第13話 妹の涙には、いつも誰かの罪が混ざっている
翌日の午後、私はクラウゼル公爵家の馬車に乗っていた。
窓の外では、王都の街並みがゆっくり流れていく。
雨は上がっていた。石畳にはまだ湿り気が残っていて、馬車の車輪が通るたび、薄く水を跳ねる音がした。
私は深い青のドレスを着ていた。
昨日、マルタが選んだものだ。
黒にも見える濃紺の生地。銀糸の刺繍。襟元は詰まっていて、袖は手首の包帯を目立たせない長さ。
肌を見せて媚びるための服ではない。
けれど、弱々しく隠れるための服でもない。
鏡の前に立った時、マルタは満足そうに言った。
『よろしいです。弱っているが、折れてはいないように見えます』
褒められているのか、戦場へ送り出されているのか分からなかった。
今も、少し分からない。
向かいにはレオンハルト公爵が座っている。
黒い上着に、銀の飾り紐。いつもより少しだけ正装に近い。けれど、本人の表情は相変わらず無表情だ。
マルタも同行していた。
彼女は私の隣に座り、膝の上に小さな鞄を置いている。中には薬湯、包帯、香油ではないただの軟膏、万一の時の砂糖菓子まで入っているらしい。
至れり尽くせりというより、補給部隊だった。
「エリシア」
レオンハルト公爵が私を見た。
「はい」
「顔色は悪くない」
「今日は顔色から始まるのですね」
「重要だ」
「だんだん、挨拶の一種に聞こえてきました」
「なら、次からそうする」
「いえ、しなくていいです」
即答した。
公爵は少しだけ首を傾げる。
「なぜだ」
「社交界で『ご機嫌麗しゅう』の代わりに『顔色は悪くない』と言われたら、場が凍ります」
「そうか」
「そうです」
マルタが横から静かに言った。
「旦那様。社交界での第一声は、相手の体調確認ではなく、天候や季節の話題が無難でございます」
「無難すぎる」
「無難でよいのです」
「退屈では?」
「社交とは、退屈な言葉の下で刃物を隠す場です」
私は思わずマルタを見た。
「マルタさん、今の言葉、かなり怖いです」
「経験則です」
「この屋敷の経験則は、時々鋭すぎます」
マルタは表情を変えずに頷いた。
馬車の中に、小さな笑いが落ちた。
それで少しだけ緊張が解ける。
でも、すぐに指先が冷える。
これから会うのは、ロザリンド侯爵夫人。
王都の噂を食事のように召し上がり、気に入った噂には香辛料を足して配る人。
王妃宮を嫌っているが、私の味方とは限らない。
面白いものが好きで、退屈を嫌う。
『処刑台に上がり損ねた悪女様へ。明日の午後、私の退屈を殺しにいらっしゃい。』
あの返事を思い出すだけで、胃が少し重くなる。
「怖いか」
レオンハルト公爵が尋ねた。
私は一瞬、いつものように「大丈夫です」と言いそうになった。
けれど、やめた。
「怖いです」
「そうか」
「でも、行きます」
「ああ」
「公爵閣下は、止めないのですね」
「止めてほしいのか」
「いいえ」
「なら止めない」
相変わらず単純な答えだった。
けれど、その単純さが今はありがたい。
「ただし、無理はするな」
「それは言うと思いました」
「倒れるな」
「それも言うと思いました」
「帰ると言えば、すぐ帰る」
私は少しだけ黙った。
公爵の顔を見る。
彼は本気だった。
「途中で帰ってもいいのですか」
「いい」
「ロザリンド侯爵夫人の機嫌を損ねても?」
「損ねればいい」
「公爵閣下」
「何だ」
「社交界において、その判断はかなり乱暴です」
「君が倒れるよりはいい」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
この人の優先順位は、いつも妙にはっきりしている。
王妃の機嫌より。
社交界の評価より。
侯爵夫人の退屈より。
今、この馬車の中では、私が倒れないことの方が上に置かれている。
そんな扱いに、まだ慣れない。
「……分かりました。帰りたくなったら言います」
「言え」
「命令ですね」
「提案だ」
「言い方が命令です」
「努力する」
マルタが小さく咳払いした。
「旦那様。そこは『言ってくれればいい』です」
「言ってくれればいい」
そのまま言い直されて、私は思わず笑ってしまった。
「公爵閣下は、マルタさんがいないと社交界でかなり危険ですね」
「知っている」
「ご自覚が」
「ある」
「それなのに、直らないのですか」
「努力はしている」
マルタが深く頷く。
「道半ばです」
「険しい道ですね」
「はい」
馬車はロザリンド侯爵家の門をくぐった。
王都中心部から少し外れた場所にある邸宅は、華やかというより、趣味が濃かった。
庭には季節の花が咲き乱れている。
しかし、色の合わせ方が普通ではない。鮮やかな赤の隣に毒々しいほど濃い紫。その横に真っ白な薔薇。美しいのに、どこか落ち着かない。
屋敷の壁は淡い石造りで、窓枠には黒い装飾が施されていた。
優雅だ。
けれど、どこか挑発的でもある。
まるで、ここへ入る者の反応を楽しんでいるような屋敷だった。
馬車が止まる。
扉が開く前に、レオンハルト公爵が言った。
「エリシア」
「はい」
「背筋を伸ばしすぎるな」
私は目を瞬いた。
「公爵閣下がそれを?」
「マルタに言われた」
「でしょうね」
マルタが横で涼しい顔をしている。
「背筋は伸ばすものですが、折れそうなほど伸ばすものではございません」
「難しいですね」
「慣れです」
「また練習するものが増えました」
「人生は練習の連続でございます」
マルタは淡々と言った。
私は小さく息を吐き、扉の外へ出た。
足元は少し不安定だったが、倒れない。
レオンハルト公爵の手が差し出される。
私はその手を見た。
そして、少しだけ迷ってから、取った。
逃げ道としてではなく、支えとして。
それでいいのだと思うことにした。
玄関前では、侯爵家の執事が待っていた。
銀髪をきっちり撫でつけた老紳士で、こちらを見る目に驚きはない。
おそらく、主人に鍛えられているのだろう。処刑台に上がり損ねた悪女が来ようと、冷血公爵が来ようと、眉一つ動かさない。
「クラウゼル公爵閣下。エリシア様。奥様がお待ちでございます」
エリシア様。
アルヴィナ公爵令嬢でも、罪人でも、悪女でもなく。
ただ、エリシア様。
その呼び方に、少しだけ息がしやすくなる。
案内されたのは、庭に面した小さな温室だった。
温室と言っても、可憐な花が並ぶだけの場所ではない。
蔓植物が天井から垂れ、濃い緑の葉の間に鮮やかな花が咲いている。
甘い香りと、土の匂い。
美しいのに、どこか野性味がある。
その中央の丸いテーブルに、一人の女性が座っていた。
ロザリンド侯爵夫人。
年齢は四十代半ばほどだろうか。
赤みを帯びた栗色の髪を高く結い上げ、深い葡萄色のドレスを着ている。
首元には大粒の真珠。扇ではなく、細長い喫煙用の筒のようなものを指先で弄んでいた。実際に煙を吸っているわけではない。飾りだろう。
目が、強い。
笑っている。
けれど、その笑みは人を安心させるためのものではなかった。
獲物を見つけた猫のような笑み。
「まあ」
ロザリンド侯爵夫人は、私を見るなり言った。
「本当に来たのね。処刑台に上がり損ねた悪女様」
初手からそれだった。
マルタがわずかに眉を動かした気がする。
レオンハルト公爵の空気が、少しだけ冷える。
私は息を吸った。
ここで傷ついた顔をするのは違う。
この人は、傷つけたいのではない。
反応を見たいのだ。
「お招きいただき、ありがとうございます」
私は軽く膝を折った。
「夫人の退屈を殺せるほどの腕前かは分かりませんが、処刑台から戻ったばかりですので、話題性だけはあるかと存じます」
一瞬、温室が静かになった。
次の瞬間、ロザリンド夫人が声を立てて笑った。
高く、よく通る笑い声だった。
「あら、いいわ。思ったより骨があるのね。噂では、もっと泣き濡れているか、逆に毒々しく笑っているかのどちらかだったのに」
「現実は、薬湯の匂いをさせた病み上がりです」
「それはまた残念」
「私も少し残念です」
ロザリンド夫人は、さらに笑った。
「気に入ったわ。少なくとも、今日の午後は退屈しなさそう」
彼女は手元のベルを鳴らした。
侍女が茶を運んでくる。
その瞬間、私の指先がかすかに強張った。
茶。
白い湯気。
カップ。
毒。
昨日よりはましだと思っていた。
でも、やはり身体が覚えている。
レオンハルト公爵が、私より先にカップへ手を伸ばした。
ロザリンド夫人の目が面白そうに細くなる。
「まあ、クラウゼル公爵。毒見?」
「必要なら」
「私の茶に毒があると?」
「ない方が助かる」
「相変わらず失礼ね」
「よく言われる」
「褒めていないわ」
「知っている」
夫人は楽しそうに笑った。
レオンハルト公爵は平然と茶を一口飲む。
「毒はない」
私は小声で言った。
「公爵閣下。ここでもそれをなさるのですか」
「飲めないだろう」
「飲めます」
「手が震えていた」
「……観察力が本当に困ります」
ロザリンド夫人が、私たちを交互に見た。
「あらあら。冷血公爵が毒見役とは。王都の噂より、こちらの方がずっと面白いわね」
「噂は安物が多いので」
私が言うと、夫人の目が光った。
「そう。それよ。あなたの手紙にも書いてあったわね。安い噂より、質の良い火種を、と」
「はい」
「ずいぶん生意気なことを書く娘だと思ったわ」
「申し訳ございません」
「謝らないで。つまらなくなる」
私は口を閉じた。
謝罪を止められることには、まだ慣れない。
ロザリンド夫人は茶を一口飲み、私を見た。
「さて。あなたが欲しいのは、春告げの茶会の席順変更に関する話だったわね」
「はい」
「その前に確認させて。あなた、本当に王太子殿下に毒を盛っていないの?」
直球だった。
あまりにもまっすぐで、逆に清々しい。
「盛っておりません」
私は答えた。
「では、妹君を憎んでいた?」
胸が少し痛んだ。
でも、ここで綺麗事を言っても仕方ない。
「羨ましいと思ったことはあります。腹立たしく思ったことも。嫌いだと思った瞬間も、なかったとは申しません」
ロザリンド夫人の笑みが深くなる。
「正直ね」
「嘘をついても、夫人には退屈でしょう」
「そうね。嘘をつくなら、もっと上手につかないと」
「毒を盛るほど憎んではおりません」
「その境目が分かる女は嫌いじゃないわ」
夫人は満足そうに頷いた。
レオンハルト公爵が静かに口を挟む。
「夫人。茶会の話を」
「あら、せっかちね。だから社交界で嫌われるのよ」
「構わない」
「少しは構いなさい。あなたの婚約者が苦労するわ」
「契約婚約だ」
「余計に面白いじゃない」
ロザリンド夫人は私を見た。
「この人と契約婚約なんて、あなたもなかなか命知らずね」
「処刑台よりは安全かと」
「言うわね」
「最近、少し言うようになりました」
夫人は楽しそうに笑った。
そして、ようやく本題に入った。
「私の姪、リュシエンヌは茶会に出ていたわ。あの子は地味でおとなしいけれど、目だけはいいの。私に似ず、口は重いけれどね」
「席順の変更を見ていましたか」
「見ていたわ」
心臓が跳ねた。
ロザリンド夫人は、わざとゆっくり茶を飲む。
焦らしているのだ。
分かっていても、焦る。
「エリシア様」
マルタが小さく声をかけた。
落ち着け、という意味だろう。
私は膝の上で手を握り、黙って待った。
ロザリンド夫人の目が、わずかに満足そうに細くなる。
「いいわ。待てるのね」
「昨日までは、待たされることに慣れていましたので」
「嫌味も言える。ますますいい」
夫人はテーブルの脇に置かれた小箱から、一通の手紙を取り出した。
「リュシエンヌに昨夜、確認したわ。あの子は最初、話したがらなかった。王妃宮のことに関わるのが怖いから」
「……当然です」
「でも、私が聞いたら答えた。可愛い姪だこと。震えながらでも、嘘はつかなかったわ」
夫人は手紙を開く。
「茶会の直前、席札が一度並べられた。その時、あなたの席は王妃殿下の右隣だった。王太子殿下の茶器には遠い位置ね」
「はい。本来はそのはずでした」
「ところが、王妃宮の侍女が来て、席札を変えた。理由は、セレーネ嬢が緊張しているから、王太子殿下の隣に置きたい、だったそうよ」
「私も、そう聞きました」
「でも、リュシエンヌは見たの」
夫人の声が少し低くなる。
「その少し前、セレーネ嬢は緊張して泣いていたわけではない。東庭園へ続く廊下で、王妃宮の侍女と話していた」
「王妃宮の侍女……」
「名前は分からないそうよ。でも左頬にほくろがあった」
ミレイユ。
私の頭の中で、名前が浮かんだ。
レオンハルト公爵の目も鋭くなる。
「会話の内容は」
「全部は聞こえなかった。ただ、リュシエンヌはこう聞いたそうよ」
夫人は手紙を見た。
「『泣くなら、殿下の前で。ここでは駄目です』」
息が止まった。
温室の甘い香りが、急に遠くなる。
泣くなら、殿下の前で。
ここでは駄目。
その言葉の意味を、頭が拒もうとした。
でも、拒みきれない。
セレーネの涙。
あの日、茶会の後に見た涙。
私を怯えたように見る目。
ユリウス殿下の腕に縋る震える手。
私が怖かったと言う声。
それは、自然にあふれたものではなかったのか。
誰かに教えられたのか。
泣く場所を。
泣く相手を。
泣く効果を。
「……セレーネは」
声が掠れた。
「妹は、それに何と答えたのですか」
ロザリンド夫人は、少しだけ私の顔を見た。
初めて、面白がるだけではない目だった。
「リュシエンヌが聞いたのは、一言だけ」
私は息を詰める。
「『でも、本当に怖いの』」
胸が痛んだ。
本当に怖い。
セレーネは、怖かったのだ。
それはたぶん嘘ではない。
でも、その怖さを誰かが利用した。
泣く場所を教え、泣く相手を決め、涙の意味を整えた。
そして、その涙は私の罪になった。
「……妹は、嘘をついたのでしょうか」
私は呟いた。
誰に聞いたのか、自分でも分からない。
レオンハルト公爵が静かに言った。
「少なくとも、誘導されている」
「誘導」
「怖いという感情は本物でも、その向け先を作られた可能性がある」
私は唇を噛んだ。
そうだ。
セレーネの涙が全部嘘だったとは限らない。
むしろ、本当に怖かったのかもしれない。
でも、怖かったことと、私を犯人にする証言をしたことは別だ。
そして誰かが、その涙を利用した。
ロザリンド夫人が静かに言った。
「涙は便利よ。特に、若くて可愛い令嬢の涙はね。男は慌てる。父親は庇う。年上の女は悪者になる」
その言葉が、胸に刺さった。
年上の女は悪者になる。
まさに私だ。
「私も、何度も悪者になりました」
自然と口から出た。
「セレーネが泣くたびに、私は冷たい姉になりました。あの子が失敗すれば、私の教え方が悪い。あの子が傷つけば、私の言い方がきつい。あの子が怖いと言えば、私は怖がらせた女になる」
言いながら、手が震えた。
「でも、あの子の涙には、いつも誰かの罪が混ざっていたのかもしれません」
ロザリンド夫人は、笑わなかった。
黙って聞いている。
「父があの子ばかり庇った罪。殿下が簡単に信じた罪。王妃宮が利用した罪。そして私が、何も言わずに飲み込んできた罪」
自分の罪もある。
それを認めるのは苦い。
私は、妹の涙が面倒で、怖くて、結局いつも退いた。
その結果、涙はさらに強い武器になった。
でも、それでも。
私が毒を盛ったことにはならない。
「エリシア」
レオンハルト公爵の声がした。
「今、自分を責めすぎるな」
「顔に出ていましたか」
「出ていた」
「本当に厄介ですね」
「止めると言った」
私は小さく息を吐いた。
「はい。止めてください」
そう言えたことに、自分で少し驚いた。
レオンハルト公爵は短く頷く。
「君は涙を利用した者ではない。利用された側だ」
「でも、見ないふりをしてきました」
「それは今から取り戻せ」
取り戻す。
私が飲み込んできた言葉を。
見ないふりをした違和感を。
妹の涙の後ろに隠された誰かの手を。
ロザリンド夫人が、ゆっくり拍手をした。
一度。二度。三度。
「いいわね」
私は夫人を見る。
「何がでしょう」
「あなた、泣き崩れるかと思ったのに、そこで考えるのね」
「泣き崩れた方がよろしかったですか」
「いいえ。退屈だもの」
「夫人は本当に退屈がお嫌いなのですね」
「人生の敵よ」
夫人は手紙を畳み、私へ差し出した。
「写しよ。原本はリュシエンヌが持っている。いきなり原本を渡すほど、私はあなたを信用していない」
「当然です」
「でも、面白くはなってきた」
「それは、協力してくださるという意味ですか」
「半分ね」
「半分」
「私は正義の味方ではないわ。可哀想な令嬢を救う趣味もない。けれど、王妃宮が私の庭にまで安い噂を撒くのは気に入らない」
ロザリンド夫人の目が、鋭く光った。
「それに、涙で人を動かす小娘と、それを後ろで操る女。どちらも社交界では珍しくないけれど、今回は少しやりすぎたわね」
「やりすぎ」
「あなたを処刑台へ送ろうとした」
その言葉を他人の口から聞くと、まだ胸が冷える。
処刑台。
私は本当に、そこへ送られるところだった。
「リュシエンヌ嬢は、証言してくださるでしょうか」
私が尋ねると、夫人は軽く肩をすくめた。
「今すぐは無理ね。あの子は臆病だもの」
「そうですか」
「でも、臆病な子は嘘をつく時にも震える。だから、書面ならいけるかもしれない」
レオンハルト公爵が言った。
「法務卿への非公開証言なら」
「そうね。王妃宮に名前が漏れない保証があれば」
「手配する」
「あら、早い」
「必要だからな」
「社交辞令の余地がない男ね」
「ない」
ロザリンド夫人は笑った。
「いいわ。クラウゼル公爵、あなたがリュシエンヌの安全を保証するなら、あの子にもう一度聞いてあげる」
「条件は」
「王妃宮がこの件で私の名を出した時、あなたが私の無関係を証言すること」
「分かった」
「即答ね」
「あなたは関係していない。今のところは」
「最後の一言が余計よ」
「事実だ」
「嫌な男」
「よく言われる」
夫人は楽しそうだった。
私は二人のやり取りを見ながら、少しだけ圧倒されていた。
貴族同士の会話は、笑顔と毒でできていると思っていた。
でも、この二人の会話は、毒と刃物と実務でできている。
怖い。
でも、頼もしくもある。
ロザリンド夫人が私に視線を戻した。
「エリシア嬢」
「はい」
「あなた、妹君をどうしたいの?」
私はすぐには答えられなかった。
セレーネをどうしたいのか。
断罪したいのか。
謝らせたいのか。
憎みたいのか。
許したいのか。
どれも、少し違う気がした。
「……分かりません」
正直に答えた。
「怒っています。傷つきました。あの子の涙のせいで、私は死にかけました。でも、あの子も誰かに利用されたのかもしれないと思うと、ただ憎むこともできません」
「甘いわね」
「そう思います」
「でも、嫌いじゃないわ」
夫人は茶を置いた。
「ただし、覚えておきなさい。利用された人間も、誰かを傷つけた責任から完全には逃げられない」
私は頷いた。
「はい」
「あなたもね」
「私も?」
「そう。あなたは、自分が飲み込んできたものの責任を、これから取るの」
夫人の声は厳しかった。
「今まで黙っていた。許してきた。先回りして整えてきた。その結果、周りはあなたが黙ることを当然だと思った。もちろん、悪いのは踏みにじった連中よ。でも、あなたがこれから生き直すなら、自分の沈黙が何を育てたかも見なさい」
胸が痛んだ。
厳しい。
でも、不思議と腹は立たなかった。
なぜなら、それは私を責めるためだけの言葉ではなかったからだ。
私に、これから変われと言っている。
「見ます」
私は答えた。
「怖くても」
「よろしい」
夫人は満足げに頷いた。
「泣くだけの令嬢なら帰ってもらおうと思っていたけれど、あなたはもう少し使えそうね」
「夫人も、公爵閣下と同じような言い方をなさいますね」
「あら、心外」
「私も少し心外だ」
レオンハルト公爵が真顔で言う。
ロザリンド夫人は笑った。
「似ているわよ。あなたたち。どちらも、丁寧な言葉の下に刃物を隠すのが下手」
「私は隠しているつもりはない」
「だから下手だと言っているの」
私は思わず笑ってしまった。
緊張で張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
すると、その瞬間、体の奥から疲労が押し寄せてきた。
視界が少し揺れる。
レオンハルト公爵がすぐに気づいた。
「エリシア」
「大丈夫です」
「嘘だな」
「……少し、疲れました」
「帰る」
即答だった。
私は慌てる。
「まだ、お話が」
「今日は十分だ」
ロザリンド夫人が頷いた。
「そうね。倒れられても困るわ。処刑台に上がり損ねた悪女が、私の温室で倒れたなんて噂になったら面白すぎて、私が疑われるもの」
「そこですか」
「そこよ」
夫人は立ち上がらず、手元の扇を軽く振った。
「次の火種が欲しくなったら、またいらっしゃい。もっとも、次はもう少し顔色を良くしてからね」
私は立ち上がろうとして、レオンハルト公爵に支えられた。
「ありがとうございます、ロザリンド侯爵夫人」
「礼はまだ早いわ。私はあなたの味方ではないもの」
「はい」
私は少しだけ微笑んだ。
「でも、退屈は少し殺せたでしょうか」
夫人の唇が、楽しげに吊り上がる。
「ええ。なかなかの腕前だったわ、悪女様」
「光栄です」
温室を出る時、ロザリンド夫人が最後に言った。
「エリシア嬢」
「はい」
「妹君の涙を調べるなら、涙そのものではなく、涙を見て得をした人間を見なさい」
私は息を止めた。
「得をした人間……」
「そう。涙は流した本人だけのものとは限らないわ」
その言葉を胸に、私は侯爵家を後にした。
帰りの馬車の中、私はずっと黙っていた。
疲れていた。
でも、頭の中は動いていた。
セレーネは泣いていた。
でも、その涙を誰かが使った。
王妃宮の侍女ミレイユ。
席順の変更。
白い花の香油。
王太子殿下の同情。
父の焦り。
王宮の処刑命令。
妹の涙には、いつも誰かの罪が混ざっている。
それは、セレーネだけの問題ではない。
涙を都合よく使った人間がいる。
私は、窓の外を見た。
王都の街が、夕暮れに染まり始めていた。
「公爵閣下」
「何だ」
「私、セレーネをまだよく分かっていなかったのかもしれません」
「そうか」
「ただの嘘つきだと思えば楽でした。でも、そうではないのかもしれない」
「ああ」
「でも、無罪でもありません」
「そうだ」
「難しいですね」
「人間だからな」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
マルタの言葉と同じだった。
人間だから難しい。
「なら、一つずつ見ます」
私は言った。
「涙も、証言も、席順も、香油も。誰が何をして、誰が得をしたのか」
「それでいい」
「公爵閣下」
「何だ」
「私、今日は倒れませんでした」
レオンハルト公爵は、私を見た。
「帰るまで分からない」
「褒めてください」
言ってから、自分で驚いた。
そんなことを、自分から言うなんて。
レオンハルト公爵も少し驚いたように見えた。
ほんの少しだけ。
それから彼は、真面目な顔で言った。
「よくやった」
胸の奥が、温かくなる。
「はい」
私は小さく頷いた。
「今日は、それで十分です」
馬車はクラウゼル公爵家へ向かって進んでいく。
私の手元には、リュシエンヌ嬢の証言の写し。
そして胸の中には、ひとつの確信があった。
私はもう、妹の涙に黙って罪を着せられる女ではない。
涙の後ろにある手を、必ず見つける。




