第13話 世界を知らない少女
荷車が石畳を走り、人々の話し声が通りを満たしている。
俺の少し後ろを歩く少女は、落ち着かない様子で辺りを見回していた。
三十日前と同じだ。
店先に並ぶ品物。
行き交う人々。
建ち並ぶ家々。
一つひとつが視界に映るたび、その姿が見えなくなるまで目で追っている。
「……気になるのか?」
問い掛けると、少女は少し慌てたようにこちらを見た。
「はい……でも……」
「でも?」
「立ち止まって見たりしたら、ご迷惑ではありませんか……?」
「迷惑?」
「お待たせしてしまいますから……」
俺は立ち止まり、小さく息を吐く。
「今日は、急ぐような予定はない」
少女はきょとんとした表情で俺を見つめる。
「興味があるなら見てこい」
「……え?」
「今日は、お前の好きに歩けばいい」
少女は戸惑うように辺りを見回した。
「私の……好きに、ですか?」
「そうだ」
「…………」
返事はない。
店先を見る。
俺を見る。
もう一度、店先を見る。
どうすればいいのか分からない。
そんな顔だった。
許可はした。
それでも、動けない。
命令に従うことしか許されなかった人間に、自分で決めろと言われても、簡単にはできないのだろう。
俺は少女の隣まで戻る。
「分からないなら、一緒に見ればいい」
少女は驚いたように目を丸くした。
「……一緒に?」
「ああ」
「だから、何が気になっている?」
その言葉を聞いた少女は、何度か瞬きを繰り返した。
やがて、おずおずと通りの向こうへ視線を向ける。
少女の視線の先には、小さな屋台の前に人だかりができていた。
鉄板の上で生地が焼かれ、香ばしい匂いが風に乗って流れてくる。
その上から琥珀色の蜜がゆっくりとかけられ、甘い香りが辺りに広がった。
少女は、その屋台から目を離せないでいた。
「あれが気になるのか」
少女は小さく肩を震わせる。
「……はい」
今度は迷わず答えた。
けれど、その直後には申し訳なさそうに視線を伏せる。
「……甘い、匂いがしました。きらきらとして綺麗です」
ただ、それだけだった。
食べたいとは言わない。
食べてみたいとも言わない。
興味があることだけを、小さく口にした。
少女はそこを見つめたまま、小さな声で呟いた。
「……あれを、見てみたいです」
「なら、行くぞ。早く来い」
「は、はい」
露店の前まで歩み寄る。
集まっている数人の客が、店主の料理風景を見ていた。
丸い鉄板の上へ薄く生地が流される。
木の道具で手際よく円を描くように広げられた生地は、ほどなくして香ばしい焼き色を帯び始めた。
店主はそれを器用に裏返す。
焼き上がった生地へ溶かしたバターを塗る。
じゅわ、と音を立て、甘く濃厚な香りが周囲に漂っていく。
最後に、黄金色の蜂蜜を細く垂らしていく。
少女もまた、食い入るように見ている。
「焼きたてだよー! 甘い蜂蜜たっぷりのクレープ! 今日は、いちごジャムとオレンジジャムだよー! お一ついかがですかー!」
店主は笑いながら客へ声を掛けている。
「イチゴジャムを一つ」
「はいよ! 次の方は?」
「こっちはオレンジジャムを二つで」
店主は順に注文を聞いている。
少女は出来上がったクレープを目で追っている。
甘い香りが漂うたび、小さく鼻を動かしていた。
「食べてみるか?」
一度、少女に問い掛ける。
顔を上げ、「……でも」と溢した。
少し悩んだ後、小さく頷く。
「そちらのお二人さんもどうですか? お嬢ちゃんはどれにするかい?」
店主が俺たちに声を掛け、木札を指差す。
少女は木札へ視線を向けたまま動かない。
並んだ文字を見つめている。
だが、その瞳は文字を追っているのではなく、ただ眺めているだけだった。
「……」
答えられない。
その様子を見て、あの夜の会話が脳裏をよぎる。
『私は、字も読めません』
『歴史も、お話も……何も教わったことがないので……』
文字が読めない。
それなら、メニューも読めない。
値段も分からない。
何が書かれているのかも分からない。
選ぶ以前の問題だった。
店主は不思議そうに首を傾げる。
「お嬢ちゃん?」
少女は木札から目を逸らす。
唇が小さく震えた。
「……ごめんなさい」
謝る必要などない。
知らないことは、罪じゃない。
俺は木札へ目を向ける。
いちごジャム、銅貨三枚。
オレンジジャム、銅貨三枚。
「いちごとオレンジを一つずつ頼む」
「毎度!」
店主は手際よく焼きたてのクレープを包み始めた。
「はい、お待ち! いちごとオレンジのクレープになります!」
店主に銅貨六枚を支払い、焼きたてのクレープを受け取る。
甘い香りが包み紙の隙間から漂ってきた。
露店を離れ、人通りの少ない場所まで歩く。
邪魔にならない場所で足を止めると、両手のクレープを少女へ向けた。
「どっちがいい?」
少女は俺とクレープを交互に見つめる。
「え……?」
「いちごか、オレンジだ」
少女は少し考える。
そして、おずおずと指を差した。
「……こちら、です」
指先が示したのは、いちごジャムのクレープだった。
「分かった」
いちごを少女へ渡し、俺はオレンジを受け取る。
少女は両手で大事そうに包み紙を持ったまま動かない。
俺は一口かじる。
焼きたての生地は温かく、バターの香りと蜂蜜の甘さの後に、オレンジジャムの爽やかな酸味が広がった。
その様子を見ていた少女は、小さく頷く。
恐る恐る口元へ運び、小さく一口。
「……!」
少女の目が大きく見開かれる。
焼きたての生地は柔らかく温かい。
バターの豊かな香り。
とろりと溶けた蜂蜜の濃厚な甘さ。
そして、いちごジャムの甘酸っぱさが口いっぱいに広がっていく。
森で採った果物を口にしたことはあるのだろう。
だが、蜂蜜や砂糖で作られた菓子は初めてのはずだ。
少女は何も言わず、もう一口かじる。
口いっぱいに広がる甘さを確かめるように、ゆっくりと噛み締めた。
「……おいしい、です」
その一言は、とても小さかった。
それでも、心から零れた言葉だと分かった。
……文字だけじゃない。
この少女は、世界そのものを知らない。
読み書き。
計算。
歴史。
金の使い方。
人として生きるために必要なことを、一つも教わらずに生きてきた。
自分で選べないのではない。
選ぶために必要な知識がない。
……俺には足りない。
この少女には、世界を教えられる人間が必要だ。
最後の一口を食べ終える頃には、少女の表情もどこか柔らかくなっていた。
ふと見ると、口元に赤いいちごジャムが付いている。
「口元に付いてるぞ」
「え……?」
少女は慌てて袖で口元を拭おうとする。
「服で拭くな」
「……っ」
少女の手が途中で止まる。
「で、でも……」
俺は収納袋から布切れを取り出し、少女へ差し出した。
「今はこれを使え」
少女は戸惑いながら受け取り、そっと口元を拭う。
「……ありがとうございます」
「後で、お前用の手拭いを買う」
「……はい」
まだ知らないだけだ。
何を使えばいいのか。
どう振る舞えばいいのか。
一つずつ覚えていけばいい。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
これからの展開は......
うん、そうだね。教育だね。




