第12話 元婚約者から、謝罪ではない手紙が届きました
ロザリンド侯爵夫人からの返事は、短いのにやたらと強かった。
『処刑台に上がり損ねた悪女様へ。明日の午後、私の退屈を殺しにいらっしゃい。』
私はその一文を、何度も読み返してしまった。
悪意があるのか、歓迎なのか、挑発なのか、単なる暇つぶしなのか。
おそらく、その全部だ。
少なくとも、ロザリンド侯爵夫人は私に興味を持った。
それだけは確かだった。
問題は、明日そこへ行くための準備である。
「エリシア様。こちらのドレスはいかがでしょう」
マルタが衣装室から運ばせたドレスを、客室の中央に広げた。
深い青のドレス。
装飾は控えめだが、生地が上質で、光の角度によって黒にも紺にも見える。襟元は詰まり気味で、肌を見せるものではない。けれど、袖口と裾に銀糸の刺繍が入っていて、静かな迫力がある。
美しい。
でも、強い。
私は思わず見入った。
「これを、私が?」
「はい」
「似合うでしょうか」
「似合わせます」
マルタは即答した。
頼もしい。
頼もしいが、少し怖い。
「マルタさんは、衣装の時だけ軍師のようになりますね」
「衣装は戦略です」
「本当に戦装束なのですね」
「社交界では、はい」
マルタは真顔で言った。
「明日の相手はロザリンド侯爵夫人です。弱っている姿を見せすぎれば、食べられます。かといって強がりすぎれば、面白がって突かれます」
「難しいですね」
「ですから、弱っているが折れてはいない、という姿を作ります」
「そこまで衣装で分かるものなのですか」
「分かる方には分かります」
「夫人は?」
「間違いなく分かります」
私はドレスを見つめた。
弱っているが、折れてはいない。
今の私に、そんな姿ができるだろうか。
熱は下がってきたが、手首の傷はまだ痛む。長く立っていると足元が頼りない。鏡を見ると、顔色もまだ悪い。
でも、昨日までの私とは違う。
処刑台へ向かう女ではない。
誰かの言葉を待つだけの女でもない。
手紙を書いた。
噂を分析した。
自分からロザリンド侯爵夫人へ接触した。
小さな一歩だ。
けれど、私の足で踏み出した一歩だった。
「……このドレスにします」
私が言うと、マルタは少しだけ満足そうに頷いた。
「よろしいかと」
その時、扉が叩かれた。
控えめな音。
しかし、間を置かずに二度。
マルタの表情が少し変わる。
「入りなさい」
入ってきたのは、若い侍女だった。
彼女は礼をしてから、銀の盆に乗せた封書を差し出した。
「エリシア様宛てに、王宮より書状が届いております」
王宮。
その言葉だけで、空気が少し重くなった。
私は反射的にレオンハルト公爵を探そうとして、部屋にいないことを思い出した。
彼は今、別室で法務卿への返書を書いている。
マルタが封筒を受け取った。
封蝋を確認し、眉をわずかに寄せる。
「王太子殿下からです」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
ユリウス殿下。
また。
昨日の手紙は、まだ小箱にしまわれている。
燃やせなかった。
でも、読み返す気にもなれなかった。
『君のためを思って書いている』
『セレーネを許してほしい』
『正式に謝罪し、誤解を解く努力をすれば』
『君はまだ、私の大切な人だ』
優しい言葉の形をしていた。
けれど、中身は私に戻れと言っていた。
私が謝れと。
私が許せと。
私が落ち着けば分かるはずだと。
あれは、謝罪ではなかった。
「お読みになりますか」
マルタが尋ねる。
私はすぐには答えられなかった。
読みたくない。
でも、読まないと怖い。
また同じだ。
私は小さく息を吸った。
「読みます」
「旦那様を呼びましょうか」
「……いえ」
言ってから、少し迷った。
レオンハルト公爵がいれば、たぶん楽だ。
嫌なら燃やせと言ってくれる。
読めなければ読まなくていいと言ってくれる。
顔色が悪いと、無遠慮に指摘してくれる。
でも、今回はまず自分で読みたかった。
ユリウス殿下の言葉に、私はどこまで揺れるのか。
それを知りたかった。
「私が先に読みます。もし……顔色がひどくなったら、公爵閣下を呼んでください」
「承知いたしました」
マルタはそう言いながら、すでに私の顔色を確認している。
私は封筒を受け取った。
指先が冷える。
封蝋は王太子の紋章。
昔は、この封蝋を見ると少し嬉しかった。殿下から直接手紙が来たと思って。もっとも、中身の多くは行事の確認や、私に処理してほしい用件だったのだけれど。
それでも、嬉しかった。
私は愚かだったのだろうか。
いや。
人に必要とされて嬉しいと思うこと自体は、愚かではない。
それを利用されたことが、悲しいだけだ。
封を切る。
中の紙は、昨日よりも上質だった。
筆跡も丁寧で、何度か書き直したのだろうと分かる。
私は読み始めた。
『エリシア。昨日の手紙の後、ずっと考えていた』
ずっと考えていた。
その一文に、少しだけ心が揺れた。
考えてくれたのか。
私のことを。
私が言ったことを。
私が受けた傷を。
そんな期待が、ほんの一瞬だけ胸に浮かぶ。
そして、私はその期待を怖いと思った。
『私は、君に対して厳しい言葉をかけすぎたのかもしれない』
かもしれない。
私はそこで、目を止めた。
謝罪に似た言葉。
でも、断定ではない。
厳しい言葉をかけた。
かけすぎたのかもしれない。
まるで、まだ自分にも事情があると言いたげな言い回し。
私は続きを読んだ。
『あの時、私は毒を盛られた直後で、冷静ではなかった。セレーネもひどく怯えていた。王宮全体が混乱していた。だから、君の言葉を十分に聞けなかったことは認める』
十分に聞けなかった。
違う。
聞かなかったのだ。
私は「やっていない」と何度も言った。
殿下はそれを信じなかった。
聞こえなかったのではなく、聞く必要がないと判断した。
『だが、君にも分かってほしい。私は王太子として、あの場を収めなければならなかった。王家の威信、セレーネの心、アルヴィナ公爵家への配慮。そのすべてを考えれば、君に罪を認めてもらうことが最も穏便な道だった』
私は紙を持つ手に力を入れた。
穏便な道。
私の処刑が?
私が罪を認めることが?
穏便。
便利な言葉だと思った。
誰か一人を犠牲にして、他の人間が傷つかずに済む時、人はそれを穏便と呼ぶのだろう。
私は、穏便に殺されるところだった。
『今、クラウゼル公爵が君を守っていることは理解している。しかし、彼は王宮と争うことを恐れない男だ。君がそばにいれば、争いはさらに大きくなる。君の名誉を守るためにも、一度私と直接話すべきだ』
名誉。
まただ。
私の名誉を守ると言いながら、私を王宮へ戻そうとしている。
直接話すべき。
クラウゼル公爵を通さずに。
マルタも護衛もいない場所で。
昔のように、私が殿下の顔色を見て、言葉を選び、最後には折れる場で。
私は喉の奥が冷えるのを感じた。
『セレーネも、君に会いたがっている。彼女は自分の証言が君を追い詰めたことに心を痛めている。けれど、君があの子を責め続ければ、彼女は壊れてしまうだろう』
責め続ければ。
私は一度、質問しただけだ。
いつ、どこで見たのか。
何を見たのか。
それが、責め続けることになる。
では、私はどうすればよかったのだろう。
黙って妹の涙を受け入れ、罪を被り、処刑台に立てばよかったのか。
『エリシア。君は本来、思いやりのある女性だ。私もそれを知っている。だからこそ、今の君が怒りに任せて動いているのを見るのはつらい』
思いやり。
その言葉は、前回の「優しい」と同じ匂いがした。
私を縛るための言葉。
思いやりがあるなら、許せ。
優しいなら、責めるな。
大人なら、怒るな。
正しい令嬢なら、場を荒らすな。
私は紙の端を握りしめた。
『謝れとは言わない』
そこで、私は少しだけ眉を上げた。
昨日は、正式に謝罪しろと書いていた。
今回は違う。
少しは考えたのかもしれない。
そう思った直後、次の一文が目に入った。
『ただ、セレーネを安心させる言葉をかけてほしい。君にその気がなくとも、彼女を怖がらせたことは事実だから』
私は、思わず笑ってしまった。
声にはならない。
ただ、息が漏れた。
謝れとは言わない。
ただ、安心させろ。
何が違うのだろう。
『もし君が望むなら、私は父上に進言し、君が王宮へ戻れる道を探す。婚約の件はすぐには戻せないが、君の立場を完全に失わせるつもりはない。君は長年、私を支えてくれた大切な人だ。そのことは、今も変わらない』
長年、支えてくれた。
ようやく、それを認めた。
でも。
違う。
それは、謝罪ではない。
私が支えたことを認めながら、まだ私を戻そうとしている。
また支えさせるために。
自分の理解できる位置へ、私を戻すために。
『どうか、意地を張らないでくれ。
君を救えるのは、クラウゼル公爵だけではない。
ユリウス』
私は最後まで読み終えた。
しばらく、何も言えなかった。
紙の上の文字が、静かに揺れて見える。
怒りはある。
悲しみもある。
けれど、昨日の手紙を読んだ時ほど、深く沈まなかった。
なぜだろう。
たぶん、見えたからだ。
この手紙が何でできているのか。
謝罪に似た言葉。
自己弁護。
セレーネへの配慮を求める圧力。
私の名誉を守るという名目。
王宮へ戻る道という餌。
意地を張るなという決めつけ。
そして最後に、救えるのは自分でもあるという、遅すぎる主張。
私は紙を膝に置いた。
「マルタさん」
「はい」
「公爵閣下を呼んでください」
マルタは私の顔を見た。
「お具合が?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
私は小さく息を吸った。
「ただ、これは一人で処理したくありません」
そう言うと、マルタの表情がほんの少し柔らかくなった。
「承知いたしました」
彼女は扉へ向かい、控えていた侍女に指示を出す。
しばらくして、レオンハルト公爵が入ってきた。
手には書類を持っている。
おそらく仕事中だったのだろう。けれど、私を見るとすぐに書類を閉じた。
「エリシア」
「はい」
「顔色は悪くないな」
「最初の確認がそれですか」
「重要だ」
「はい。少し慣れてきました」
私は手紙を差し出した。
「ユリウス殿下からです。読んでいただけますか」
レオンハルト公爵は受け取り、目を通した。
読み進めるほどに、部屋の空気が冷えていく気がした。
彼の表情は変わらない。
けれど、何かが静かに凍っていく。
読み終えた後、彼は低く言った。
「謝罪ではないな」
その一言に、胸の奥がすとんと落ち着いた。
「はい」
私は頷いた。
「謝罪ではありません」
マルタも静かに言った。
「謝罪の形をした呼び戻しですね」
「呼び戻し」
「はい。エリシア様を、元の位置へ戻したいのでしょう」
元の位置。
王太子の隣。
けれど、妻としてではなく、支える人間として。
責めない姉として。
許す女として。
場を収めるために自分を折る存在として。
「殿下は、私を心配しているのでしょうか」
私は呟いた。
レオンハルト公爵は少し黙った。
そして言った。
「心配はしているのだろう」
その答えは意外だった。
もっと冷たく否定すると思っていた。
「しているのですか」
「ああ」
「では」
「だが、君のためだけではない」
私は息を止める。
「殿下は、自分が理解できる君に戻ってほしいのだろう。謝れば許せる。妹を安心させれば丸く収まる。王宮へ戻れば、自分が完全に間違えたわけではなくなる」
その言葉は痛かった。
でも、正しかった。
「君を心配していることと、君を支配しようとしていることは両立する」
私は、手紙を見つめた。
心配と支配。
その二つが一緒にあることを、私は今までうまく理解できなかった。
父もそうだったのかもしれない。
家を守るために私を利用しながら、父なりに私を心配していた瞬間もあったのかもしれない。
だからこそ、逃げにくい。
完全な悪意ではないものは、人を縛る。
「……厄介ですね」
「厄介だ」
「心配なら、ありがたく受け取るべきだと思っていました」
「受け取るかどうかは君が決めろ」
また、その言葉。
君が決めろ。
私は少しだけ笑った。
「公爵閣下は、すぐそう言いますね」
「必要だからな」
「私が決めることに、まだ慣れていません」
「慣れろ」
「命令ですか」
「提案だ」
「今の言い方で?」
「……努力する」
マルタが横から静かに言った。
「旦那様。その場合は、『ゆっくり慣れればいい』です」
「ゆっくり慣れればいい」
レオンハルト公爵がそのまま言い直した。
私は少し笑ってしまった。
「今のは、言わされている感じが強いです」
「難しいな」
「でも、伝わりました」
「ならいい」
短い会話。
それだけで、手紙の重さが少し軽くなる。
私はもう一度、ユリウス殿下の手紙を見た。
「返事は書きません」
自分でも驚くほど、すんなり言えた。
昨日は、燃やせなかった。
返事を書くかどうかも、少し迷った。
でも今日は違う。
「書かないのか」
レオンハルト公爵が確認する。
「はい。これは、私が返事をすればするほど、殿下の望む形になる手紙です」
「どういう意味だ」
「殿下は、私と直接話したがっています。私が何か返せば、そこからまた言葉を繋げられる。誤解だ、心配だ、セレーネのためだ、王宮のためだと」
私は手紙を畳んだ。
「だから、返しません」
マルタが頷く。
「よろしい判断かと」
「ただ、保管します」
レオンハルト公爵が私を見る。
「証拠としてか」
「はい」
私は手紙を指で押さえた。
「この手紙には、殿下が私に何を求めているかが書かれています。謝罪ではなく、沈黙と譲歩を求めていることが」
「使える」
「はい」
「いい判断だ」
レオンハルト公爵はそう言った。
素直な褒め言葉だった。
胸が少し温かくなる。
「ありがとうございます」
「ああ」
その時、マルタが小箱を持ってきた。
昨日、最初の手紙をしまうために用意してくれたものだ。
濃い木目の、小さな鍵付きの箱。
「こちらへ」
私は二通目の手紙を入れた。
箱の中には、昨日の一通目も入っている。
捨てられないもの。
でも、握り続けると傷になるもの。
そこに、また一つ増えた。
マルタが鍵を閉める。
かちり、という小さな音がした。
それだけで、少し呼吸が楽になる。
「エリシア様」
マルタが言った。
「明日の訪問準備に戻れますか」
「はい」
「無理は?」
「少ししています」
「正直でよろしい」
「この屋敷に来てから、正直であることを褒められすぎて不思議です」
「嘘で固めた場所から来られましたから」
その言葉に、私は一瞬だけ黙った。
嘘で固めた場所。
王宮。
アルヴィナ家。
すべてが嘘だったわけではない。
でも、真実より体面が優先される場所だった。
「……そうですね」
私は頷いた。
「では、正直に申し上げます。少し休みたいです」
マルタの表情が、明らかに満足そうになった。
「大変よろしい」
レオンハルト公爵も頷く。
「成長したな」
「子ども扱いが戻りましたね」
「病人扱いだ」
「便利ですね、病人」
「便利だ。今は使え」
私は少し笑って、長椅子に背を預けた。
ロザリンド侯爵夫人に会う。
そのためのドレスを選ぶ。
噂を利用する。
そして、ユリウス殿下の手紙には返事をしない。
ほんの数日前の私なら、考えられないことばかりだ。
王太子殿下から手紙が来たら、すぐに返事を書いた。
言葉を選び、相手を傷つけないように、自分の主張を薄めて、最後には謝罪を添えた。
でも今は、書かない。
沈黙は、逃げではない。
返事をしないという意思表示もある。
「公爵閣下」
「何だ」
「返事を書かないことは、失礼でしょうか」
「失礼だ」
「やはり」
「だが、失礼でいい」
私は顔を上げた。
レオンハルト公爵は、当然のように言った。
「君は殿下の秘書ではない。元婚約者でも、今はない。返事を書く義務はない」
「……はい」
「相手が王太子でも、だ」
その言葉に、胸の奥が静かに震えた。
王太子でも。
私は長い間、殿下の言葉を最優先にしてきた。
王太子だから。
婚約者だから。
未来の夫だから。
仕えるべき相手だから。
でも、今は違う。
私は彼の命令で動く人間ではない。
「では、失礼な女になります」
「悪女らしくか」
「いいえ」
私は少しだけ笑った。
「私らしく、です」
レオンハルト公爵の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「そうだな」
マルタが膝掛けを整える。
「では、私らしい失礼のために、まず一時間お休みくださいませ」
「休むことと失礼が繋がるのですか」
「体力がなければ、失礼も貫けません」
「名言が増えました」
「経験則です」
私は笑って目を閉じた。
元婚約者から届いた手紙は、謝罪ではなかった。
けれど、それを見抜けた。
私はもう、優しい言葉の形をした鎖に、自分から首を差し出したりしない。
明日はロザリンド侯爵夫人に会う。
退屈を殺しに。
そして、私を殺そうとした物語の続きを、私自身の手で書き換えるために。




