↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
支配の魔術師と名を持たぬ少女  作者: 雪美夜
第一章 『名前のない日々』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/43

第14話 初めて自分で選ぶ日

 露店を後にし、再び石畳の通りを歩く。


 少女は俺の半歩後ろを歩いている。


 口元についていたいちごジャムは、もう残っていない。


 さっき渡した手拭いで、ぎこちない手つきながらも自分で拭いていた。


 これから先のことを考えれば、この少女に必要な物を揃えなければならない。


「まずは買い物だ」


「……はい」


 少女は素直に頷く。


 二人で石畳の通りを進み、生活用品を扱う店へ入る。


 木製の棚には、皿や木椀、手拭い、櫛、石鹸、歯磨き用の木枝など、暮らしに必要な品々が整然と並べられていた。


 少女は店へ入るなり足を止め、ゆっくりと店内を見回す。


 棚を見る。


 吊るされた布を見る。


 木箱に収められた櫛を見る。


 一つひとつを、興味深そうに目で追っていく。


 やがて、その視線が並べられた石鹸で止まった。


 見覚えがあるのだろう。


 あの日、廃小屋で初めて使った石鹸だ。


 少女は何も言わない。


 ただ、石鹸を見つめるその表情だけは、どこか懐かしそうだった。


 俺も石鹸へ目を向ける。


 あの日、森で使った石鹸とは違う。


 香草や花の香りが付いたもの。


 白い無香料の石鹸。


 大きさも値段も様々だ。


 少女は一つの石鹸を見つめたまま、小さく口を開いた。


「……これも、体を洗う石鹸ですか?」


「ああ」


「そう、なんですね……」


 それだけ言って、再び石鹸を見つめる。


 少女の視線が、隣の木箱へ移る。


 細い木の枝が何本も並べられていた。


 先端だけが細かく裂け、ふさふさとしている。


「……これは、何ですか?」


 少女は一本を指差した。


 店主が笑顔で答える。


「歯を磨くための木枝ですよ」


「歯を……?」


 少女は首を傾げる。


 意味が分からないという顔だった。


 店主から一本受け取り、恐る恐る手に取る。


 先端をじっと見つめる。


 指先でそっと触れる。


「……掃除をする道具、みたいです」


 先端の繊維を撫でながら、小さく呟いた。


 確かに、埃を払う刷毛にも見えなくはない。


「似たようなものだ」


 俺は一本手に取り、口元まで持ち上げる。


「これは歯を掃除する」


「歯を……掃除する?」


 少女は目を丸くした。


 そんな発想自体がなかったのだろう。


 店主は思わず笑う。


「はは、掃除って言い方も間違いじゃないけどね。歯を磨くための物さ」


「歯も汚れるんですか……?」


「ああ。食べかすが残るからね。毎日磨くと虫歯にもなりにくい」


 少女は驚いたように、自分の口元へそっと手を当てた。


「……知りませんでした」


「教わる機会がなかっただけだ」


 少女は小さく頷き、手の中の歯木をもう一度見つめた。


 俺は木箱へ視線を向ける。


「歯木を十本くれ」


「ありがとうございます」


 店主は慣れた手つきで歯木を数え始めた。


「歯木は毎日使っていただいて、七日ほどで新しい物へ替えるのがおすすめですよ。先端が開いてくると、磨きにくくなりますからね」


 店主は歯木を紙で丁寧に包みながら続ける。


「歯磨き粉もございますよ。歯木と一緒に使うと、口の中がすっきりします」


「いや、まだ残っている」


「承知しました」


 店主は笑顔で頷き、包みを脇へ置いた。


 必要な物は、あと一つだ。


 店内を見回す。


 皿や木椀は今は必要ない。


 櫛も急ぎではない。


 必要になれば、その時に買えばいい。


 視線を巡らせると、少女は手拭いが並ぶ棚の前で足を止めていた。


 白。


 薄い青。


 生成り。


 花柄が染められた物。


 格子模様の物。


 少女は一枚一枚を見つめ、どれも触れずに立ち尽くしている。


「手拭いを一枚選べ」


 少女は驚いたように振り返った。


「……私が、ですか?」


「ああ。お前が使う物だ」


 少女は再び棚へ向き直る。


 白い手拭いを見る。


 薄い青を見る。


 少し考え、また白へ視線を戻す。


 迷うように何度も見比べた末、そっと一枚を手に取った。


「……これでも、いいですか?」


 少女が選んだのは、飾り気のない生成り色の手拭いだった。


 柄もなく、他より少し地味な一枚だ。


「ああ」


 短く答えると、少女はほっとしたように小さく息を吐いた。


 店主も穏やかに笑う。


「丈夫な布ですよ。長く使えます」


 少女は嬉しそうに、その手拭いを見つめていた。


「これも頼む」


「かしこまりました」


 店主は歯木を紙で包み、麻紐で結ぶ。


 続いて、手拭いを小さく畳み、別の紙で丁寧に包んだ。


「合わせて銅貨八枚になります」


 収納袋から銅貨を数えて渡す。


「確かに頂きました。ありがとうございました」


 二つの包みを受け取り、手拭いの方だけを少女へ差し出す。


「ほら」


「……私の、ですか?」


「お前が使う物だからな」


 少女は両手で受け取り、大事そうに胸へ抱えた。


 歯木の包みを収納袋へしまい、二人で店を後にする。


 扉を開けると、石畳の通りの賑わいが再び耳に戻ってくる。


 少女は胸に抱えた手拭いを見つめ、小さく指先で撫でていた。


 自分で選んだ物を手にする。


 それだけのことが、少女にはまだ新鮮なのだろう。


「行くぞ」


「……はい」


 少女は小さく頷き、再び俺の半歩後ろを歩き始めた。


 石畳の通りを進む。


 少女は周囲を見回しながら歩いていたが、不意に足を止めた。


 視線の先では、鍛冶屋の炉から赤い火花が散っている。


 鉄を打つ乾いた音が、通りまで響いていた。


「……あれは?」


「鍛冶屋だ」


 少女は真っ赤に熱した鉄を叩く職人を、じっと見つめた。


 火花が散るたび、小さく目を見開く。


「……すごい」


 思わず漏れた小さな呟き。


 しばらく眺めた後、少女は名残惜しそうに歩き出した。


 さらに通りを進む。


 今度は、一軒の本屋の前で足が止まる。


 窓際には革表紙の本が積み重ねられ、棚にも大小様々な本が隙間なく並んでいた。


「……全部、本ですか?」


「ああ」


「こんなに、あるんですね……」


 少女は一冊一冊を見つめる。


 文字は読めない。


 それでも、本という存在に惹かれているようだった。


「いつか読めるようになる」


 俺がそう言うと、少女は驚いたように振り返った。


「……私も、ですか?」


「ああ」


 短く答えると、少女は本棚を見つめ、小さく頷いた。


「……はい」


 再び歩き出す。


 しばらく進むと、今度は色鮮やかな布が風に揺れていた。


 赤。


 青。


 緑。


 紫。


 染物屋の店先には、色鮮やかな布が並んでいる。


 少女は思わず足を止めた。


「……きれい」


 風に揺れる布をしばらく眺め、満足したように歩き出す。


 その足取りは、少しだけ軽かった。


 しばらく街を歩く。


 やがて、少女の足が再び止まった。


 視線の先には、一軒の服屋があった。


 あの日、この少女の服を買った店だ。


「……ここ」


 店先を見上げるその横顔は、初めてこの店を訪れた時の怯えた表情とは違っていた。


「覚えていたか」


「……はい」


 少女は小さく頷く。


 初めて自分の服を買ってもらった場所。


 忘れるはずもないのだろう。


 俺は少女を見る。


「見るか?」


 少女は店と俺を交互に見つめ、少しだけためらう。


「……見ても、いいですか?」


「ああ」


 その一言で十分だった。


 少女は小さく笑みを浮かべると、胸に抱えた手拭いを抱き直した。


 二人で服屋の扉を押し開ける。


 店内には以前と変わらず、様々な色や形の衣服が整然と並んでいた。


 少女はゆっくりと辺りを見回す。


 前に来た時のような怯えはない。


 静かに並ぶ衣服へ、一つ一つ目を向けていく。


「いらっしゃいませ」


 奥から女性店員が出てくる。


「あら……先日のお客様ですね」


 視線が少女へ移る。


「今日は安心したお顔をされていますね」


 少女はその言葉に少し驚いたように目を瞬かせた。


 自分のことを言われているとは思わなかったのだろう。


「……そう、ですか?」


 おずおずと尋ねる。


 店員は優しく微笑んだ。


「ええ。前はとても緊張されていましたから」


 少女は何も言わず、小さく頷いた。


 あの日は何を見ても怯え、俺の後ろに隠れるようにしていた。


 今は違う。


 知らない物を見ても、自分の目で確かめようとしている。


 それだけでも、大きな変化だった。


 店員は棚へ視線を向ける。


「今日はお洋服をご覧になりますか?」


 少女は俺を見上げる。


 どう答えればいいのか分からない。


 そんな表情だった。


「見たいなら見ればいい」


 短く答える。


 少女は少しだけ目を丸くし、それから店員へ向き直った。


「……見たい、です」


 その一言を聞いた店員は嬉しそうに微笑んだ。


「もちろんです。ゆっくりご覧になってくださいね」


 少女は店内を歩き始める。


 ワンピース。


 ズボン。


 刺繍の入った上着。


 以前は目に入る余裕すらなかった品々を、今は一つひとつ見比べていた。


 俺は少し離れた場所で、その様子を眺める。


「……この服は、どうしてひらひらが付いているんですか?」


 店員は少女の指差した服へ目を向けた。


「ああ、これはお出掛け用のお洋服なんですよ」


「お出掛け用……?」


「はい。普段着よりも見た目を楽しむためのお洋服です。お祭りや、お祝いの日に着る方も多いですね」


 少女はひらひらと揺れる裾を見つめる。


「……着る日で、服が違うんですか?」


「ええ。もちろん毎日同じ服でも構いません。でも、おしゃれを楽しむ方は、その日の気分や行く場所に合わせて選ぶんですよ。着る物も、その人らしさの一つですから」


 少女は驚いたように服と店員を見比べた。


「……おしゃれ」


 聞き慣れない言葉だったのだろう。


 少女は小さく繰り返した。


「着てみますか?」


 店員が穏やかに尋ねる。


 少女は思わず俺の方を見る。


「……いいですか?」


「ああ」


 短く答える。


 少女は小さく頷いた。


「……着てみたい、です」


「では、こちらへどうぞ」


 店員はその服を手に取り、試着室へ案内する。


 少女は大事そうに手拭いを抱えたまま後に続いた。


「こちらはお預かりしますね」


「あ……はい」


 手拭いを店員へ預け、試着室へ入る。


 布の擦れる音が静かな店内へ小さく響く。


 しばらくして、遠慮がちに試着室の扉が開いた。


「……どう、でしょうか?」


 少女が纏っているのは、胸の下で切り替えられた生成り色のワンピースだった。


 足首近くまである丈で、裾には控えめな刺繍が施されている。


 飾り気はないが、少女によく似合っていた。


 店員が穏やかに微笑む。


「とてもお似合いですよ」


 少女は照れたように裾へ視線を落とした。


「……そう、ですか」


「ああ」


 短く答える。


 少女はほっとしたように小さく笑った。


 店員も続ける。


「前にお求めいただいたお洋服と似た仕立てなんです。動きやすく、普段着として長く着ていただけますよ」


 俺は少女を見る。


「これから暮らすなら、着替えは何着か必要になる」


 少女は静かに頷いた。


「今着ている一着だけでは足りない」


「……はい」


「必要な物は揃える」


 一度言葉を切る。


「欲しい物があるなら、自分で選べ」


 少女は目を丸くした。


「……私が、ですか?」


「ああ」


 少女はゆっくりと店内を見回す。


 何度も視線が服を行き来する。


 何を基準に選べばいいのか、それすらまだ分からないらしい。


 しばらくして、少女は試着しているワンピースをそっと見下ろした。


 裾へ触れる。


 柔らかな布地を指先で確かめる。


「……なら」


 小さく息を吸う。


「……これが、欲しいです」


 その声は小さかった。


 だが、自分の意思で選んだ言葉だった。


「ああ」


 それで十分だった。


 店員も嬉しそうに微笑む。


「ありがとうございます。それでは、こちらをご用意いたしますね」


 俺は続けて店員へ向き直る。


「それとは別に、普段着を何着か見繕ってくれ。動きやすい物でいい」


「かしこまりました」


 店員は棚へ向かう。


「でしたら、こちらはいかがでしょう」


 生成り色の替えのワンピース。


 薄い青のワンピース。


 動きやすいズボン。


 替えの上着。


 どれも飾り気はなく、街で暮らす者なら誰もが着ているような実用的な服ばかりだった。


「これでいい」


「ありがとうございます」


 店員は商品をまとめ始める。


 少女は、自分で選んだワンピースを静かに見つめていた。


 俺は口を開く。


「着替えろ」


「……はい」


 少女は試着室へ戻る。


 しばらくして扉が開き、最初に着ていた服へ着替えて出てきた。


 店員は少女に手拭いを返す。


 少女はそれを胸に抱え直した。


 店員は選んだワンピースを丁寧に畳み、他の衣服と一緒に布袋へ収める。


「こちらになります」


 俺は布袋を受け取ると、そのまま少女へ差し出した。


「持て」


 少女は少し驚いたように俺を見上げる。


「……私が、ですか?」


「ああ。お前の物だ。自分で管理しろ」


 少女は両手で布袋を受け取った。


 その重みを確かめるように胸へ抱き寄せる。


「……はい」


 その返事は、先ほどよりも少しだけ力強かった。


「合わせて銀貨五枚になります」


 会計を済ませる。


 店員は代金を受け取り、深く一礼した。


「ありがとうございました。またいつでもお越しください」


「ああ」


 少女も小さく頭を下げる。


「……ありがとうございました」


 二人は店を後にする。


 扉を開けると、石畳の通りの賑わいが再び耳へ届いた。


 少女は布袋を大事そうに抱えた。


 その中には、自分で「欲しい」と口にして選んだワンピースと、これからの暮らしに必要な服が入っている。


 少女は何度も布袋へ目を向けていた。


 自分で選んだ物。


 自分のために買った物。


 まだ、それだけのことが新鮮なのだろう。


「行くぞ」


「……はい」


 少女は小さく頷き、俺の半歩後ろを歩き始めた。


 石畳の通りを進む。


 その足取りは、来た時よりも少しだけ軽くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。