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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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15/24

第16話 公爵家の朝食は、王宮よりずっと不器用でした

 目が覚めた時、私は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


 白すぎない天井。

 灰色がかった壁。

 窓から差し込む朝の光。

 暖炉の中で、ほとんど灰になった薪が小さく赤く残っている。


 王宮ではない。


 アルヴィナ公爵家でもない。


 クラウゼル公爵家。


 そう思い出した瞬間、体から少しだけ力が抜けた。


 昨夜は、よく眠れたのだと思う。


 眠れないかもしれないと思っていた。

 王宮へ戻り、法務棟で聴取を受け、扉越しとはいえユリウス殿下とセレーネの声を聞いた。

 あんな夜に、まともに眠れるはずがないと思っていた。


 けれど、気づけば朝だった。


 深く眠った。


 その事実に、まず安堵した。

 次に、罪悪感が押し寄せた。


 こんなに眠ってしまった。


 朝の支度は。

 今日の予定確認は。

 法務卿への返答は。

 ロザリンド侯爵夫人から得た証言の整理は。

 白百合慈善基金の収支表の記憶は。

 王宮薬品庫の封印記録は。


 私は反射的に起き上がろうとした。


 その瞬間、手首が痛んだ。


「……っ」


 小さく息が漏れる。


 包帯の下の傷が、まだ自分は病人だと主張していた。


 情けない。


 こんなことで、いちいち止まっていては何もできない。


 私はもう一度起き上がろうとした。


 すると、扉が静かに叩かれた。


「エリシア様。お目覚めでしょうか」


 マルタの声だった。


「はい。起きています」


 私が答えると、彼女はすぐには入ってこなかった。


「入ってもよろしいですか」


 確認。


 この屋敷では、当たり前のように確認してくれる。


 私はまだ、そのたびに少し驚く。


「はい。お願いします」


 扉が開き、マルタが入ってきた。


 今日も背筋が綺麗に伸びている。

 黒い侍女服には皺ひとつない。手には水差しと、温かい布巾が乗った盆。


 彼女は私の顔を見るなり、静かに頷いた。


「昨日より、お顔色がよろしいです」


「おはようございますより先に顔色なのですね」


「旦那様がうつりました」


「それは少し心配です」


「私もです」


 マルタは真顔だった。


 私は思わず笑ってしまった。


 朝、笑った。


 それに気づいて、自分で少し驚く。


 処刑台へ向かうはずだった朝から、まだ数日しか経っていない。

 なのに今、私は知らない屋敷の寝台で目覚め、侍女長の冗談のような真顔に笑っている。


 人は、案外しぶとい。


 前世でも、今世でも、何度も折れそうになったのに。


 まだ笑える。


「おはようございます、マルタさん」


「おはようございます、エリシア様」


 マルタはようやく挨拶を返してくれた。


 そして、私が寝台から出ようとしていることに気づき、目を細める。


「どちらへ?」


「支度を。今日の予定を確認しなければ」


「朝食でございます」


「その前に、昨日の記録を」


「朝食でございます」


 同じ言葉を、同じ温度で返された。


「ですが、法務卿への追加確認や、リュシエンヌ嬢の証言の正式な扱い、それに王妃宮の侍女ミレイユについても」


「朝食でございます」


「マルタさん」


「はい」


「それ以外の言葉も使ってください」


「では申し上げます。旦那様がお待ちです」


 私は動きを止めた。


「公爵閣下が?」


「はい。食堂で」


「食堂……」


 私は思わず寝間着の胸元を見下ろした。


 もちろん、このまま行けるはずがない。

 だが、問題はそこではなかった。


 食堂で朝食。


 レオンハルト公爵と。


 契約婚約者として。


 王宮での朝食は、いつも形式だった。


 誰がどの席に座るか。

 何をどの順番で口にするか。

 会話はどの程度か。

 誰の前で、どんな表情をするか。


 食事でありながら、半分は儀式だった。


 アルヴィナ家でも同じだ。

 父の機嫌。

 セレーネの遅刻。

 継母の視線。

 私が口を挟むべきか、黙るべきか。


 朝食は、胃に物を入れる時間ではなく、今日一日を失敗しないための最初の試験だった。


「エリシア様」


 マルタが静かに言う。


「食堂へ行くのが怖いですか」


「……少し」


 正直に言えた。


 マルタは頷く。


「では、少しだけ怖いまま参りましょう」


「怖くなくしてくださるのではないのですね」


「怖くなくなるまで待っていると、スープが冷めます」


「現実的ですね」


「温かい朝食は重要です」


 それは、この屋敷の決まりなのかもしれない。


 温かいものを温かいうちに食べる。

 痛い時は痛いと言う。

 必要のない謝罪はしない。

 倒れる前に止まる。


 どれも単純なのに、私には難しいことばかりだった。


 身支度は、思ったより短く終わった。


 マルタが用意してくれたのは、淡い灰青の室内着に近いワンピースだった。

 きちんとしているが、堅苦しくはない。

 袖は長く、包帯を隠してくれる。髪は凝った結い上げではなく、低い位置でゆるくまとめられた。


 鏡を見ると、そこには王太子妃候補のエリシアではなく、少し顔色の戻った病み上がりの女がいた。


 弱い。


 けれど、昨日よりは生きている。


「よろしいです」


 マルタが言った。


「弱っているが、朝食は食べられそうに見えます」


「マルタさんの評価基準は独特ですね」


「本日の目的ですので」


 私は小さく笑い、彼女に支えられながら食堂へ向かった。


 クラウゼル公爵家の食堂は、王宮ほど広くなかった。


 いや、貴族の屋敷としては十分に広い。

 長い卓もある。窓も高く、壁には古い風景画が掛けられている。

 けれど、王宮のような人を威圧する華やかさはない。


 朝の光が斜めに入り、卓上の銀器を静かに光らせていた。


 その卓の端に、レオンハルト公爵が座っていた。


 彼はすでに席についていたが、皿にはまだ手をつけていない。

 目の前には黒パン、卵、焼き野菜、白いスープ、果実。

 豪華ではない。

 けれど、温かそうだった。


 私が入ると、公爵は顔を上げた。


「食べろ」


 第一声がそれだった。


 私は一瞬黙った。


 マルタが、すぐに後ろから低い声で言う。


「旦那様」


「何だ」


「まずは、おはようございます、でございます」


「そうか」


 レオンハルト公爵は真顔で頷き、もう一度私を見た。


「おはよう」


 少しぎこちない。


 まるで、習いたての外国語を口にしたみたいだった。


 私は思わず笑いそうになる。


 けれど、こらえた。


「おはようございます、公爵閣下」


「ああ」


 そこで会話が終わりそうになる。


 マルタが再び静かに言った。


「旦那様」


「何だ」


「本日はお顔色がよろしい、くらいは」


「顔色は昨日よりいい」


「直球でございますね」


「事実だ」


「まあ、合格点です」


 合格点が出たらしい。


 私はとうとう少し笑った。


「ありがとうございます。公爵閣下も、お顔色は……いつも通りですね」


「私は悪かったのか」


「いえ。変化が分かりにくいだけです」


「よく言われる」


「でしょうね」


 席に案内される。


 公爵の向かいではなく、斜め向かい。

 近すぎず、遠すぎない場所だった。


 マルタの配慮だろうか。


 食卓には、湯気の立つスープが置かれた。

 昨日より少し濃い味にしてあると言っていたものだろう。香りだけで、胃のあたりが少し温かくなる気がした。


「毒はない」


 レオンハルト公爵が言った。


 私はスプーンを持ちかけて、彼を見る。


「公爵閣下」


「何だ」


「朝食のたびにおっしゃるのですか」


「必要なら」


「今日は、先に飲まないのですね」


「飲んだ」


「いつの間に」


「君が来る前に」


 私はスープを見る。


 確かに、彼の皿のスープは少し減っている。


 何も言わずに先に飲んでいたらしい。


 胸の奥が、じわりと温かくなった。


「……ありがとうございます」


「ああ」


「でも、毎回では公爵閣下が大変では」


「慣れるまでだ」


「私が?」


「君が」


 彼は当然のように言った。


「食べ物を怖がらずに済むまで」


 私はスプーンを握った。


 食べ物を怖がらずに済むまで。


 それがいつになるのか、自分でも分からない。


 でも、この人は、それまで同じことをするつもりなのだろう。


 淡々と。

 面倒だとも言わず。

 大げさに同情するでもなく。


 私はスープを一口飲んだ。


 温かい。


 昨日より少し塩気がある。

 野菜の甘さと、鶏の出汁。

 喉を通る時、怖さより先に味が来た。


「……おいしいです」


 小さく言うと、マルタがすぐに反応した。


「厨房に伝えます」


「今?」


「後ほど。ただ、これは重要な報告です」


「厨房の方は、本当にそんなに気にされるのですか」


「昨日、エリシア様がスープを半分以上召し上がったと伝えましたら、料理長が無言で拳を握っておりました」


「拳を」


「はい。勝利の仕草です」


 料理長。


 まだ顔も知らない人が、私がスープを食べたことで拳を握った。


 それを想像して、胸が不思議なふうに緩んだ。


 私はもう一口、スープを飲んだ。


「では、今日も伝えてください。昨日より、味が分かりました、と」


「承知しました」


 マルタは、どこか満足そうだった。


 食事は静かに進んだ。


 黒パンは少し硬かったが、スープに浸すと食べやすい。

 卵は柔らかく、焼き野菜は甘い。

 王宮の朝食のように皿数は多くないが、一つ一つが「食べるため」に用意されている気がした。


 王宮の食事は、美しかった。


 でも、時々、何の味もしなかった。


 見られているという緊張で、味を感じる余裕がなかったのだと思う。


「エリシア」


 レオンハルト公爵が呼んだ。


「はい」


「考え事か」


「少し」


「王宮か」


「……はい」


「朝食で思い出すのか」


「思い出します」


 私はパンを小さくちぎった。


「王宮の朝食は、いつも緊張しました。何を話すか、どのタイミングで微笑むか、誰の皿が進んでいないか、殿下が退屈していないか、セレーネが失言しないか」


「食事ではないな」


「はい」


 言われて、少し笑った。


「たぶん、食事ではありませんでした。会議と試験と舞台を混ぜたようなものです」


「まずそうだ」


「味は良かったはずです」


「はず?」


「覚えていません」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 王宮で何度も豪華な朝食を食べた。

 珍しい果物も、白いパンも、上質な茶も、甘い菓子も。


 でも、味を覚えていない。


 覚えているのは、誰かの視線と、自分が間違えないように呼吸を整えていたことだけ。


「ここでは覚えろ」


 レオンハルト公爵が言った。


「何をですか」


「味を」


 短い言葉だった。


 なのに、胸に残った。


「……はい」


 私はスープをもう一口飲んだ。


「覚えます」


 その後、私はいつもの癖で、つい口を開いていた。


「公爵閣下。本日のご予定はどのように? 法務卿への返書と、ロザリンド侯爵夫人への礼状、それからリュシエンヌ嬢の非公開証言について手配を確認しなければ。王宮薬品庫の封印記録も、写しが届いたら照合を――」


「君の仕事ではない」


 レオンハルト公爵が遮った。


 私は動きを止めた。


「ですが」


「君の仕事ではない」


 もう一度、同じ言葉。


 胸の奥が、ざわついた。


 分かっている。

 今の私は病み上がりで、保護されている立場だ。

 書類を抱えるべきではない。

 休むべきだ。


 でも。


「何もしないわけにはいきません」


 声が少し硬くなった。


「私は、ここに置いていただいている立場です。無実を証明するためにも、できることをしなければ」


「できることはある」


「なら」


「食べろ。寝ろ。傷を治せ」


 またそれだ。


 私はスプーンを置いた。


「それは、私でなくてもできます」


「君にしかできない」


「病人でいることがですか?」


 自分でも、少し棘のある言い方だと思った。


 マルタがこちらを見る。


 でも、止めなかった。


 レオンハルト公爵も、怒らなかった。


「今の君は、病人だ」


「分かっています」


「分かっていない」


「分かっています」


「なら、なぜ食事中に仕事を探す」


 私は言葉に詰まった。


 探している。


 確かに。


 私は、食事をしながら仕事を探していた。


 居場所を確かめるみたいに。


「……役に立たないと」


 声が小さくなる。


「ここにいてはいけない気がするんです」


 言った瞬間、食堂の空気が静かになった。


 言わなければよかったと思った。


 でも、もう遅い。


「アルヴィナ家でも、王宮でも、私は役に立つことで居場所を作っていました。殿下の書類を整えて、セレーネの失敗を直して、父の面目を守って。そうしていれば、必要とされると思っていました」


 喉が少し痛い。


「でも、役に立たなくなった途端、私は捨てられました。いえ、たぶん……役に立っていた時から、娘でも婚約者でもなく、便利な何かだったのかもしれません」


 口にすると、やはり痛かった。


 でも、止まらなかった。


「だから、ここでも何かしなければと思ってしまいます。情報を出すとか、記録を書くとか、公爵閣下の役に立つとか。そうしないと、私はまた……」


「捨てられると思うのか」


 レオンハルト公爵が静かに言った。


 私は答えられなかった。


 答えないことが、答えだった。


 公爵は少し黙った。


 そして、真顔で言った。


「役に立つかどうかは、後で判断する」


 マルタの視線が、刃物のように公爵へ飛んだ。


 私も一瞬、固まった。


「……公爵閣下」


「何だ」


「今のは、かなり」


「旦那様」


 マルタの声が重なる。


 低い。


 怖い。


「ただちに言い直してくださいませ」


 レオンハルト公爵は、マルタを見た。

 それから私を見た。


 少しだけ、考える顔をした。


「間違えた」


「はい」


 マルタが即答する。


「かなり間違えました」


「そうか」


「そうです」


 私は、胸の奥に刺さったものが痛いのに、少し笑いそうになった。


 この人は、なぜこうも大事な場面で言葉を間違えるのだろう。


 でも、間違えたと認める。


 それが、王宮の人たちとは違う。


 レオンハルト公爵は、改めて私を見た。


「エリシア」


「はい」


「君が役に立つかどうかで、ここに置くかを決めるつもりはない」


 今度は、言葉がゆっくりだった。


「君は無実で、命を狙われる可能性がある。だから保護する。契約もある。君が何も思い出せなくても、今日は何もできなくても、それは変わらない」


 私は黙って聞いていた。


「ただ」


「ただ?」


「君は仕事にしないと休めない女に見える」


 私は一瞬、言葉を失った。


 そして、少し笑ってしまった。


「それは……否定できません」


「なら、今の仕事は食べることだ」


「本当に仕事にするのですね」


「そうだ」


「寝ることも?」


「仕事だ」


「傷を治すことも?」


「重要任務だ」


 重要任務。


 あまりにも大げさで、私はまた笑ってしまった。


 笑いながら、少しだけ涙が出そうになった。


 仕事にされると、休む言い訳ができる。


 そのことを、この人は分かっているのか、いないのか。


 たぶん、半分くらい分かっている。


 半分くらいは本気で任務だと思っている。


「では、任務として食べます」


「よし」


 マルタが横から言う。


「旦那様、今の言い直しは七十五点です」


「下がったな」


「最初の失点が大きすぎました」


「そうか」


「はい」


 私はスープを飲み、パンをもう少し食べた。


 食堂の隅では、若い侍女がこちらをちらちら見ている。

 廊下の向こうでは、使用人が足を止めた気配があった。


 まだ歓迎されているわけではない。


 毒殺未遂の容疑者。

 王都で魔女と噂される女。

 主人が突然連れ帰った契約婚約者。


 彼らが警戒するのは当然だ。


 私はそれに気づき、少し居心地が悪くなった。


 その時、厨房の方から小柄な少年が顔を出した。


 見習いの下働きだろうか。

 年は十二、三歳ほど。頬にそばかすがあり、手には小さな布巾を握っている。


 彼はマルタの視線に気づくと、びくりと肩を跳ねさせた。


「こ、これは失礼いたしました!」


 逃げようとする少年を、マルタが静かに止めた。


「トマ」


「はいっ」


「用件があるのでしょう」


「い、いえ、その、料理長が……」


「料理長が?」


 少年は私の方を見て、真っ赤になった。


「あの、昨日のスープより、今日の方がよかったかって……いえ、違います、料理長は直接聞けとは言ってなくて、俺が勝手に、でも気になって、あの、すみません!」


 私は少し驚いた。


 それから、スープの器を見た。


 厨房の人が、気にしている。


 私が食べたかどうかを。

 味がどうだったかを。


 それは、妙にくすぐったい。


「トマさん」


「は、はい!」


「今日のスープは、昨日より味が分かりました」


 少年は目を丸くした。


「味が、ですか」


「はい。昨日は温かいことに驚いてしまって、味まで覚えられませんでした。でも今日は、鶏の出汁と野菜の甘さが分かりました。少し塩気があって、とても食べやすかったです」


 言いながら、自分でも驚いた。


 こんな普通の感想を、私はいつぶりに言っただろう。


 王宮では、料理への感想も社交辞令だった。

 素晴らしいです。見事です。季節感がございます。


 でも今は、ただ感じたことを言った。


 トマの顔が、ぱっと明るくなる。


「伝えます! 料理長、絶対喜びます!」


 そう言って、彼は勢いよく礼をし、厨房へ戻ろうとした。


 しかし途中で振り返る。


「あ、あの」


「はい」


「また、食べられそうな味だったら……言ってください。料理長、怖い顔ですけど、褒められると裏で鍋を磨くんです」


「鍋を?」


「はい。嬉しいと、無言で鍋を磨きます」


 私は思わず笑った。


「では、今日も磨いていただけるように伝えてください」


「はい!」


 トマは今度こそ走っていった。


 マルタが深く息を吐く。


「廊下を走らないよう、後で注意します」


「でも、可愛らしい方ですね」


「よく転びます」


「心配ですね」


「はい」


 食堂の空気が、少しだけ変わった気がした。


 遠巻きにしていた使用人たちの視線から、ほんの少し棘が抜けた。

 警戒が消えたわけではない。

 けれど、「食べた」「おいしいと言った」という小さな事実が、私を噂の魔女から少しだけ人間に戻してくれたような気がした。


 朝食を終える頃には、皿の半分以上を食べていた。


 マルタは満足そうだった。


 レオンハルト公爵も、なぜか真剣に頷いている。


「よく食べた」


「また幼子扱いです」


「病人扱いだ」


「便利ですね」


「便利だ」


 私はナプキンを置いた。


「公爵閣下は、きちんと食べましたか」


 そう尋ねると、彼は一瞬止まった。


 自分の皿を見る。


 卵が少し残っていた。


 マルタの視線が公爵に向く。


「旦那様」


「食べる」


 公爵は無表情のまま卵を食べた。


 私は少し笑ってしまう。


「契約条件ですからね」


「ああ」


「食事を抜かないこと」


「覚えている」


「よろしいです」


 言ってから、私は自分がずいぶん自然に話していることに気づいた。


 王宮では、こんなふうに殿下へ「よろしいです」などと言えなかった。

 父にも。

 セレーネにも。


 でも、ここでは言ってしまった。


 そして、誰も怒らなかった。


 食後、レオンハルト公爵が立ち上がった。


「庭を歩く」


 私は反射的に尋ねた。


「調査は?」


「後だ」


「法務卿への返書は」


「オスカーがまとめている」


「リュシエンヌ嬢の証言は」


「午後に手配する」


「では、なぜ今、庭を?」


「歩けるか確認する」


「私の?」


「ああ」


 彼は当然のように言った。


「倒れない訓練だ」


 私はしばらく公爵を見つめた。


「公爵閣下」


「何だ」


「庭歩きまで訓練にするのですね」


「仕事にした方が休めるのだろう」


「……私の扱いを学習されていますね」


「少し」


「少し?」


「かなり」


 なぜか少し誇らしげだった。


 マルタが横で頷く。


「旦那様、そこは成長なさいました」


「そうか」


「はい」


 私は呆れたように息を吐いた。


 でも、嫌ではなかった。


 庭を歩く。


 王宮ではなく。

 法務棟でもなく。

 地下牢でもなく。


 朝食を食べた後に、庭を歩く。


 ただそれだけのことが、ひどく贅沢に思えた。


「分かりました」


 私は立ち上がった。


「任務として、庭を歩きます」


「無理はするな」


「はい」


「疲れたら言え」


「はい」


「倒れる前に」


「分かっています」


「本当に?」


「公爵閣下」


「何だ」


「心配が多いです」


「気になるからな」


 また、不意打ちだった。


 私は言葉に詰まる。


 マルタが小さく咳払いをする。


「旦那様。その言い方は、悪くございません」


「そうか」


「はい」


 私は顔が熱くなるのをごまかすように、窓の外を見た。


 庭には朝の光が落ちていた。

 雨上がりの葉がきらきらと光っている。


 私はその朝、何かを成し遂げたわけではない。


 ただ、温かい朝食を食べた。

 スープをおいしいと伝えた。

 少し笑った。

 そして、庭を歩こうとしている。


 けれどそれは、処刑台へ向かう令嬢には決してできなかったことだった。


 私はもう一度、ゆっくり息を吸う。


 食べて、眠って、傷を治す。


 それが今の仕事なら。


 私は今日、その仕事を少しだけ果たしてみようと思った。


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