、まだ名前の欄だけが空白になっている。


「アマネちゃんの名前が決まったんですから、あなたの名前も決めてしまいましょう」


「別に、適当でいい」


「駄目です」


「……」


「せっかくですから、アマネちゃんと同じように、自分で決めたほうがいいですよ」


 ラフィアがアマネを見る。


「どう思います?」


「……私も、そのほうがいいと思います」


 アマネが小さく頷く。


「そうか」


 俺は申請書へ目を落とす。


 空白になった名前の欄。


 今まで、そこに何かを書く必要を感じなかった。


 だが――。


「……俺はなんだっていい。だから――」


「え?」


「お前が決め――」


 そこで、ラフィアの視線が鋭くなる。


 睨んでいるわけではない。


 しかし、明らかに言葉の続きを許さない目だった。


「……アマネが決めろ」


「最初からそう言ってください」


 アマネが、二人のやり取りを見ている。


 少しだけ楽しそうだった。


「本当に、私が決めてもいいんですか?」


「ああ」


 アマネは席へ戻っていく。


「では、何から考えましょうか」


 ラフィアが次のページをめくる。


「アマネちゃんの名前は、好きなものから連想して決めましたよね。だったら、依頼主さんも何かから連想してみるのがいいと思います」


 アマネは開いているページを少し見て考える。


 そして、ふと窓の外を見つめる。


「私の名前は、雨から考えました」


「そうですね」


「だったら……」


 アマネは雨の降る空を見る。


「雨は、天から降ってきます」


「天ですか?」


「はい」


 アマネは、しばらくその言葉を考える。


 雨は、天から降ってくる。


 そう思うと、なんとなくその言葉が気になった。


 アマネはノートへ鉛筆を置く。


 そして、ゆっくりと文字を書く。


 天。


「……これがいいです」


 ラフィアが、その文字を見る。


「天をもとに考えるんですね」


「はい」


 ラフィアは微笑む。


「それなら、せっかくですし、もう少し深く考えてみても面白いかもしれませんね」


「深く……?」


「ええ」


 ラフィアが新しい紙を一枚取り出す。


「空や天を表す言葉って、実は色々あるんですよ」


 紙の上に鉛筆を走らせる。


「まずは、そのまま『天』」


 天。


「それから、『空』」


 空。


「どちらも、上に広がっているものを表す言葉ですね」


 アマネは紙を見る。


「それに、天は『高い場所』という意味でも使われます」


「人のいる場所よりも、ずっと高いところですね」


「はい」


 ラフィアはそう言って、紙にいくつか言葉を書いていく。


 天。


 空。


 高いところ。


 遠いところ。


「空そのものだけじゃありません」


 ラフィアが窓の外を見る。


 雨は、まだ降っている。


「雲や光。星や月。朝や夜」


 アマネも窓の外を見る。


「空を見て、人が何を思い浮かべるかでも、言葉は変わってきます」


「……思い浮かべるもの」


「はい」


 ラフィアは頷いた。


「例えば、今のアマネちゃんが空を見て、何を思いましたか?」


 アマネは、もう一度窓の外を見る。


 灰色の雲。


 その向こうにある空。


 雨。


 そして、そのさらに向こうにあるもの。


「……遠いところ」


「はい」


 アマネは、なんとなくそう思った。


 空はどこまでも続いている。


 手を伸ばしても届かない。


 どこまで行けば、その先へ辿り着けるのかも分からない。


「ずっと向こうにある場所……」


 アマネが呟く。


 ラフィアが、その言葉を紙に書いた。


 彼方。


「『彼方』という言葉があります」


「彼方……」


「ずっと向こう側。遠く離れた場所という意味です」


 アマネは、その文字をじっと見つめる。


「……空の彼方」


「ええ」


 ラフィアが微笑む。


「空の向こうにある、まだ見えない場所。そういうものを思い浮かべる言葉ですね」


 アマネはもう一度、窓の外を見る。


 今は雨雲しか見えない。


 その向こうには空がある。


 さらにその向こうには、きっと星や月がある。


 そして、その先にはまだ知らない何かがあるのかもしれない。


「……彼方」


 アマネが、もう一度その言葉を口にする。


 不思議と、その響きが気になった。


「気になりますか?」


「はい」


 アマネは頷く。


「なんとなく……好きです」


「そうですか」


 ラフィアは嬉しそうに笑った。


「では、名前にしてみてもいいかもしれませんね」


 アマネは紙の上の文字を見る。


 彼方。


 ずっと向こう。まだ見えない場所。


 それは、今のあの人にも少し似ている気がした。


 支配の魔術師と恐れられたことは色んな人から聞いた。


 でも、私は知らない。


 何を考えているのか。


 何を望んでいるのか。


 知っているのは、ほんの一部だけ。


 それなら――。


 これから知っていけばいい。


「……彼方」


 アマネは、その名前をもう一度口にした。


「これがいいです」


 ラフィアが少しだけ目を丸くする。


「もう決めるんですか?」


「はい」


 アマネは頷いた。


「彼方がいいです」


 ラフィアはしばらくアマネを見つめる。


 それから、優しく微笑んだ。


「分かりました」


 紙へ鉛筆を走らせる。


 彼方。


 その隣に、読み方を書き添える。


 カナタ。


「今日から、カナタさんですね」


「……」


 俺は何も答えなかった。


 ラフィアがこちらを見ている。


 アマネもこちらを見ている。


 けれど、俺は申請書に目を落としたままだった。


「……カナタさん?」


「……」


 まだ、何も答えない。


「カナタさん」


「……ああ」


 ようやく顔を上げる。


 ラフィアが、少しだけ笑った。


「聞こえていたんですね」


「……俺のことだとは思わなかった」


「今まで名前がありませんでしたからね」


「そういうことだ」


 俺は手元の申請書を見る。


 名前の欄。


 今まで空白だった場所。


 そこへ、今日から書く名前がある。


「カナタ……」


 小さく呟く。


 まだ、自分の名前だという実感はない。


「では、決まりですね」


 アマネが嬉しそうに笑う。


「カナタさん」


「ああ」


 窓の外では、まだ雨が降っている。


 雨は天から降ってくる。


 その向こうには、空がある。


 そのさらに向こうには、まだ見えない場所がある。


 空の彼方。


 俺は手元の申請書類へ目を落とす。


 空白だった名前の欄に、鉛筆を置いた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


二人の名前が決まったのは作者としても感慨深いものになりました。


毎日を積み重ねたからこその意味が、強い作りになっていたら嬉しいです。

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