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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第10話 王都では、私が魔女になっていました

 王都で噂が広がる速度は、毒よりも早い。


 そのことを、私は知識としては知っていた。


 社交界とは、笑顔で茶を飲みながら人を裁く場所だ。

 誰かの失言。誰かの婚約。誰かの失敗。誰かの涙。

 それらは香りのよい紅茶に溶かされ、砂糖菓子のように小さく切り分けられ、あっという間に広間から広間へ、馬車から馬車へ、手紙から手紙へと広がっていく。


 けれど、自分自身がその噂の中心になると、知識は何の役にも立たなかった。


 翌日の昼前。


 クラウゼル公爵家の小さな応接室に、いくつもの手紙と報告書が並べられた。


 私は寝台から出る許可を、かなり渋い顔のオルド医師からようやくもぎ取った。

 正確には、もぎ取ったというより、レオンハルト公爵とマルタとオルド医師の三人による協議の末、「暖炉の前の長椅子に座るだけなら」という条件付きで許された。


 私は椅子に座り、膝に厚手の膝掛けを乗せられ、背中にはクッションを二つ入れられている。


 病人というより、割れ物だった。


「……少し、大げさではありませんか」


 私が言うと、マルタは真顔で答えた。


「大げさで済むうちは、大げさにいたします」


「名言のように聞こえますね」


「経験則です」


 レオンハルト公爵は向かいの席で書類を整えている。


「寒くないか」


「寒くありません」


「本当に?」


「本当です」


「手が冷えている」


「それは、書類を見る前から緊張しているだけです」


「なら温めろ」


 そう言って、公爵は卓上の小さな湯たんぽを私の方へ押した。


 銀の蓋がついた布袋入りの湯たんぽ。


 私はそれを見て、少し黙った。


「……公爵閣下」


「何だ」


「これも妹君の指示書に?」


「いや。マルタだ」


「さすがマルタさんです」


「旦那様は、湯たんぽの存在を忘れがちですので」


「忘れるものなのですか」


「旦那様はご自分の体調に関するものをだいたい忘れます」


 マルタが淡々と言う。


 レオンハルト公爵は否定しない。


「必要なら思い出す」


「必要になる前に思い出してくださいませ」


「努力する」


「昨日から努力することが増えていますね」


 私が言うと、レオンハルト公爵は少しだけこちらを見た。


「君のせいだな」


「私のせいですか」


「君に合わせる必要がある」


 その言い方に、胸が少し跳ねた。


 合わせる。


 誰かが私に合わせるという発想が、私にはあまりなかった。

 いつも、私が合わせる側だったからだ。


 父に。

 王太子殿下に。

 セレーネに。

 王宮に。

 家に。


 私は湯たんぽを膝の上に置き、指先を温めた。


「では、私も少しは努力します」


「何を」


「倒れない努力を」


「それは重要だ」


「真顔で言われると、少し腹立たしいです」


「なぜだ」


「私にも分かりません」


 マルタが小さく咳払いをした。


 たぶん笑った。


 その小さな会話の後、レオンハルト公爵は一枚目の報告書を私の前に置いた。


「読む前に言っておく」


「はい」


「書かれている内容は、事実ではない」


 私は紙を見る。


 読み始める前から、胸が重くなった。


「分かっています」


「分かっていても傷つく」


「……はい」


「傷ついたら、傷ついたと言え」


「言えなかったら?」


「紙を裏返せ」


「合図ですか」


「ああ」


「公爵閣下にしては、分かりやすいです」


「マルタの案だ」


「やはり」


 私は小さく息を吸った。


 そして、報告書に目を落とす。


 最初の噂は、こうだった。


『アルヴィナ公爵令嬢エリシアは、妹君への嫉妬から王太子殿下へ毒を盛った。処刑直前、クラウゼル公爵を色香で惑わし、罪を逃れた』


 色香。


 思わず、自分の姿を見下ろした。


 淡い青灰色の室内着。

 包帯を巻いた手首。

 まだ熱の残る顔。

 膝には湯たんぽ。

 背中にはクッション。


 色香という言葉から、これほど遠い女も珍しいのではないだろうか。


「……公爵閣下」


「何だ」


「私は今、色香で人を惑わせられそうに見えますか」


 レオンハルト公爵が、私をまじまじと見た。


 本当にまじまじと。


 私はだんだん恥ずかしくなってきた。


「そんなに真剣に確認しないでください」


「見えない」


「即答も少し傷つきます」


「では、どう言えばいい」


「そこは、病み上がりなので今は難しい、くらいで」


「病み上がりなので今は難しい」


「言い直すと余計に微妙ですね」


「そうか」


 マルタが横で目を閉じていた。


 たぶん、何かを堪えている。


 私は報告書をもう一度見た。


 腹立たしい。

 でも、少しだけ笑えたおかげで、最初の衝撃は和らいだ。


「この噂は、私を毒婦にして、公爵閣下を愚かな男にしたいのですね」


「そうだ」


 レオンハルト公爵が頷く。


「私が君に惑わされたことにすれば、私の異議申し立ての正当性を弱められる」


「女に騙された男の言うことは信用できない、と」


「そういうことだ」


「失礼な噂ですね。私にも、公爵閣下にも」


「ああ」


「公爵閣下は怒らないのですか」


「怒っている」


 私は彼の顔を見た。


 いつも通りの無表情だった。


「……怒っている顔には見えません」


「よく言われる」


「でしょうね」


「だが、怒っている」


 彼は淡々と言った。


「君を侮辱し、私の判断を侮辱し、事件の本質を隠そうとしている」


 その声が低かった。


 顔には出ない。

 けれど、たしかに怒っている。


 私は、胸の奥に小さな熱が灯るのを感じた。


 自分が傷つけられたことよりも、彼が怒っていると知ったことの方が、なぜか心に響いた。


「次だ」


 レオンハルト公爵が二枚目を出す。


 私は読む。


『セレーネ嬢は姉の凶行に心を痛め、王太子殿下も深く苦しんでいる。にもかかわらず、エリシア嬢は罪を認めず、王宮で妹君を責め立てた』


 これは胸に刺さった。


 紙を裏返そうか迷った。


 でも、まだ読める。


 私は指先に力を入れた。


「これは、セレーネを被害者にする噂ですね」


「ああ」


「殿下も被害者。私は加害者」


「そう作られている」


「私が妹を責め立てた、という部分は……完全な嘘ではありません」


 レオンハルト公爵がこちらを見る。


 マルタも静かに視線を上げた。


「私は、セレーネに聞きました。いつ、どこで私を見たのか。なぜそう証言したのか。あの子は泣きました。だから、見方によっては責め立てたように見えるかもしれません」


「事実確認だ」


「でも、あの子は泣いた」


「涙は、質問を禁じる理由にはならない」


 短い言葉だった。


 私は息を吐く。


「……そうですね」


「君は、泣いた相手をすぐ優先する癖がある」


「あります」


「セレーネ嬢が泣く。殿下が怒る。父親が不機嫌になる。君は黙る」


「よくお分かりで」


「分かりやすい」


「それは褒めていますか」


「いや」


「でしょうね」


 少し苦笑した。


 でも、その通りだった。


 私は誰かの感情が大きく動くと、自分の言葉を引っ込める。

 場を収めるために。

 相手を傷つけないために。

 面倒なことにならないために。


 その癖のせいで、私は何度も自分を後回しにしてきた。


「泣いた人が正しいとは限らない」


 マルタが静かに言った。


 私は彼女を見る。


 マルタは刺繍の布を膝に置いたまま、まっすぐ私を見ていた。


「痛む者が、必ず善良というわけではございません。泣いている方が、誰かを傷つけていないとも限りません」


「……はい」


「もちろん、泣いている方を粗末にしていいわけでもございません」


「難しいですね」


「人間ですから」


 その言葉は、あまりにも簡単で、あまりにも正しかった。


 人間だから難しい。


 セレーネも。

 ユリウス殿下も。

 父も。

 私も。


 悪人と被害者に簡単に分けられれば楽なのに、そうはいかない。


 でも、難しいからといって、私の罪が作られていいわけではない。


「次を」


 私は言った。


 レオンハルト公爵は、少しだけ私を見た。


「無理ではないか」


「少し痛いです」


「なら止めるか」


「いいえ。痛いので、読みます」


「どういう理屈だ」


「読まないまま痛いより、読んで理由が分かる方がましです」


 レオンハルト公爵は、ほんのわずかに目を細めた。


「分かった」


 三枚目。


『エリシア嬢は以前から冷酷な令嬢として知られていた。妹君を日常的に見下し、王太子殿下にも高圧的に振る舞っていた』


 冷酷。


 見下し。


 高圧的。


 私はゆっくり息を吐いた。


「これは、元々の私の評判を利用していますね」


「心当たりがあるのか」


「あります」


 私は紙を膝の上に置いた。


「私は、王宮ではあまり笑いませんでした。正確には、必要な時以外は笑わないようにしていました。失言をしないために。軽く見られないために。王太子妃候補として、幼く見えないために」


「それが冷酷に見えた」


「はい」


「妹を見下していたというのは」


「……セレーネの失敗を、何度も訂正しました」


 言いながら、胸の奥が少し痛む。


「挨拶の順番。手紙の敬称。食事会での話題。貴族家の家名。あの子が間違えるたびに、私は直しました。人前で恥をかかないように」


「それが見下しているように見えた」


「セレーネには、そう見えていたのかもしれません」


 私は小さく笑う。


「私も、優しくありませんでした。もっと言い方があったと思います。でも、私も余裕がなかった」


 いつも時間に追われていた。

 王太子妃教育。

 王宮の書類。

 家の管理。

 セレーネの面倒。

 父の期待。

 殿下の失敗の後始末。


 妹の心に寄り添う余裕なんて、なかった。


 だからといって、私に毒殺未遂の罪を着せていい理由にはならない。


「ここが厄介だな」


 レオンハルト公爵が言った。


「完全な嘘ではない部分を混ぜている」


「はい」


「君が笑わなかった。セレーネ嬢を注意した。殿下に意見した。それらを、冷酷、見下し、高圧的という言葉に変えている」


「言葉を変えるだけで、ずいぶん印象が変わりますね」


「噂はそういうものだ」


 レオンハルト公爵は、別紙に三つの噂を書き分けた。


 一つ目。毒婦、色香、冷血公爵を籠絡。

 二つ目。可哀想な妹、苦しむ王太子、責め立てる姉。

 三つ目。冷酷な令嬢、高圧的、以前から問題があった。


 彼はその横に、流通経路らしきものを書き足す。


 商人筋。

 王妃宮周辺。

 王太子派の若い貴族。

 アルヴィナ家に近い夫人たち。


 私はそれを見ながら、少しずつ気持ちが変わっていくのを感じた。


 最初は、ただ怖かった。


 自分が外でどう言われているのか。

 どれほど悪女にされているのか。

 誰が私を笑っているのか。


 けれど、こうして並べると、噂はただの刃物ではなくなった。


 形がある。

 方向がある。

 意図がある。


 なら、読める。


 私は悪口としてではなく、資料として噂を見ることができる。


「公爵閣下」


「何だ」


「噂は、複数の場所から出ているように見えます」


「ああ」


「でも、全部が同じ方向を向いています。私を悪女にし、セレーネを被害者にし、公爵閣下の保護を不当なものにする」


「その通りだ」


「つまり、目的は私の評判を落とすことだけではない」


 私は紙を指で押さえた。


「再調査そのものを無効にしたい。公爵閣下が私情で動いていることにしたい。そうすれば、毒瓶や席順の不自然さを調べる前に、世論で押し切れる」


 レオンハルト公爵が、少しだけ目を細めた。


「よく見えている」


 その言葉に、胸が小さく跳ねる。


 褒められた。


 たぶん。


「……ありがとうございます」


「褒めている」


「分かりました」


「分かりにくかったか」


「少し」


「次から先に言う」


「いえ、それはそれで恥ずかしいので大丈夫です」


「難しいな」


「人間ですので」


 マルタが先ほどの言葉を返すように言うと、レオンハルト公爵は真面目に頷いた。


「そうか」


 少しだけ空気が緩んだ。


 けれど、すぐにマルタが新しい手紙を一通、卓上に置いた。


「こちらは、今朝届いたものです。差出人は不明。門番が受け取った時には、すでに差出人は去っていたとのことです」


「私宛てですか」


「はい」


 封筒には、私の名が書かれていた。


 エリシア・フォン・アルヴィナ様。


 もう、クラウゼル公爵家の保護下にいるはずなのに、アルヴィナ姓で呼ばれる。

 それだけで、少し胸がざわついた。


 レオンハルト公爵が手を伸ばす。


「先に確認する」


「お願いします」


 彼は封を切り、中の紙を開いた。


 目を通した瞬間、眉がわずかに動いた。


 珍しい反応だった。


「何と?」


 私は尋ねた。


 レオンハルト公爵は黙ったまま、手紙をこちらへ渡すべきか迷っているようだった。


 その沈黙だけで、良い内容ではないと分かる。


「読みます」


「読まなくていい」


「そこまで言われると、余計に気になります」


「燃やすか」


「まだ読んでいません」


「読まずに燃やす手もある」


「合理的ですが、今は違います」


 レオンハルト公爵は、渋々といった様子で手紙を渡した。


 紙は安物だった。

 字も乱れている。


 そこには、短くこう書かれていた。


『魔女は北の狼に守られても魔女のまま。

 妹君の涙を返せ。

 王太子殿下に膝をついて詫びよ。

 さもなくば、次は首では済まない』


 指先が冷えた。


 魔女。


 今度は、悪女でも毒婦でもない。


 魔女。


 人ではないもの。

 裁かれて当然のもの。

 燃やされても仕方のないもの。


 私は、紙を持ったまま黙った。


 胸が苦しい。


 さっきまで資料として見られていた噂が、急に生々しい悪意として迫ってくる。


 誰かが、私にこれを書いた。

 私に読ませるために。

 私を怖がらせるために。


「紙を裏返せ」


 レオンハルト公爵の声がした。


 はっとする。


 合図。


 私は手紙を裏返した。


 指が震えている。


 レオンハルト公爵がすぐに手紙を取り上げた。


「十分だ」


「……はい」


 声が小さくなる。


 悔しい。


 こんな紙一枚に、身体が反応してしまう。


 レオンハルト公爵は手紙を机に置き、マルタに言った。


「門番を呼べ。受け取った時刻、差出人の背格好、使われた封蝋の有無、紙の質、すべて確認する」


「承知しました」


「手紙は保管する。燃やすな」


「はい」


 私は手紙を見た。


「燃やさないのですか」


「証拠だ」


 レオンハルト公爵は言った。


「君を傷つけるために届いたものだ。なら、傷だけで終わらせない」


 胸の奥が震えた。


 傷だけで終わらせない。


 そうか。


 これは私を傷つけた。


 でも、同時に証拠にもなる。


 悪意は、形を持った瞬間に追えるものになる。


「……私、少し分かりました」


「何を」


「噂も手紙も、怖いです。正直、今すぐ布団に戻って全部忘れたいくらいです」


「戻るか」


「戻りません」


 私は湯たんぽを握った。


 まだ温かい。


「でも、怖いものを怖いまま眺めていると、ずっと怖い。だから、形を見ます。言葉を見ます。誰に得があるかを見ます」


 レオンハルト公爵が静かに私を見る。


「私は、魔女ではありません」


「ああ」


「毒婦でも、色香で人を惑わした女でもありません」


「ああ」


「ただの、濡れ衣の女です」


「そうだ」


 私は深く息を吸った。


「だから、濡れ衣を晴らします」


 マルタが、ほんの少しだけ目を細めた。


「そのためにも、まずお食事です」


 私は思わず彼女を見た。


「今、その流れで食事ですか」


「はい」


「空気が」


「空腹では戦えません」


 マルタの声は揺るがない。


 レオンハルト公爵も頷いた。


「食べろ」


「公爵閣下まで」


「昨日より顔色はいいが、まだ悪い」


「褒めているのか貶しているのか」


「回復傾向を述べている」


「報告書みたいですね」


「事実だ」


 私は力が抜けて、少し笑った。


 怖い手紙の後に、食事の話。


 普通なら情緒がないと思う。

 でも今は、その情緒のなさに助けられた。


 恐怖に沈みきる前に、現実へ戻してくれる。


 食べる。

 眠る。

 温める。

 書き出す。

 考える。


 生きるために必要なことを、一つずつ。


「では、食べます」


 私が言うと、マルタは満足そうに頷いた。


「よろしい」


「ただし、スープにしてください」


「もちろんです」


「昨日より、少し濃い味だと嬉しいです」


 マルタが一瞬、驚いた顔をした。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「厨房に伝えます」


 レオンハルト公爵が言う。


「味は重要か」


「重要です」


 私とマルタの声が重なった。


 公爵は真面目に頷いた。


「覚えておく」


「ぜひ」


 私は膝の上の報告書を見る。


 王都では、私が魔女になっている。


 けれど、この屋敷の応接室では、私は温かいスープの味を少し濃くしてほしいと頼める女だった。


 それだけで、まだ戦える気がした。


 その時、レオンハルト公爵がふと低い声で言った。


「エリシア」


「はい」


「一つ確認したい」


「何でしょう」


「君は、王都の噂を逆に利用できると思うか」


 私は目を瞬いた。


「利用?」


「相手は君を悪女にしたい。なら、その悪女像に食いつく者がいる」


 公爵の指が、報告書の上を叩く。


「噂を流した者。広げた者。面白がっている者。怯えて距離を置く者。逆に、君に接触しようとする者」


 私は、ゆっくりと意味を理解した。


 噂は私を傷つける。

 でも、人も動かす。


 そして人が動けば、痕跡が残る。


「……囮にするのですか」


「君自身を危険には晒さない」


「でも、噂を餌にする」


「ああ」


 レオンハルト公爵は淡々と言った。


「君を魔女にしたがっている者は、魔女が怖がって閉じこもると思っている」


「実際、少し閉じこもりたいです」


「それは構わない」


「構わないのですか」


「体調が戻るまでは閉じこもれ」


「また実用性」


「だが、黙っている必要はない」


 私は背筋を伸ばした。


 黙っている必要はない。


「では、何をするのですか」


「手紙を書く」


「誰に?」


「王都で最も噂好きで、最も口が軽く、最も王妃宮を嫌っている夫人に」


 マルタがそこで、小さく息を吐いた。


「……ロザリンド侯爵夫人ですか」


「そうだ」


「旦那様。あの方は毒にも薬にもなります」


「今回は薬として使う」


「量を間違えると死にますよ」


「分かっている」


 私は二人を見比べた。


「どのような方なのですか、その侯爵夫人は」


 レオンハルト公爵が答える前に、マルタが言った。


「社交界の新聞のような方です」


「新聞」


「ただし、本人に都合の良い見出しがつきます」


「危険そうですね」


「非常に」


 レオンハルト公爵が続ける。


「だが、王妃宮とは折り合いが悪い。王妃が隠したがる話なら、喜んで掘る」


「その方に、私から手紙を?」


「ああ。ただし、泣き言ではない」


「何を書くのですか」


「茶会の席順変更について、覚えていることを尋ねる」


 私は息を呑んだ。


「侯爵夫人は、茶会に?」


「招待されていたが、欠席した。だが、彼女の姪が出席している」


「その方が、席順の変更を見ていたかもしれない」


「そうだ」


 点が、また一つ繋がった。


 私は手元の紙を見た。


 噂に怯えるだけではない。


 動ける。

 まだ、できることがある。


「書きます」


「今すぐではない」


「公爵閣下」


「食事の後だ」


「……分かりました」


 反論しかけたが、マルタの視線でやめた。


 この屋敷では、食事を抜いて作戦を立てることは許されないらしい。


 でも、それでいいのかもしれない。


 私は魔女ではない。


 人間だ。


 だから、食べなければ戦えない。


 しばらくして運ばれてきたスープは、昨日より少しだけ味が濃かった。


 私は一口飲んで、マルタに言った。


「おいしいです」


 マルタは、今度こそ少し笑った。


「厨房に伝えておきます」


 王都では、私が魔女になっていた。


 けれど、ここでの私は、スープの味を伝えられる。


 それは小さなことだ。


 けれど、私がまだ人間としてここにいる証拠だった。


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