第27話:花祭り④
三人は花園区へ向かって歩いていた。
花祭りの中心部から離れるにつれて、通りの様子が少しずつ変わっていく。
店の数が減り、代わりに広い敷地を持つ建物が増えてきた。
道を行き交う荷車にも変化がある。
木箱ではなく、花を傷めないように組まれた籠が積まれていた。
「花を運んでいるんですね」
少女が荷車を目で追う。
「そうですね」
ラフィアが頷く。
「花園区で育てられた花は、フローレの店だけでなく、他の街にも運ばれているんですよ」
「他の街にも?」
「ええ。フローレの花は有名ですから」
「……」
少女は荷車を見つめている。
その先に何があるのか。
少しずつ想像しているのだろう。
さらに歩く。
花の香りが少しずつ濃くなっていった。
建物の間から、緑が見えるようになる。
最初は小さかった。
だが、進むにつれて、その範囲が広がっていく。
やがて建物が途切れた。
「……」
少女が足を止める。
目の前に広がっていたのは、これまで見たことのない景色だった。
広い敷地の中に、いくつもの花の区画が並んでいる。
バラ。
チューリップ。
パンジー。
ラベンダー。
カーネーション。
見たことのある花もあれば、名前を知らない花もある。
同じ種類でも、色や形の違うものがいくつもあった。
遠くまで続く区画の間には道が通り、ところどころに人が集まっている。
「……すごい」
少女が小さく呟く。
「ここが花園区です」
ラフィアが笑う。
「こんなに……」
少女は辺りを見回す。
視界に入るだけでも、数えきれないほどの花がある。
今まで街で見てきた花とは、数が違った。
一つの花を見るのではない。
花に囲まれている。
「こんなにたくさんのお花があるんですね」
「ええ」
ラフィアが頷く。
「季節によって咲く花も変わりますから、時期を変えるとまた違った景色が見られますよ」
「……また?」
少女がラフィアを見る。
「はい。また来ればいいんです」
ラフィアは明るく笑った。
「花は季節ごとに変わりますからね。何度来ても楽しめますよ!」
「……」
少女はもう一度、花畑を見る。
その目は、なかなか離れなかった。
俺も辺りを見回す。
花を見るためにここへ来たことなど、今まで一度もない。
花を眺めて楽しむ。
そういう感覚自体が、俺にはあまりなかった。
だが、これだけ広いと、さすがに目には入る。
「……なるほどな」
「何か思いました?」
ラフィアが俺を見る。
「いや」
俺は首を横に振る。
「思ったより広いだけだ」
「ふふっ」
ラフィアが笑う。
「それだけですか?」
「それだけだ」
少女はそんな俺たちの会話を聞きながら、まだ花を見ていた。
「さて!」
ラフィアが少女の方を見る。
「ここから、花園区を見て回りましょうか」
「はい」
「花祭りの間は、いくつか体験できる催しも開かれているんですよ」
「体験……?」
「花の植え方を体験したり、花の育て方を教えてもらったりする催しです」
ラフィアが楽しそうに説明する。
「せっかく花園区まで来たんですから、何か一つくらい体験してみるのもいいと思いますよ!」
「花の植え方……」
少女が花壇へ目を向ける。
「やってみたいです」
「では、行ってみましょう!」
ラフィアが嬉しそうに歩き出す。
二人でその後を追った。
花園区の中には、花の種類ごとに分けられた区画がいくつもあった。
それぞれの区画の前には、花の名前や簡単な説明が書かれた立て札がある。
少女はそのたびに足を止め、立て札に書かれた花の名前を目で追っていた。
ラフィアから教わった文字を、一つずつ確かめるように読んでいる。
少し進んだところで、いくつかの花壇が見えてきた。
そこには、これまで見てきた整然とした区画とは違い、様々な花が入り混じって咲いている。
バラの隣にパンジーが咲き、その向こうにはチューリップが顔を覗かせている。
花の前には、それぞれ小さな木の札が立てられていた。
札には、人の名前や小さな絵が描かれている。
「……あれは?」
少女が札の一つを指差す。
「花を植えた人が、自分の花だと分かるようにしているんですよ」
ラフィアが答える。
「名前や印を残しているんです」
「名前……」
少女は、いくつかの札を見比べる。
名前が書かれたもの。
簡単な絵が描かれたもの。
中には、何かの模様だけが描かれているものもあった。
「いろいろあるんですね」
「ええ」
ラフィアが頷く。
そのとき、花壇の向こうから一人の男性が歩いてきた。
作業着には土が付いている。
手には小さなスコップを持ち、腰には剪定ばさみを下げている。
「こんにちは」
園芸師が俺たちに気づき、声をかけてくる。
「こんにちは」
ラフィアが明るく挨拶を返す。
少女も少し遅れて頭を下げた。
「こんにちは……」
「今日は花祭りを楽しんでいますか?」
「はい」
少女が頷く。
「それはよかった」
園芸師は笑いながら、花壇へ目を向ける。
「ここは体験用の花壇なんです」
園芸師が花壇を指差す。
「花祭りの間だけ、ここで皆さんに花を植えてもらっているんですよ」
「私もできますか?」
「もちろんです」
園芸師が頷く。
「ただ、何人かまとめて行うので、決まった時間に始めることになっています」
「決まった時間……」
「ええ」
園芸師は花壇の近くに設置された時計へ目を向ける。
「次は、二時からです」
時計を確認する。
「もう少しですね」
周囲を見る。
俺たち以外にも、何人かの人が花壇の近くに集まっていた。
子供を連れた人間の家族。
花壇を眺めながら話をしているエルフの男女。
近くの花を指差しながら、何かを話しているドワーフの親子。
花壇の周りをゆっくり歩いている獣人族。
少し離れた場所では、竜人族の男性が一人で花を眺めている。
それぞれが思い思いに時間を過ごしながら、開始を待っているようだった。
「よかったら、参加していきますか?」
園芸師が少女に尋ねる。
「……はい!」
少女が頷く。
「やってみたいです」
「それでは、もう少しだけ待っていてください」
園芸師はそう言うと、近くにいた別の参加者へ声をかけに歩いていった。
少女は花壇を見つめている。
色とりどりの花。
その前に立てられた、小さな木の札。
少女は、その札を一つずつ眺めていた。
自分で植えた花にも、あんな札を立てるのだろう。
そんなことを考えているのか、少女の表情には、どこか楽しそうなものが浮かんでいる。
やがて、先ほどの園芸師が戻ってくる。
「お待たせしました」
「はい」
少女が顔を上げる。
「では、そろそろ始めさせていただきます。こちらの方へ集まってください」
園芸師の声に合わせて、参加者たちが花壇の前へ集まっていく。
少女もその中へ入った。
俺とラフィアは、少し離れた場所からその様子を眺める。
「では、まず植える花を選んでいただきます」
園芸師が、花壇の横に置かれた台を指差す。
そこには、小さな紙袋がいくつも並べられていた。
袋には、それぞれ花の名前が書かれている。
「コスモス、マリーゴールド、アネモネ、スイートピー……。他にもいくつかありますので、好きなものを一つ選んでください」
参加者たちが一斉に台へ向かう。
少女もゆっくりと歩いていった。
紙袋を一つずつ眺めている。
「どれにするんでしょうね」
ラフィアが少女を見ながら呟く。
「さあな」
少女はまだ決めていない。
袋に書かれた名前を、一つずつ読んでいる。
以前なら、知らない文字を見ても何が書いてあるのか分からなかっただろう。
今は違う。
時間をかければ、自分で読める。
「……コスモス」
少女が一つの袋を手に取った。
しばらく眺めたあと、もう一度ほかの袋を見る。
少女はいくつもの袋を、ゆっくりと見比べていった。
やがて、その手が一つの袋の前で止まる。
「……」
白い花の絵が描かれている。
「マーガレット」
小さく呟いた。
少女は袋を見つめたまま、しばらく動かなかった。
それから、周りに並んでいる袋をもう一度見回す。
だが、手にした袋を戻すことはなかった。
「これにします」
少女が顔を上げる。
園芸師が少女の手元を見る。
「マーガレットですね」
「はい」
少女は頷いた。
その声に迷いはなかった。
園芸師が笑う。
「分かりました。では、その種を使いましょう」
少女は紙袋を大事そうに両手で持ったまま、花壇へ戻っていく。
その姿を見ながら、ラフィアが小さく笑った。
「マーガレットを選びましたね」
ラフィアが少女の背中を見ながら言う。
「やっぱり、好きなんですかね」
「……」
俺は少女を見る。
その手には、先ほど選んだマーガレットの種がある。
収納袋の中には、花祭りの露店で少女が選んだマーガレットも入っている。
それを思い出した。
少女が好きだと思った。
だから、また選んだ。
それだけのことだ。
「そうなんだろうな」
俺はそう答えた。
「ふふっ」
ラフィアが小さく笑う。
「では、次に植える場所を選んでください」
園芸師が説明を続ける。
「この花壇の中なら、どこでも構いません。ただし、ほかの種と近くなりすぎないようにしてください」
少女は花壇を見る。
空いている場所を探す。
そして、少し端の方へ歩いていった。
しゃがみ込み、土に触れる。
「まずは指で少しだけ穴を作ります」
園芸師が実演する。
「深く掘りすぎないようにしてくださいね」
少女も同じように土を掘る。
指先についた土を気にする様子もない。
小さな穴ができる。
「そこへ種を入れて、土をかぶせます」
少女は紙袋から種を一粒取り出した。
小さな種だった。
それを穴へ入れる。
そして、両手の指先でそっと土をかぶせた。
俺はその様子を黙って見ている。
小さな種が土の中へ消える。
今は、それだけだ。
けれど、いつかここから芽が出る。
少女が今日植えたものが、花になる。
「次は水やりですね」
園芸師が小さなじょうろを渡す。
「土が湿るくらいで大丈夫です」
「はい」
少女はじょうろを受け取る。
両手で持ち、ゆっくりと傾けた。
細い水が土へ落ちていく。
少女は水が染み込んでいく様子をじっと見つめていた。
「これで終わりですか?」
「もう一つあります」
園芸師が木札を渡す。
「この札に、自分の名前や印を書いてください。どこに植えたのか分かるようにしておくんです」
「名前……」
少女が木札を見る。
少しだけ考えるように、自分の指先を見た。
文字なら、もう書ける。
ラフィアに教えてもらってから、何度も練習した。
まだ綺麗とは言えない。
それでも、自分で文字を書くことはできる。
少女は木札を見つめる。
名前を書くように言われた。
けれど、少女にはまだ自分の名前がない。
だからといって、困った様子はなかった。
少女は筆記具を受け取る。
そして、木札に文字を書き始めた。
一文字。
また一文字。
途中で手を止めることもない。
誰かに確認することもない。
ただ、自分の書きたい文字を書いている。
少し離れた場所から、その様子をラフィアと二人で見ていた。
「……ちゃんと書けていますね」
「ああ」
「最初の頃は、文字を書くことそのものが大変でしたから」
ラフィアは嬉しそうに目を細める。
「それが今では、自分で花の名前まで書いているんですから。教えた私としても、嬉しいですね!」
「そうだな」
「今は、こうして自分で書いています」
ラフィアは少し嬉しそうに少女を見ていた。
俺も少女を見る。
やがて、少女が筆記具を置いた。
木札には、少し歪んだ文字が並んでいる。
――マーガレット。
少女は、自分で書いた文字をしばらく眺めていた。
園芸師が近づく。
「できましたか?」
「はい」
少女が木札を渡す。
「上手に書けていますね」
園芸師はそう言って、種を植えた場所へ木札を立てた。
土の上に、小さな木札が立つ。
その下には、まだ何も見えない。
けれど、少女はその場所をじっと見つめていた。
「これで、今日の体験は終わりです」
園芸師が参加者たちへ声をかける。
「植えた花は、こちらで世話をします。水やりや成長の管理も園芸師が行いますので、安心してください」
周囲から、参加者たちの声が上がる。
子供たちは自分の植えた場所を何度も振り返っている。
大人たちはそんな子供たちを見ながら笑っていた。
「皆さん、お疲れさまでした」
園芸師が花壇を見回す。
「よかったら、あちらの水道で汚れた手を洗ってください」
園芸師が水道の方を指差す。
「少し休憩をしましたら、次は花の育て方についての説明も行います。興味のある方は、あちらの講習用の区画までお越しください」
「それから、この先にもまだたくさんの花があります。よろしければ、ゆっくり見て回ってください」
何人かが手を洗いに行った。
少女も、その人たちに混じって水道へ向かう。
今は、何も言われることなく自分から手を洗っている。
水を出す。
両手を濡らす。
指の間についた土を、丁寧に落としていく。
最後に水を止め、ポケットから自分の手ぬぐいで手を拭く。
そして、少女は俺たちのところへ戻ってきた。
戻ってくると、こちらを見る。
ラフィアと目が合った。
「次の講習会、どうしますか?」
「……今回は、いいです」
少女が少し考えてから答える。
「まだ見ていないお花を見たいです」
「分かりました」
ラフィアが笑う。
「では、この先を見て回りましょうか!」
「はい」
少女が頷く。
俺たちは、花園区の奥へ向かって歩き始める。
少女は歩きながら、何度も周囲の花へ目を向けていた。
「……」
そんな少女を見ながら、ラフィアが口を開く。
「そういえば」
「何だ?」
「私がこの子に勉強を教えるようになって、もう一ヶ月半くらいになりますね」
「そうだったな」
俺は少女を見る。
最初にラフィアへ家庭教師を依頼してから、もうそれだけの時間が経っている。
最初の依頼期間が終わったあとも、引き続き教えてもらうことにした。
依頼組合で次の期間の手続きを済ませ、それからも少女の勉強は続いている。
「文字も読めるようになりました。簡単な文章なら、自分で書けます」
「ああ」
「数字も百くらいまでは問題ありません。時計や日付も、少しずつ分かるようになっています」
ラフィアが指を折るように、これまで教えてきたことを数えていく。
「お店の利用方法や、街での基本的な決まりごとも覚えてきました」
「残っているのは?」
「細かいところですね」
ラフィアが少し考える。
「人との接し方だったり、買い物をするときの細かなやり取りだったり。あとは、実際の生活の中で覚えていくものが多いと思います」
「つまり、もう教室で教えることは少ないわけか」
「そういうことです」
ラフィアが笑う。
「もちろん、まだ知らないことはたくさんあります。でも、それはこれから生活していく中で、少しずつ覚えていけばいいと思います」
「そうだな」
少女は二人の会話には気づかず、前を歩いている。
「家庭教師として教えることも、そろそろ一区切りつけてもいい頃だと思っています」
「……分かった」
「ただ」
ラフィアが続ける。
「これで何も教えなくなるわけではありませんよ」
「そうなのか?」
「はい!」
ラフィアが明るく笑う。
「分からないことがあれば、いつでも聞いてもらえばいいですし。私が知っていることなら、いくらでも教えます」
「そうだな」
俺は少女を見る。
少し前まで、文字を一つ読むだけでも時間がかかっていた。
今では、花の名前が書かれた袋を自分で選び、自分で読んでいる。
さっきは、自分で木札に文字まで書いた。
「……随分と変わったな」
「そうですね!」
ラフィアが少女を見ながら、嬉しそうに笑う。
「最初の頃と比べたら、本当に変わりましたよ。こうして自分でできることが増えていくのを見るのは、やっぱり嬉しいですね」
少女は何も知らなかった。
文字も。
数字も。
時計も。
街での暮らし方も。
今は、その一つ一つを自分で覚えている。
まだ知らないことは多い。
それでも、もう何も知らない少女ではない。
「この先も、少しずつ覚えていけばいいでしょう」
「ああ」
三人は花園区の奥へ進んでいく。
先ほどまで見えていた花の区画が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
代わりに、区画と区画の間を通る道が広くなってきた。
人が歩くだけではない。
大きな荷車が通れるように、道幅が取られている。
道の脇には、花を運ぶための籠や木箱が並べられていた。
すぐ近くでは、園芸師たちが花を選別している。
傷んだ花を取り除き、状態の良いものだけを籠へ移しているようだった。
少し離れた場所では、別の園芸師が荷車へ花を積み込んでいる。
「……ここでは、こういうこともしているんですね」
少女が辺りを見回す。
「ええ」
ラフィアが頷く。
「育てるだけではありませんからね。街へ運ぶまでが、園芸師の仕事なんです」
「そうなんですね」
少女は荷車を眺める。
さっきまで見ていた花が、こうして運ばれていく。
花を見るだけでは分からなかったことが、少しずつ見えてきたのだろう。
さらに進む。
今度は、大きな建物が目に入ってきた。
木造の倉庫。
花を扱うための作業場。
そして、その隣には何人もの園芸師が出入りしている建物がある。
建物の外には、道具を置く場所も設けられていた。
手入れの行き届いた庭。
整理された荷物。
作業をするための広い場所。
花を育てるための区画だけではない。
花園区そのものが、一つの大きな施設として作られているようだった。
「大きいですね」
少女が建物を見上げる。
「フローレでは、園芸師の仕事も大切ですからね」
ラフィアが答える。
「花を育てる人がいなければ、この街の花もなくなってしまいますから」
「……」
少女は建物を見る。
花を育てる。
花を選ぶ。
花を運ぶ。
それぞれに、それを仕事にしている人がいる。
そんなことを考えているのかもしれない。
「ここって、園芸師さんのお仕事をする場所なんですか?」
「そうですよ」
ラフィアが頷く。
「事務作業をする場所もありますし、道具を保管する倉庫もあります。花を一時的に置いておく場所もあります」
「いろいろあるんですね」
「ええ!」
ラフィアが少し得意そうに胸を張る。
「フローレの園芸師は、かなり大切にされていますから」
「そうなのか?」
俺が尋ねる。
「もちろんです!」
ラフィアが即答する。
「この街の花を支えている人たちですから。仕事場だって、きちんと整えられていますよ」
ラフィアは建物を見ながら続ける。
「花が好きな人なら、一度はここで働いてみたいと思うくらいには、人気のある職場です」
「へえ……」
少女が建物を見る。
その目に、少しだけ興味が浮かんでいた。
俺も周囲を見回す。
確かに、建物はしっかりしている。
必要なものだけを置いた簡素な施設というわけではない。
花を扱うための作業場も広く、道具を保管する場所も整っている。
街の役所と比べても、そう見劣りしない。
花の街。
その言葉だけでは分からなかったものが、少しずつ見えてきた。
フローレは、ただ花が多いだけの街ではない。
花を育てるために、人がいて。
花を守るために、設備があって。
花を届けるために、仕事がある。
その積み重ねによって、この街が成り立っている。
「……」
少女が足を止めた。
俺たちも立ち止まる。
少女の視線の先に、これまでとは少し違う建物があった。
大きい。
だが、倉庫とは明らかに違う。
壁も屋根も、白く淡い。
光を通しているようにも見える。
「……あれは?」
少女が尋ねる。
「温室ですね」
ラフィアが答える。
「温室……」
「はい」
ラフィアが頷く。
「外の環境から花を守るための建物です。この先には、普通の花とは少し違った花が育てられているんですよ」
「普通とは違う……?」
「ええ」
ラフィアが温室を見る。
「とても繊細な花だったり、外で育てるのが難しい花だったりですね」
少女は温室へ近づいていく。
白く淡い壁の向こうには、いくつもの植物の影が見えていた。
けれど、まだ中の様子までは分からない。
「ここに、何があるんですか?」
少女がラフィアを見る。
「それは――」
ラフィアが少しだけ笑う。
「実際に見てみた方が早いですね!」
そう言って、温室の入口へ歩き出す。
「行きましょう」
「はい」
少女が後を追う。
俺も二人に続く。
温室の入口を抜ける。
外の風が遮られた。
静かだった。
中には、花の香りが薄く漂っている。
白く淡い壁を通した光が、内部を柔らかく照らしていた。
温室の中には、様々な花が並んでいた。
色鮮やかなベゴニア。
大きな花を咲かせたカトレア。
白いファレノプシス。
その隣には、赤い花をつけたアンスリウムもある。
それぞれの花は区画ごとに分けられ、園芸師たちによって丁寧に管理されていた。
その中を、見学に来た人たちが静かに歩いていた。
誰もが花を眺めながら進んでいる。
少女も同様に、ゆっくりと歩いていく。
「……いろんなお花がありますね」
「ええ」
ラフィアが頷く。
「ここでは、温度を一定に保ち、お花が育ちやすい環境を整えているんですよ」
「そうなんですね」
少女は近くの花へ目を向ける。
「……綺麗」
小さく呟いた。
その言葉に、ラフィアが嬉しそうに笑う。
「そうでしょう?」
まるで自分のことのように、少し得意げだった。
花びらの形も、色も、先ほどまで見てきた花とは少し違っていた。
それでも、どの花も大切に育てられていることだけは分かる。
花の種類ごとに区画が分けられ、その周囲には管理のための道が整えられている。
園芸師が行き来しながら、花の状態を確認していた。
少女はそんな様子も珍しそうに眺めている。
俺も周囲を見る。
温室というだけあって、外の花園区とは雰囲気が違う。
少女はまた歩き出す。
様々な花を眺めながら、温室の奥へ進んでいく。
だが――
その中でも、さらに奥。
一つの区画だけ、人の集まり方が少し違っていた。
そこだけは、厳重に整えられ、他とは違う造りになっている。
低い柵。
立入禁止を示す札。
「……」
俺は、その場所を見た瞬間に足を止めた。
――昔。
この街が、まだ今ほど大きくなかった頃。
どこかで聞いたことがある。
珍しい花が生まれた。
ずっと咲き続ける花を作った園芸師がいる。
そんな噂だった。
名前までは、覚えていなかった。
花に興味がなかった俺には、それ以上知る理由もなかった。
そこにあったのは、透き通るような花びらを持った花だった。




