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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第18話 毒の瓶は、私の部屋にはなかったはずです

 庭歩きの記録を書くことになった。


 自分で言い出したことなのに、いざ机の前へ座ると少し妙な気分だった。


 王太子妃教育では、もっと難しい記録をいくらでも書いてきた。

 来賓名簿。贈答品の管理。慈善基金の収支確認。王宮行事の進行表。殿下の発言記録。セレーネの失礼を目立たせないための詫び状。


 なのに今、目の前にある紙にはこう書こうとしている。


 庭を歩いた。

 石のベンチまで行った。

 途中で少し息が上がった。

 青い花を見た。

 庭師に会釈をした。

 帰り道で支えを借りた。


 あまりにも小さい。


 あまりにも、普通だ。


 けれど、ペンを持つ手は少し震えていた。


「痛みますか」


 横でマルタが言った。


 彼女は椅子に座って刺繍をしている。

 けれど、針より私の手首を見ている時間の方が長い。さすが侍女長。刺繍を隠れ蓑にした監視である。


「少しだけです」


 私は答えた。


 マルタの視線が鋭くなる。


「エリシア様」


「……少しではなく、少し痛いです」


「その違いは何でしょう」


「正直さを一段階上げました」


「では、もう一段階」


「痛いです」


「よろしい」


 よろしいらしい。


 私は苦笑した。


「痛いと言うと褒められるのは、やはり不思議です」


「痛みを隠されると、こちらが困りますので」


「困るのですか」


「困ります」


 マルタはきっぱり言った。


「痛みを隠したまま無理をされれば、傷は悪化します。傷が悪化すれば、治療が増えます。治療が増えれば、エリシア様もつらい。旦那様は不機嫌になります。オルド先生は薬を増やします。厨房は心配してスープを濃くするべきか薄くするべきか揉めます」


「厨房まで」


「はい。屋敷全体に影響が出ます」


 私の痛みが、厨房のスープ濃度にまで影響するらしい。


 少し笑ってしまった。


「では、屋敷の平穏のためにも正直に言います」


「大変よろしいです」


 マルタは頷いた。


 私はペン先を紙に置いた。


『庭歩き。朝食後、マルタさんより外套を受け取り、レオンハルト公爵閣下同行のもと庭へ。石のベンチまで歩行。行きは支えなし。帰りは公爵閣下の支えあり。途中、息切れ。手首の痛み少し。庭師と会釈。青い花。薬草区画。雨上がりの土の匂い』


 書いてから、私は首を傾げた。


「……記録というより、日記のようですね」


「悪くございません」


「公的文書としては失格です」


「これは公的文書ではございません」


「では、何でしょう」


「回復の記録です」


 マルタの声は静かだった。


 回復。


 私は紙を見た。


 庭を歩いたことが、回復になる。

 スープを食べたことが、回復になる。

 痛いと言えたことが、回復になる。


 それは、今まで私が知っていた成果とは違っていた。


 王宮で評価される成果は、もっと目に見えるものだった。

 行事が滞りなく終わった。

 貴族間の不満を抑えた。

 殿下の失言を取り繕った。

 セレーネの失敗を目立たなくした。


 自分が生きるための小さな記録など、価値があると思ったことはなかった。


「……回復の記録」


 私は小さく繰り返した。


「はい」


「なら、正確に書かなければなりませんね」


「その通りです」


 私は続けて書こうとして、ふと手を止めた。


 正確に。


 その言葉で、頭のどこかが引っかかった。


 正確に書く。

 見たものを、見たままに。

 分かることと分からないことを分ける。


 法務卿の聴取でも、私はそうした。


 断言できること。

 断言できないこと。

 記憶として残っているが、確証ではないこと。


 庭歩きの記録を書いていたはずなのに、頭の中に別の部屋が浮かんだ。


 王宮の、私用控室。


 毒瓶が見つかったとされる部屋。


 私の私室ではない。

 王宮内に用意されていた、王太子妃候補としての支度部屋。

 茶会や謁見、会議の前に身支度を整えるための、小さな控室。


 私はその部屋を思い出そうとした。


 扉。

 窓。

 鏡台。

 衣装掛け。

 小さな書き物机。

 茶器棚。

 香油を置く棚。


 そして、押収記録にあった毒瓶の発見場所。


「……マルタさん」


「はい」


「紙を、もう一枚いただけますか」


 マルタの手が止まる。


「庭歩きの記録ではございませんね」


「違います」


「手首は」


「痛いです」


「では、口述にいたしましょう」


「でも」


「口述にいたしましょう」


 強い。


 反論の余地がない。


 私は少しだけ悔しくなったが、今はそれよりも、頭の中の違和感を逃したくなかった。


「分かりました。では、お願いします」


 マルタは刺繍を置き、紙とペンを取った。


 その姿があまりにも手慣れていて、私は少し笑ってしまう。


「準備がよろしいですね」


「エリシア様が何かを思い出す頃合いだと思っておりました」


「そんなことまで分かるのですか」


「庭歩きの記録で、急にお顔が法務卿への証言時と同じになりました」


「私の顔は、本当に忙しいですね」


「はい」


 否定してほしかった。


 私は息を整えた。


「王宮の私用控室の配置を、思い出します」


「はい」


 マルタが書き始める姿勢を取る。


「扉は南側。入って右手に衣装掛け。左手に小さな卓。奥に窓が二つ。窓の間に鏡台。鏡台の右横に香油や髪飾りを置く小棚があります」


 言葉にしながら、部屋の中を歩くように思い出す。


「毒瓶は、押収記録ではどこに?」


「旦那様がお持ちの写しでは、鏡台横の小棚、下段の奥とありました」


 マルタが答えた。


 私は眉を寄せる。


「下段の奥……」


 そこに、違和感があった。


 私はあの日の朝を思い出す。


 茶会の日。

 淡い菫色のドレス。

 セレーネの白い花の香油。

 王妃宮の侍女ミレイユ。

 アンナが髪飾りを取りに行った。


 私は控室で身支度をしていた。


 鏡台の前に座り、髪を整えられていた。

 アンナが小棚から櫛と髪油を取り、下段から予備のリボンを出した。


 小棚の下段。


 アンナは、そこを開けた。


「……なかった」


 私は呟いた。


 マルタがペンを止める。


「何がですか」


「毒の瓶です」


 胸が少し早く鳴り始めた。


「毒瓶は、小棚の下段の奥から見つかったことになっています。でも、茶会前、アンナはそこを開けています」


「いつ頃ですか」


「茶会の支度中です。王妃宮の侍女が来る前……いえ、正確には、ミレイユが来る少し前」


 私は目を閉じた。


 順番。


 順番が大事だ。


「アンナが下段から予備のリボンを出しました。私が袖口の飾り紐を少し気にして、髪飾りと色が合わないかもしれないと言ったので。アンナは下段の箱を開けて、リボンを何本か出しました」


「その時、瓶は?」


「ありませんでした」


「断言できますか」


 マルタの声は慎重だった。


 私は少し考える。


 断言。


 できるのか。


 下段の奥。

 リボンの箱。

 布袋。

 予備の髪飾り。

 小さな香油瓶。


 私は確かに見ていた。

 でも、毒瓶らしきものがなかったと断言できるか。


「……はい」


 私はゆっくり答えた。


「断言できます。なぜなら、私がその時、小棚の中を確認したからです」


「理由は?」


「白い花の香りがしたから」


 言った瞬間、自分でも思い出した。


 あの日、控室に入った時、ほんの少し白い花の香りがした。


 セレーネがつけていた香油に似た香り。

 私は気になって、小棚の香油瓶を確認したのだ。


 王宮で用意されている香油の中に、同じものがあるのかと思って。


「小棚の中にあった香油瓶を、私は一つずつ見ました。薔薇、柑橘、ラベンダー、無香油。白い花の香油はありませんでした。だから不思議に思ったんです」


「それは、茶会前ですね」


「はい。アンナが髪飾りを取りに行く前です」


 マルタは書き留める。


 私は続けた。


「その後、ミレイユが来ました。王妃宮より追加の髪飾りが届いたので、アンナに取りに来るように、と」


「その時、エリシア様は控室に?」


「いました」


「一人で?」


「アンナが出るまでは、アンナと二人。アンナが出た後は……」


 私は記憶を探る。


 アンナが部屋を出た。

 私は鏡台の前に座っていた。

 少しして、別の侍女が来た。


 誰だった?


 王妃宮の侍女ではない。

 セレーネ付きの侍女リタ?


 いや。


 リタは、私に直接声をかけたことは少なかった。

 あの日、控室に来たのは。


「……セレーネです」


 言った瞬間、部屋の空気が変わった。


 マルタのペンが止まる。


「セレーネ嬢が?」


「はい」


 思い出した。


 なぜ忘れていたのだろう。


 いや、忘れていたのではない。

 茶会の後の出来事が大きすぎて、前の些細な会話が奥へ押し込まれていた。


 セレーネは、アンナが出ていった少し後、私の控室に顔を出した。


 白いドレス。

 淡い桃色のリボン。

 白い花の香り。


『お姉様、少しだけよろしいですか?』


 私は鏡台の前で振り返った。


『セレーネ? あなたは東庭園の控えの間にいるはずでしょう』


『緊張してしまって……お姉様の顔を見たら、落ち着くかと思って』


 そう言った。


 私は、少し冷たく答えたかもしれない。


『茶会の前に席を離れるのはよくありません。王妃殿下の侍女に見られたら叱られますよ』


 セレーネは悲しそうな顔をした。


『やっぱり、お姉様は怒っているのね』


『怒っていません。ただ、決まりの話をしているだけです』


『そういうところが怖いの』


 その言葉で、私は少し黙った。


 怖い。


 セレーネはよくそう言った。


 私の言い方が怖い。

 目が怖い。

 正しすぎて怖い。


 私はいつも、その言葉で自分の声を小さくした。


 あの日もそうだ。


 私は、ため息を飲み込んだ。


『……セレーネ。緊張しているなら、深呼吸をして。殿下の前では、あまり不安そうにしすぎない方がいいわ』


『だって、殿下はお姉様ばかり見ているもの』


『そんなことはありません』


『あるわ。お姉様は気づかないだけ』


 そんな会話。


 どこにでもある、姉妹の小さな刺。


 私は思い出しながら、胸が痛くなる。


「セレーネは、どのくらい部屋にいましたか」


 マルタが尋ねる。


「長くはありません。ほんの少しです」


「小棚に近づきましたか」


 私は答えようとして、止まった。


 セレーネは、泣きそうな顔をしていた。

 私は立ち上がった。

 彼女は鏡台の近くへ来た。


 白い花の香りが強くなった。


 彼女はハンカチを探すように、袖口を押さえた。

 そして。


「……小棚に、手を置きました」


 私はゆっくり言った。


「ふらついたように見えて。私は、具合が悪いのかと思いました。セレーネは『大丈夫』と言って、すぐ手を離しました」


「その時、小棚の下段は?」


「閉まっていました」


「開けた様子は」


「見ていません」


 私は唇を噛んだ。


「でも、彼女の袖が、小棚の取っ手に触れたのは覚えています。白いレースの袖が、取っ手に引っかかりかけて」


 それを、私は直そうとした。


 たぶん、手を伸ばした。


 セレーネは少し慌てたように身を引いた。


 その時、白い花の香りが強かった。


「毒瓶を置くには、短すぎるかもしれません」


 私は慎重に言った。


「でも、小棚に触れたのは確かです」


 マルタは頷き、書き留める。


「その後は?」


「ミレイユが戻ってきたと思います。いえ、アンナではなく、ミレイユが先に」


「アンナは?」


「少し遅れて戻りました。髪飾りが見つからなかったと。結局、王妃宮から届いた髪飾りは、私ではなくセレーネのものだったと説明されました」


 言いながら、私は眉を寄せた。


 おかしい。


 当時も少し不自然だと思った。


 なぜ私の侍女が取りに行かされたのに、セレーネの髪飾りだったのか。


 でも、茶会前で慌ただしかった。

 王妃宮の指示なら仕方ないと思った。

 セレーネが間違えたのかもしれないと思った。


 私は、そこでも流した。


「アンナを部屋から離すため……」


 マルタが静かに言った。


 私は頷いた。


「はい。そう考えると、すべて繋がります」


 その時、扉が叩かれた。


 マルタが応じる前に、レオンハルト公爵の声がした。


「入っていいか」


「はい」


 マルタが扉を開ける。


 レオンハルト公爵が入ってきた。

 手には書類を数枚持っている。


 彼は私と、机の上の紙を見た。


「何か思い出したな」


「顔で分かりますか」


「ああ」


「もう驚きません」


「そうか」


 彼は椅子を引いて座る。


「聞かせろ」


 私はマルタを見る。


 彼女が書き取った紙を差し出した。


 レオンハルト公爵は目を通す。

 読み進めるにつれ、彼の空気が少しずつ冷えていった。


「毒瓶は、茶会前の時点では小棚になかった」


「はい」


「その後、アンナが部屋を離れた」


「はい」


「セレーネ嬢が来た」


「はい」


「ミレイユも出入りした」


「はい」


 彼は紙を置いた。


「重要だ」


 短い言葉だった。


 胸が少し震える。


「でも、セレーネが置いたとは限りません」


「分かっている」


「ミレイユかもしれません。セレーネの袖や香油を利用して、香りの印象だけを残した可能性もあります」


「ああ」


「あるいは、アンナが戻る前に、別の誰かが」


「その可能性もある」


 レオンハルト公爵は淡々と頷いた。


「だが、時間帯が絞れた」


 時間帯。


 毒瓶が置かれたのは、私が小棚を確認した後。

 アンナが部屋を離れ、セレーネとミレイユが関わった可能性がある時間帯。

 茶会が始まる直前。


 私は、自分の記憶がようやく証拠に近づいているのを感じた。


 怖い。


 でも、嬉しくもあった。


「……私、役に立ちましたか」


 言ってしまってから、しまったと思った。


 まただ。


 役に立つかどうか。


 それで自分の価値を測る癖。


 レオンハルト公爵は私を見た。


 マルタも、少しだけ眉を動かした。


 私は慌てて言い直す。


「いえ、違います。今のは……」


「役に立った」


 レオンハルト公爵が言った。


 私は息を止める。


「だが」


 彼は続けた。


「役に立たなくても、君の価値は変わらない」


 胸の奥が、じわりと熱くなった。


 言い方は相変わらず少し硬い。

 でも、昨日よりずっとまっすぐ届いた。


「……ありがとうございます」


「ああ」


「今のは、かなり良い言い方でした」


「成功か」


「はい」


「そうか」


 彼は真剣に頷いた。


 マルタが静かに言った。


「旦那様、八十五点です」


「上がったな」


「はい。継続してくださいませ」


「努力する」


 その会話で、張り詰めていたものが少し緩む。


 私は小さく笑った。


 笑えたことにも、少し驚いた。


 レオンハルト公爵は、持っていた書類を卓上に広げた。


「こちらも動きがあった」


「何でしょう」


「王宮薬品庫の封印記録の写しだ」


 私は身を乗り出しかけて、マルタに止められた。


「姿勢」


「すみません」


「必要のない謝罪です」


「……はい」


 私は背を戻す。


 レオンハルト公爵は書類を指で示した。


「毒物として扱われた薬品は、王宮薬品庫に保管されていたものと近い。だが、正式な持ち出し記録がない」


「では、盗まれた?」


「もしくは、記録に残らない形で少量が流れた」


「誰に、その権限が?」


「王宮医師、薬品庫管理官、王妃宮の薬草担当、王太子付きの侍医。確認中だ」


 王妃宮。


 また、その名前。


 私は息を吐いた。


「毒瓶は、私の部屋にはなかったはずです」


 改めて言葉にすると、胸が少し震えた。


 確信。


 今度は、前より強い。


「私は見ました。小棚の下段を。香油を確認したから。あの時、瓶はありませんでした」


「なら、その証言を法務卿に出す」


「はい」


「アンナにも確認する必要がある」


 アンナ。


 私付きだった侍女。


 王宮で、私の支度をしてくれていた人。


 あの日、彼女はどこへ行ったのか。

 今、どこにいるのか。


「アンナは……無事でしょうか」


 声が少し不安定になる。


 彼女は私に仕えていた。

 毒瓶が私の控室から見つかったのなら、彼女も疑われているかもしれない。


 私は、今まで自分のことで精一杯で、アンナのことをほとんど考えられていなかった。


 その事実が、胸に刺さる。


「探している」


 レオンハルト公爵が言った。


「今朝、王宮を離れた記録があった。実家へ戻された形になっているが、所在確認中だ」


「戻された……」


「口封じの可能性もある」


 胃の奥が冷えた。


「私のせいで」


「違う」


 即答だった。


 私は反射的に顔を上げる。


「だが」


「違う」


 レオンハルト公爵は繰り返した。


「君のせいではない。証言者を遠ざけた者の責任だ」


 マルタも言った。


「エリシア様。心配することと、ご自分を犯人にすることは別です」


「……はい」


 私は手を握った。


 まただ。


 すぐ自分のせいにしようとする。


 この癖は、根深い。


「アンナを見つけたいです」


「見つける」


「私も、何か」


「今できることは思い出すことだ」


 レオンハルト公爵は言った。


「アンナの実家、家族、よく話していたこと。身を寄せそうな場所。王宮内で親しかった者」


「分かりました」


 私はすぐに紙へ手を伸ばしかけた。


 マルタが無言で私の手首を見る。


 私は手を止めた。


「……口述でお願いします」


「よろしいです」


 少しは学習している。


 私はアンナのことを話した。


 王都南区の仕立屋の娘であること。

 母親が病弱だと聞いたこと。

 弟が一人いて、靴職人の見習いをしていること。

 甘いものが好きで、特に蜂蜜入りの焼き菓子を好むこと。

 王宮内では洗濯係のミラという女性と仲が良かったこと。


 話しながら、アンナの顔が浮かんだ。


 真面目で、少し心配性で、私が無理をしても強く止められない優しい侍女。


 あの日、彼女は私を守れなかったと責めているかもしれない。


 私と同じように。


「必ず確認する」


 レオンハルト公爵が言った。


「はい」


 私は小さく頷いた。


 そこで、マルタが立ち上がった。


「本日はここまでです」


「え」


「ここまでです」


「まだ」


「手首が痛い。顔色も落ちました。記憶を掘る作業は、体力を使います」


「でも、今思い出せることを」


「今思い出したことは、記録しました。続きは休憩後です」


 マルタは揺るがない。


 私はレオンハルト公爵を見る。


 彼は少し考えた後、頷いた。


「休め」


「公爵閣下まで」


「ここで倒れたら、アンナの件も進まない」


「……それは、ずるい言い方です」


「有効か」


「有効です」


 悔しいが、確かにそうだった。


 私が倒れても、誰も得をしない。

 むしろ、調査も回復も遅れる。


 休むことも仕事。


 まだその考え方には慣れないが、少しずつ飲み込むしかない。


「分かりました。休みます」


 私が言うと、マルタは満足そうに頷いた。


「よろしいです」


 その後、私は長椅子へ移された。


 膝掛けをかけられ、薬湯を渡される。


 相変わらず苦い。


「この薬湯、もう少し飲みやすくはならないのでしょうか」


 思わず言うと、レオンハルト公爵が真顔で答えた。


「良薬は苦い」


「公爵閣下」


「何だ」


「そういう古い慰めは、苦さを減らしません」


「そうか」


 マルタが横から言う。


「蜂蜜を少し加えましょう」


「できるのですか」


「できます」


「最初から言ってください」


「エリシア様が不満を言えたら加えようと思っておりました」


 私は目を丸くした。


「試されていましたか」


「少し」


「マルタさん」


「必要な不満を言う練習です」


 この侍女長は、本当に甘やかす気がない。


 けれど、蜂蜜入りの薬湯は少し飲みやすかった。


 悔しい。


 でも、ありがたい。


 私は薬湯を飲みながら、机の上の紙を見た。


 庭歩きの記録。

 控室の配置。

 毒瓶がなかったはずの時間。

 アンナの情報。


 小さな記憶が、少しずつ線になっていく。


 毒の瓶は、私の部屋にはなかったはずだ。


 なら、誰かが置いた。


 誰が。

 いつ。

 何のために。


 その答えに、私は少しずつ近づいている。


 怖い。


 でも、もう目を逸らさない。


 私の記憶は、私を殺すための証言に負けない。


 そう信じるために、私は目を閉じて少しだけ休むことにした。


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