第12話 居場所
朝日が窓から差し込む。
いつもと同じ朝だった。
目を覚まし、身支度を整える。
扉が開く。
「おはようございます」
いつものように、女の人が優しく笑った。
「朝ご飯にしましょう」
私は小さく頷き、部屋を出る。
廊下を歩く。
毎日歩いた道。
変わらない景色。
変わらない朝。
そのはずだった。
「……今日で三十日ですね」
不意に、女の人がぽつりと呟いた。
私は思わず足を止める。
「え……?」
「あなたがここへ来てから、今日でちょうど三十日です」
三十日。
その言葉を聞いた瞬間、小さく息を呑んだ。
胸の奥が、どくりと跳ね上がる。
今日。
今日が、約束の日。
『三十日後、その時、お前がまだ俺のところへ来たいと思うなら迎えに来る』
あの低い声が、胸の中で蘇る。
心臓が少しずつ速くなる。
手のひらに、汗が滲んだ。
私は……。
まだ。
答えを出せていない。
女の人は立ち止まり、私の方を振り返った。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
そう答えた声は、自分でも分かるくらい小さかった。
食堂へ向かう。
いつもと同じ匂い。
いつもと同じ席。
いつもと同じ温かいスープ。
だけど。
今日は何も変わらないはずなのに、何もかもが違って見えた。
「どうぞ」
焼きたてのパンが目の前に置かれる。
いつも通りに手を伸ばす。
けれど、指先は少し震えていた。
慣れた動きなのに、ぎこちなくなる。
「……緊張していますか?」
炊事係の女の人が、優しく笑う。
私は少し迷ってから、小さく頷いた。
「今日、大切な約束があるんです」
その言葉に、女の人は驚いたように目を丸くした。
けれど、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「そうでしたか」
それ以上は聞いてこなかった。
何も聞かない優しさが、少しだけ嬉しかった。
私はゆっくりとスープを口に運ぶ。
温かい。
いつもと同じ味のはずなのに、今日はほとんど味が分からなかった。
朝食を終え、部屋へ戻る。
約束の時間はまだ来ない。
椅子へ座る。
立ち上がる。
窓の外を見る。
また座る。
落ち着かなかった。
何をしていても、耳は廊下の音を追ってしまう。
誰かが歩く足音。
扉が開く音。
誰かの話し声。
そのたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。
でも。
私の部屋の前は、そのまま通り過ぎていく。
ほっとする。
それと同時に、少しだけ寂しくなる。
そんなことを何度も繰り返した。
影が段々と伸びていく。
もう来ないのだろうか。
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
すぐに首を振った。
違う。
あの人は約束をした。
だから、来る。
信じようと思った、その時だった。
コンコン。
静かな部屋に、扉を叩く音が響く。
「失礼します」
聞き慣れた女の人の声だった。
扉が静かに開く。
「お待たせしました」
女の人は柔らかく微笑みながら言う。
「お迎えの方がお見えになりました」
その言葉を聞いた瞬間。
胸が、大きく鳴った。
私は、息をすることさえ忘れていた。
あの人が迎えに来てくれた。
胸の奥が熱くなる。
けれど、その熱とは裏腹に、体は動かなかった。
約束は、守られないものだと思っていた。
だから、人に期待することも覚えなかった。
それでも、本当に来てくれるとは思っていなかった。
「……行きましょうか」
女の人が優しく声を掛ける。
私は、小さく頷く。
「……はい」
部屋を出る。
廊下を歩く。
たったそれだけなのに、足が重かった。
一歩。
また一歩。
歩くたびに、胸の鼓動が大きくなる。
あの人は、本当に来てくれた。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
まだ、どこか信じられない自分がいた。
私は何を言えばいいのだろう。
うまく話せる気がしなかった。
それでも。
会いたい。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
女の人が階段を下りる。
私はその後を追う。
見慣れた役所の廊下。
三十日過ごした場所。
今日で、この景色ともお別れになるのだろうか。
そんなことを思いながら歩いていると、女の人が一つの扉の前で足を止めた。
「こちらです」
静かに扉をノックする。
「お連れしました」
その声とともに、扉がゆっくりと開く。
私は、自然と部屋の中へ視線を向けた。
窓から差し込む柔らかな光。
机を挟んで立つ役人。
そして――。
黒いローブを纏った、あの人。
変わらない姿だった。
無愛想な表情も。
静かにこちらを見る瞳も。
何一つ変わっていない。
その姿を見た瞬間。
部屋の中にいたはずの人たちの気配が、すっと遠くなった気がした。
私の目には、あの人しか映らない。
……本当に、来てくれた。
約束は、守られた。
その事実だけが、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
夢ではないのだろうか。
そう思ってしまうほど、現実味がなかった。
期待してはいけないと思っていた。
だからこそ、目の前の光景が、まだ現実とは思えない。
目を離したら、消えてしまいそうな気さえした。
「お待たせしました」
案内してくれた女の人が一歩下がる。
その声で、ようやく私は現実へ引き戻された。
部屋にいた役人が、机の上の書類へ目を落とし、一枚を手に取る。
「では、手続きを始めます」
静かな声が部屋に響く。
役人は書類へ目を通しながら、ゆっくりと顔を上げた。
その視線が、まっすぐ私へ向けられる。
「本日をもちまして、一時保護期間は終了となります」
一拍置き、穏やかな口調で続けた。
「まず、お聞きします」
部屋の空気が静まり返る。
「あなたは、ご自身の意思で、この方と共に行くことを希望しますか?」
その問い掛けに、私は小さく息を吸った。
自然と、あの人へ視線が向く。
あの人は何も言わない。
急かすことも。
頷くことも。
ただ静かに、私の返事を待っていた。
――選べ。
三十日前。
あの人から言われた言葉が、胸の奥で静かに蘇る。
私はまだ分からない。
何のために生きたいのか。
何をしたいのか。
これから、どう生きていきたいのか。
その答えは、まだ見つかっていない。
でも。
もし、また迷ってしまったら。
あの人なら。
――選び方を、教えてくれる気がした。
まだ答えがなくてもいい。
答えを探すために。
私は、この人を選びたい。
私は一歩前へ進み、役人の方を向いた。
「……私は」
少しだけ震える声で、それでもはっきりと言葉を紡ぐ。
「この人と、一緒に行きたいです」
部屋の中が静まり返る。
女の人は私の言葉を静かに受け止めるように一度頷き、机の上の書類へ視線を落とした。
役人は書類へ最後の一筆を書き加えると、静かに顔を上げた。
「これで手続きは終了となります」
書類を受け取り、収納袋へしまう。
役人は一枚の書類に目を落としたまま続ける。
「なお、この子についてですが、出生の記録は確認できませんでした」
「ああ」
「本人も年齢は分からず、奴隷商の帳簿にも記載はありません」
そこで一度言葉を区切る。
「そのため、役所では骨格や成長具合などから、推定で八歳前後と判断しております」
事務的な口調は変わらない。
少女は少しだけ驚いたように役人を見た。
自分にも分からなかったことだ。
無理もない。
「もちろん正確な年齢ではありません。あくまで推定です」
役人は書類を閉じる。
「ですが、成長期の子どもであることは間違いありません」
今度は俺へ視線を向けた。
「ですので、一つお願いがあります」
「何だ?」
「栄養のある食事を、きちんと食べさせてあげてください」
少女へ目を向ける。
三十日前より顔色は良くなったが、それでも腕は細く、同年代の子どもと比べれば明らかに痩せている。
「これまで十分な食事を与えられていたとは思えません。急ぐ必要はありませんが、少しずつ体をつくってあげてください」
「ああ」
短く返す。
役人は小さく頷き、続けた。
「それと、無理はさせないことです。まだ体は十分に育っていません」
「……もう一つだけ」
一度、少女へ視線を向ける。
「この子は、言われたことはきちんとこなすでしょう」
「ですが、自分から何かを選んだり、望みを口にしたりすることには、まだ慣れていません」
「嫌でも『嫌だ』とは言えず、困っていても一人で抱え込むかもしれません」
「最初のうちは、時々で構いません。本人の意思を聞いてあげてください」
「焦らず、少しずつ見守ってあげてください」
「ああ」
それだけ答える。
役人は安堵したように、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
短く礼を告げると、机の上の書類を整える。
これで、本当に手続きは終わった。
役人は少女へ視線を向ける。
「短い間でしたが、お元気で」
少女は少し驚いたように目を瞬かせ、小さく頭を下げた。
「……お世話になりました」
か細い声だった。
けれど、その言葉には確かな気持ちが込められていた。
役人も穏やかに微笑み返す。
「こちらこそ」
案内役だった女も、一歩前へ出た。
「あなたと過ごした三十日は、とても楽しかったですよ」
少女は目を丸くする。
「毎朝ちゃんと返事をしてくれて、お手伝いも一生懸命で」
「炊事場のみんなも、あなたのことを可愛い子だって話していたんです」
少女は何と言えばいいのか分からず、ただ小さく俯いた。
「……ありがとうございました」
その一言を絞り出す。
女は優しく微笑み、少女の頭をそっと撫でた。
「自分を大切にしてくださいね」
少女は静かに頷く。
「……はい」
それだけで十分だった。
俺は扉へ向かう。
「行くぞ」
少女は小さく返事をする。
「……はい」
役人へ背を向けると、少女も俺の後ろを追うように歩き出した。
役人の言葉が頭に残る。
栄養のある食事。
無理はさせるな。
そして、自分で選ぶことに慣れていない。
食事なら用意すればいい。
体のことも気に掛ければいい。
だが――考え方は違う。
俺は誰かに教わったことがない。
だから、教え方も知らない。
……選び方を教える。
考えて答えを出すのは、本人だ。
俺が代わりに決めることではない。
なら、俺にできることは一つだ。
自分で選べる環境を用意する。
迷う時間を与える。
答えを急がせない。
それで十分だろう。
俺は扉を開く。
外の空気が静かに流れ込んできた。
三十日前、この場所へ少女を預けた。
そして今日、少女は自らの意思でここを出る。
俺は歩き出す。
後ろから、小さな足音が続いた。
振り返ることはしない。
歩く道を決めるのは、俺ではない。
選ぶのは、少女自身だ。
俺は、そのための居場所を用意する。
小さな足音は、途切れることなく俺の後を追う。
新しい日々が、静かに始まる。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この二人の出会った経緯はいかがだったでしょうか?
これからもよろしくお願いします!




