第10話 考えるということ
目を覚ます。
見慣れない天井だった。
雨漏りの跡もない白い天井。
しっかりとした木の柱。
小さな窓から朝日が差し込み、部屋を静かに照らしている。
誰も怒鳴らない。
鞭の音もしない。
鎖が床を擦る音も聞こえなかった。
それでも、体は勝手に縮こまっていた。
命令が来る。
そう思っていたから。
けれど、いつまで待っても誰も怒鳴らない。
しばらく天井を見つめたまま動けなかった。
背中にある柔らかなベッドの感触に慣れず、ここがどこなのか、一瞬だけ分からなくなる。
ゆっくりと身体を起こす。
首元へ手を伸ばすと、指先に触れたのは、自分の肌だけだった。
昨日のことを思い出す。
支配の魔術師と名乗った優しい人。
役所。
そして――
『三十日考えろ』
低く、感情の見えない声だった。
その言葉だけが、何度も頭の中で繰り返される。
考える。
何を。
どうやって。
私には分からない。
今まで考える必要なんてなかった。
言われたことだけをやればよかった。
朝は起こされる。
仕事を命じられる。
終われば次の仕事を命じられる。
それだけだった。
だから。
考え方なんて知らない。
扉が、小さく叩かれた。
「失礼します」
昨日のおじいさんではない。
若い女の人だった。
優しそうに笑っている。
「起きていますか」
「……はい」
慌てて返事をする。
「朝ご飯の用意ができています。一緒に来てもらえますか」
私は小さく頷いた。
「……はい」
女の人の後ろを歩く。
廊下には何人もの大人がいた。
紙を抱えて歩く人。
誰かと話している人。
忙しそうに歩いているのに、誰も怒鳴らない。
誰も私を蹴らない。
それだけで落ち着かなかった。
部屋へ入る。
ちらほらと綺麗な身なりをしている知らない子供達が食事をしている。
空席の一つに湯気の立つお皿が置かれていた。
白いスープ。
黒いパン。
「どうぞ、お座りください」
女の人が椅子を引いてくれる。
私は恐る恐る座った。
温かい匂いが食欲を刺激する。
こんな食事を、自分のためだけに用意されたことなんて一度もなかった。
勝手に食べていいのだろうか。
怒られないだろうか。
分からずにいると、「食べていいですよ」と女の人が声を掛けてきた。
その言葉を聞いて、許されたようで安心する。
「いただきます」
スプーンでスープを掬い上げる。
心なしか手が震えているように感じる。
ゆっくりと口に運ぶ。
温かかった。
それだけで胸の奥が少しだけ熱くなった。
「美味しい……」
言葉が漏れ出る。
「それはよかったです」
黙々と食べ続ける。
食べ終えると、お皿を持って立ち上がる。
片付けなければ。
そう思った。
「あ、そのままで大丈夫ですよ」
女の人が優しく言う。
「私たちが片付けますから」
そのままでいい。
何もしなくていい。
そんなことを言われたことがなかった。
お皿を持ったまま立ち尽くす。
「どうしました」
「……何を、すればいいですか?」
女の人は少しだけ困ったように笑った。
「今は何もしなくて大丈夫ですよ」
何もしない。
それが一番難しかった。
何も命じられない。
何をすればいいのか分からない。
女の人は私を急かすこともなく言った。
「今日は体を診てもらいます。それから、お話も少しだけ聞かせてください」
私は黙って頷いた。
また後ろを歩く。
案内された部屋には、白い服を着た女の人が待っていた。
「こんにちは」
優しい声だった。
言われるまま椅子へ座る。
「少し体を診ますね」
私は身を強張らせた。
怒られる。
そう思った。
だが、違った。
「腕を見せてください」
袖をまくる。
腕を見られる。
傷を見られる。
額へ手を当てる。
「熱はありませんね」
白い服の女の人は、近くにあった紙へ何かを書いた。
「次は背中を見せてもらえますか」
服を少し下ろす。
部屋が静かになる。
背中には、たくさんの傷が残っていた。
新しい傷。
古い傷。
もう白くなった傷。
「痛いところはありますか」
「……ありません」
本当は少し痛い。
でも、このくらいは痛いうちに入らなかった。
「ありがとうございます」
白い服の女の人は、また紙へ何かを書いた。
服を整える。
「では軽く質問に答えてください」
その後は一つずつ聞かれてきた。
歩けるか。
眠れたか。
見えるか。
聞こえるか。
私は、そのたびに小さく答えた。
「……はい」
「……大丈夫です」
それだけだった。
白い服の女の人は最後に頷く。
「命に関わるような怪我はありません。栄養不足ではありますが、まともな食事を続ければ少しずつ戻るでしょう」
女の人も安心したように息を吐いた。
「ありがとうございます」
部屋を出ると、今度は別の部屋へと案内される。
机が置かれている。
昨日、あの人と話していたおじいさんが座っていた。
「来ましたか。どうぞ座ってください」
言われた通り椅子へ座る。
おじいさんは紙を見ながら静かに尋ねた。
「覚えている範囲で構いません」
「商隊の名前は分かりますか」
私は首を横に振る。
「主人の名前は」
分からない。
「どこから来ましたか」
分からない。
「家族はいますか」
分からない。
答えられることが、何もなかった。
おじいさんはため息を吐くこともなく、紙へ静かに何かを書き込む。
「そうですか」
責めることはしなかった。
それが私には不思議だった。
少し間を置いて、おじいさんが尋ねる。
「文字は読めますか」
私は首を横に振る。
「書けますか」
分からない。
書いたことがない。
「計算は」
分からない。
数を数えることしか知らない。
おじいさんは頷き、紙を閉じた。
「今日はもういいでしょう」
立ち上がろうとした時だった。
私は恐る恐る口を開く。
「あの……」
「何でしょう」
昨日から、ずっと気になっていたことがあった。
あの人が、自分で名乗った名前。
私には何も分からない。
だから聞くしかなかった。
「……支配の魔術師って……何ですか?」
「昔から語り継がれている、恐怖と戒めの物語ですよ」
おじいさんは穏やかな口調で話し始めた。
「――人の心を操り、自由な意思を奪った魔術師」
「――魔物を従え、幾つもの国を滅ぼしたとされる魔術師」
「――この世界の理さえ支配したと語られる、最恐の魔術師です」
まるで昔話を聞かせるような、穏やかな語り口だった。
「もっとも、今では伝承のようなものですがね」
おじいさんは小さく笑う。
「依頼組合には今でも特別手配書が貼られています。しかし、本気で生きていると思っている者はほとんどいません」
「何百年も昔の人物ですから」
隣にいた女性も頷く。
「私も子どもの頃は怖がらされましたよ。『悪い子にしていると支配の魔術師が来る』って」
「でも、大人になってからは信じなくなりました。そんな人が今も生きているなんて、誰も思っていませんから」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
私は笑えなかった。
俯き、服の裾をそっと握り締める。
世界中が恐れる魔術師。
怪物。
最恐。
そんな言葉が耳に入ってくる。
けれど、私の胸に浮かんだのは、まったく違う姿だった。
雨の降る森。
冷え切った体に掛けられた黒いローブ。
ぶっきらぼうに差し出された食べ物。
「勝手にしろ」
たったそれだけを言って、自分は少し離れた場所で眠っていた人。
怖かった。
近寄り難いとも思った。
それでも。
怒鳴られたことはない。
殴られたこともない。
命令されたこともない。
あの人は、優しかった。
私は思い出す。
雨の中、迫ってきた大きな魔物。
ただ静かに口を開き、
『自分で喉でも裂いて死ね』
そう言っただけだった。
次の瞬間、魔物は自ら喉を裂き、倒れた。
私には何が起きたのか分からなかった。
ただ一つだけ分かる。
あれは夢でも幻でもない。
確かに、この目で見た。
だから、おじいさんの話も、本当なのかもしれない。
でも。
それでも。
(……優しい人だった)
それだけは、忘れられなかった。
私に食べ物をくれたこと。
首輪を壊してくれたこと。
三十日、自分で考えろと言ってくれたこと。
全部、本当にあったことだ。
どちらかが嘘ではない。
どちらも本当なのだ。
だから私には分からなかった。
どうして、そんな人が自分には優しかったのか。
その答えだけが、どうしても見つからなかった。
部屋を出る。
「では、お部屋にもどりましょうか」
廊下は静かだった。
窓から差し込む昼の光が、床へ長く伸びている。
案内してくれた女の人が扉を開けた。
「今日はゆっくり休んでください」
「何か困ったことがあれば、近くにいる者へ声を掛けてくださいね」
「……はい」
小さく返事をする。
扉が静かに閉まった。
一人になる。
部屋には静けさだけが残った。
部屋の隅で膝を抱え、考える。
何をすればいいのか分からない。
掃除をしなくていい。
洗濯もしなくていい。
命令もない。
怒鳴り声も聞こえない。
だから、身体だけが落ち着かなかった。
ここは、本当に奴隷商隊とは違う場所だった。
それでも。
胸の奥には、ぽっかりと穴が空いたような感覚が残っている。
あの人は、今頃何をしているのだろう。
街にいるのだろうか。
森へ行ったのだろうか。
それとも、もう私のことなんて忘れてしまったのだろうか。
昨日。
役所を出ていく背中を思い出す。
一度も振り返らなかった。
きっと、それがあの人らしい。
でも。
『三十日後、その時、お前がまだ俺のところへ来たいと思うなら迎えに来る』
あの言葉だけは、はっきりと覚えている。
迎えに来る。
そんな約束をしてくれた人は、生まれて初めてだった。
私は、そっと自分の胸へ手を当てる。
三十日。
その間に、考えなければいけない。
でも、それすらも分からなかった。




