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支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
第一章 『名前のない日々』

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第19話 学ぶということ

 あれから、どれくらい経ったのだろう。


「これは――」


 ラフィアさんが、その文字の読み方を教えてくれる。


 私は何度も繰り返して覚える。


 文字を読む。


 書いてみる。


 間違える。


 もう一度、教えてもらう。


 そんなことを繰り返している。


「そうです。今のは合っていますよ」


「……本当ですか?」


「はい!」


 ラフィアさんが嬉しそうに頷く。


「ちゃんと覚えられていますよ」


「……ありがとうございます」


 褒められると、少しだけ嬉しい。


 私はもう一度、教えてもらった文字を書く。


 まだ綺麗には書けない。


 けれど、最初に見たときよりは、その形が少しだけ分かるようになっていた。


 そうして勉強を続けていると――。


 ふわり、と。


 どこからか、いい匂いがしてきた。


「……?」


 私は顔を上げる。


 部屋の中に、料理の匂いが入り込んできている。


 肉を焼いたような匂い。


 それから、何かを煮込んでいるような匂いもする。


 ラフィアさんも気づいたらしい。


「いい匂いですね」


「……はい」


 思わず、もう一度匂いを吸い込む。


 朝に食べたのは、硬いパンと干し肉、干し果物だった。


 それでも十分だった。


 けれど――。


 こうして料理の匂いを嗅いでいると、少しだけお腹が空いてくる。


「もうお昼ですか」


「お昼……?」


 勉強を始めてから、そんなに時間が経っていたらしい。


「はい。集中していたので、あっという間でしたね」


 ラフィアさんが笑う。


「お昼ご飯にしましょうか」


「……はい」


 私は頷く。


 昼食。


 そういえば――。


 彼がラフィアさんに渡した銅貨がある。


『これで二人分の飯を食べろ』と言っていた。


 私は机の上に置かれた本を見る。


 まだ覚えた文字は少ない。


 それでも。


 今日は、初めて自分から勉強をした。


 そんな小さな実感があった。


 二人で玄関へ向かう。


 扉を開け、外へ出る。


 ラフィアさんが扉を閉める。


 そのまま歩き出して――。


「あっ……このままだと、鍵を掛けられませんね」


 ラフィアさんが足を止めた。


「どうしましたか?」


 ラフィアさんは閉じた扉を見る。


 そして、取っ手の下にある鍵穴へ目を向ける。


「……でも、鍵は預かっていませんね」


「鍵……」


 その言葉には、聞き覚えがあった。


 御者が扉を閉めたあと、何かを取り出していた。


 小さな金属が触れ合う音。


 カチャカチャという音。


 彼もここに来たときに、同じことをしていた。


 けれど、それが何のためだったのかは知らない。


 ラフィアさんは小さく息を吐く。


「今回は仕方ないですね」


 そう言って、少し困ったように笑った。


 再び歩き出す。


 私もその後ろを追う。


「並んで歩きましょ?」


 ラフィアさんが振り返って、そう言った。


「……はい」


 私はラフィアさんの隣に並ぶ。


 しばらく歩いてから、気になって尋ねた。


「……ラフィアさん」


「はい?」


「鍵を掛けないと、何かいけないことがあるんですか?」


 ラフィアさんが私を見る。


「誰もいない家に、知らない人が入ってしまうかもしれないんです」


「……知らない人が?」


「はい」


 私は少し考える。


 誰もいない家に、知らない人が入る。


 それが、どうしていけないのか。


 まだ、よく分からなかった。


「……そうなんですね」


「はい」


 ラフィアさんは頷く。


「今度からは、鍵を預かっておきましょうか」


「鍵を……」


「ええ。家を出るときに、ちゃんと閉められるようにです」


「……分かりました」


 私は小さく頷いた。


 二人で石畳の道を歩いていく。


 昼時ということもあり、通りには人が増えていた。


 私は周囲を見回しながら、ラフィアさんの隣を歩く。


 しばらくすると、前から歩いてきた女性がラフィアさんに気づいた。


「あら、ラフィアちゃん」


「あ、こんにちは!」


 ラフィアさんが笑顔で挨拶を返す。


「今日は仕事かい?」


「はい! 今から食べに行くところです」


「そう。しっかり食べて、午後も頑張りなさいね」


「ありがとうございます!」


 女性は私にも目を向ける。


「あら、また新しい生徒さんかい?」


「はい!」


「そう。頑張ってね」


「……はい」


 私は小さく頭を下げる。


 女性は笑って、そのまま歩いていった。


 私たちも再び歩き出す。


 少し進んだところで、今度は店先にいた男性がラフィアさんへ声を掛けた。


「お、ラフィアじゃないか」


「こんにちは!」


 ラフィアさんが笑顔で挨拶する。


「この間の事務作業、おかげで店の収支がわかりやすくなって助かったよ」


「いいってことですよ。また困ったら相談してください!」


「頼りにしてるよ」


 男性はそう言って、店の中へ戻っていった。


 さらに歩いていく。


 通りの向こうから歩いてきた人がラフィアさんに手を振る。


 ラフィアさんも手を振り返す。


 別の店では、店員が声を掛けてくる。


 ラフィアさんは、そのたびに笑顔で挨拶を返していた。


 私は隣で、その様子を見ていた。


 何人もの人が、ラフィアさんに声を掛けている。


 それが、少し不思議だった。


「……ラフィアさん」


「はい?」


「よく声を掛けられますね」


「そうですね」


 ラフィアさんは少しだけ笑った。


「この辺りで長く暮らしていますから」


「……そうなんですね」


 また少し歩く。


 ラフィアさんが何かを思い出したように、私を見る。


「そういえば、今日はお金についても少し覚えましょうか」


「お金……?」


「はい」


 ラフィアさんが鞄の中から銅貨を取り出す。


 手のひらに乗せられた銅貨を、私は見つめる。


「今日のお昼ご飯に使うお金です」


「……お昼ご飯に?」


「ええ」


 ラフィアさんは銅貨を手のひらの上で見せる。


「全部で十五枚あります」


「……十五枚」


 私は銅貨を見る。


 ラフィアさんは、私の反応をじっと見ている。


「お金は、物を買うときに使います」


「物を……買う?」


「そうです。例えば、今日のお昼ご飯も、この銅貨を使って食べます」


「……これで?」


「はい」


 ラフィアさんが銅貨を一枚、指先で持ち上げる。


「ただし、何でも一枚で買えるわけではありません」


「……?」


「食べ物によって、必要な銅貨の数が違います」


 ラフィアさんが銅貨を数枚、並べる。


「まずは、数えてみましょうか」


「……はい」


 私は銅貨を見る。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 指を使いながら数えていく。


「……四枚」


 そこで止まる。


 ラフィアさんが優しく笑った。


「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいですからね」


「……はい」


 私はもう一度、銅貨を見る。


 けれど、ラフィアさんはそれ以上続けなかった。


「今日は実際に使いながら覚えてみましょう」


「……分かりました」


 ラフィアさんは銅貨を鞄へ戻す。


「お昼ご飯を食べるときに、値段を一緒に見てみましょうね」


「……はい」


 私は頷く。


 文字を覚える。


 数を覚える。


 お金の使い方を覚える。


 まだ知らないことばかりだ。


 けれど――。


 今日は、実際に使いながら覚えられるらしい。


 しばらく歩く。


 やがて、ラフィアさんが私を見る。


「ところで」


「はい?」


「お昼ご飯、何か食べたいものはありますか?」


「……?」


「好きなものとか」


「好きなもの……?」


 私は考える。


 好きなもの。


 そう聞かれても、何も思いつかなかった。


「……分かりません」


「そうですか」


 ラフィアさんは少し考える。


「では、食べられないものはありますか?」


「食べられないもの……」


 また考える。


 食べられないもの。


 それも、よく分からない。


「……分かりません」


「そうですか……」


 ラフィアさんは私の顔を見る。


「では、今まで食べてきたもので、嫌だったものは?」


「……ありません」


「本当に?」


「はい」


 私は頷く。


「食べられるものなら、食べます」


 ラフィアさんが黙る。


 何か考えているようだった。


 けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。


「そうですか」


「はい」


「それなら、今日は私のおすすめのお店にしましょう」


「おすすめ……」


「ええ。この辺りなら、私がよく行くお店があります」


 ラフィアさんが前を向く。


「料理も美味しいですし、店員さんも親切ですよ」


「……はい」


 私は頷く。


 それから少し歩くと、見覚えのある通りに入った。


 ラフィアさんは迷う様子もなく歩いていく。


 右へ曲がる。


 少し進む。


 また角を曲がる。


 やがて――。


「着きました」


 ラフィアさんが足を止めた。


 目の前には、一軒の店があった。


 大きな店ではない。


 木造の建物で、入口の横には小さな看板が掛かっている。


「ここが、私のおすすめのお店です」


 私は店を見上げる。


 扉の向こうから、温かな空気と一緒に、料理の匂いが流れてきた。


 醤油のような、少し香ばしい匂い。


 それに混じって、煮込んだ肉と野菜の匂いがする。


 湯気に乗ったその香りに、私は思わず小さく息を吸い込んだ。


「……いい匂いですね」


「でしょう?」


 ラフィアさんが嬉しそうに笑った。


「入りましょうか」


「……はい」


 私は頷いた。


 ラフィアさんが扉を開ける。


 中へ入ると、料理の匂いがより強くなった。


「いらっしゃい!」


 店の奥から、元気な声が飛んでくる。


「おや、ラフィアじゃないか」


「こんにちは!」


 ラフィアさんが笑顔で返す。


「今日は生徒さんと一緒かい?」


「はい。お昼ご飯を食べに来ました」


「そうかい。好きな席へどうぞ」


 ラフィアさんに促され、私は店内を見回す。


 木製の机と椅子。


 壁には、料理の名前と値段が書かれた板が掛けられている。


 私は文字を読むことができない。


 けれど――。


 さっきラフィアさんに教えてもらったばかりの文字が、いくつか目に入った。


「……」


 私はじっと板を見る。


「気になりますか?」


 ラフィアさんが尋ねる。


「……はい」


「では、座ったら一緒に見てみましょう」


「……分かりました」


 二人で空いている席に座る。


 ラフィアさんが壁の板を指差した。


「ここのお店の基本の料理は、煮込み麺です」


「煮込み麺……」


「はい」


「おいしいですか?」


「もちろんです」


 ラフィアさんは嬉しそうに頷く。


「小麦の麺と鶏肉、それから野菜を一緒に煮込んでいます」


「鶏肉……野菜……」


「それに、少しだけ野菜の漬物を付けることもできますよ」


 ラフィアさんが板を指す。


「基本の煮込み麺が銅貨三枚」


「三枚……」


「そして、野菜の漬物を付けると銅貨一枚追加です」


「……四枚」


「はい」


 ラフィアさんは頷く。


「今日は、漬物を付けた基本の煮込み麺にしましょうか」


「……はい」


 ラフィアさんが指を四本立てる。


「これは四つですね」


「……」


 私はその指を見る。


 そして、自分の手を見る。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


 指なら、分かる。


「……四つ」


「そうです」


 ラフィアさんが嬉しそうに頷く。


「では、この四つが銅貨四枚です」


 ラフィアさんが机の上に銅貨を並べる。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 四枚。


「こうやって、実際に並べてみると分かりやすいですよ」


「……はい」


 私は銅貨を見る。


「……数えられます」


「はい」


 ラフィアさんが微笑む。


「ちゃんと数えられていますよ」


 ラフィアさんは銅貨を鞄へ戻した。


「では、今日は実際に使ってみましょうか」


「……私が?」


「はい」


 私は少しだけ目を見開いた。


 自分で、お金を使う。


 それは、今までしたことのないことだった。


「一緒にやってみましょう」


「……はい」


 私は小さく頷いた。


 ラフィアさんが手を上げる。


「すみません。煮込み麺を二つ。どちらも漬物付きでお願いします」


「あいよ」


 店員は短く答えると、奥へ戻っていった。


 私はその背中を見送る。


 注文は終わった。


 あとは、料理が出てくるのを待つだけだ。


 ラフィアさんが私を見る。


「さて。料理を待っている間に、もう少しだけお金の勉強をしましょうか」


「……はい」


 ラフィアさんが銅貨を机の上に並べる。


「一人分は銅貨四枚でしたね」


「……四枚」


「では問題です」


 ラフィアさんが銅貨を四枚、指差す。


「二人分だと、銅貨は何枚必要でしょう?」


「……二人分」


 私は銅貨を見る。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 四枚。


 そこから、もう一度。


 五枚。


 六枚。


 七枚。


 八枚。


「……八枚」


「正解です!」


 ラフィアさんが嬉しそうに笑う。


「ちゃんと数えられましたね」


「……はい」


 少しだけ嬉しくなる。


「では、もう一つ」


「……はい」


 ラフィアさんが、銅貨を十五枚並べる。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 四枚。


 五枚。


 六枚。


 七枚。


 八枚。


 九枚。


 十枚。


 十一枚。


 十二枚。


 十三枚。


 十四枚。


 十五枚。


「今日は、銅貨が十五枚あります」


「……はい」


 私は並べられた銅貨を見る。


 ラフィアさんは、その中から八枚を少し横へずらした。


「この八枚を、お昼ご飯に使います」


 残った銅貨を見る。


「では、残りは何枚でしょう?」


「……」


 私は銅貨を見る。


 さっきと同じように、一枚ずつ数えていく。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 四枚。


 五枚。


 六枚。


 七枚。


「……七枚」


「はい」


 ラフィアさんが嬉しそうに頷く。


「七枚ですね」


「……はい」


 私は残った銅貨を見る。


 目の前にあるものを、一つずつ数える。


 それなら、私にもできる。


「なるほど……」


 ラフィアさんが小さく呟いた。


「数字をまだ読めなくても、数えることはできるんですね」


「……数える?」


「はい」


 ラフィアさんが銅貨を指差す。


「一枚、二枚、三枚……と、一つずつ数えることです」


「……はい」


「指を使って数えるのも、ちゃんとした数え方ですよ」


 私は自分の手を見る。


 一本。


 二本。


 三本。


 指なら、分かる。


 それなら――。


 これからも、数えられるかもしれない。


「お待ちどうさん」


 そのとき、店員が声を掛けた。


 目の前に、器が置かれる。


 湯気が立っていた。


 小麦の麺。


 柔らかく煮込まれた鶏肉。


 いくつかの野菜。


 それから、小皿に盛られた野菜の漬物。


「……」


 私は料理を見つめる。


 温かな湯気と一緒に、醤油のような香ばしい匂いが立ち上っている。


 さっきよりも、ずっと強い。


「美味しそうでしょう?」


「……はい」


 私は小さく頷く。


 ラフィアさんが、器の横に置かれていた二本の細い棒を手に取る。


 それを慣れた手つきで持ち上げた。


「……?」


 私はラフィアさんの手元を見る。


 見たことのない使い方だった。


「これは……?」


「箸ですよ」


「箸……」


「はい。こうやって食べ物を挟んで使うんです」


 ラフィアさんが箸を動かす。


 器の中から麺を少しだけ挟み、持ち上げた。


「こうです」


 そのまま口元へ運ぶ。


「ずずっ」


 麺を吸い込んだ。


「……?」


 私は目を丸くする。


「こうやって、麺を吸って食べるんですよ」


「吸う……」


「はい。少しずつで大丈夫です」


 ラフィアさんは箸を置き、匙を私の前へ置いた。


「箸は難しいと思うので、まずは匙で食べましょう」


「……これなら、分かります」


「よかったです」


 私は匙を手に取る。


 けれど、麺を見て手が止まった。


「……麺は、匙では食べにくそうです」


「そうですね」


 ラフィアさんが少し考える。


「では、麺だけ私がお手伝いしましょうか?」


「……はい」


 ラフィアさんが箸で麺を少し持ち上げる。


「こうやって、少しずつ口に入れれば大丈夫ですよ」


「……はい」


 私はラフィアさんの動きを真似する。


 口を近づける。


 そして――。


「……ずっ」


 麺が口の中へ入った。


「……!」


 つるりとした感触が、口の中を通っていく。

 

 思わず、目を見開いた。


「どうですか?」


「……美味しいです」


 思わず、そう答えていた。


 ラフィアさんが嬉しそうに笑う。


「よかったです」


 私はもう一度、器の中を見る。


 知らない料理。


 知らない食べ方。


 知らないことばかりだ。


 それでも。


 今日は、ひとつ知ることができた。


 そんなことが、少しだけ嬉しかった。

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