第17話 侍女長マルタは、私を甘やかす気がありません
庭へ出る前に、マルタから外套を渡された。
春先とはいえ、朝の空気はまだ冷える。
雨上がりの庭は、光だけ見れば穏やかだったが、石畳には湿り気が残っていて、足元から冷えが上がってきそうだった。
私は外套を受け取りながら、少しだけ首を傾げた。
「これほど厚手でなくても大丈夫です」
「大丈夫ではなく、必要か不要かで判断してくださいませ」
「必要……でしょうか」
「必要です」
即答だった。
私は外套を見る。
濃い灰色の柔らかい布地で、裏地は薄い毛織りになっている。
軽いのに温かそうだ。いかにも北方を治めるクラウゼル家らしい、実用を重んじた仕立てだった。
「でも、少し大げさでは」
「昨日、王宮へ行き、法務棟で聴取を受け、帰宅後に涙を流し、今朝ようやく朝食を半分以上召し上がった方が、雨上がりの庭へ出るのです。大げさなくらいでちょうどよろしいかと」
全部並べられると、何も言えない。
私は黙って外套を羽織った。
マルタは満足そうに襟元を整える。
「よろしいです」
「私、今かなり管理されていますね」
「はい」
「否定しないのですね」
「体調管理は侍女長の仕事ですので」
「でも、少し……子ども扱いされているような」
「病人扱いです」
この屋敷では、病人扱いという言葉がたいへん便利に使われている。
私がため息をつくと、少し離れたところで待っていたレオンハルト公爵がこちらを見た。
「不満か」
「少し」
「寒いのか」
「違います」
「暑いのか」
「違います」
「では何だ」
私は少し言葉に迷った。
マルタに外套を着せられることが嫌なわけではない。
むしろ、ありがたい。寒さに気づかれる前に守られることに、まだ慣れていないだけだ。
でも、それをどう説明すればいいのか分からなかった。
「……自分で自分のことを決められないのが、少し怖いのかもしれません」
口にしてから、私は自分で驚いた。
そんなつもりで言ったわけではなかった。
けれど、言葉にしてみれば、それが近い気がした。
マルタが手を止める。
レオンハルト公爵も黙った。
私は慌てて続ける。
「いえ、外套の話です。外套を着たくないという意味ではなくて……その、王宮でもアルヴィナ家でも、私はいつも誰かの都合で服を着ていました。父の面目のためのドレス、殿下の隣に立つための色、セレーネより大人らしく見えるための装い」
言いながら、自分でも面倒なことを言っていると思った。
外套一枚の話なのに。
でも、こういう小さなことに、今までの癖が顔を出す。
「だから、今も少しだけ思うんです。私はまた、誰かの都合のいい姿に整えられているのではないかと」
言い終えると、庭へ出る前の廊下が静かになった。
ややあって、マルタが言った。
「エリシア様」
「はい」
「私は、あなた様を旦那様の都合のいい姿に整えるつもりはございません」
声は静かだった。
けれど、強かった。
「ただし、寒い場所へ出る方に外套を着せるつもりはございます」
私は瞬いた。
マルタは続ける。
「それは支配ではなく、世話です。お気に召さなければ、別の外套を選んでいただきます。色や形については、エリシア様のご希望を伺います。ですが、外套そのものが必要な気温であれば、着ていただきます」
「……選ぶ余地はあるけれど、寒さへの対策は必要、ということですか」
「はい」
「マルタさん」
「はい」
「あなたは、優しいのか厳しいのか分かりません」
「どちらも必要です」
当然のように言われた。
私は返す言葉に困って、少し笑ってしまった。
レオンハルト公爵が横から言う。
「マルタは甘やかさない」
「そのようですね」
「昔、私も熱がある時に執務室へ行こうとして、寝台へ戻された」
「戻された?」
「物理的に」
私はマルタを見る。
マルタは表情を変えない。
「旦那様が廊下で倒れる前に、騎士二名を呼んでお運びしました」
「運ばれたのですか、公爵閣下が」
「不覚だった」
「そういう問題でしょうか」
「旦那様はその後、三日間寝込まれました」
マルタの声が少し低くなる。
「ですので、私は病人の自己申告を信用いたしません」
重い経験則だった。
私は外套の前をきちんと留めた。
「着ます」
「よろしいです」
マルタは満足そうに頷いた。
庭は、思っていたより広かった。
クラウゼル公爵家の庭は、王宮の庭園とはまったく違う。
王宮の庭は、人に見せるために整えられていた。花の高さ、色の配置、歩く順路、噴水の位置。すべてが計算され、来客に「美しい」と言わせるために存在していた。
ここは違う。
もちろん手入れはされている。
しかし、華やかに飾るというより、植物が育つために整えられている庭だった。
薬草の区画があり、低木の間には小さな白い花。
石畳の脇には、名前の分からない青い花が雨粒を抱えている。
奥には果樹らしき木もあり、枝にはまだ小さな若葉が出たばかりだった。
空気が、冷たい。
でも、王宮の冷たさとは違う。
息を吸うと、湿った土の匂いがした。
「足元に気をつけろ」
レオンハルト公爵が言った。
「はい」
「石畳が濡れている」
「見えています」
「滑る」
「分かっています」
「本当に?」
私は公爵を見た。
「公爵閣下」
「何だ」
「私は幼児ではありません」
「昨日まで倒れかけていた」
「病人扱いと幼児扱いは違います」
「似ている」
「似ていません」
マルタが後ろから静かに言う。
「旦那様。エリシア様はご自分で歩かれます。ただし、転びそうになったら支えます」
「分かった」
レオンハルト公爵は少しだけ下がった。
私はその距離に、ほっとした。
支えられるのはありがたい。
でも、常に抱えられるように守られると、自分の足が信用できなくなる。
私はゆっくり歩き出した。
一歩。
二歩。
三歩。
雨上がりの石畳は少し滑る。
けれど、歩ける。
足元を確認しながら、呼吸を整える。
ただ歩くだけなのに、少し緊張した。
地下牢を出た時、自分ではまともに歩けなかったことを思い出す。
あの時の私は、レオンハルト公爵に抱えられていた。
処刑台へ行くはずだった身体が、外の空気を吸っている。
それだけで、今さら胸が詰まりそうになる。
「エリシア様」
マルタが少し後ろから声をかけた。
「はい」
「今、泣きそうなお顔です」
「……顔に出すぎですね」
「はい」
「恥ずかしいです」
「恥ずかしくても構いません。ただ、歩きながら泣くと足元が危ないので、泣くなら止まってくださいませ」
私は思わず笑った。
「マルタさんは、泣くこと自体は止めないのですね」
「止めません。ですが、転倒は止めます」
「一貫しています」
「はい」
私は少し足を止めた。
泣くほどではない。
でも、胸の奥が苦しかった。
レオンハルト公爵も足を止める。
「疲れたか」
「少し」
「戻るか」
「まだ大丈夫です」
「嘘なら」
「嘘ではありません」
私は庭の奥へ視線を向けた。
そこには、小さな石のベンチがあった。
苔のついた古いベンチで、近くには薬草らしい緑が茂っている。
「あそこまで歩けます」
「目標としては妥当だ」
「訓練らしい言い方ですね」
「訓練だからな」
「庭歩きです」
「倒れない訓練だ」
真顔で言われて、私はまた少し笑った。
でも、その言い方のおかげで歩きやすかった。
散歩だと思うと、こんなことをしていていいのかと罪悪感が出る。
訓練だと思えば、歩ける。
我ながら面倒な性格だ。
ベンチに着く頃には、思ったより息が上がっていた。
たったこれだけの距離で。
悔しい。
私はそれを隠そうとして、背筋を伸ばしかけた。
「座ってくださいませ」
マルタが即座に言った。
「まだ」
「座ってくださいませ」
「……はい」
反論する前に負けた。
私はベンチに腰を下ろす。
冷たさが伝わらないように、マルタがさっと小さな敷布を広げてくれていた。
いつの間に。
「準備が良すぎませんか」
「準備は良いに越したことはございません」
「鞄の中に何でも入っていそうです」
「何でもは入っておりません。必要なものだけです」
「敷布も必要なものなのですね」
「病み上がりの方が雨上がりの庭で石のベンチに座る場合は必要です」
条件が細かい。
私は笑いながら、息を整えた。
レオンハルト公爵は少し離れて立っている。
近すぎず、遠すぎない。
守っている。
けれど、囲い込んではいない。
私は、その距離がありがたかった。
「マルタさん」
「はい」
「あなたは、どうしてクラウゼル公爵家に?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。
でも、マルタは怒らなかった。
彼女はベンチの横に立ち、庭を見ながら答えた。
「北方領で、旦那様に拾われました」
「拾われた?」
「ええ。戦の後始末で」
私は言葉を失った。
マルタの横顔は穏やかだった。
けれど、その言葉には重さがあった。
「夫を失い、家も失い、残ったのは少しの荷物と、怒りだけでした」
「怒り……」
「はい。誰に向けてよいのかも分からない怒りです。敵に、戦に、領主に、死んだ夫に、自分に。何もかもに腹を立てておりました」
マルタがそんなふうに語るのが、少し意外だった。
いつも整っていて、揺るがなくて、正しさの塊のような人だと思っていた。
でも、彼女にも、怒りだけが残った時があったのだ。
「旦那様は、その時何と?」
私が尋ねると、マルタは少しだけ口元を緩めた。
「『働けるか』と」
私はレオンハルト公爵を見た。
「公爵閣下」
「何だ」
「もう少し言い方があったのでは」
「昔の話だ」
「昔からなのですね」
マルタが静かに頷く。
「昔からでございます」
レオンハルト公爵は否定しなかった。
「その時の私は、同情されたら噛みついていたでしょう。可哀想にと言われても、あなたは悪くないと言われても、腹が立ったと思います」
マルタは続けた。
「ですが、働けるかと聞かれた。私は、働けますと答えた。すると旦那様は、なら来い、と」
「それだけですか」
「それだけです」
不器用すぎる。
けれど、マルタにとってはそれが救いだったのだろう。
「私は甘やかされたわけではございません。けれど、居場所を与えられました。泣いていいとも言われませんでしたが、泣くなとも言われませんでした」
マルタは私を見る。
「ですから、私はエリシア様を甘やかす気はございません」
「……はい」
「可哀想な方として扱う気もございません」
「はい」
「ですが、傷ついた方を傷ついたまま立たせておく気もございません」
胸が、じんわり熱くなった。
それは、初めてこの屋敷へ来た時に聞いた言葉と似ていた。
傷ついた方を、傷ついたまま廊下に立たせておくほど、この屋敷は薄情ではない。
「マルタさんは、厳しいです」
「はい」
「でも、怖くありません」
言ってから、自分で少し驚いた。
マルタも少しだけ目を瞬いた。
「そうですか」
「はい。少し怖い時もありますが」
「それは必要です」
「必要なのですね」
「侍女長ですので」
私は笑った。
笑った拍子に、胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなる。
「アルヴィナ家にも侍女はいました。でも、みんな私を見る時、父の娘として見ていました。王太子妃候補として。失敗してはいけない令嬢として」
「エリシア様個人としてではなく」
「はい」
私は膝の上で手を重ねた。
「マルタさんは、私を何として見ていますか」
自分で聞いておきながら、少し怖かった。
マルタはすぐには答えなかった。
それから、いつもの落ち着いた声で言った。
「今は、病み上がりで、食事量が戻りつつあり、休むのが下手で、必要のない謝罪が多く、観察力は高いけれど自分の体調把握が甘い女性として見ております」
私はぽかんとした。
横でレオンハルト公爵が小さく頷く。
「正確だな」
「公爵閣下まで」
「違うのか」
「……違いません」
違わない。
ひどく具体的で、情緒がない。
でも、なぜか嬉しかった。
公爵令嬢でも、悪女でも、魔女でも、可哀想な被害者でもない。
病み上がりで、食事量が戻りつつあり、休むのが下手な女性。
それは、今の私だった。
「それから」
マルタが少しだけ声を柔らかくした。
「おいしいものを、おいしいと伝えられる方です」
私は、なぜか泣きそうになった。
そんなことで。
でも、そんなことが。
今の私には、とても大きかった。
「……ありがとうございます」
「必要な礼ですので、受け取ります」
「謝罪と礼にも審査があるのですね」
「はい」
私は少し笑った。
レオンハルト公爵が言う。
「戻るか」
「もう少しだけ」
「無理は」
「しません」
「本当に?」
「今、少し疲れています。でも、あと少しだけ庭を見ていたいです」
正直に言うと、公爵は少し黙った。
それから頷く。
「なら、あと少しだ」
「はい」
私は庭を見た。
青い花。
雨粒。
湿った土。
遠くで働く庭師の姿。
その庭師が、こちらに気づいてぎこちなく頭を下げた。
私は軽く会釈を返す。
庭師は少し驚いた顔をした後、もう一度深く頭を下げ、仕事に戻った。
まだ、私はこの屋敷で歓迎されているわけではない。
でも、少しずつ、誰かと目が合う。
誰かがスープの味を気にする。
誰かが庭で会釈を返してくれる。
それだけで、居場所の端に指がかかった気がした。
しばらくして、部屋へ戻ることになった。
帰り道は、行きより少し足が重かった。
レオンハルト公爵がすぐに気づく。
「支える」
「まだ歩けます」
「支える」
「……はい」
今度は反論しなかった。
私は彼の腕に手を添えた。
悔しいと思う気持ちは、少しだけあった。
でも、それ以上に、自分から支えを受け入れられたことに驚いた。
部屋へ戻ると、マルタはすぐに椅子へ座らせ、靴を脱がせ、膝掛けをかけた。
「休憩です」
「どれくらいですか」
「一刻」
「一刻も?」
「はい」
「その間に記録を」
「休憩です」
「少しだけ」
「休憩です」
また同じ言葉の壁だ。
私はレオンハルト公爵を見る。
助けを求めたつもりだった。
しかし、公爵は当然のように言った。
「休め」
「味方がいません」
「君の味方だから休ませる」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
味方だから、休ませる。
甘やかすことだけが味方ではない。
好きにさせることだけが優しさではない。
マルタは、私を甘やかす気がない。
レオンハルト公爵も、たぶんそうだ。
けれど、それは私を軽んじているからではない。
私が生きるために必要なことを、私がまだ選べない時に、代わりに突きつけてくれている。
「……分かりました。休みます」
私が言うと、マルタは満足そうに頷いた。
「よろしいです」
「ただし」
「はい」
「一刻後に、今日の庭歩きの記録を書きます」
「庭歩きの記録ですか」
「はい。何歩くらい歩けたか、どこで疲れたか、何を見たか。倒れない訓練ですから」
レオンハルト公爵が、少しだけ目を細めた。
「いい」
「いいのですか」
「今後の回復に使える」
「本当に訓練記録になりましたね」
「そうだ」
マルタも頷く。
「では、一刻後に紙をご用意いたします。ただし、手首が痛むようなら口述です」
「はい」
「痛む時は?」
「痛いと言います」
「よろしい」
私は椅子に身を預けた。
窓の外に、さっき歩いた庭が見える。
たった少し歩いただけで疲れてしまった。
でも、歩けた。
外套を着せられ、敷布を用意され、休憩を命じられ、食事量を確認される。
それは、かつての私なら屈辱だと思ったかもしれない。
でも今は少し違う。
これは、私を弱いまま放置しない世話だ。
私を何もできない可哀想な女にするためではなく、もう一度自分の足で立たせるための厳しさだ。
侍女長マルタは、私を甘やかす気がない。
だからこそ、私は彼女を少しずつ信用し始めていた。




