第15話 私はもう、処刑台には戻らない
王宮へ向かう馬車の中で、私は何度も指先を握り直していた。
外は薄曇りだった。
雨は降っていない。けれど、空は重く、王都の建物の影まで灰色に沈んで見える。
王宮へ戻る。
その事実だけで、胸の奥が冷たくなる。
あの地下牢。
濡れた石床。
鉄格子。
明日の朝には処刑だと告げられた声。
自分の命が、紙の上の署名と誰かの涙で終わらされる感覚。
私はそれを思い出さないようにしていた。
けれど、馬車が王宮に近づくにつれて、身体は勝手に思い出してしまう。
喉が渇く。
呼吸が浅くなる。
手首の包帯の下が、じくじくと痛む。
「エリシア」
向かいから、レオンハルト公爵の声がした。
「はい」
「顔色が悪い」
「……今日は、悪くても仕方がないと思います」
「ああ」
否定されなかった。
それだけで、少し楽だった。
マルタも同行している。
彼女は私の隣に座り、膝の上に小さな鞄を置いていた。中には薬湯、包帯、砂糖菓子、薄い外套、そしてなぜか小さな手鏡まで入っている。
王宮法務棟で本人確認聴取を受けるだけなのに、まるで遠征だ。
「マルタさん」
「はい」
「その鞄の中身、少し多くありませんか」
「少ないくらいです」
「そうなのですか」
「王宮は何が起きるか分かりませんので」
マルタは真顔だった。
王宮は何が起きるか分からない。
その言葉が、笑えないほど真実だった。
レオンハルト公爵が低く言う。
「今日の聴取は法務卿主導だ。王妃宮に君の身柄を移す権限はない」
「はい」
「王宮内で何を言われても、私の許可なく別室へ行くな」
「はい」
「水や茶は飲むな」
「……はい」
「誰かが泣いても、謝るな」
私は少しだけ目を瞬いた。
「そこまで?」
「そこまでだ」
公爵はまっすぐ私を見た。
「君は、泣いた相手を見ると自分を折る」
胸が痛んだ。
否定できない。
「今日は、折れません」
「折れそうになったら言え」
「折れそうです、と?」
「ああ」
「人前で言うのは、少し恥ずかしいです」
「では、合図を決める」
レオンハルト公爵は少し考えた。
「手袋を外せ」
「手袋を?」
「君が手袋を外したら、私は話を止める」
「……分かりやすいですね」
「マルタの案だ」
「やはり」
マルタが静かに頷いた。
「声に出せない時の合図は必要です。王宮では、声を奪われることがございます」
声を奪われる。
その表現が、胸に刺さった。
まさに、私はそうされてきたのだと思う。
発言の順番。
相手の身分。
涙。
怒声。
沈黙。
家名。
王太子妃候補としての立場。
いろんなものが、私の声を奪ってきた。
「分かりました」
私は手袋を見下ろした。
今日は、マルタが選んだ淡い灰青の手袋をつけている。包帯を隠すためではなく、痛々しさを少し和らげるためだという。
「声が出なくなったら、手袋を外します」
「それでいい」
レオンハルト公爵が頷く。
「それから」
「まだありますか」
「ある」
「多いですね」
「必要だからな」
いつもの返事だった。
私は少しだけ笑った。
すると公爵は、ほんのわずかに目を細めた。
「少し顔色が戻った」
「公爵閣下の確認は、本当に細かいですね」
「必要だからな」
「それも聞きました」
「何度でも言う」
そのやり取りで、少しだけ息ができた。
馬車は王宮の東門から入った。
正門ではない。
法務棟へ向かうための、官吏や調査官が使う門だ。
それでも、王宮の石壁が見えた瞬間、胃の奥が縮んだ。
ここへ戻ってきた。
逃げ出したわけではない。
連れ戻されたわけでもない。
自分の無実を取り戻すために来た。
そう言い聞かせても、怖いものは怖い。
馬車が止まる。
扉が開き、レオンハルト公爵が先に降りた。
彼はいつものように手を差し出す。
私は、その手を見た。
王宮の空気が流れ込む。
冷たい石の匂い。
遠くから聞こえる靴音。
誰かの視線。
私はゆっくり、その手を取った。
「歩けるか」
「歩けます」
「嘘なら抱える」
「王宮で横抱きにされたら、また噂が増えます」
「増えればいい」
「よくありません」
「君が倒れるよりはいい」
その言葉に、私は小さく笑った。
「今日は倒れません」
「帰るまで分からない」
「昨日もそう言われました」
「事実だ」
マルタが後ろから静かに言う。
「お二人とも、入口で会話を長引かせますと目立ちます」
すでに目立っていた。
法務棟の入口付近にいた官吏たちが、こちらをちらちら見ている。
王太子毒殺未遂の容疑者。
冷血公爵の契約婚約者。
王都で魔女と噂されている女。
視線が刺さる。
でも、私は背筋を伸ばしすぎないように意識した。
折れそうなほど伸ばすのではなく、立つために伸ばす。
法務棟の中は、王宮本棟とは違っていた。
華やかな装飾はない。
壁には書類棚。
廊下には官吏の足音。
インクと紙と蝋の匂い。
私は少しだけ安心した。
ここは、王妃宮の香水の匂いが薄い。
誰かの笑い声も少ない。
美しい嘘より、面倒な記録が積まれている場所だ。
案内された部屋には、法務卿が待っていた。
年配の男性で、痩せた頬に深い皺が刻まれている。
王前会議室でも見た人だ。あの時、国王陛下の命を受け、再調査を担当すると告げた。
彼は私たちを見ると、立ち上がった。
「クラウゼル公爵閣下。エリシア嬢。ご足労いただき感謝する」
私は礼をした。
「お招きに従い参りました」
声は震えていない。
大丈夫。
まだ、大丈夫。
法務卿は私の顔色と手首に一瞬目を向けたが、余計なことは言わなかった。
「本日は、本人確認聴取である。あくまで再調査のための確認であり、尋問ではない」
尋問ではない。
その言葉を聞いても、身体は少し強張った。
法務卿は続けた。
「ただし、王妃宮より、本件は王宮内の秩序に関わるため、エリシア嬢の身柄を一時王宮に戻すべきとの申し入れがあった」
部屋の空気が少し冷える。
レオンハルト公爵の声は低かった。
「拒否されたはずだ」
「拒否している」
法務卿は疲れたように頷いた。
「だが、圧力はある」
「誰からだ」
「王妃宮、王太子側近の一部、アルヴィナ公爵家からも嘆願書が来ている」
父。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
父は私を処刑同意書に署名した。
それなのに、今度は戻せと言う。
娘としてではなく、家の問題として。
「内容は」
レオンハルト公爵が問う。
法務卿は書類を一枚取り出した。
「アルヴィナ公爵は、娘の体調と精神状態を理由に、実家で静養させたいと申し出ている」
私は思わず笑いそうになった。
静養。
あの家で?
私が息ができなかった場所で。
「おかしいですか」
法務卿が私を見た。
私は少しだけ息を整えた。
「失礼いたしました。あまりにも、言葉だけが美しかったものですから」
法務卿の眉がわずかに動く。
レオンハルト公爵は黙っている。
私は続けた。
「父は、私が地下牢に入れられた時、実家で静養させたいとは申しませんでした。処刑同意書に署名した後で静養と言われても、少し受け取り方に困ります」
法務卿はしばらく私を見ていた。
それから、静かに書類へ何かを書き込む。
「記録しておく」
「お願いいたします」
今の私の言葉が、記録される。
それだけで、少し不思議な気持ちになった。
今までは、私の言葉は流されていた。
妹の涙や父の怒声の下に消えていった。
けれどここでは、紙に残る。
それは、小さな救いだった。
聴取が始まった。
茶会当日の朝の行動。
王妃宮の侍女から席順変更を告げられた時刻。
セレーネの様子。
ユリウス殿下の茶器に触れたかどうか。
私室を離れた時間。
侍女アンナが髪飾りを取りに行った経緯。
毒瓶が見つかったと告げられた時の状況。
法務卿は淡々と質問した。
私は、分かることは答え、分からないことは分からないと言った。
以前の私なら、分からないと答えるのが怖かった。
無能に見える気がした。
責任を果たせていないように思えた。
でも今は、分からないことを分かったふりする方が怖い。
「茶会前、王妃宮の侍女ミレイユと直接会話したか」
「はい。私の侍女アンナに、髪飾りを取りに来るよう伝えたのはミレイユだったと思います。ただし、確実に本人と断言できるほど長く話したわけではありません」
「白い花の香油については」
「セレーネが、王妃殿下から特別にいただいたと話していました。茶会の数日前です」
「毒瓶が発見された私室にも同じ香りがあったと?」
「同じ、もしくは近い香りです。断言はできません」
「断言できないことを、あえて記録するのか」
法務卿が確認する。
私は頷いた。
「はい。記憶としては不完全です。ですが、他の証拠と照合すれば意味を持つ可能性があります」
法務卿は、わずかに目を細めた。
「冷静だな」
私は少し黙った。
「冷静ではありません」
正直に答えた。
「怖いです。今も、王宮にいるだけで喉が苦しくなります。けれど、怖いことと、事実を話せないことは別です」
法務卿のペンが止まった。
レオンハルト公爵が、私を見た気がした。
私は、手袋を外していない。
まだ話せる。
「続けてください」
法務卿は、ゆっくり頷いた。
「分かった」
聴取は一刻ほど続いた。
長かった。
途中で何度か息が詰まりそうになった。
特に、地下牢へ連れていかれた時の確認では、手が震えた。
法務卿は言った。
「地下牢で、弁明の機会は与えられたか」
私は、一瞬答えられなかった。
石の壁。
看守の冷たい目。
父の声。
罪を認めろ、と。
手袋を外そうかと思った。
その時、レオンハルト公爵の低い声がした。
「休憩を」
法務卿が頷く。
「よかろう」
私は息を吐いた。
手袋はまだ外していない。
けれど、彼は止めてくれた。
マルタがすぐに近づき、小さな砂糖菓子を差し出す。
「一つだけ」
「今ですか」
「今です」
「法務卿の前で?」
「倒れるよりはよろしいかと」
レオンハルト公爵が頷いた。
「食べろ」
法務卿も疲れた顔で言った。
「食べて構わん。私は見ていない」
見ていないと言いながら、明らかにこちらを見ないようにしてくれた。
私は小さな砂糖菓子を口に入れた。
甘い。
この場で甘いものを食べることに、妙な可笑しさがあった。
王宮法務棟。
毒殺未遂の本人確認聴取。
その途中で、冷血公爵と侍女長に見守られながら砂糖菓子を食べる元王太子妃候補。
状況があまりにも奇妙で、少しだけ笑いそうになる。
「……ありがとうございます」
私が言うと、マルタは満足そうに頷いた。
「よろしいです」
法務卿が、咳払いをした。
「再開してよいか」
「はい」
私は顔を上げた。
「弁明の機会は、ありませんでした」
声は震えたが、出た。
「私は、やっていないと申し上げました。けれど、それは記録されませんでした。父にも、王太子殿下にも、聞いていただけませんでした」
「アルヴィナ公爵は、罪を認めるよう促したと記録にある」
「はい」
「その時、どう感じた」
私は少し迷った。
これは事実確認なのか。
感情を聞かれているのか。
でも、法務卿は待っていた。
「……父にとって私は、娘ではなく、処理すべき問題なのだと思いました」
部屋が静かになる。
私は続けた。
「それから、自分が本当に一人なのだと感じました」
言った瞬間、胸が痛んだ。
けれど、不思議と崩れなかった。
言葉にしたことで、痛みの形が少しだけ見えたからかもしれない。
法務卿は何も言わず、記録した。
やがて、聴取が終わった。
法務卿は書類を整え、私を見た。
「本日の確認は以上だ。エリシア嬢、よく答えてくれた」
「ありがとうございます」
「今後、追加の聴取が必要になる可能性はある。ただし、法務卿として正式に記録しておく」
彼は、ゆっくりと言った。
「現時点で、エリシア嬢の身柄を王宮またはアルヴィナ公爵家へ移す必要性は認められない。引き続き、クラウゼル公爵家の保護下に置く」
息が、少しだけ抜けた。
戻されない。
少なくとも、今は。
レオンハルト公爵が短く言う。
「当然だ」
法務卿は疲れたように彼を見る。
「当然を記録に残すのが私の仕事だ」
「なら、感謝する」
「珍しく素直だな」
「必要だからな」
法務卿は少しだけ口元を緩めた。
その時だった。
扉の外が騒がしくなった。
官吏の制止する声。
女性の高い声。
誰かが泣いているような、震えた呼吸。
私の身体が、反射的に強張った。
聞き覚えがある。
「お姉様……!」
扉の向こうから、セレーネの声がした。
心臓が、嫌な音を立てる。
マルタが一歩、私の前に出た。
レオンハルト公爵も立ち上がる。
法務卿が眉をひそめた。
「誰が通した」
扉の向こうで、官吏が困ったように言う。
「セレーネ嬢が、どうしてもエリシア嬢に一目だけと……王太子殿下もご一緒で……」
ユリウス殿下。
来ている。
私は手袋を見た。
外す?
話を止めてもらう?
心が揺れる。
セレーネに会うのは怖い。
ユリウス殿下に会うのも怖い。
でも、ここで逃げたら、また「妹を拒む冷たい姉」になるのではないか。
そう考えた瞬間、自分で気づいた。
また、他人の目を先に考えている。
私は深く息を吸った。
「エリシア」
レオンハルト公爵が低く呼ぶ。
「会わなくていい」
私は頷いた。
「はい」
そして、法務卿を見た。
「私は、今は会いません」
声が、少し震えた。
でも、言えた。
扉の向こうで、セレーネの声が上がる。
「お姉様、お願いです……少しだけでいいの。私、謝りたくて……怖くて、ずっと……」
謝りたい。
その言葉に、胸が痛む。
会えば、泣いているのだろう。
大きな目に涙を溜めて、細い肩を震わせて、私を見上げるのだろう。
私は、また悪者になる。
でも。
「今は会いません」
もう一度、言った。
法務卿が頷き、扉の外へ向けて声を張る。
「聴取対象者は面会を拒否している。退出を」
「エリシア!」
今度はユリウス殿下の声だった。
胸が強く跳ねる。
「少しだけでいい。話をしよう。君は誤解している。セレーネも苦しんでいるんだ」
誤解。
また、その言葉。
私が誤解している。
私が落ち着けば分かる。
私が話せば丸く収まる。
私は立ち上がった。
マルタが支えようとする。
私は首を振った。
「大丈夫です」
今度は、本当に。
レオンハルト公爵は私の横に立った。
扉へ向かって一歩進もうとしたが、私は手で止めた。
「私が言います」
彼は私を見る。
「無理はするな」
「無理ではありません」
少しだけ考えて、言い直す。
「怖いです。でも、言います」
レオンハルト公爵は頷いた。
私は扉を開けなかった。
閉じた扉越しに、声を出した。
「ユリウス殿下」
向こうが静かになる。
「セレーネ」
セレーネの泣く息が聞こえた。
胸が痛い。
でも、続ける。
「私は今、お二人に会いません」
「エリシア、なぜだ。話せば」
「話せば、また私が折れると思っているからですか」
扉の向こうが沈黙した。
私は手を握った。
「殿下は私に、セレーネを安心させる言葉を求めました。誤解を解く努力をしろとおっしゃいました。でも、私は今、誰かを安心させるためにここへ来たのではありません」
「違う、私は君のために――」
「その言葉は、もう受け取りません」
胸が震える。
けれど、声は出る。
「私のためと言いながら、私に謝らせようとする言葉も。私の名誉と言いながら、王宮へ戻そうとする言葉も。思いやりと言いながら、私の怒りをなかったことにする言葉も」
セレーネが小さく泣いた。
「お姉様、私、本当に怖かったの……」
「知っています」
私は目を閉じた。
「あなたが怖かったことを、今は否定しません」
「なら……!」
「でも、あなたの怖さで、私の罪は作れません」
扉の向こうで、息を呑む気配がした。
「あなたが泣いたことと、私が毒を盛ったことは別です。あなたが怖かったことと、私が処刑されてよかったことも別です」
「そんな、私、そんなつもりじゃ……」
「そうかもしれません」
声が震えた。
でも、もう止まらなかった。
「あなたにそのつもりがなかったとしても、私は死にかけました」
扉の向こうが静まり返る。
私は、ゆっくり息を吸った。
「私はもう、処刑台には戻りません」
その言葉を言った瞬間、胸の奥で何かが切れた気がした。
鎖のようなもの。
見えない糸のようなもの。
父の声、殿下の声、セレーネの涙、王妃の微笑み。
全部が消えたわけではない。
でも、私はその真ん中で立っていた。
「王宮にも、アルヴィナ家にも、誰かの都合で戻りません。私が戻ると決めた時だけ、自分の足で戻ります」
言い終えると、膝から力が抜けそうになった。
レオンハルト公爵の手が、すぐに背中を支えた。
私は倒れなかった。
扉の向こうで、ユリウス殿下が何か言いかけた。
けれど、法務卿が低く告げる。
「王太子殿下。これ以上は、再調査への干渉と記録いたします」
沈黙。
長い沈黙の後、足音が遠ざかっていった。
セレーネの泣き声も、少しずつ遠くなる。
私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
「エリシア」
レオンハルト公爵が言う。
「はい」
「よく言った」
たったそれだけで、涙が出そうになった。
でも、ここでは泣かなかった。
泣いてもよかったのかもしれない。
けれど今は、泣くより立っていたかった。
「……帰りたいです」
私は言った。
「クラウゼル公爵家へ」
その言葉を口にした瞬間、自分で少し驚いた。
クラウゼル公爵家。
そこを、帰りたい場所として呼んだ。
レオンハルト公爵は、何も言わなかった。
ただ、短く頷いた。
「ああ。帰ろう」
法務棟を出る時、王宮の廊下は相変わらず冷たかった。
視線もあった。
囁きもあった。
誰かが私を魔女と呼ぶかもしれない。
悪女と呼ぶかもしれない。
けれど、もう同じではない。
私は処刑台から逃げただけではない。
戻らないと、自分で決めた。
馬車に乗る直前、私は王宮を振り返った。
灰色の石壁。
高い窓。
美しく、冷たい場所。
かつて私は、ここで生きるために自分を殺していた。
でも今は違う。
私は生きるために、ここを出る。
レオンハルト公爵が手を差し出した。
私はその手を取った。
「公爵閣下」
「何だ」
「今日は、倒れませんでした」
彼は私を見た。
「まだ馬車に乗っていない」
「そこは、褒めるところです」
「そうか」
彼は少しだけ考えた。
そして、真面目な顔で言った。
「よくやった。帰ったら食べろ」
「最後が余計です」
「必要だ」
「でも、今日は許します」
「そうか」
マルタが後ろで小さく言う。
「旦那様、八十点です」
「高いのか」
「かなり」
私は少し笑った。
怖かった。
今も怖い。
この先も、きっと何度も怖くなる。
でも、私はもう処刑台には戻らない。
誰かの涙で。
誰かの都合で。
誰かの美しい言葉で。
私の命を差し出したりしない。
馬車の扉が閉まる。
王宮が、少しずつ遠ざかっていく。
私は膝の上で手を握り、静かに息を吐いた。
第一章の終わりは、勝利というほど華やかではなかった。
無実が証明されたわけでもない。
黒幕が暴かれたわけでもない。
妹も、元婚約者も、父も、王妃も、まだそこにいる。
それでも、私は一つだけ取り戻した。
もう戻らないと決める権利を。
それは、私の人生を取り戻すための、最初の本当の一歩だった。




