第14話 冷血公爵は、私の沈黙を許してくれました
クラウゼル公爵家へ戻った途端、体から力が抜けた。
馬車を降りる時までは、まだ立っていられた。
ロザリンド侯爵夫人の前で倒れなかったことが、少しだけ誇らしかった。
帰りの馬車でも、私は証言の写しを膝に置き、何度も頭の中で言葉を並べ直していた。
泣くなら、殿下の前で。
ここでは駄目です。
セレーネは、本当に怖いの、と言った。
その二つの言葉が、喉の奥に刺さったまま抜けない。
屋敷の玄関広間に入ると、マルタがすぐに私の顔を見た。
「エリシア様。お部屋へ」
「……はい」
反論しようとは思わなかった。
自分でも、今の顔色が悪いことくらい分かっていた。
足元も頼りない。けれど、それ以上に心が疲れていた。
ロザリンド侯爵夫人は強烈な人だった。
敵ではない。
けれど味方でもない。
こちらの傷口に平気で指を入れて、痛み方を見て、面白ければ少し薬をくれるような人。
それでも、彼女がくれた情報は大きかった。
リュシエンヌ嬢の証言。
王妃宮の侍女ミレイユ。
セレーネの涙が、誰かに誘導されていた可能性。
証拠に近づいたはずなのに。
私は、すぐに喜べなかった。
部屋へ戻ると、暖炉に火が入っていた。
机には新しい紙とインクが用意されている。横には温かい薬湯と、果実を煮た小皿。
たぶん、マルタが出発前に用意させておいたのだろう。
私は机の前に座った。
「エリシア様」
マルタの声がする。
「先にお休みを」
「書きます」
自分でも驚くほど硬い声だった。
「忘れないうちに、書きます。ロザリンド侯爵夫人のお話を。リュシエンヌ嬢の証言を。ミレイユのことも。セレーネの……」
そこで、言葉が止まった。
セレーネの涙。
ペンを取ろうとした指が、動かない。
紙の白さが、急に怖くなった。
書かなければ。
証拠になる。
忘れてはいけない。
私はもう黙らないと決めた。
なのに、書けない。
セレーネは泣いていた。
あの子は、本当に怖かったと言った。
それは嘘ではなかったのかもしれない。
でも、その涙で私は殺されかけた。
可哀想だと思う気持ちと、許せない気持ちが、胸の中で絡まっている。
どちらか一つなら楽なのに。
セレーネは悪い。
セレーネは利用された。
セレーネは嘘をついた。
セレーネは本当に怖かった。
全部が同時にそこにあって、私は息ができなくなった。
「エリシア」
低い声がした。
レオンハルト公爵だった。
いつの間に部屋に入ってきたのか分からなかった。
彼は扉の近くに立ち、こちらを見ている。
私は慌ててペンを取ろうとした。
「すみません。今、記録を――」
「書かなくていい」
短い言葉だった。
私は手を止める。
「ですが、忘れてしまうかもしれません」
「忘れない」
「どうして分かるのですか」
「君の顔を見れば分かる」
その言葉に、胸が苦しくなった。
顔。
また顔だ。
この人は、私が隠そうとするものを簡単に見つけてしまう。
「私は……書けます」
「今は書けない顔だ」
「書かなければいけません」
「誰が決めた」
「私が」
「なら、取り消せ」
あまりに簡単に言われて、私は言葉を失った。
「取り消す……?」
「ああ」
「そんなこと、できるのですか」
「できる。君が決めたなら、君が変えていい」
君が決めたなら、君が変えていい。
その言葉は、思った以上に胸へ落ちた。
私はずっと、一度決めたことは最後までやらなければならないと思っていた。
決めたのだから。
引き受けたのだから。
役目だから。
つらくても、苦しくても、体調が悪くても、心が壊れそうでも。
途中でやめるのは、弱さだと思っていた。
「でも、証拠が」
「証拠は逃げない」
「リュシエンヌ嬢の証言は」
「写しがある」
「ミレイユは」
「私が追う」
「セレーネは」
そこで、また声が止まった。
喉が痛い。
セレーネ。
妹。
可愛い妹。
憎い妹。
泣く妹。
誰かに涙を教えられていたかもしれない妹。
私はどうしたいのだろう。
あの子に謝ってほしいのか。
あの子を裁きたいのか。
あの子を助けたいのか。
分からない。
分からないのが、苦しかった。
「エリシア」
レオンハルト公爵は、机を挟んで向かいに座った。
いつものように無表情だった。
けれど、声は低く、急かさない。
「今は、何も言わなくていい」
「……でも」
「沈黙していい」
私は顔を上げた。
「沈黙、していいのですか」
「ああ」
「私、もう黙らないと決めたのに」
「黙らされることと、自分で黙ることは違う」
胸の奥が、静かに震えた。
黙らされること。
自分で黙ること。
同じ沈黙でも、違う。
今までの私は、黙らされていた。
父に。殿下に。セレーネの涙に。王宮の空気に。
場を荒らすな、可愛げがない、正しすぎる、冷たい。
そう言われる前に、私は自分で口を閉じていた。
でも今、この沈黙は。
言えないから言わない。
考えるために黙る。
傷が痛むから、少し待つ。
それも、許されるのだろうか。
「……私は、逃げているのではありませんか」
「逃げているなら、逃げてもいい」
私は目を瞬いた。
「いいのですか」
「追ってくるものがあるなら、逃げるのは普通だ」
「公爵閣下の慰めは、時々とても実戦的ですね」
「実戦的で悪いか」
「悪くはありません」
私は少しだけ笑いそうになった。
でも、笑いきれなかった。
「ただ、私は……セレーネから逃げたいのかもしれません」
「そうか」
「憎みきれないのが嫌なんです」
言葉がこぼれた。
一つこぼれると、次が出てくる。
「セレーネが全部分かっていて私を陥れたのなら、憎めたかもしれません。でも、あの子が本当に怖かったのだとしたら。誰かに泣く場所を教えられて、利用されて、それでも私を傷つけたのだとしたら」
私は拳を握った。
「私は、何をすればいいのか分からない」
部屋が静かになる。
暖炉の火が、小さく揺れた。
マルタは部屋の隅に控えている。
何も言わない。
レオンハルト公爵も、すぐには答えなかった。
その沈黙が、怖くなかった。
不思議だった。
王宮の沈黙は怖かった。
誰かが失望している沈黙。
次に責められるのを待つ沈黙。
私が間違えたのだと示す沈黙。
でも、この部屋の沈黙は違う。
答えを急がない沈黙だった。
「今、決めなくていい」
やがて、レオンハルト公爵が言った。
「セレーネ嬢を憎むか、許すか、助けるか、裁くか。今決めなくていい」
「でも、事件は進みます」
「進む。だが、君の感情まで同じ速度で進む必要はない」
その言葉で、喉の奥が熱くなった。
事件は進む。
証拠を集める。
証言を取る。
王妃宮を調べる。
毒瓶の経路を追う。
それはやらなければならない。
でも、私の心まで、同じ速度で整理されなくてもいい。
そんなことを、誰も教えてくれなかった。
「……整理できないままでも?」
「ああ」
「怒っていても、可哀想だと思っていても?」
「ああ」
「許したくなくても、心配していても?」
「ああ」
「そんな矛盾したままで、いいのですか」
「人間だからな」
私は、思わず彼を見た。
その言葉は、マルタも、ロザリンド侯爵夫人も言っていた。
人間だから難しい。
人間だから矛盾する。
人間だから、綺麗に割り切れない。
私は小さく息を吐いた。
「公爵閣下」
「何だ」
「今のは、かなり上手な慰めでした」
レオンハルト公爵は一瞬だけ黙った。
「成功か」
「はい」
「そうか」
彼は真面目に頷いた。
マルタが部屋の隅で静かに言う。
「旦那様。大変よろしいかと」
「そうか」
「はい。余計な戦場比喩もございませんでした」
「入れた方がよかったか」
「不要です」
私は少し笑ってしまった。
ようやく、胸に詰まっていたものが少しだけ動いた気がした。
でも、ペンはまだ握れなかった。
レオンハルト公爵は、机の上の紙を裏返した。
「今日は書かない」
「でも」
「命令ではない」
彼は少しだけ考え、言い直した。
「提案だ」
「提案に聞こえません」
「では、マルタ」
急に振られたマルタは、まったく動じなかった。
「エリシア様。本日はお休みくださいませ。記録は明日の朝、体調がよろしい時に。今は、頭ではなく体を休める時間です」
「……マルタさんが言うと、断れません」
「そのために申し上げました」
「策士ですね」
「侍女長ですので」
マルタは淡々としていた。
私は観念して、ペンを置いた。
指を離した途端、自分の手が強く震えていたことに気づいた。
書けないはずだ。
こんな手で。
レオンハルト公爵がその手を見た。
「痛むか」
「少し」
言ってから、マルタの視線を感じる。
私は言い直した。
「……痛いです」
「よろしい」
マルタが満足そうに頷き、すぐに軟膏と包帯を用意した。
この屋敷では、痛いと言うと褒められる。
まだ少し不思議だ。
マルタが手首の包帯を替えている間、レオンハルト公爵は黙っていた。
手際よく巻かれていく白い布を見つめながら、私はぽつりと言った。
「私、セレーネに会うのが怖いです」
言ってから、息が止まりそうになった。
でも、誰も驚かなかった。
マルタは手を止めず、静かに言った。
「怖いでしょうね」
レオンハルト公爵も言う。
「会わなくていい」
「でも、いずれは」
「いずれでいい」
「今すぐではなく?」
「今すぐ会う必要はない」
「殿下は、セレーネを安心させる言葉を求めていました」
「殿下の要求だ」
「はい」
「君の義務ではない」
義務ではない。
その言葉を、私はゆっくり飲み込んだ。
セレーネを安心させること。
殿下を納得させること。
父の面目を守ること。
全部、いつの間にか私の義務になっていた。
でも、本当は違ったのかもしれない。
少なくとも今は、違う。
「……義務ではない」
私は小さく繰り返した。
「ああ」
「では、会いたくなるまで会いません」
「それでいい」
「逃げていると言われても?」
「言わせておけ」
「社交界で噂になります」
「もうなっている」
「確かに」
思わず笑ってしまった。
魔女だの毒婦だの色香だの、すでに好き放題言われているのだ。
今さら「妹と会おうとしない冷たい姉」が増えたところで、驚くほどではない。
いや、傷つきはする。
でも、傷つくことと従うことは別だ。
マルタが包帯を巻き終えた。
「できました。今日は、もうペンは禁止です」
「禁止」
「はい」
「食事は?」
「食べます」
「まだ何も言っていません」
「お顔に書いてあります」
私はレオンハルト公爵を見た。
「皆さん、顔を読みすぎです」
「君が分かりやすい」
「褒めていませんね」
「少し褒めている」
「少し」
「隠さなくなった」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
隠さなくなった。
そうなのだろうか。
確かに、私はここに来てから、怖いと言った。
痛いと言った。
分からないと言った。
休みたいと言った。
褒めてください、とまで言った。
王宮にいた頃の私なら考えられない。
あの頃の私は、いつも整っていた。
顔も、声も、言葉も、姿勢も。
でも、整った私は処刑台へ送られた。
なら、少し崩れた今の私の方が、ずっと生きているのかもしれない。
夕食は、部屋で取ることになった。
昨日より少し濃い味のスープと、柔らかい白身魚、煮た野菜。
私は半分より少し多く食べた。
マルタがそれを見て、静かに頷く。
「よろしいです」
「半分以上です」
「ええ。厨房に伝えます」
「厨房の方は、そんな報告を喜ぶのですか」
「喜びます。旦那様が食事を抜かれた時も、厨房は本気で怒ります」
「公爵閣下も抜くのですか」
私が尋ねると、レオンハルト公爵は少し目を逸らした。
珍しい。
「忙しい時は」
「旦那様は忙しくない時でもお忘れになります」
マルタが即座に言う。
「忘れるのですか」
「食事より先に処理することがある」
「公爵閣下」
「何だ」
「人に食べろと命じる方が、それでは説得力がありません」
「……そうか」
「はい」
私は少しだけ考え、言った。
「では、契約条件に加えましょう」
「何を」
「私だけでなく、公爵閣下も食事を抜かないこと」
レオンハルト公爵が、私を見た。
「私も?」
「はい」
「なぜ」
「私に食べさせたいなら、公爵閣下も食べてください」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
余計なことを言ったかもしれない。
でも、レオンハルト公爵は真剣に考えた。
「合理的だな」
「合理的なのですか」
「私が食べれば、君も食べやすい」
「……そういう意味だけではないのですが」
「違うのか」
「違います」
マルタが横から静かに言った。
「旦那様。エリシア様は、旦那様のお体も少しは気にしておられるのです」
私は顔が熱くなるのを感じた。
「マルタさん」
「事実です」
「事実でも、言い方が」
「必要な補足です」
レオンハルト公爵が私を見る。
「そうなのか」
「……少しです」
「少しか」
「はい。少しだけ」
「そうか」
彼は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「では、抜かない」
胸が変なふうに鳴った。
ただ食事を抜かないという話なのに。
なぜこんなに落ち着かないのだろう。
マルタは何も言わず、ただ満足そうに食器を片づけ始めた。
その後、私は寝台へ戻された。
まだ眠るには早い時間だった。
けれど、今日はもう起きていられない。
ロザリンド夫人との面会。
セレーネの涙の証言。
帰ってからの沈黙。
書けなかった記録。
許された沈黙。
一日で、心が何度も違う方向へ引っ張られた。
寝台に入ると、体が布団に沈む。
レオンハルト公爵は、少し離れた椅子に座った。
書類を読むつもりらしい。
「公爵閣下」
「何だ」
「お仕事があるなら、執務室へ戻られても」
「ここでできる」
「私が気になるのですか」
言ってから、しまったと思った。
少し踏み込みすぎた。
でも、公爵は平然と答えた。
「気になる」
私は言葉を失った。
「……そう、ですか」
「ああ」
「そこは、もう少し曖昧にするところでは」
「なぜ」
「私が動揺します」
「しているのか」
「しています」
「そうか」
彼は少し考えた。
「なら、気にしている」
「言い直しても近いです」
「難しいな」
私は布団の中で、少しだけ笑った。
「公爵閣下は、本当に言葉選びが」
「壊滅的か」
「最近は、少し改善されています」
「そうか」
「でも、今のは不意打ちでした」
「悪い」
「……悪くは、ありません」
小さく言って、私は目を閉じた。
言ってから恥ずかしくなったので、閉じた。
レオンハルト公爵は何も言わなかった。
それがありがたかった。
しばらく、静かな時間が流れた。
紙をめくる音。
暖炉の火。
遠くの廊下を歩く使用人の足音。
私は眠れそうで、眠れなかった。
頭の中に、またセレーネの声が蘇る。
『でも、本当に怖いの』
私は、あの子を許せるだろうか。
分からない。
今はまだ、分からない。
「エリシア」
レオンハルト公爵の声が、静かに落ちた。
「はい」
「考えているな」
「……はい」
「話さなくていい」
私は目を開けなかった。
その言葉が、今日一番、胸に沁みた。
話さなくていい。
聞き出されない。
答えを急かされない。
正しい感情を求められない。
沈黙していていい。
「ありがとうございます」
声が小さくなる。
「沈黙を許してくださって」
「許可が必要なことではない」
「私には、必要でした」
レオンハルト公爵は少し黙った。
そして、低く言った。
「なら、何度でも言う」
私は布団を握った。
「君は、話したい時に話せばいい。話したくない時は黙っていろ。泣きたい時は泣け。怒りたい時は怒れ。分からない時は、分からないままでいい」
涙が、目尻からこぼれた。
静かに。
声は出なかった。
泣いていることに気づかれたくなかった。
でも、たぶん気づかれている。
それでも、レオンハルト公爵は何も言わなかった。
泣いているのかとも聞かなかった。
大丈夫かとも聞かなかった。
拭えとも、泣くなとも、理由を言えとも言わなかった。
ただ、同じ部屋にいてくれた。
私はその沈黙の中で、ようやく少しだけ眠ることができた。
翌朝。
私が目覚めると、枕元の机に一通の書状が置かれていた。
差出人は、法務卿。
封はまだ切られていない。
マルタが部屋に入ってきて、私の目覚めに気づく。
「おはようございます、エリシア様。お顔色は昨日よりよろしいです」
「この屋敷では、朝の挨拶が顔色になってきましたね」
「旦那様の影響でございます」
マルタは涼しい顔で言った。
私は少し笑ってから、書状を見た。
「それは?」
「法務卿より。旦那様が、エリシア様がお目覚めになってから開封するようにと」
胸が少しざわつく。
私は書状を受け取り、封を切った。
中の文面は短かった。
王宮にて、再調査に伴う本人確認聴取を行う。
対象者、エリシア・フォン・アルヴィナ。
日時、本日午後。
場所、王宮法務棟。
そして最後に、こう添えられていた。
『王妃宮より、エリシア嬢の身柄を一時王宮に戻すべきとの申し入れあり。法務卿としては拒否したが、王宮内の一部が強く反発している』
私は、書状を持つ手に力を込めた。
王宮へ。
もう一度。
あの場所へ戻る。
処刑台へ続く場所へ。
怖い。
でも、昨日とは違う。
私はもう、沈黙を許された。
話すか黙るか、自分で決めていいのだと知った。
なら、王宮でも。
私は、私の声を選べる。
扉が開き、レオンハルト公爵が入ってきた。
彼は私の顔を見る。
「読んだか」
「はい」
「行けるか」
私は少しだけ息を吸った。
「怖いです」
「ああ」
「でも、行きます」
「分かった」
「ただし」
私は書状を畳んだ。
「私はもう、処刑台へ戻るためには行きません」
レオンハルト公爵の目が、静かに細くなる。
「そうだ」
彼は短く言った。
「君は、戻らない」
その言葉を聞いて、私は頷いた。
今日、私は王宮へ行く。
でも、もう同じ私ではない。
黙らされるためではなく。
真実を取り戻すために。




