第17話 小さな灯り
俺は束ねた薬草を収めた籠を、飾り棚へ置く。
少女は掃除を終えると、部屋の中をゆっくり見回していた。
窓。
棚。
机。
そして、部屋の隅に据えられた竈の前で、小さく足を止める。
火を起こして料理をする場所。
役所にも竈はあった。
だが、自分のために使われる竈を見るのは初めてなのかもしれない。
興味深そうに眺めているものの、勝手に触れることはしなかった。
やがて、窓から差し込む日差しが赤みを帯び始める。
俺は手を止め、窓の外を見る。
そろそろ夕食の時間だ。
俺は飾り棚に近づき、下段に置いてあった木椀と木匙を手に取る。
木椀の側面と木匙の柄には、食堂の焼印が押されている。
いつもの店では、この椀に温かいスープを入れてもらう。
持ち帰った椀は洗って保管し、次に店へ行く時に返す決まりだ。
それを持って扉へ向かう。
「行ってくる」
少女が顔を上げる。
「……どちらへ?」
「夕飯を買ってくる」
「私も――」
「留守番だ」
言葉を遮るように答える。
「その間に体を洗っておけ」
「……体、ですか?」
「ああ」
俺は庭先へ視線を向ける。
「石鹸は外に置いてある。壺の水を使え」
少女は小さく頷く。
「服は脱いだら部屋へ置いておけ。明日の朝、まとめて洗濯する」
「……はい」
「タオルは、お前が入れた収納棚の上の段にある。それを使え」
「着替えは、今日買った服ならどれでもいい」
少女は収納棚へ目を向け、小さく頷いた。
「分かりました」
「終わったら休んでいろ」
「……はい」
扉へ手を掛けたところで、ふと思い出す。
「そうだ」
少女が首を傾げる。
「家に便所はない」
「え……?」
「共同井戸の近くに共同の厠がある」
「使いたくなったら、そこへ行け」
少女は少し驚いたように目を瞬かせる。
「……はい」
伝えることは、それだけだった。
俺は扉を開ける。
夕暮れの風が静かに吹き込んできた。
「行ってくる」
「……いってらっしゃい」
その言葉を背に受けながら、俺は家を後にした。
夕暮れの街を歩く。
昼間ほどの賑わいはない。
仕事を終えた人々が家路につき始め、通りには夕食を求める人の姿が目立っていた。
向かったのは、家の近くにある食堂だった。
借家を借りてから、何度も通っている店だ。
値段も手頃で、味も悪くない。
夕食を作る手間を考えれば、ここで買って帰る方が早かった。
店へ入ると、香ばしく焼けたパンの匂いと、温かなスープの香りが鼻をくすぐる。
店主がこちらを見て笑う。
「おう、兄ちゃん。いらっしゃい」
「ああ」
俺は持ってきた木椀と木匙を店主へ差し出す。
「いつものスープを二つ。それと椀と木匙をもう一組貸してくれ」
店主は木椀を受け取り、少しだけ目を丸くした。
「今日は椀が二ついるのか」
「ああ」
「珍しいな。今日はいつもより多いじゃねぇか」
「連れが家にいる」
「なるほどな」
店主は納得したように頷く。
「挟みパンはどうする?」
「ハム、スモークチキン、卵、フルーツヨーグルトを一つずつ」
「四つか」
「全部半分に切ってくれ」
店主は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「おう、分かった」
店主は厨房へ向かって声を張る。
「ハム、スモークチキン、卵、フルーツヨーグルトを一つずつ! 全部半分だ!」
しばらくして、紙袋へ入れられた挟みパンが運ばれてくる。
四種類の挟みパンは、それぞれ半分に切り分けられていた。
続いて、温かな野菜スープが木椀へ注がれる。
キャベツと玉ねぎ、人参を柔らかく煮込み、塩で味を調えた素朴なスープだ。
店主はもう一つの木椀にも同じように注え終える。
それぞれに木匙を添え、縄を掛けて持ち運びやすいようにしてくれた。
「ほらよ」
「ああ」
「締めて銅貨十四枚だ」
「ああ」
俺は銅貨十四枚を店主へ渡す。
片手に紙袋を抱え、もう片方の手で縄を掛けられた二つの木椀を提げる。
「貸したやつは、また今度でいいから返しに来てくれ」
「分かってる」
俺は店を後にした。
家へ戻る。
庭先には夕暮れの光が差し込んでいた。
短く刈り揃えられた草は水を含み、夕焼けを受けてきらきらと輝いている。
使われた水は庭の隅に掘られた浅い排水溝へ流れ、石鹸の泡がまだわずかに残っていた。
壺の傍らには柄杓が伏せられている。
言ったとおり、体は洗ったらしい。
俺は紙袋を脇に抱え直し、縄を掛けた木椀を揺らさないよう扉を開ける。
「帰った」
奥から足音が近づく。
間もなく、少女が姿を現した。
ちょうど着替えを終えたところだった。
今日買った服に袖を通し、まだ少しだけ湿り気を帯びた桃色の髪が、肩から背へと流れている。
「……おかえりなさい」
小さく頭を下げる。
俺は慎重に扉を閉める。
机の上へ紙袋を置き、木椀を二つ並べた。
湯気と共に、野菜の甘い香りが部屋へ広がる。
「座れ」
「……はい」
少女は素直に椅子へ腰を下ろした。
俺は飾り棚から木皿を取り出し、紙袋から挟みパンを一つずつ並べていく。
半分に切られたハム。
スモークチキン。
卵。
フルーツヨーグルト。
四種類が皿の上へ並ぶ。
少女は並べられた挟みパンを見つめ、小さく目を丸くした。
「……こんなに」
「半分ずつだ。全部味が違う」
続けて木椀を机へ置き、木匙を添える。
「食べるぞ」
「……はい」
少女は両手で木椀を包み込む。
「温かい……」
そのまま木匙でスープを一口飲んだ。
「……おいしいです」
昼に食べた煮込みとは違う。
素朴な味付けだが、野菜の甘みがよく出ていた。
俺もスープを口へ運ぶ。
いつもと変わらない味だった。
「これも食べてみろ」
卵の挟みパンを一つ渡す。
少女は恐る恐る受け取り、小さくかじった。
ふわりとした卵の食感。
柔らかなパン。
「……卵です」
「ああ」
その後も少女は、ハム、スモークチキン、フルーツヨーグルトと順番に手を伸ばしていった。
一つ食べるたびに、少女の表情が少しずつ変わっていく。
「お肉でも、味が違うんですね」
「作り方が違うからな」
最後にフルーツヨーグルトを口へ運ぶ。
甘酸っぱい果物。
冷たいヨーグルト。
柔らかなパン。
少女は目を丸くした。
「果物だけじゃない……」
「一緒に食べると、こんな味になるんですね」
「ああ」
役所では果物を食べた。
クレープではジャムも食べた。
だが、果物をヨーグルトと合わせて食べるのは初めてなのだろう。
少女は一口ずつ確かめるように味わいながら食べ進めていく。
無理に急ぐこともない。
好き嫌いもない。
ただ、新しい味を覚えるように静かに食べていた。
やがて、木椀も皿も空になる。
少女は両手を揃え、小さく頭を下げた。
「……ごちそうさまでした」
俺も木椀を机へ置く。
食事を終え、食器を外へ持っていく。
庭先で軽く洗い、水を切って置いておく。
外はもう暗くなり始めていた。
俺は飾り棚の上に置いてあった油灯へ火を入れる。
小さな炎が揺れ、部屋の中を淡く照らした。
「俺も体を洗ってくる」
「……はい」
「先に寝ていてもいい」
「分かりました」
俺は収納棚からタオルと替えの服を取り出し、外へ出る。
庭に置かれた壺から水を汲み、石鹸で体を洗う。
昼間に比べれば水は冷たい。
それでも、一日の汚れを落とすには十分だった。
体を拭き、部屋へ戻る。
扉の近くには、少女が脱いだ服とタオルが畳んで置かれていた。
俺もその隣に、自分の服とタオルを置く。
少女は椅子に座り、油灯の明かりを眺めていた。
「それは何ですか?」
「油灯だ」
「……明るいですね」
「ああ」
俺は収納袋へ手を伸ばす。
昼間買った歯木を取り出した。
続けて飾り棚へ近づき、小さな容器に入った歯磨き粉を手に取る。
乾燥させた爽やかな香りの薬草を粉にしたものだ。
歯木の先へ少量を付ける。
少女の視線がこちらへ向く。
「何をしているんですか?」
「歯を磨く」
「歯を……?」
「ああ。今日、店で説明を受けただろう」
俺は歯木を見せる。
「これを使って歯を綺麗にする」
歯木を口に入れ、歯の表面を軽く擦っていく。
「こうする」
少女は俺の手元をじっと見つめている。
やがて、歯木を口から離す。
「お前もやってみろ」
「……私も?」
「ああ」
俺はもう一本の歯木を取り出し、少女へ渡す。
「先にこれを噛んで、毛羽立たせる」
少女は言われた通り、歯木の先を口へ入れる。
しばらくすると、先端が細かくほぐれていく。
「そうしたら、歯を軽く擦る」
「……こうですか?」
「ああ。強く擦る必要はない」
少女は恐る恐る歯木を動かす。
俺も自分の歯を磨きながら、少女の様子を横目に見る。
「奥も忘れるな」
「はい」
少女は言われた通り、奥歯へ歯木を動かしていく。
しばらくして、少女の動きが止まった。
「……?」
「どうした」
少女は歯木を口から離し、不思議そうに口元へ手を当てる。
「なんだか……」
「なんだ?」
「口が、スースーします」
「薬草のせいだ」
「薬草……」
「ああ。歯を磨くためのものだ」
少女はもう一度、口の中を確かめるように舌を動かす。
「……変な感じです」
「そのうち慣れる」
「……はい」
少女は少し困ったような顔をしながらも、再び歯木を動かし始めた。
やがて、二人とも歯を磨き終える。
俺は使い終えた歯木を確認し、決めていた場所へ置いた。
「今日はもう寝る」
「……もう、ですか?」
「ああ」
少女が油灯へ目を向ける。
まだ眠るには少し早い。
だが、一日中歩き回った上に、初めての生活だった。
疲れているのだろう。
「明日もやることがある」
「……分かりました」
少女は椅子から立ち上がる。
俺は寝台へ向かう。
そこで、ふと足を止めた。
寝台は一つしかない。
家を借りるときにも確認したはずだった。
俺一人なら、それで十分だった。
だが、今は違う。
後ろを見る。
少女も寝台へ目を向けていた。
しばらくの間、二人とも何も言わなかった。
やがて少女が小さく口を開く。
「……私は、床で寝ます」
「駄目だ」
「……でも」
「お前は奴隷じゃない」
少女が目を瞬かせる。
「床で寝る必要はない」
「……では、私はどうすれば」
少女は困ったように寝台を見る。
その視線には、まだ幼い子どもらしい不安があった。
俺も寝台を見る。
大人二人が横になるには少し狭い。
だが、一晩なら問題ない。
「一緒に寝る」
「……え?」
少女の目が大きくなる。
「この寝台で寝る」
「……一緒に?」
「ああ」
少女はしばらく黙っていた。
意味を理解しようとしているようだった。
やがて、小さく頷く。
「……分かりました」
俺は寝台の片側へ腰を下ろす。
「お前は壁側だ」
「はい」
少女も反対側から寝台へ上がる。
小さな身体が布団の中へ潜り込むと、すぐに端へ寄った。
まるで、自分が場所を取ることすら悪いことだと思っているようだった。
「そんなに端へ寄らなくていい」
「……でも」
「落ちるぞ」
「……はい」
少女は少しだけ中央へ戻る。
それでも、俺との間には十分な距離を空けていた。
俺もそれ以上は何も言わない。
狭い寝台だ。
だが、今夜だけなら問題はない。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
小さな声が返ってくる。
俺は油灯へ手を伸ばす。
火を少しだけ落とした。
部屋が先ほどより暗くなる。
やがて火を消す。
部屋は暗闇に包まれた。
窓の外から、夜の街の音がかすかに聞こえている。
今日も一日が終わった。
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しばらくしてのことだった。
何かに体を揺さぶられている。
眠りの中から意識が引き戻され、ゆっくりと目を開ける。
薄暗い部屋の中で、少女が俺の肩を揺らしていた。
「……あの、すみません」
「なんだ?」
「おトイレに行ってきてもいいですか?」
どうやら、許可を取るために俺を起こしたらしい。
「別に、行ってきていいぞ」
「……はい」
少女が小さく頷く。
「それと、今度からは聞かずに行っていい」
「……聞かなくても?」
「ああ」
少女は少し戸惑ったように俺を見る。
「掃除のときにも言っただろう」
「……はい」
「やりたいことがあるなら、好きにすればいい」
少女は黙って俺を見る。
「厠へ行くくらい、いちいち俺に聞く必要はない」
「……分かりました」
少女は小さく頷く。
寝台から降り、扉へ向かう。
だが、扉の前で足を止めた。
「……どうした?」
「……暗いです」
少女の視線が、飾り棚の上段へ向く。
そこには油灯が置かれている。
俺は立ち上がり、油灯を手に取った。
火を少しだけ強くする。
「これを持っていけ」
「はい」
少女は両手で油灯を受け取る。
そのまま扉へ向かおうとしたところで、俺はふと手を止めた。
油灯は今まで、飾り棚の上段に置いていた。
俺一人なら、それで問題なかった。
だが、これからは違う。
少女が夜中に厠へ行くたび、俺を起こして油灯を取ってもらうのでは意味がない。
「……戻ったら、それは机の上に置いておけ」
「机、ですか?」
「ああ」
俺は部屋の中央にある机へ目を向ける。
「これからは、そこを置き場所にする」
「……分かりました」
「火をつける必要があるときも、自分で使え」
「私が……?」
「ああ」
少女は少し驚いたように油灯を見る。
「届く場所に置いておいた方がいいだろう」
「……はい」
少女は油灯を胸元で大事そうに持つ。
「行ってきます」
「ああ。気をつけろ」
少女は扉を開け、外へ出ていった。
夜の冷たい空気が、わずかに部屋へ入り込む。
扉が閉じる。
俺は再び寝台へ横になった。
今度からは、少女が自分で油灯を取れる。
それだけのことだ。
だが、こういう小さなことからでも、自分でできることは増やしていけばいい。
しばらくして、外から足音が聞こえてきた。
扉がゆっくりと開く。
「……ただいま戻りました」
「ああ」
少女は部屋へ入り、扉を閉める。
手に持っていた油灯を、先ほど言われた通り机の上へ置いた。
小さな炎が揺れる。
少女はその明かりを少しだけ見つめてから、寝台へ戻ってくる。
だが、すぐには横にならなかった。
「……あの」
「なんだ?」
「聞いてもいいですか?」
「ああ」
少女は少し迷うように俺を見る。
それから、恐る恐る口を開いた。
「……支配の魔術師って、おじいさんなんですか?」
「……は?」
思わず聞き返す。
少女は少し困ったように続けた。
「支配の魔術師って、ずっと昔からいる人なんですよね?」
「ああ」
「だったら……普通なら、もう亡くなっていますよね?」
「そうだな」
「でも、あなたは支配の魔術師なんですよね?」
「ああ」
少女の視線が、俺の顔へ向く。
「だから……もし今も生きているのなら、すごく年を取ったおじいさんなのかなって……」
「なるほどな」
ようやく意味が分かった。
「俺は爺さんじゃない」
「……でも、昔から生きているんですよね?」
「ああ」
「どうして……?」
少女の目に、純粋な疑問が浮かんでいる。
俺は少し考えてから答えた。
「老化という現象を止めている」
「……老化?」
「ああ」
「それって……年を取らないってことですか?」
「結果としては、そうなる」
少女は目を丸くする。
「じゃあ……ずっと、この姿のまま?」
「ああ」
「……寿命は?」
「それも止めている」
「……寿命も?」
「ああ」
少女はしばらく黙り込んだ。
「……死なないんですか?」
「そういう意味ではない」
「え?」
「老いて死ぬことはない」
「だが、怪我をすれば死ぬ。病気でも死ぬ。魔物に殺されても死ぬ」
「……じゃあ、不死身ではないんですね」
「ああ」
「でも、寿命では死なない?」
「そういうことだ」
少女はしばらく考え込む。
「……難しいです」
「簡単に言えば、老いて死ぬことがないだけだ」
「……なるほど」
少女は小さく頷いた。
「だから、昔から生きていても爺さんにはならない」
「ああ」
「……ずっと、この姿で?」
「ああ」
少女はしばらく俺の顔を眺めていた。
やがて、小さく呟く。
「……不思議です」
「そうか?」
「はい」
「俺にとっては、そうでもない」
「……そうなんですか?」
「ああ」
俺は机の上で揺れる油灯へ目を向ける。
「ただ、時間が過ぎているだけだ」
少女も油灯へ目を向ける。
「魔術師って……すごいんですね」
「そういうものでもない」
「……?」
「便利なだけだ」
少女は少しだけ考えたあと、布団へ入った。
「……分かりました」
納得したのかどうかは分からない。
だが、これ以上は聞かなかった。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
机の上で、油灯の炎が静かに揺れている。
少女の手が届く場所にある。
必要なら、自分で使える。
それだけを確認して、俺も目を閉じた。




