第14話 初めて自分で選ぶ日
露店を後にし、再び石畳の通りを歩く。
少女は俺の半歩後ろを歩いている。
口元についていたいちごジャムは、もう残っていない。
さっき渡した手拭いで、ぎこちない手つきながらも自分で拭いていた。
これから先のことを考えれば、この少女に必要な物を揃えなければならない。
「まずは買い物だ」
「……はい」
少女は素直に頷く。
二人で石畳の通りを進み、生活用品を扱う店へ入る。
木製の棚には、皿や木椀、手拭い、櫛、石鹸、歯磨き用の木枝など、暮らしに必要な品々が整然と並べられていた。
少女は店へ入るなり足を止め、ゆっくりと店内を見回す。
棚を見る。
吊るされた布を見る。
木箱に収められた櫛を見る。
一つひとつを、興味深そうに目で追っていく。
やがて、その視線が並べられた石鹸で止まった。
見覚えがあるのだろう。
あの日、廃小屋で初めて使った石鹸だ。
少女は何も言わない。
ただ、石鹸を見つめるその表情だけは、どこか懐かしそうだった。
俺も石鹸へ目を向ける。
あの日、森で使った石鹸とは違う。
香草や花の香りが付いたもの。
白い無香料の石鹸。
大きさも値段も様々だ。
少女は一つの石鹸を見つめたまま、小さく口を開いた。
「……これも、体を洗う石鹸ですか?」
「ああ」
「そう、なんですね……」
それだけ言って、再び石鹸を見つめる。
少女の視線が、隣の木箱へ移る。
細い木の枝が何本も並べられていた。
先端だけが細かく裂け、ふさふさとしている。
「……これは、何ですか?」
少女は一本を指差した。
店主が笑顔で答える。
「歯を磨くための木枝ですよ」
「歯を……?」
少女は首を傾げる。
意味が分からないという顔だった。
店主から一本受け取り、恐る恐る手に取る。
先端をじっと見つめる。
指先でそっと触れる。
「……掃除をする道具、みたいです」
先端の繊維を撫でながら、小さく呟いた。
確かに、埃を払う刷毛にも見えなくはない。
「似たようなものだ」
俺は一本手に取り、口元まで持ち上げる。
「これは歯を掃除する」
「歯を……掃除する?」
少女は目を丸くした。
そんな発想自体がなかったのだろう。
店主は思わず笑う。
「はは、掃除って言い方も間違いじゃないけどね。歯を磨くための物さ」
「歯も汚れるんですか……?」
「ああ。食べかすが残るからね。毎日磨くと虫歯にもなりにくい」
少女は驚いたように、自分の口元へそっと手を当てた。
「……知りませんでした」
「教わる機会がなかっただけだ」
少女は小さく頷き、手の中の歯木をもう一度見つめた。
俺は木箱へ視線を向ける。
「歯木を十本くれ」
「ありがとうございます」
店主は慣れた手つきで歯木を数え始めた。
「歯木は毎日使っていただいて、七日ほどで新しい物へ替えるのがおすすめですよ。先端が開いてくると、磨きにくくなりますからね」
店主は歯木を紙で丁寧に包みながら続ける。
「歯磨き粉もございますよ。歯木と一緒に使うと、口の中がすっきりします」
「いや、まだ残っている」
「承知しました」
店主は笑顔で頷き、包みを脇へ置いた。
必要な物は、あと一つだ。
店内を見回す。
皿や木椀は今は必要ない。
櫛も急ぎではない。
必要になれば、その時に買えばいい。
視線を巡らせると、少女は手拭いが並ぶ棚の前で足を止めていた。
白。
薄い青。
生成り。
花柄が染められた物。
格子模様の物。
少女は一枚一枚を見つめ、どれも触れずに立ち尽くしている。
「手拭いを一枚選べ」
少女は驚いたように振り返った。
「……私が、ですか?」
「ああ。お前が使う物だ」
少女は再び棚へ向き直る。
白い手拭いを見る。
薄い青を見る。
少し考え、また白へ視線を戻す。
迷うように何度も見比べた末、そっと一枚を手に取った。
「……これでも、いいですか?」
少女が選んだのは、飾り気のない生成り色の手拭いだった。
柄もなく、他より少し地味な一枚だ。
「ああ」
短く答えると、少女はほっとしたように小さく息を吐いた。
店主も穏やかに笑う。
「丈夫な布ですよ。長く使えます」
少女は嬉しそうに、その手拭いを見つめていた。
「これも頼む」
「かしこまりました」
店主は歯木を紙で包み、麻紐で結ぶ。
続いて、手拭いを小さく畳み、別の紙で丁寧に包んだ。
「合わせて銅貨八枚になります」
収納袋から銅貨を数えて渡す。
「確かに頂きました。ありがとうございました」
二つの包みを受け取り、手拭いの方だけを少女へ差し出す。
「ほら」
「……私の、ですか?」
「お前が使う物だからな」
少女は両手で受け取り、大事そうに胸へ抱えた。
歯木の包みを収納袋へしまい、二人で店を後にする。
扉を開けると、石畳の通りの賑わいが再び耳に戻ってくる。
少女は胸に抱えた手拭いを見つめ、小さく指先で撫でていた。
自分で選んだ物を手にする。
それだけのことが、少女にはまだ新鮮なのだろう。
「行くぞ」
「……はい」
少女は小さく頷き、再び俺の半歩後ろを歩き始めた。
石畳の通りを進む。
少女は周囲を見回しながら歩いていたが、不意に足を止めた。
視線の先では、鍛冶屋の炉から赤い火花が散っている。
鉄を打つ乾いた音が、通りまで響いていた。
「……あれは?」
「鍛冶屋だ」
少女は真っ赤に熱した鉄を叩く職人を、じっと見つめた。
火花が散るたび、小さく目を見開く。
「……すごい」
思わず漏れた小さな呟き。
しばらく眺めた後、少女は名残惜しそうに歩き出した。
さらに通りを進む。
今度は、一軒の本屋の前で足が止まる。
窓際には革表紙の本が積み重ねられ、棚にも大小様々な本が隙間なく並んでいた。
「……全部、本ですか?」
「ああ」
「こんなに、あるんですね……」
少女は一冊一冊を見つめる。
文字は読めない。
それでも、本という存在に惹かれているようだった。
「いつか読めるようになる」
俺がそう言うと、少女は驚いたように振り返った。
「……私も、ですか?」
「ああ」
短く答えると、少女は本棚を見つめ、小さく頷いた。
「……はい」
再び歩き出す。
しばらく進むと、今度は色鮮やかな布が風に揺れていた。
赤。
青。
緑。
紫。
染物屋の店先には、色鮮やかな布が並んでいる。
少女は思わず足を止めた。
「……きれい」
風に揺れる布をしばらく眺め、満足したように歩き出す。
その足取りは、少しだけ軽かった。
しばらく街を歩く。
やがて、少女の足が再び止まった。
視線の先には、一軒の服屋があった。
あの日、この少女の服を買った店だ。
「……ここ」
店先を見上げるその横顔は、初めてこの店を訪れた時の怯えた表情とは違っていた。
「覚えていたか」
「……はい」
少女は小さく頷く。
初めて自分の服を買ってもらった場所。
忘れるはずもないのだろう。
俺は少女を見る。
「見るか?」
少女は店と俺を交互に見つめ、少しだけためらう。
「……見ても、いいですか?」
「ああ」
その一言で十分だった。
少女は小さく笑みを浮かべると、胸に抱えた手拭いを抱き直した。
二人で服屋の扉を押し開ける。
店内には以前と変わらず、様々な色や形の衣服が整然と並んでいた。
少女はゆっくりと辺りを見回す。
前に来た時のような怯えはない。
静かに並ぶ衣服へ、一つ一つ目を向けていく。
「いらっしゃいませ」
奥から女性店員が出てくる。
「あら……先日のお客様ですね」
視線が少女へ移る。
「今日は安心したお顔をされていますね」
少女はその言葉に少し驚いたように目を瞬かせた。
自分のことを言われているとは思わなかったのだろう。
「……そう、ですか?」
おずおずと尋ねる。
店員は優しく微笑んだ。
「ええ。前はとても緊張されていましたから」
少女は何も言わず、小さく頷いた。
あの日は何を見ても怯え、俺の後ろに隠れるようにしていた。
今は違う。
知らない物を見ても、自分の目で確かめようとしている。
それだけでも、大きな変化だった。
店員は棚へ視線を向ける。
「今日はお洋服をご覧になりますか?」
少女は俺を見上げる。
どう答えればいいのか分からない。
そんな表情だった。
「見たいなら見ればいい」
短く答える。
少女は少しだけ目を丸くし、それから店員へ向き直った。
「……見たい、です」
その一言を聞いた店員は嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんです。ゆっくりご覧になってくださいね」
少女は店内を歩き始める。
ワンピース。
ズボン。
刺繍の入った上着。
以前は目に入る余裕すらなかった品々を、今は一つひとつ見比べていた。
俺は少し離れた場所で、その様子を眺める。
「……この服は、どうしてひらひらが付いているんですか?」
店員は少女の指差した服へ目を向けた。
「ああ、これはお出掛け用のお洋服なんですよ」
「お出掛け用……?」
「はい。普段着よりも見た目を楽しむためのお洋服です。お祭りや、お祝いの日に着る方も多いですね」
少女はひらひらと揺れる裾を見つめる。
「……着る日で、服が違うんですか?」
「ええ。もちろん毎日同じ服でも構いません。でも、おしゃれを楽しむ方は、その日の気分や行く場所に合わせて選ぶんですよ。着る物も、その人らしさの一つですから」
少女は驚いたように服と店員を見比べた。
「……おしゃれ」
聞き慣れない言葉だったのだろう。
少女は小さく繰り返した。
「着てみますか?」
店員が穏やかに尋ねる。
少女は思わず俺の方を見る。
「……いいですか?」
「ああ」
短く答える。
少女は小さく頷いた。
「……着てみたい、です」
「では、こちらへどうぞ」
店員はその服を手に取り、試着室へ案内する。
少女は大事そうに手拭いを抱えたまま後に続いた。
「こちらはお預かりしますね」
「あ……はい」
手拭いを店員へ預け、試着室へ入る。
布の擦れる音が静かな店内へ小さく響く。
しばらくして、遠慮がちに試着室の扉が開いた。
「……どう、でしょうか?」
少女が纏っているのは、胸の下で切り替えられた生成り色のワンピースだった。
足首近くまである丈で、裾には控えめな刺繍が施されている。
飾り気はないが、少女によく似合っていた。
店員が穏やかに微笑む。
「とてもお似合いですよ」
少女は照れたように裾へ視線を落とした。
「……そう、ですか」
「ああ」
短く答える。
少女はほっとしたように小さく笑った。
店員も続ける。
「前にお求めいただいたお洋服と似た仕立てなんです。動きやすく、普段着として長く着ていただけますよ」
俺は少女を見る。
「これから暮らすなら、着替えは何着か必要になる」
少女は静かに頷いた。
「今着ている一着だけでは足りない」
「……はい」
「必要な物は揃える」
一度言葉を切る。
「欲しい物があるなら、自分で選べ」
少女は目を丸くした。
「……私が、ですか?」
「ああ」
少女はゆっくりと店内を見回す。
何度も視線が服を行き来する。
何を基準に選べばいいのか、それすらまだ分からないらしい。
しばらくして、少女は試着しているワンピースをそっと見下ろした。
裾へ触れる。
柔らかな布地を指先で確かめる。
「……なら」
小さく息を吸う。
「……これが、欲しいです」
その声は小さかった。
だが、自分の意思で選んだ言葉だった。
「ああ」
それで十分だった。
店員も嬉しそうに微笑む。
「ありがとうございます。それでは、こちらをご用意いたしますね」
俺は続けて店員へ向き直る。
「それとは別に、普段着を何着か見繕ってくれ。動きやすい物でいい」
「かしこまりました」
店員は棚へ向かう。
「でしたら、こちらはいかがでしょう」
生成り色の替えのワンピース。
薄い青のワンピース。
動きやすいズボン。
替えの上着。
どれも飾り気はなく、街で暮らす者なら誰もが着ているような実用的な服ばかりだった。
「これでいい」
「ありがとうございます」
店員は商品をまとめ始める。
少女は、自分で選んだワンピースを静かに見つめていた。
俺は口を開く。
「着替えろ」
「……はい」
少女は試着室へ戻る。
しばらくして扉が開き、最初に着ていた服へ着替えて出てきた。
店員は少女に手拭いを返す。
少女はそれを胸に抱え直した。
店員は選んだワンピースを丁寧に畳み、他の衣服と一緒に布袋へ収める。
「こちらになります」
俺は布袋を受け取ると、そのまま少女へ差し出した。
「持て」
少女は少し驚いたように俺を見上げる。
「……私が、ですか?」
「ああ。お前の物だ。自分で管理しろ」
少女は両手で布袋を受け取った。
その重みを確かめるように胸へ抱き寄せる。
「……はい」
その返事は、先ほどよりも少しだけ力強かった。
「合わせて銀貨五枚になります」
会計を済ませる。
店員は代金を受け取り、深く一礼した。
「ありがとうございました。またいつでもお越しください」
「ああ」
少女も小さく頭を下げる。
「……ありがとうございました」
二人は店を後にする。
扉を開けると、石畳の通りの賑わいが再び耳へ届いた。
少女は布袋を大事そうに抱えた。
その中には、自分で「欲しい」と口にして選んだワンピースと、これからの暮らしに必要な服が入っている。
少女は何度も布袋へ目を向けていた。
自分で選んだ物。
自分のために買った物。
まだ、それだけのことが新鮮なのだろう。
「行くぞ」
「……はい」
少女は小さく頷き、俺の半歩後ろを歩き始めた。
石畳の通りを進む。
その足取りは、来た時よりも少しだけ軽くなっていた。




