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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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12/24

第13話 妹の涙には、いつも誰かの罪が混ざっている

 翌日の午後、私はクラウゼル公爵家の馬車に乗っていた。


 窓の外では、王都の街並みがゆっくり流れていく。

 雨は上がっていた。石畳にはまだ湿り気が残っていて、馬車の車輪が通るたび、薄く水を跳ねる音がした。


 私は深い青のドレスを着ていた。


 昨日、マルタが選んだものだ。

 黒にも見える濃紺の生地。銀糸の刺繍。襟元は詰まっていて、袖は手首の包帯を目立たせない長さ。

 肌を見せて媚びるための服ではない。

 けれど、弱々しく隠れるための服でもない。


 鏡の前に立った時、マルタは満足そうに言った。


『よろしいです。弱っているが、折れてはいないように見えます』


 褒められているのか、戦場へ送り出されているのか分からなかった。


 今も、少し分からない。


 向かいにはレオンハルト公爵が座っている。

 黒い上着に、銀の飾り紐。いつもより少しだけ正装に近い。けれど、本人の表情は相変わらず無表情だ。


 マルタも同行していた。

 彼女は私の隣に座り、膝の上に小さな鞄を置いている。中には薬湯、包帯、香油ではないただの軟膏、万一の時の砂糖菓子まで入っているらしい。


 至れり尽くせりというより、補給部隊だった。


「エリシア」


 レオンハルト公爵が私を見た。


「はい」


「顔色は悪くない」


「今日は顔色から始まるのですね」


「重要だ」


「だんだん、挨拶の一種に聞こえてきました」


「なら、次からそうする」


「いえ、しなくていいです」


 即答した。


 公爵は少しだけ首を傾げる。


「なぜだ」


「社交界で『ご機嫌麗しゅう』の代わりに『顔色は悪くない』と言われたら、場が凍ります」


「そうか」


「そうです」


 マルタが横から静かに言った。


「旦那様。社交界での第一声は、相手の体調確認ではなく、天候や季節の話題が無難でございます」


「無難すぎる」


「無難でよいのです」


「退屈では?」


「社交とは、退屈な言葉の下で刃物を隠す場です」


 私は思わずマルタを見た。


「マルタさん、今の言葉、かなり怖いです」


「経験則です」


「この屋敷の経験則は、時々鋭すぎます」


 マルタは表情を変えずに頷いた。


 馬車の中に、小さな笑いが落ちた。


 それで少しだけ緊張が解ける。


 でも、すぐに指先が冷える。


 これから会うのは、ロザリンド侯爵夫人。

 王都の噂を食事のように召し上がり、気に入った噂には香辛料を足して配る人。

 王妃宮を嫌っているが、私の味方とは限らない。

 面白いものが好きで、退屈を嫌う。


『処刑台に上がり損ねた悪女様へ。明日の午後、私の退屈を殺しにいらっしゃい。』


 あの返事を思い出すだけで、胃が少し重くなる。


「怖いか」


 レオンハルト公爵が尋ねた。


 私は一瞬、いつものように「大丈夫です」と言いそうになった。


 けれど、やめた。


「怖いです」


「そうか」


「でも、行きます」


「ああ」


「公爵閣下は、止めないのですね」


「止めてほしいのか」


「いいえ」


「なら止めない」


 相変わらず単純な答えだった。


 けれど、その単純さが今はありがたい。


「ただし、無理はするな」


「それは言うと思いました」


「倒れるな」


「それも言うと思いました」


「帰ると言えば、すぐ帰る」


 私は少しだけ黙った。


 公爵の顔を見る。


 彼は本気だった。


「途中で帰ってもいいのですか」


「いい」


「ロザリンド侯爵夫人の機嫌を損ねても?」


「損ねればいい」


「公爵閣下」


「何だ」


「社交界において、その判断はかなり乱暴です」


「君が倒れるよりはいい」


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 この人の優先順位は、いつも妙にはっきりしている。


 王妃の機嫌より。

 社交界の評価より。

 侯爵夫人の退屈より。


 今、この馬車の中では、私が倒れないことの方が上に置かれている。


 そんな扱いに、まだ慣れない。


「……分かりました。帰りたくなったら言います」


「言え」


「命令ですね」


「提案だ」


「言い方が命令です」


「努力する」


 マルタが小さく咳払いした。


「旦那様。そこは『言ってくれればいい』です」


「言ってくれればいい」


 そのまま言い直されて、私は思わず笑ってしまった。


「公爵閣下は、マルタさんがいないと社交界でかなり危険ですね」


「知っている」


「ご自覚が」


「ある」


「それなのに、直らないのですか」


「努力はしている」


 マルタが深く頷く。


「道半ばです」


「険しい道ですね」


「はい」


 馬車はロザリンド侯爵家の門をくぐった。


 王都中心部から少し外れた場所にある邸宅は、華やかというより、趣味が濃かった。


 庭には季節の花が咲き乱れている。

 しかし、色の合わせ方が普通ではない。鮮やかな赤の隣に毒々しいほど濃い紫。その横に真っ白な薔薇。美しいのに、どこか落ち着かない。


 屋敷の壁は淡い石造りで、窓枠には黒い装飾が施されていた。

 優雅だ。

 けれど、どこか挑発的でもある。


 まるで、ここへ入る者の反応を楽しんでいるような屋敷だった。


 馬車が止まる。


 扉が開く前に、レオンハルト公爵が言った。


「エリシア」


「はい」


「背筋を伸ばしすぎるな」


 私は目を瞬いた。


「公爵閣下がそれを?」


「マルタに言われた」


「でしょうね」


 マルタが横で涼しい顔をしている。


「背筋は伸ばすものですが、折れそうなほど伸ばすものではございません」


「難しいですね」


「慣れです」


「また練習するものが増えました」


「人生は練習の連続でございます」


 マルタは淡々と言った。


 私は小さく息を吐き、扉の外へ出た。


 足元は少し不安定だったが、倒れない。

 レオンハルト公爵の手が差し出される。


 私はその手を見た。


 そして、少しだけ迷ってから、取った。


 逃げ道としてではなく、支えとして。


 それでいいのだと思うことにした。


 玄関前では、侯爵家の執事が待っていた。


 銀髪をきっちり撫でつけた老紳士で、こちらを見る目に驚きはない。

 おそらく、主人に鍛えられているのだろう。処刑台に上がり損ねた悪女が来ようと、冷血公爵が来ようと、眉一つ動かさない。


「クラウゼル公爵閣下。エリシア様。奥様がお待ちでございます」


 エリシア様。


 アルヴィナ公爵令嬢でも、罪人でも、悪女でもなく。


 ただ、エリシア様。


 その呼び方に、少しだけ息がしやすくなる。


 案内されたのは、庭に面した小さな温室だった。


 温室と言っても、可憐な花が並ぶだけの場所ではない。

 蔓植物が天井から垂れ、濃い緑の葉の間に鮮やかな花が咲いている。

 甘い香りと、土の匂い。

 美しいのに、どこか野性味がある。


 その中央の丸いテーブルに、一人の女性が座っていた。


 ロザリンド侯爵夫人。


 年齢は四十代半ばほどだろうか。

 赤みを帯びた栗色の髪を高く結い上げ、深い葡萄色のドレスを着ている。

 首元には大粒の真珠。扇ではなく、細長い喫煙用の筒のようなものを指先で弄んでいた。実際に煙を吸っているわけではない。飾りだろう。


 目が、強い。


 笑っている。

 けれど、その笑みは人を安心させるためのものではなかった。


 獲物を見つけた猫のような笑み。


「まあ」


 ロザリンド侯爵夫人は、私を見るなり言った。


「本当に来たのね。処刑台に上がり損ねた悪女様」


 初手からそれだった。


 マルタがわずかに眉を動かした気がする。

 レオンハルト公爵の空気が、少しだけ冷える。


 私は息を吸った。


 ここで傷ついた顔をするのは違う。


 この人は、傷つけたいのではない。

 反応を見たいのだ。


「お招きいただき、ありがとうございます」


 私は軽く膝を折った。


「夫人の退屈を殺せるほどの腕前かは分かりませんが、処刑台から戻ったばかりですので、話題性だけはあるかと存じます」


 一瞬、温室が静かになった。


 次の瞬間、ロザリンド夫人が声を立てて笑った。


 高く、よく通る笑い声だった。


「あら、いいわ。思ったより骨があるのね。噂では、もっと泣き濡れているか、逆に毒々しく笑っているかのどちらかだったのに」


「現実は、薬湯の匂いをさせた病み上がりです」


「それはまた残念」


「私も少し残念です」


 ロザリンド夫人は、さらに笑った。


「気に入ったわ。少なくとも、今日の午後は退屈しなさそう」


 彼女は手元のベルを鳴らした。


 侍女が茶を運んでくる。


 その瞬間、私の指先がかすかに強張った。


 茶。


 白い湯気。

 カップ。

 毒。


 昨日よりはましだと思っていた。

 でも、やはり身体が覚えている。


 レオンハルト公爵が、私より先にカップへ手を伸ばした。


 ロザリンド夫人の目が面白そうに細くなる。


「まあ、クラウゼル公爵。毒見?」


「必要なら」


「私の茶に毒があると?」


「ない方が助かる」


「相変わらず失礼ね」


「よく言われる」


「褒めていないわ」


「知っている」


 夫人は楽しそうに笑った。


 レオンハルト公爵は平然と茶を一口飲む。


「毒はない」


 私は小声で言った。


「公爵閣下。ここでもそれをなさるのですか」


「飲めないだろう」


「飲めます」


「手が震えていた」


「……観察力が本当に困ります」


 ロザリンド夫人が、私たちを交互に見た。


「あらあら。冷血公爵が毒見役とは。王都の噂より、こちらの方がずっと面白いわね」


「噂は安物が多いので」


 私が言うと、夫人の目が光った。


「そう。それよ。あなたの手紙にも書いてあったわね。安い噂より、質の良い火種を、と」


「はい」


「ずいぶん生意気なことを書く娘だと思ったわ」


「申し訳ございません」


「謝らないで。つまらなくなる」


 私は口を閉じた。


 謝罪を止められることには、まだ慣れない。


 ロザリンド夫人は茶を一口飲み、私を見た。


「さて。あなたが欲しいのは、春告げの茶会の席順変更に関する話だったわね」


「はい」


「その前に確認させて。あなた、本当に王太子殿下に毒を盛っていないの?」


 直球だった。


 あまりにもまっすぐで、逆に清々しい。


「盛っておりません」


 私は答えた。


「では、妹君を憎んでいた?」


 胸が少し痛んだ。


 でも、ここで綺麗事を言っても仕方ない。


「羨ましいと思ったことはあります。腹立たしく思ったことも。嫌いだと思った瞬間も、なかったとは申しません」


 ロザリンド夫人の笑みが深くなる。


「正直ね」


「嘘をついても、夫人には退屈でしょう」


「そうね。嘘をつくなら、もっと上手につかないと」


「毒を盛るほど憎んではおりません」


「その境目が分かる女は嫌いじゃないわ」


 夫人は満足そうに頷いた。


 レオンハルト公爵が静かに口を挟む。


「夫人。茶会の話を」


「あら、せっかちね。だから社交界で嫌われるのよ」


「構わない」


「少しは構いなさい。あなたの婚約者が苦労するわ」


「契約婚約だ」


「余計に面白いじゃない」


 ロザリンド夫人は私を見た。


「この人と契約婚約なんて、あなたもなかなか命知らずね」


「処刑台よりは安全かと」


「言うわね」


「最近、少し言うようになりました」


 夫人は楽しそうに笑った。


 そして、ようやく本題に入った。


「私の姪、リュシエンヌは茶会に出ていたわ。あの子は地味でおとなしいけれど、目だけはいいの。私に似ず、口は重いけれどね」


「席順の変更を見ていましたか」


「見ていたわ」


 心臓が跳ねた。


 ロザリンド夫人は、わざとゆっくり茶を飲む。


 焦らしているのだ。


 分かっていても、焦る。


「エリシア様」


 マルタが小さく声をかけた。


 落ち着け、という意味だろう。


 私は膝の上で手を握り、黙って待った。


 ロザリンド夫人の目が、わずかに満足そうに細くなる。


「いいわ。待てるのね」


「昨日までは、待たされることに慣れていましたので」


「嫌味も言える。ますますいい」


 夫人はテーブルの脇に置かれた小箱から、一通の手紙を取り出した。


「リュシエンヌに昨夜、確認したわ。あの子は最初、話したがらなかった。王妃宮のことに関わるのが怖いから」


「……当然です」


「でも、私が聞いたら答えた。可愛い姪だこと。震えながらでも、嘘はつかなかったわ」


 夫人は手紙を開く。


「茶会の直前、席札が一度並べられた。その時、あなたの席は王妃殿下の右隣だった。王太子殿下の茶器には遠い位置ね」


「はい。本来はそのはずでした」


「ところが、王妃宮の侍女が来て、席札を変えた。理由は、セレーネ嬢が緊張しているから、王太子殿下の隣に置きたい、だったそうよ」


「私も、そう聞きました」


「でも、リュシエンヌは見たの」


 夫人の声が少し低くなる。


「その少し前、セレーネ嬢は緊張して泣いていたわけではない。東庭園へ続く廊下で、王妃宮の侍女と話していた」


「王妃宮の侍女……」


「名前は分からないそうよ。でも左頬にほくろがあった」


 ミレイユ。


 私の頭の中で、名前が浮かんだ。


 レオンハルト公爵の目も鋭くなる。


「会話の内容は」


「全部は聞こえなかった。ただ、リュシエンヌはこう聞いたそうよ」


 夫人は手紙を見た。


「『泣くなら、殿下の前で。ここでは駄目です』」


 息が止まった。


 温室の甘い香りが、急に遠くなる。


 泣くなら、殿下の前で。


 ここでは駄目。


 その言葉の意味を、頭が拒もうとした。


 でも、拒みきれない。


 セレーネの涙。


 あの日、茶会の後に見た涙。

 私を怯えたように見る目。

 ユリウス殿下の腕に縋る震える手。

 私が怖かったと言う声。


 それは、自然にあふれたものではなかったのか。


 誰かに教えられたのか。


 泣く場所を。

 泣く相手を。

 泣く効果を。


「……セレーネは」


 声が掠れた。


「妹は、それに何と答えたのですか」


 ロザリンド夫人は、少しだけ私の顔を見た。


 初めて、面白がるだけではない目だった。


「リュシエンヌが聞いたのは、一言だけ」


 私は息を詰める。


「『でも、本当に怖いの』」


 胸が痛んだ。


 本当に怖い。


 セレーネは、怖かったのだ。


 それはたぶん嘘ではない。


 でも、その怖さを誰かが利用した。


 泣く場所を教え、泣く相手を決め、涙の意味を整えた。


 そして、その涙は私の罪になった。


「……妹は、嘘をついたのでしょうか」


 私は呟いた。


 誰に聞いたのか、自分でも分からない。


 レオンハルト公爵が静かに言った。


「少なくとも、誘導されている」


「誘導」


「怖いという感情は本物でも、その向け先を作られた可能性がある」


 私は唇を噛んだ。


 そうだ。


 セレーネの涙が全部嘘だったとは限らない。

 むしろ、本当に怖かったのかもしれない。


 でも、怖かったことと、私を犯人にする証言をしたことは別だ。


 そして誰かが、その涙を利用した。


 ロザリンド夫人が静かに言った。


「涙は便利よ。特に、若くて可愛い令嬢の涙はね。男は慌てる。父親は庇う。年上の女は悪者になる」


 その言葉が、胸に刺さった。


 年上の女は悪者になる。


 まさに私だ。


「私も、何度も悪者になりました」


 自然と口から出た。


「セレーネが泣くたびに、私は冷たい姉になりました。あの子が失敗すれば、私の教え方が悪い。あの子が傷つけば、私の言い方がきつい。あの子が怖いと言えば、私は怖がらせた女になる」


 言いながら、手が震えた。


「でも、あの子の涙には、いつも誰かの罪が混ざっていたのかもしれません」


 ロザリンド夫人は、笑わなかった。


 黙って聞いている。


「父があの子ばかり庇った罪。殿下が簡単に信じた罪。王妃宮が利用した罪。そして私が、何も言わずに飲み込んできた罪」


 自分の罪もある。


 それを認めるのは苦い。


 私は、妹の涙が面倒で、怖くて、結局いつも退いた。

 その結果、涙はさらに強い武器になった。


 でも、それでも。


 私が毒を盛ったことにはならない。


「エリシア」


 レオンハルト公爵の声がした。


「今、自分を責めすぎるな」


「顔に出ていましたか」


「出ていた」


「本当に厄介ですね」


「止めると言った」


 私は小さく息を吐いた。


「はい。止めてください」


 そう言えたことに、自分で少し驚いた。


 レオンハルト公爵は短く頷く。


「君は涙を利用した者ではない。利用された側だ」


「でも、見ないふりをしてきました」


「それは今から取り戻せ」


 取り戻す。


 私が飲み込んできた言葉を。

 見ないふりをした違和感を。

 妹の涙の後ろに隠された誰かの手を。


 ロザリンド夫人が、ゆっくり拍手をした。


 一度。二度。三度。


「いいわね」


 私は夫人を見る。


「何がでしょう」


「あなた、泣き崩れるかと思ったのに、そこで考えるのね」


「泣き崩れた方がよろしかったですか」


「いいえ。退屈だもの」


「夫人は本当に退屈がお嫌いなのですね」


「人生の敵よ」


 夫人は手紙を畳み、私へ差し出した。


「写しよ。原本はリュシエンヌが持っている。いきなり原本を渡すほど、私はあなたを信用していない」


「当然です」


「でも、面白くはなってきた」


「それは、協力してくださるという意味ですか」


「半分ね」


「半分」


「私は正義の味方ではないわ。可哀想な令嬢を救う趣味もない。けれど、王妃宮が私の庭にまで安い噂を撒くのは気に入らない」


 ロザリンド夫人の目が、鋭く光った。


「それに、涙で人を動かす小娘と、それを後ろで操る女。どちらも社交界では珍しくないけれど、今回は少しやりすぎたわね」


「やりすぎ」


「あなたを処刑台へ送ろうとした」


 その言葉を他人の口から聞くと、まだ胸が冷える。


 処刑台。


 私は本当に、そこへ送られるところだった。


「リュシエンヌ嬢は、証言してくださるでしょうか」


 私が尋ねると、夫人は軽く肩をすくめた。


「今すぐは無理ね。あの子は臆病だもの」


「そうですか」


「でも、臆病な子は嘘をつく時にも震える。だから、書面ならいけるかもしれない」


 レオンハルト公爵が言った。


「法務卿への非公開証言なら」


「そうね。王妃宮に名前が漏れない保証があれば」


「手配する」


「あら、早い」


「必要だからな」


「社交辞令の余地がない男ね」


「ない」


 ロザリンド夫人は笑った。


「いいわ。クラウゼル公爵、あなたがリュシエンヌの安全を保証するなら、あの子にもう一度聞いてあげる」


「条件は」


「王妃宮がこの件で私の名を出した時、あなたが私の無関係を証言すること」


「分かった」


「即答ね」


「あなたは関係していない。今のところは」


「最後の一言が余計よ」


「事実だ」


「嫌な男」


「よく言われる」


 夫人は楽しそうだった。


 私は二人のやり取りを見ながら、少しだけ圧倒されていた。


 貴族同士の会話は、笑顔と毒でできていると思っていた。

 でも、この二人の会話は、毒と刃物と実務でできている。


 怖い。


 でも、頼もしくもある。


 ロザリンド夫人が私に視線を戻した。


「エリシア嬢」


「はい」


「あなた、妹君をどうしたいの?」


 私はすぐには答えられなかった。


 セレーネをどうしたいのか。


 断罪したいのか。

 謝らせたいのか。

 憎みたいのか。

 許したいのか。


 どれも、少し違う気がした。


「……分かりません」


 正直に答えた。


「怒っています。傷つきました。あの子の涙のせいで、私は死にかけました。でも、あの子も誰かに利用されたのかもしれないと思うと、ただ憎むこともできません」


「甘いわね」


「そう思います」


「でも、嫌いじゃないわ」


 夫人は茶を置いた。


「ただし、覚えておきなさい。利用された人間も、誰かを傷つけた責任から完全には逃げられない」


 私は頷いた。


「はい」


「あなたもね」


「私も?」


「そう。あなたは、自分が飲み込んできたものの責任を、これから取るの」


 夫人の声は厳しかった。


「今まで黙っていた。許してきた。先回りして整えてきた。その結果、周りはあなたが黙ることを当然だと思った。もちろん、悪いのは踏みにじった連中よ。でも、あなたがこれから生き直すなら、自分の沈黙が何を育てたかも見なさい」


 胸が痛んだ。


 厳しい。


 でも、不思議と腹は立たなかった。


 なぜなら、それは私を責めるためだけの言葉ではなかったからだ。


 私に、これから変われと言っている。


「見ます」


 私は答えた。


「怖くても」


「よろしい」


 夫人は満足げに頷いた。


「泣くだけの令嬢なら帰ってもらおうと思っていたけれど、あなたはもう少し使えそうね」


「夫人も、公爵閣下と同じような言い方をなさいますね」


「あら、心外」


「私も少し心外だ」


 レオンハルト公爵が真顔で言う。


 ロザリンド夫人は笑った。


「似ているわよ。あなたたち。どちらも、丁寧な言葉の下に刃物を隠すのが下手」


「私は隠しているつもりはない」


「だから下手だと言っているの」


 私は思わず笑ってしまった。


 緊張で張り詰めていたものが、少しだけ緩む。


 すると、その瞬間、体の奥から疲労が押し寄せてきた。


 視界が少し揺れる。


 レオンハルト公爵がすぐに気づいた。


「エリシア」


「大丈夫です」


「嘘だな」


「……少し、疲れました」


「帰る」


 即答だった。


 私は慌てる。


「まだ、お話が」


「今日は十分だ」


 ロザリンド夫人が頷いた。


「そうね。倒れられても困るわ。処刑台に上がり損ねた悪女が、私の温室で倒れたなんて噂になったら面白すぎて、私が疑われるもの」


「そこですか」


「そこよ」


 夫人は立ち上がらず、手元の扇を軽く振った。


「次の火種が欲しくなったら、またいらっしゃい。もっとも、次はもう少し顔色を良くしてからね」


 私は立ち上がろうとして、レオンハルト公爵に支えられた。


「ありがとうございます、ロザリンド侯爵夫人」


「礼はまだ早いわ。私はあなたの味方ではないもの」


「はい」


 私は少しだけ微笑んだ。


「でも、退屈は少し殺せたでしょうか」


 夫人の唇が、楽しげに吊り上がる。


「ええ。なかなかの腕前だったわ、悪女様」


「光栄です」


 温室を出る時、ロザリンド夫人が最後に言った。


「エリシア嬢」


「はい」


「妹君の涙を調べるなら、涙そのものではなく、涙を見て得をした人間を見なさい」


 私は息を止めた。


「得をした人間……」


「そう。涙は流した本人だけのものとは限らないわ」


 その言葉を胸に、私は侯爵家を後にした。


 帰りの馬車の中、私はずっと黙っていた。


 疲れていた。

 でも、頭の中は動いていた。


 セレーネは泣いていた。

 でも、その涙を誰かが使った。


 王妃宮の侍女ミレイユ。

 席順の変更。

 白い花の香油。

 王太子殿下の同情。

 父の焦り。

 王宮の処刑命令。


 妹の涙には、いつも誰かの罪が混ざっている。


 それは、セレーネだけの問題ではない。


 涙を都合よく使った人間がいる。


 私は、窓の外を見た。


 王都の街が、夕暮れに染まり始めていた。


「公爵閣下」


「何だ」


「私、セレーネをまだよく分かっていなかったのかもしれません」


「そうか」


「ただの嘘つきだと思えば楽でした。でも、そうではないのかもしれない」


「ああ」


「でも、無罪でもありません」


「そうだ」


「難しいですね」


「人間だからな」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。


 マルタの言葉と同じだった。


 人間だから難しい。


「なら、一つずつ見ます」


 私は言った。


「涙も、証言も、席順も、香油も。誰が何をして、誰が得をしたのか」


「それでいい」


「公爵閣下」


「何だ」


「私、今日は倒れませんでした」


 レオンハルト公爵は、私を見た。


「帰るまで分からない」


「褒めてください」


 言ってから、自分で驚いた。


 そんなことを、自分から言うなんて。


 レオンハルト公爵も少し驚いたように見えた。

 ほんの少しだけ。


 それから彼は、真面目な顔で言った。


「よくやった」


 胸の奥が、温かくなる。


「はい」


 私は小さく頷いた。


「今日は、それで十分です」


 馬車はクラウゼル公爵家へ向かって進んでいく。


 私の手元には、リュシエンヌ嬢の証言の写し。


 そして胸の中には、ひとつの確信があった。


 私はもう、妹の涙に黙って罪を着せられる女ではない。


 涙の後ろにある手を、必ず見つける。


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