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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第11話 ならば私は、悪女らしく証拠を集めます

 ロザリンド侯爵夫人。


 その名を聞いた瞬間、私は思わず姿勢を正した。


 いや、正そうとして、マルタに視線だけで止められた。


「エリシア様。背筋を伸ばしすぎです」


「癖です」


「癖は少しずつ直しましょう」


「侯爵夫人の名前を聞くと、どうしても」


「お気持ちは分かります」


 マルタはそう言いながら、卓上に新しい便箋を置いた。


 厚手の白い紙。

 クラウゼル公爵家の紋章は入っていない。あえて私個人の手紙として出すためらしい。


 目の前には、王都で広がっている噂の報告書。

 魔女、毒婦、色香、妹を責め立てた冷酷な姉。

 読むだけで胃が重くなる言葉が並んでいる。


 けれど今は、その紙を少し違う目で見られるようになっていた。


 これは傷だ。


 でも、傷だけではない。


 誰かが私を傷つけるために選んだ言葉。

 誰かが広げた経路。

 誰かが隠したいもの。


 つまり、手がかりだ。


「ロザリンド侯爵夫人は、社交界ではどのような立場の方なのですか」


 私は尋ねた。


 レオンハルト公爵は椅子に座り、腕を組んでいる。

 その顔はいつも通り読みにくい。


「派閥に属しているようで、属していない」


「それは、かなり面倒な方では?」


「面倒だ」


「即答ですね」


「だが、使える」


「公爵閣下。人を使えると言い切るのは、あまり上品ではありません」


「本人も他人を使う女だ」


「なるほど、似た者同士なのですね」


「私はあそこまで口は軽くない」


「そこは否定なさるのですね」


 マルタが静かに茶を注ぎながら言った。


「ロザリンド侯爵夫人は、王都の噂を食事のように召し上がる方です」


「食事のように」


「はい。そして、気に入った噂は香辛料を足して配ります」


「それは……危険では?」


「非常に危険です」


 マルタの声は平坦だったが、言葉だけで十分に危険だった。


 噂を食事のように食べ、香辛料を足して配る夫人。


 できれば関わりたくない。


 それが正直な感想だった。


 でも、今の私は、関わりたくない相手を避けていられる立場ではない。


「その方は、王妃殿下を嫌っているのですね」


「嫌っているというより、気に食わないのだろう」


 レオンハルト公爵が言う。


「王妃は社交界の噂を管理したがる。ロザリンド夫人は、管理されることを嫌う」


「噂の縄張り争いですか」


「そうだ」


「とても貴族らしくない表現なのに、妙にしっくりきます」


 私は便箋に視線を落とした。


 手紙を書く。


 たったそれだけのことなのに、指先が少し震えていた。


 昨日まで、私は手紙を書く側ではなく、指示された文面を整える側だった。

 王太子殿下の名で出す手紙。

 父の代理で送る礼状。

 セレーネの失礼を取り繕う詫び状。


 いつも、誰かの言葉をきれいに整えていた。


 自分のために、誰かへ手紙を書く。

 それがこんなに緊張することだとは知らなかった。


「エリシア」


 レオンハルト公爵が私を呼ぶ。


「はい」


「無理なら、私が書く」


「いいえ」


 私は首を振った。


「私が書きます」


「手首は」


「少し痛みます」


「なら短く」


「公爵閣下が書くと、短すぎる気がします」


「必要なことだけ書けばいい」


「社交界の手紙は、必要なことだけ書くと喧嘩になります」


「面倒だな」


「面倒です」


 私は少し笑った。


 その笑いで、少しだけ力が抜けた。


「ただし、今回は普通の社交辞令では駄目ですね」


「なぜだ」


「ロザリンド侯爵夫人は、ただ丁寧なだけの手紙には興味を持たないでしょう」


 マルタが頷いた。


「おそらく、読まずに菓子皿の下敷きにされます」


「そんなに?」


「そのくらいはなさいます」


 想像すると、少し怖い。


 私は便箋の白さを見つめながら考えた。


 ロザリンド侯爵夫人が欲しいもの。

 噂。

 それも、ただの噂ではない。


 自分が一番早く掴んだと言える噂。

 王妃宮が隠したがる話。

 社交界で自分の影響力を示せる材料。


 ならば。


「……悪女らしく書きます」


 私が言うと、レオンハルト公爵が眉を動かした。


「悪女らしく?」


「はい」


「どういう意味だ」


「今、王都では私は悪女なのでしょう」


「噂ではな」


「なら、その悪女が怯えて涙ながらに助けを求めても、夫人は面白くないはずです」


 私はゆっくり言葉を選ぶ。


「でも、悪女が自分の噂を利用して、別の噂を差し出してきたら?」


 マルタの目が、わずかに光った。


「興味を持たれるでしょうね」


「はい」


 私は便箋にペン先を置いた。


 手首が少し痛む。

 けれど、書ける。


「私は魔女でも毒婦でもありません。でも、そう呼ばれるなら、利用します」


 言葉にすると、胸の奥に小さな火が灯った。


 怒りとは違う。

 決意とも少し違う。


 開き直りに近かった。


 誰かが勝手に私を悪女にするのなら、その仮面を奪い返して使ってやる。


 ただ泣いて否定するだけでは、きっと届かない。

 なら、相手が用意した舞台に、私の足で上がる。


「ならば私は、悪女らしく証拠を集めます」


 ぽつりと言うと、レオンハルト公爵が私を見た。


「いい顔だ」


「顔色ですか」


「違う。顔だ」


「……それは褒めていますか」


「褒めている」


「分かりにくいですが、ありがとうございます」


 少しだけ耳が熱くなった。


 私はそれを誤魔化すように、手紙を書き始めた。


『ロザリンド侯爵夫人

 突然のお便りをお許しください。処刑台から戻ったばかりの悪女からの手紙など、夫人にとっては朝食前の刺激にも足りないかもしれません』


 書いてすぐ、マルタが小さく息を吸った。


「エリシア様」


「強すぎますか」


「いいえ」


 マルタは少しだけ口元を緩めた。


「夫人は、まず最後まで読むでしょう」


 レオンハルト公爵も覗き込む。


「悪女と自称するのか」


「相手がそう呼ぶなら、先にこちらが使います」


「なるほど」


「公爵閣下には書けない文でしょう」


「書かないな」


「でしょうね」


 私は続けた。


『王都では、私が王太子殿下を毒殺しようとし、妹への嫉妬で正気を失い、さらにクラウゼル公爵を色香で惑わせたことになっているそうです。残念ながら、鏡を見る限り、現在の私は色香より薬湯の匂いが勝っております』


 ここで、レオンハルト公爵が真顔で言った。


「確かに薬湯の匂いがする」


「そこは黙っていてください」


「事実だ」


「事実でもです」


 マルタが咳払いをした。


「旦那様。女性へのご発言としては、控えめに申し上げて不適切です」


「そうか」


「そうです」


「では、薬湯の匂いは悪くない」


「言い直しても駄目です」


 私は笑いそうになりながら、手紙を続けた。


『ですが、悪女にも多少の記憶力はございます。春告げの茶会において、私の席が直前に変更されたこと。王妃宮の侍女がその変更を告げたこと。さらに、夫人の姪君であるリュシエンヌ嬢が、当日の席次について何かご覧になっていたのではないかと存じます』


 ロザリンド侯爵夫人の姪、リュシエンヌ嬢。


 私は茶会で彼女と短く挨拶をした。

 淡い緑のドレスを着た、物静かな令嬢だった。


 彼女は、私が席を移された時、少し不思議そうに見ていた気がする。

 あの時は何とも思わなかった。


 でも、今なら分かる。


 彼女は、見ていたかもしれない。


『もし夫人が、王都で出回っている安い噂より、少し質の良い火種をお求めでしたら、私の記憶と夫人のご記憶を交換していただけませんでしょうか』


 私はそこで筆を止めた。


「交換」


 レオンハルト公爵が呟く。


「はい」


「助けを求めるのではなく、取引にするのか」


「夫人は、その方が好むのでは?」


 マルタが頷いた。


「好まれるでしょう。特に、“安い噂”という表現は効きます」


「怒りませんか」


「怒るより先に笑うと思います」


 私は少しだけ安心した。


 とはいえ、相手は噂を食事のように食べる夫人だ。

 どんな反応をするかは分からない。


 でも、何もしなければ、私はただ魔女にされるだけだ。


『私は、無実を証明したいのです。

 ただし、泣きながら潔白を訴えるだけでは、王都の皆様には退屈でしょう。ですので、少し趣向を変えることにいたしました。

 私を悪女と呼ぶ方々が、どなたからその物語を聞いたのか。どこで、誰が、どの言葉を足したのか。夫人なら、その流れを私よりずっと美しくご覧になれるはずです』


 書きながら、自分でも少し怖くなった。


 私は、こんな手紙を書く女だっただろうか。


 昨日までの私なら絶対に書かない。


 無礼だと思う。

 挑発的だと思う。

 父に知られたら叱られる。

 ユリウス殿下なら「君らしくない」と眉をひそめる。


 でも、君らしいとは何だったのか。


 黙って、謝って、誰かの都合の良い言葉を選ぶことだったのなら。


 もう、その私は死にかけた。


「エリシア」


 レオンハルト公爵が声をかけた。


「はい」


「手が震えている」


「少し怖くなりました」


「やめるか」


「いいえ」


 私は首を振った。


「怖いので、続けます」


「またその理屈か」


「はい」


「悪くない」


 短い言葉だった。


 けれど、その言葉でペンを持つ手が少し落ち着いた。


 最後に、私はこう書いた。


『夫人がこの手紙をつまらないとお感じになったなら、暖炉にくべてくださいませ。

 けれど、少しでも面白いとお思いでしたら、どうかお返事を。

 処刑台に上がり損ねた悪女より、心からの敬意を込めて。

 エリシア・フォン・アルヴィナ』


 書き終えた瞬間、私は深く息を吐いた。


 疲れた。


 手紙一通で、こんなに体力を使うとは思わなかった。


 マルタがすぐにペンを受け取り、私の手首を確認する。


「痛みは?」


「少し」


「少しではなく?」


「……痛いです」


「よろしい。正直です」


「痛いと申告して褒められる日が来るとは思いませんでした」


「この屋敷では、痛みの申告は美徳です」


「独特な屋敷ですね」


「旦那様の屋敷ですので」


 もう何度目か分からない言葉に、私は小さく笑った。


 レオンハルト公爵は手紙を手に取り、最初から最後まで目を通した。


 その横顔は真剣だった。


「どうでしょうか」


 私は尋ねる。


「強い」


「強すぎますか」


「いや」


 彼は手紙を丁寧に畳んだ。


「これなら、ロザリンド夫人は動く」


「本当に?」


「おそらく」


「おそらく」


「彼女は退屈を嫌う。この手紙は退屈ではない」


 それは褒め言葉なのだろうか。


 たぶん褒め言葉だ。


 少なくとも、この場では。


「ただし」


 レオンハルト公爵は続けた。


「危険でもある」


「分かっています」


「ロザリンド夫人は味方ではない」


「はい」


「面白ければ、君の味方をする。もっと面白いものがあれば、そちらへ行く」


「社交界らしい方ですね」


「そうだ」


「では、こちらが一番面白くなり続ける必要がありますね」


 私がそう言うと、レオンハルト公爵は少しだけ目を細めた。


「いい」


「何がですか」


「今の考え方だ」


「悪女らしいですか」


「生き残る者らしい」


 胸の奥が、また少し熱くなった。


 生き残る者。


 悪女でも魔女でもなく。


 生き残る者。


 私は、その言葉を胸の中で小さく繰り返した。


 生き残る。


 そのために、食べる。眠る。傷を治す。証拠を集める。噂を読む。手紙を書く。


 どれも、私の人生を取り戻すための行動だ。


「公爵閣下」


「何だ」


「この手紙を出すことで、私の悪評はさらに広がるかもしれません」


「広がるだろうな」


「そこは少し濁してください」


「濁す意味がない」


「あります。心の準備というものが」


「広がる。だが、形が変わる」


「形?」


「今の噂では、君はただの悪女だ。だがこの手紙が回れば、君は黙っていない悪女になる」


「それは良いことなのですか」


「相手にとっては悪いことだ」


 レオンハルト公爵は淡々と言った。


「黙って処刑台に上がる女と、証拠を集める女では、扱いが違う」


 私は、ゆっくり頷いた。


 怖い。


 でも、悪くない。


 黙っていない悪女。


 王都がそう呼ぶなら、呼べばいい。


 私はその間に、真実を集める。


 マルタが手紙用の封蝋を用意した。


「差出人名は、エリシア様個人でよろしいですか」


「はい」


 私は少し考えてから言った。


「ただ、封筒にはクラウゼル公爵家の使者を使ってください。私がここで保護されていることを、夫人に強く意識していただきたいので」


 レオンハルト公爵が頷く。


「分かった」


「それから、返事は直接こちらへ。途中で王宮やアルヴィナ家を経由しないように」


「当然だ」


「封筒の受け取りは、マルタさんにお願いしても?」


 マルタが礼をする。


「承知いたしました」


 私は、そこまで言ってから、少しだけ笑った。


「私、ずいぶん指示を出していますね」


「悪いことではない」


 レオンハルト公爵が言った。


「君は王宮で、それをしてきたのだろう」


「人のためには」


「なら、自分のためにも使え」


 その言葉に、胸が詰まった。


 私が持っていたもの。


 記憶力。

 段取り。

 礼儀。

 人の動きを読む力。

 書類を整える力。

 誰かが困る前に穴を塞ぐ癖。


 それらはずっと、誰かのために使うものだった。


 父のため。

 王太子殿下のため。

 セレーネのため。

 王宮のため。


 でも、自分のためにも使っていい。


 そう言われて、私は初めて、自分が武器を持っていたことに気づいた。


「……はい」


 私は小さく答えた。


「使います。私のために」


 その後、手紙はすぐに封じられた。


 クラウゼル家の信頼できる使者が呼ばれ、レオンハルト公爵が直接命じた。


「ロザリンド侯爵夫人本人に渡せ。家令にも侍女にも預けるな。本人が不在なら戻れ」


「承知いたしました」


「途中で尾行がつく可能性がある。遠回りしろ」


「はい」


「返書があれば、誰にも触れさせず持ち帰れ」


「かしこまりました」


 使者は深く礼をし、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 私は長椅子にもたれた。


 急に力が抜ける。


「疲れたか」


 レオンハルト公爵が尋ねる。


「はい」


「寝ろ」


「予想通りの言葉です」


「予想できるなら従え」


「正論ですね」


「正論だ」


 マルタが膝掛けを整えながら言った。


「少しお休みくださいませ。返事が来るとしても、早くて夕方以降です」


「ロザリンド侯爵夫人がすぐ燃やしていたら?」


「その時は、返事は来ません」


「そうですね」


 私は苦笑した。


 怖い。


 でも、手紙は出した。


 もう、こちらから一手を打った。


 それだけで、昨日までとは違う。


 私は長椅子の上で目を閉じようとした。


 すると、レオンハルト公爵がふと口を開いた。


「エリシア」


「はい」


「君は、悪女ではない」


 私は目を開けた。


 公爵は、相変わらず真顔だった。


「知っています」


「だが、悪女らしく証拠を集めると言った」


「はい」


「悪女らしく、という部分は不要だ」


「え?」


「君は君らしく集めればいい」


 胸が、ゆっくりと温かくなった。


 まただ。


 この人は時々、何の前触れもなく、ずるい言葉を差し込んでくる。


「……公爵閣下」


「何だ」


「今のは、とても優しい言葉でした」


 レオンハルト公爵は少しだけ黙った。


「成功か」


「はい」


「そうか」


 彼は真剣に頷いた。


 マルタが横で小さく言う。


「旦那様。最後まで余計な言葉がありませんでした。大変よろしいかと」


「そうか」


「はい」


「記録しておく」


「そこは記録しなくてよろしいです」


 私は笑ってしまった。


 本当に、この人たちは。


 ここはまだ安全な場所ではない。

 私の無実は証明されていない。

 王都では、私は魔女で、毒婦で、悪女だ。


 それでも今、私は少し笑えている。


 だから、きっと戦える。


 その日の夕刻。


 ロザリンド侯爵夫人からの返事は、予想よりずっと早く届いた。


 封筒は深い紫色。

 香りは強すぎない薔薇。

 封蝋には、侯爵家の紋章。


 マルタが私の前に置く。


 レオンハルト公爵が封を確認し、頷いた。


「本人のものだ」


 私は息を吸った。


 そして、手紙を開いた。


 そこには、美しい筆跡で、たった一行だけ書かれていた。


『処刑台に上がり損ねた悪女様へ。明日の午後、私の退屈を殺しにいらっしゃい。』


 私は、その一文を見つめた。


 レオンハルト公爵が横から覗き込む。


「……行くのか」


 私は少しだけ笑った。


「行きます」


「体調は」


「明日の午後までに、少しでも整えます」


「無理はするな」


「はい」


 マルタが静かに言った。


「では、明日の衣装を考えなければなりませんね」


「衣装?」


「悪女様として呼ばれたのです。寝間着では負けます」


 私は思わずマルタを見た。


 彼女は真顔だった。


 レオンハルト公爵も、真面目に頷く。


「戦装束か」


「違います、旦那様。ドレスです」


「同じようなものでは?」


「違います」


 マルタの声は鋭かった。


 私は、久しぶりに声を出して笑った。


 処刑台に上がり損ねた悪女。


 ならば、行ってやろう。


 退屈を殺しに。


 そして、私を殺そうとした誰かの尻尾を、必ず掴んでみせる。


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