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支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
第一章 『名前のない日々』

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第16話 役に立ちたい

 店内は昼時ということもあり、多くの客で賑わっていた。


 冒険者らしい男たちが昼食を囲み、商人たちは商談を交わしながら食事をしている。


 皿や木椀が触れ合う音。


 料理の香り。


 店員たちの威勢のいい声が飛び交っていた。


「いらっしゃいませ! 二名様ですね!」


「ああ」


 店員に案内され、二人掛けの席へ向かう。


 俺は迷わず椅子へ腰を下ろした。


 少女は椅子の前で足を止める。


 座ろうとはしない。


「どうした」


「……その」


 少女は戸惑うように視線を伏せた。


「奴隷は……主人と同じ席には座れません」


 あの時と同じ言葉だった。


「今は奴隷じゃない」


「……でも」


「座れ」


 短く言う。


 少女は少しだけためらったあと、小さく頷いた。


「……はい」


 恐る恐る椅子へ腰を下ろす。


 少女は抱えていた布袋を足元へ置き、両手を膝の上へ揃えた。


 背筋はぴんと伸び、いつでも立ち上がれそうなほど浅く腰掛けている。


 人の多さに慣れていないのか、店内をきょろきょろと見回していた。


 机の上には木札が置かれている。


 本日のおすすめ。


 豚肉と白いんげんのトマト煮込み。銅貨七枚。


 サバの塩焼き。銅貨六枚。


 鶏肉と野菜の香草焼き。銅貨八枚。


 どれも栄養は悪くない。


 少女は痩せている。


 甘い物ばかりでは体は作れない。


 これからは、しっかり食べさせる必要がある。


「お前、今まで何を食っていた?」


 少女は少し考え、小さく口を開く。


「奴隷だった頃は……黒パンと、薄いスープです」


「たまに……干し肉を少しだけ」


 やはりか。


「役所では?」


「野菜のスープや、お肉も少し……食べさせてもらいました」


「毎日、お腹いっぱい食べさせてもらって……」


 少女はどこか懐かしそうに微笑む。


「とても、おいしかったです」


「あそこは保護施設だからな」


 最低限の栄養は考えていたのだろう。


 だから三十日前よりも、少女の顔色はずっと良くなっている。


 だが、それでも痩せていることに変わりはない。


「でも……」


 少女は周りの客の食事へ視線を向ける。


 湯気を立てる煮込み料理。


 香ばしく焼かれた魚。


 焼きたての肉料理。


「こんな料理は……初めて見ます」


 役所で出されていたのは、栄養を考えた質素な食事だった。


 目の前に並ぶような、出来たての料理を店で選んで食べる機会はなかったのだろう。


「豆は食ったことあるか?」


「……あります。役所で少しだけ食べました」


 少女は軽く頷く。


「なら問題ない」


「注文いいか?」


「はい!」


「豚肉と白いんげんのトマト煮込みを一つ。サバの塩焼きを一つ」


「かしこまりました」


 店員は厨房へ戻っていく。


 しばらくして、料理が運ばれてきた。


 少女の前には、湯気を立てる豚肉と白いんげんのトマト煮込み。


 赤いスープの中には、大きめに切られた豚肉と白い豆。それに玉ねぎや人参が入っている。


 焼きたてのパンも添えられていた。


 俺の前には、香ばしく焼かれたサバと野菜。それにスープ。


 少女は料理を見つめたまま、小さく目を丸くする。


「……お肉」


 干し肉とは違う。


 柔らかそうな肉が、湯気を立てている。


「食べていい」


「……はい」


 少女は木匙で慎重にすくい、一口運んだ。


 ゆっくり噛む。


 次の瞬間、小さく目を見開いた。


「……やわらかい」


 口の中でほどける豚肉。


 豆の甘み。


 酸味のあるトマト。


 初めて味わう温かな料理だった。


 少女の視線が、今度は俺の皿へ向く。


 香ばしく焼けたサバ。


 皮には焼き色が付き、脂がじゅっと滲んでいる。


「……それは?」


「魚だ」


「お魚……」


「サバという魚だ。塩を振って焼いてある」


「サバ……」


 じっと見つめている。


 食べてみたい。


 そんな気持ちが、その視線だけで伝わってきた。


 俺は箸で身をほぐす。


「一口食うか?」


「え……」


「食える物は多い方が困らない」


 ほぐした身を少女の皿へ乗せる。


「食べてみろ」


「……はい」


 少女は恐る恐る口へ運んだ。


 ふわりと崩れる白身。


 香ばしい皮。


 肉とは違う旨味が広がる。


「……おいしいです。お肉とは、全然違います」


「そうか」


 それだけ答え、俺も魚を口へ運んだ。


——————————————————————————


 食事を終え、木椀と皿を空にする。


 少女も最後の一口まで丁寧に食べ終え、小さく手を合わせた。


「……ごちそうさまでした」


 役所で覚えた作法か。


 俺は代金を支払い、席を立った。


「行くぞ」


「……はい」


 少女は足元に置いていた布袋を抱え直し、慌てて後を追う。


 何度も辺りを見回している。


 だが、さっきまでのように立ち止まることはない。


 歩きながら見る余裕が、少しずつ生まれてきたらしい。


 俺はそんな様子を横目で確認しながら歩く。


 今日だけでも随分と覚えた。


 自分で服を選んだ。


 街の名前を知った。


 家庭教師も決まった。


 初めて温かな煮込み料理を食べ、魚も口にした。


 一日で覚えられることには限りがある。


 焦る必要はない。


 ラフィアの言葉どおり、一つずつ覚えていけばいい。


「次は何をするんですか?」


 少女が不意に尋ねてくる。


「今日はもう戻る」


「……どこに、帰るんですか?」


「家だ」


 その一言に、少女は少しだけ目を見開いた。


 まだ、その言葉が自分のものとして結び付いていないのだろう。


「荷物も増えた。今日は十分だ」


「……はい」


 やがて、人通りの多い大通りを抜ける。


 石畳の道は次第に静かになり、住宅が並ぶ区画へ入った。


 子どもたちの笑い声が遠くから聞こえる。


 庭先では洗濯物が風に揺れ、井戸では住人たちが立ち話をしていた。


 少女はそんな光景を静かに眺める。


 どれも、自分とは無縁だった暮らし。


 その一つひとつを、目に焼き付けるように見つめていた。


 しばらく歩き、一軒の平屋の前で足を止める。


 小さな庭が付いた平屋だった。


「着いた」


 少女はゆっくりと家を見上げる。


 そして、小さく息をのんだ。


 初めて帰る場所として迎えられた家だった。


 俺は庭へ足を踏み入れる。


 庭の草は短く刈り揃えられている。


 隅には木組みの乾燥棚が置かれ、採取してきた薬草が風に揺れていた。


 軒先には物干し竿がある。


 その近くには、水を汲んでおくための壺が二つ並び、柄杓と石鹸が置かれていた。


 暮らすうちに自然と増えた物ばかりだ。


 必要以上の物はない。


 収納袋へ手を入れ、中から鍵を取り出す。


 錠へ差し込み、鍵を回した。


 扉を開け、中へ入る。


「入れ」


「……はい」


 少女は恐る恐る敷居をまたいだ。


 室内は借りた日と大きく変わっていない。


 木の机と椅子。


 壁際の棚。


 部屋の奥には一つだけ置かれた寝台。


 余計な物はなく、寝るために使う程度だったから、室内は今も片付いていた。


「その服は収納棚へしまっておけ」


「……はい」


 少女は胸に抱えていた布袋を大事そうに抱え直し、壁際の収納棚へ歩いていく。


 袋を開き、中から今日自分で選んだ服を一着ずつ取り出した。


 皺が付かないように両手で整え、丁寧に収納棚へ並べていく。


 並べ終えると、空になった布袋を小さく畳み、その隣へ置いた。


 収納棚の一角に、自分の服が並ぶ。


 それだけのことが、少女には初めてだった。


「終わりました」


「ああ。座って休んでろ」


「……はい」


 少女は椅子へ腰を下ろした。


 俺は庭から乾燥させていた薬草を取り込み、机の上へ置く。


 乾き具合を確かめ、一束ずつ種類ごとに分けていく。


 香りを確かめ、茎を揃え、紐で束ねる。


 いつもの作業だ。


 部屋には薬草の青い香りだけが漂う。


 少女は静かにその様子を眺めていた。


 膝の上へ揃えた両手が、そわそわと落ち着かない。


 何度か部屋を見回し、また俺を見る。


 しばらくして、小さく口を開いた。


「……あの」


「何だ」


「何か、お手伝いできることはありませんか?」


 薬草から視線を外さず答える。


「ない」


「……そう、ですか」


 少女は頷いた。


 だが、椅子へ座り直しても落ち着かない。


 部屋の隅へ立て掛けられた箒へ視線が止まった。


「あの……」


「何だ」


「お掃除を、してもいいですか?」


 俺はようやく手を止め、少女を見る。


「やらなくていい」


 今日だけでも十分だ。


「でも……」


 少女は俯く。


「何もしないでいるのは、落ち着かなくて……」


 なるほど。


 俺は小さく息を吐く。


「命令じゃない」


 少女が顔を上げる。


「それでも、お前が自分でやりたいなら止めない」


「……はい」


「私が、やりたいです」


「……好きにしろ」


 少女は小さく笑みを浮かべる。


 椅子から立ち上がり、箒へ向かった。


 部屋の隅に立て掛けられていた箒を手に取る。


 両手で柄を握り、小さく頭を下げた。


「失礼します」


 誰に言うでもない、小さな一言だった。


 床を傷つけないよう、ゆっくりと箒を動かす。


 隅に溜まっていた砂埃を集め、丁寧に掃いていく。


 俺は机の上で作業を続ける。


 森で採取してきた薬草は、こうして乾燥させておけば長く保存できる。


 必要になれば薬にもなるし、余れば薬屋へ売ることもできる。


 部屋には箒が床を掃く音と、薬草を束ねるかすかな音だけが響いていた。


 少女は机の脚や棚の下まで覗き込み、見落としがないよう丁寧に掃いていく。


 掃除には慣れている。


 長年、やらされ続けてきたのだろう。


 しばらくして、少女が遠慮がちに口を開いた。


「……あの」


「何だ」


「床や家具も拭きたいのですが……布をお借りしてもいいですか?」


「収納棚の下にある」


 少女は言われた場所から古い布を取り出す。


「あと……外のお水を使っても、いいですか?」


「使っても構わない」


「……はい」


 少女は布を持って外へ出る。


 壺の水を柄杓で少しだけ汲み、布を軽く濡らして戻ってきた。


 固く絞り、床や窓枠、机や椅子を一つひとつ丁寧に拭いていく。


 その表情は真剣だった。


 誰かに命じられたからではない。


 自分でやると決めたからだ。


 少女は何度も外へ出て布を洗い、固く絞っては戻ってきた。


 俺は束ね終えた薬草を籠へ収める。


 ひと通り作業を終えた頃、少女は布を手にしたまま、机の前で足を止めた。


「……あの」


「何だ」


「机も、拭いてもいいですか?」


 俺は机の上の籠を持ち上げる。


「好きにしろ」


「……はい」


 少女は小さく頭を下げる。


「失礼します」


 木目に沿って丁寧に机を拭き始めた。


「……終わりました」


「ああ」


 部屋を見回す。


 元から散らかっていたわけではない。


 それでも、床や机は少しだけ明るく見えた。


 少女は布を畳み、大切そうに元の場所へ戻す。


 その表情には、さっきまでの落ち着きのなさはない。


 俺は少女を見る。


 掃除がしたかったわけではないのだろう。


 何か、自分にもできることを探していた。


 そんなことを、少しだけ思った。

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