第18話 初めての先生
目を覚ますと、隣では少女が規則正しい寝息を立てて眠っている。
俺は身体を起こす。
寝台が小さく軋んだ。
少女の瞼がゆっくりと動き、目を開ける。
「……」
まだ眠そうな目で、こちらを見る。
「起こしたか」
「……いえ」
少女は小さく首を振る。
だが、もう眠るつもりはないらしい。
ゆっくりと身体を起こした。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
俺は洗濯物をまとめ、いつもどおり衣服を洗う。
ただ、今日は一人分多い。
洗い終えたものを物干し竿へ掛ける。
続いて食器を持って家へ戻る。
少女は箒を手にして、床を掃いていた。
昨日の夕食でこぼれたパン屑を集めている。
俺は何も言わず、皿を机の中央に置く。
借りている木椀と木匙は飾り棚へ戻す。
少女が掃除を終えるのを待って、朝食の準備を始めた。
収納袋から硬めのパン、干し肉、干し果物を取り出す。
「終わったら手を洗って、席につけ」
「……はい」
二人で簡単に朝食を済ませる。
食べ終えると、俺は水袋を少女へ差し出した。
「飲むか」
「はい」
少女は水を飲み、俺へ返した。
「ありがとうございます」
「ああ」
水袋を収納袋へ戻す。
中を覗くと、残っている食料はもう多くない。
街で暮らすようになった以上、野営の時と同じように保存食を持ち歩く必要もない。
昼や夜なら、食堂で食べればいい。
朝だけ何か用意できれば、それで十分だろう。
そう考えていると、少女が口を開いた。
「……どうかしましたか?」
「いや」
俺は収納袋を閉じる。
「昼はまともなのを食わせる。今はこれで我慢しろ」
少女が顔を上げる。
「……気にしていません」
少しだけ笑った。
「食べられるだけ、ありがたいです」
「……」
俺は何も言わなかった。
食事を終え、皿を外へ持ち出す。
壺から水を汲み、軽く洗う。
水を切って置いてから、ふと壺の中を見る。
思ったより減っている。
一人で暮らしていた時とは違う。
二人で暮らすようになれば、水の減りも早くなる。
そろそろ補充が必要だ。
「依頼組合に行ってくる。お前はここで待っていろ」
「……はい」
少女が小さく頷く。
俺は立ち上がった。
ラフィアを迎えたら、ここへ戻ってくる。
その後、少女をラフィアに任せる。
俺は水を補充し、それから依頼へ向かえばいい。
俺は家を出た。
向かう先は依頼組合。
昨日のうちに契約を済ませた家庭教師、ラフィアとの待ち合わせだ。
待ち合わせ場所については、特に決めていない。
依頼組合の中にいれば、向こうも分かるだろう。
組合へ入る。
受付では、冒険者たちが依頼について話している。
俺はその横を通り抜け、受付から少し離れた壁際へ移動する。
人の出入りを邪魔しない場所だ。
壁に背を預け、そのまま待つ。
しばらくして――。
「おはようございます!」
明るい声が聞こえた。
顔を上げると、入口付近にラフィアが立っていた。
肩から大きめの鞄を提げている。
ラフィアは組合の中をきょろきょろと見回していた。
俺を探しているらしい。
右を見る。
左を見る。
受付の方にも目を向ける。
その視線が、壁際にいる俺のところで止まった。
「あっ!」
目が合う。
「いました!」
ラフィアの顔が明るくなる。
そのまま、こちらへ駆けてくる。
急ぐ必要などない。
そう思った直後だった。
「わっ――」
足がもつれる。
身体が前へ傾く。
ラフィアは何とか踏みとどまろうとするが、勢いは止まらない。
そのまま――。
べしゃっ。
盛大に顔から床へ倒れた。
「……」
俺は壁から背を離す。
「大丈夫か?」
「……だ、大丈夫です」
ラフィアが顔を上げる。
髪が乱れ、鼻の辺りを押さえているが、大きな怪我はないらしい。
ラフィアはゆっくりと身体を起こした。
「すみません……」
「走る必要はなかっただろ」
「はい……」
ラフィアは気まずそうに頷く。
俺は足元に落ちていた本を拾う。
表紙には文字が並んでいる。
教えるための本だろう。
「これ」
「ありがとうございます!」
ラフィアが受け取る。
俺がもう一冊拾うと、ラフィアも慌てて残りを拾い始めた。
「せっかく早く来たのに……」
「怪我がないなら、それでいい」
「はい!」
返事だけは元気だ。
ラフィアは散らばった本を鞄へ戻す。
最後に鞄の口をしっかり閉じた。
「それじゃあ、行きましょう!」
「ああ」
俺は壁から背を離す。
ラフィアと並んで、依頼組合を出た。
石畳の通りには、朝の街を行き交う人々の姿がある。
ラフィアは肩に掛けた鞄を押さえながら、俺の隣を歩いている。
「そういえば、あの後受付の方から聞きましたよ! あなたのこと!」
「最近、噂になっている無記名の冒険者って、あなただったんですね!」
「……そうらしいな」
「やっぱり、そうだったんですね!」
ラフィアは嬉しそうに笑う。
「昨日、依頼を受けてもらった方が、その噂の冒険者だったなんて思いませんでした!」
「……」
「それで、どうして名前を言わないのかなって」
ラフィアは少しだけ首を傾げる。
「何か理由があるんですか?」
「……まあな」
俺はそれだけ答える。
ラフィアは少し考えるように黙ったが、それ以上は聞いてこない。
「分かりました!」
「……何がだ」
「言いたくないことなら、無理に聞かない方がいいですよね!」
「そうしてくれ」
「はい!」
ラフィアは素直に頷いた。
「でも……」
少し考える。
「呼ぶ時に困りますね」
「依頼主でいい」
「依頼主さん、ですか?」
「ああ」
「うーん……」
ラフィアはしばらく考えた。
「それなら、依頼主さんでいきます!」
「好きにしろ」
「はい、依頼主さん!」
元気よく返事をする。
俺は特に何も言わず、そのまま歩く。
しばらくすると、ラフィアが隣から口を開いた。
「それで、今日からですよね?」
「ああ」
「女の子に勉強を教えるの」
「そうだ」
「文字も数字も、ほとんど知らないんですよね?」
「ああ」
ラフィアは少し考えるように前を見る。
「でしたら、まずは文字から始めた方がよさそうですね」
「任せる」
「はい。最初は難しいことを教えるより、勉強することに慣れてもらった方がいいと思います」
「そういうものか」
「はい!」
ラフィアが元気よく頷く。
「その子がどんなことに興味を持つのかも、見ながら決めていきますね」
「分かった」
「任せてください!」
ラフィアが胸を張る。
その直後、肩に掛けていた鞄がずり落ちた。
「あっ」
慌てて持ち直す。
先ほど、床に顔から倒れた姿が頭をよぎる。
「……無理に張り切る必要はないぞ」
「大丈夫です!」
「そうか」
「はい!」
元気だけはあるらしい。
俺は前を向く。
やがて、借りた家が見えてきた。
「もうすぐだ」
「はい!」
ラフィアが家を見る。
「ここが、今日から教える場所なんですね」
「ああ」
俺は扉の前で足を止める。
中には少女がいる。
俺が教えられることには限りがある。
だから、今日からはラフィアに任せる。
俺は扉を開けた。
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扉が開く。
「帰った」
聞き慣れた声が聞こえる。
私は椅子に座ったまま、顔を上げた。
あの人が入ってくる。
その後ろには、昨日見た女の人がいた。
ラフィアさん。
今日から私に勉強を教えてくれる人だと、昨日聞いている。
「こんにちは!」
ラフィアさんが明るく声を掛けてくる。
「……こんにちは」
私は小さく頭を下げる。
「昨日ぶりですね!」
「……はい」
ラフィアさんは嬉しそうに笑った。
肩から大きな鞄を下ろし、机の横へ置く。
中から何冊かの本を取り出し、机の上へ並べていく。
そのうちの一冊を開いた。
紙の上には、私には読めない文字が並んでいる。
「それじゃあ、始めましょうか」
「……はい」
ラフィアさんが向かいの椅子を隣へ移動させ、私の隣に座る。
「そういえば、お名前を聞いていませんでしたね」
「……」
「なんと呼べばいいですか?」
私は少しだけ俯く。
「……名前は、ありません」
「……えっ」
ラフィアさんが目を丸くする。
「ないんですか?」
「……はい」
驚いたように私を見る。
何かを言おうとして、口を閉じる。
けれど、すぐに優しく笑った。
「そうなんですね」
それ以上、聞かなかった。
「それなら、今は無理に決めなくても大丈夫ですよ」
「……はい」
「いつか必要になった時に、考えましょう」
私は小さく頷いた。
「では、勉強を始めましょう」
「……はい」
ラフィアさんが本へ目を戻す。
「今日は、文字から始めます」
開いた本の一ページを指差す。
「これは、この国で使われている文字です」
私は指先を見る。
紙の上には、見たことのない形が並んでいる。
「一つ一つに意味があるんですよ」
「……」
今までの私には、ただの形にしか見えなかった。
けれど、これからは違う。
この形一つ一つに、意味がある。
「まずは簡単なものから、一つずつ覚えていきましょう」
「……分かりました」
「ゆっくりで大丈夫ですからね」
「……はい」
私は本へ目を向ける。
ラフィアさんは、私がどこまで理解しているのかを確かめるように、ゆっくりと言葉を続けている。
少し離れたところで、あの人がその様子を眺めていた。
私とラフィアさん。
二人のやり取りを、何も言わずに見ている。
やがて、あの人が口を開いた。
「俺は水を汲んでくる。壺が空だ」
私は庭へ目を向ける。
三つある壺は、朝に水を使ったことで、ほとんど空になっている。
「分かりました!」
ラフィアさんが頷く。
あの人はそのまま庭へ出ていった。
私は窓から庭を見る。
あの人は空になった壺を一つ持ち上げると、共同井戸の方へ向かっていった。
その姿を、少しだけ目で追う。
「さて」
ラフィアさんが本へ視線を戻した。
「まずは、この文字を覚えてみましょう」
指先が、一つの文字を示す。
「これは、『ア』と読みます」
ラフィアさんが、文字を指差す。
「言ってみましょうか」
「……はい」
私は口にする。
「……ア」
「そうです」
ラフィアさんが頷く。
「では、次はこれを書いてみましょう」
ラフィアさんが紙を一枚、私の前へ置く。
そして、先ほどの文字をゆっくりと書いた。
「こうです」
紙の上に、さっき見たものと同じ形が現れる。
「真似してみてください」
「……はい」
私は渡された鉛筆を握る。
けれど――。
どう動かせばいいのか分からない。
「こう……ですか?」
「はい。ゆっくりで大丈夫ですよ」
私は紙へ芯を当てる。
教えてもらった形を思い出しながら、線を引いていく。
一本。
もう一本。
けれど、形は少し歪んでしまった。
「……できません」
「大丈夫です。最初から上手に書ける人はいませんよ」
ラフィアさんが笑う。
「もう一度やってみましょう」
「……はい」
私はもう一度、紙を見る。
そこには、ラフィアさんが書いた文字と、私が書いた文字が並んでいる。
同じ形のはずなのに、私のものは少し違う。
それでも――。
「……ア」
私は、その文字を見ながら呟いた。
「そうです」
ラフィアさんが嬉しそうに頷く。
「読めましたね」
私は紙を見る。
ただの形だったもの。
それが今は、音を持っている。
そして、自分の手でも書いた。
まだ綺麗には書けない。
けれど――。
初めて、知らなかったものを一つ覚えた。
私はもう一度、紙の上の文字を見つめた。
しばらくして、裏口の扉が開いた。
あの人が戻ってきた。
三つの壺を満たしてきたらしい。
「ラフィア」
「はい?」
あの人は腰から銅貨を取り出し、ラフィアさんへ渡した。
「これで二人分の昼飯を食べろ。余ったらこいつに渡しておいてくれ」
「えっ……いいんですか?」
ラフィアさんが銅貨を見る。
「ああ」
「……ありがとうございます」
ラフィアさんは銅貨を受け取り、鞄へしまった。
「俺は依頼に行く。昼は自分で済ませる」
「はい!」
あの人は裏口へ向かい、そのまま外へ出ていく。
そして、扉が静かに閉まった。
部屋に残ったのは、私とラフィアさんだけだった。
「さて」
ラフィアさんは椅子に座り直す。
その拍子に、肩にかかっていた髪が前へ落ちてきた。
ラフィアさんはそれを手で後ろへ払い、髪を一つにまとめる。
慣れた手つきだった。
「よしっ」
髪を結び終えると、ラフィアさんは満足そうに頷いた。
「これで大丈夫ですね」
そして、何事もなかったように本へ目を戻す。
「では、次へ行きましょうか」
「……はい」
私は本へ視線を戻す。
紙の上には、まだ意味の分からない文字がたくさん並んでいる。
けれど、その中に一つだけ、意味を知っている文字がある。
私はもう一度、その文字を見た。
これから、一つずつ覚えていく。
ラフィアさんの指先が、その中の一つを示した。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
いよいよ少女の知識を得るイベントが始まります!




