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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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18/24

第19話 王太子殿下、私の書類棚を開けましたね

 休むと決めたはずなのに、休むことは難しかった。


 長椅子に横になり、膝掛けをかけられ、蜂蜜入りの薬湯まで飲まされた。

 部屋は温かい。窓から入る光も柔らかい。

 マルタは「半刻は目を閉じてくださいませ」と言い、私の手から紙とペンを当然のように遠ざけた。


 けれど、頭の中だけは動いていた。


 毒瓶は、私の控室にはなかったはずだ。


 少なくとも、私が小棚を確認した時にはなかった。

 その後、アンナは部屋を離れた。

 セレーネが来た。

 ミレイユが来た。

 アンナは遅れて戻った。


 白い花の香り。

 小棚の下段。

 袖が取っ手に触れたセレーネ。

 髪飾りを取りに行かされたアンナ。

 間違っていた王妃宮からの指示。


 ひとつ思い出すたびに、別の記憶が引っ張られてくる。


 控室。

 鏡台。

 小棚。

 書き物机。

 そして、壁際に置いてあった細い書類棚。


 私は目を開けた。


 天井を見つめる。


 書類棚。


 なぜ今まで、思い出さなかったのだろう。


 あの控室には、小さな書類棚があった。

 王太子妃候補として、私が王宮行事や慈善事業に関する控えを置いていた棚だ。

 正式な原本ではない。けれど、私用の覚書や、後で確認するための写し、席順の下書き、贈答記録、寄付者一覧などが入っていた。


 毒瓶が見つかった小棚ばかりに意識が向いていた。


 でも、あの部屋で本当に隠したいものがあるとすれば、毒瓶だけではない。


 私の記録。


 白百合慈善基金の不自然な数字。

 閉鎖済み救貧院への支出。

 同じ筆跡の受領書。

 王妃宮の侍女ミレイユの名前。

 モルガン商会。


「……書類棚」


 ぽつりと呟いた瞬間、横から声が飛んできた。


「エリシア様」


 マルタだった。


 刺繍をしていたはずなのに、こちらを見ている。


「今、休憩中です」


「分かっています」


「分かっている方のお顔ではございません」


「顔は本当に正直ですね」


「はい」


 マルタは刺繍を置いた。


「何を思い出されましたか」


「まだ、はっきりとは」


「では、まずお座りください。勢いよく起き上がらないように」


 先回りされた。


 私はそろそろと体を起こした。

 マルタが背中にクッションを差し込む。


 そして、当然のように紙を取らず、私の前に温かい白湯を置いた。


「まず一口」


「記録の前に?」


「はい」


「マルタさん、あなたは本当に」


「甘やかす気はございません」


「言う前に返されました」


「顔に書いてございました」


 私は白湯を一口飲んだ。


 味はない。

 でも、喉の奥が少し落ち着いた。


「それで?」


 マルタがようやく尋ねる。


「王宮の控室に、書類棚がありました」


「はい」


「毒瓶が見つかった小棚とは別です。壁際に細い棚があって、鍵をかけていました。私用の覚書や、王宮行事の控えを入れていた棚です」


「その棚に、事件と関係するものが?」


「分かりません。でも、白百合慈善基金の覚書が入っていました」


 マルタの表情が少し変わった。


「基金の?」


「はい。正式な書類ではありません。私が王太子妃教育の一環で、慈善基金の流れを確認していた時の個人的な控えです。おかしいと思った数字を写して、後で確かめようとしていたもの」


 私は記憶をたどる。


 白百合慈善基金の帳簿。

 王妃宮から渡された収支表。

 孤児院への支出。

 救貧院への寄付。

 薬草園への補助金。

 モルガン商会からの納品書。


 その中に、不自然なものがあった。


 三ヶ月連続でまったく同額の支出。

 閉鎖されたはずの救貧院名。

 受領印の位置が不自然に同じ書類。

 署名の癖が似すぎている孤児院長たち。


 私はそれを、すぐには声に出せなかった。


 王妃宮の管理する基金だったからだ。

 間違いなら無礼になる。

 父に相談すれば「余計なことをするな」と言われるかもしれない。

 ユリウス殿下に見せれば、殿下はたぶん困る。


 だから、私は控えを作り、書類棚に入れた。


 後で、一人で確かめるために。


「その書類が、今も棚にあるか分かりません」


 私は言った。


「でも、もし誰かがそれを探していたのだとしたら……」


「毒瓶の件と繋がる可能性がある」


 マルタが静かに言った。


 私は頷いた。


 その時、扉が叩かれた。


 いつもより少し軽い音だった。

 マルタが眉を上げる。


「どうぞ」


 扉が開き、入ってきたのはレオンハルト公爵ではなかった。


 長身の男性だった。

 年は三十前後だろうか。明るい茶色の髪を後ろで簡単に結び、目元には疲労と皮肉が同居している。

 服装はきちんとしているが、どこか肩の力が抜けている。貴族というより、戦場と書類の間を往復してきた人間のように見えた。


 彼は部屋に入るなり、深く礼をした。


「お初にお目にかかります、エリシア様。クラウゼル公爵家副官、オスカー・ベルンと申します。旦那様の無愛想を補うために雇われております」


 初対面で、それを言うのか。


 私は一瞬、返答に困った。


 マルタがため息をつく。


「オスカー。その自己紹介はおやめなさいと何度も」


「事実ですので」


「事実でもです」


「旦那様もよく事実だとおっしゃっています」


「悪いところを真似しないでください」


 オスカーは肩をすくめた。


 軽い。


 けれど、目はよく動いている。

 部屋の入口、窓、机の上の紙、私の顔色、マルタの位置。

 すべてを一瞬で見ている。


 私は軽く礼を返した。


「エリシア・フォン・アルヴィナです。……現在は、クラウゼル公爵閣下の保護下におります」


「存じております。王都では、もう少し派手な肩書きがいくつも流れておりますが」


「魔女、毒婦、悪女、でしたか」


「今日はそこに『冷血公爵を朝食の席で従わせた女』が増えました」


 私は目を瞬いた。


「何ですか、それは」


「旦那様が卵を残しかけたところ、エリシア様が食事を抜かない契約条件を指摘し、旦那様が素直に完食したと」


 マルタが額に手を当てた。


「もう広がったのですか」


「屋敷内限定です。今のところは」


「今のところ、とは」


「料理長が感動して鍋を磨いていましたので、厨房筋から広がる可能性はあります」


 私は笑っていいのか迷った。


 たぶん笑っていい場面だ。


 いや、笑わないと負ける気がする。


「……それは、悪評なのでしょうか」


「いえ。旦那様の食事管理に成功した英雄譚です」


「英雄譚」


「クラウゼル家では、それなりに大事件です」


 マルタが真顔で頷く。


「旦那様は本当に食事を忘れますので」


 私は少し笑ってしまった。


 その笑いが、場を少しだけ柔らかくした。


 オスカーは表情を改める。


「冗談はここまでに。旦那様より、調査報告をお持ちしました。旦那様は法務卿との使者対応で少々遅れます」


「アンナのことですか」


 私は思わず身を乗り出しかけた。


 マルタが静かに私の肩へ手を置く。


「姿勢」


「……はい」


 私は戻る。


 オスカーは、そのやり取りを見て少しだけ口元を緩めた。


「アンナという侍女については、現在所在確認中です。王都南区の実家には戻っていませんでした」


 胸が冷える。


「戻っていない?」


「母親は、王宮から暇を出されたと聞いていたそうです。ただし本人は戻らず、弟の勤め先にも顔を出していない」


「では、どこに」


「そこを追っています。ですが、ひとつ分かったことがあります。アンナ嬢の名前で、茶会翌日の早朝に王都西門の通行記録が残っていました」


「西門?」


「はい。王都の外へ出たことになっています」


 王都の外。


 アンナが?


 病弱な母親と弟を残して?


「ありえません」


 私は即答した。


 オスカーが少しだけ眉を上げる。


「理由は」


「アンナは母親をとても気にしていました。給金の一部を必ず実家へ送っていたはずです。王都を離れるなら、必ず母親に知らせます」


「なるほど」


「それに、彼女は王都の外に頼る親戚がいるとは言っていませんでした。少なくとも、私が知る限りは」


「記録は偽装の可能性があります」


 オスカーは淡々と言った。


「もしくは、本人の名前を使って別人を通した」


 私は手を握った。


 アンナが危ない。


 口封じ。

 証言者の排除。

 もしくは、彼女に罪を着せる準備。


 胸がざわつく。


「私がもっと早く」


「エリシア様」


 マルタがすぐに声をかけた。


「はい」


「ご自分を犯人にしない」


 先回りされた。


 私は息を詰め、それから小さく頷いた。


「……はい」


 オスカーが興味深そうにこちらを見る。


「なるほど。旦那様が気にするわけだ」


「オスカー」


 マルタの声が低くなる。


「失言ですか?」


「かなり」


「失礼しました」


 オスカーは素直に頭を下げた。


 軽いが、謝罪は早い。


 私は少し苦笑した。


「いえ。クラウゼル家の方は、皆さん言葉が率直なのですね」


「美点です」


「欠点でもあります」


「おっしゃる通り」


 彼はあっさり認めた。


 この屋敷には、本当に不思議な人が多い。


 オスカーは次の書類を取り出した。


「もう一点。王宮控室の保全状況について、法務棟の下級書記から非公式に情報が入りました」


「控室……」


 私は息を呑む。


 まさに今、思い出していた場所だ。


「毒瓶が見つかった後、控室は一度封鎖されました。ですが、正式な封鎖記録が作られるまでに半刻ほど空白があります」


「半刻」


「はい。その間、誰が出入りしたか記録が曖昧です」


 マルタの表情が険しくなる。


「王宮らしい杜撰さですね」


「もしくは、意図的に杜撰にしたか」


 オスカーが言う。


 私は尋ねた。


「書類棚はどうなっていますか」


 オスカーがこちらを見る。


「書類棚?」


「控室の壁際に、細い書類棚がありました。鍵をかけていました。私用の覚書や、慈善基金の控えを入れていた棚です」


 オスカーの目が鋭くなった。


「それは初耳です」


「今、思い出しました」


「鍵は誰が?」


「私と、アンナが持っていました」


 言いながら、私は少し考える。


 鍵。


 予備鍵。


 王宮の控室は、王太子妃候補として私に与えられたものだった。

 けれど、完全に私だけの部屋ではない。


「……いいえ」


 私は首を振った。


「もう一つ、予備鍵がありました」


 マルタがペンを取る。


「どなたが?」


「王太子殿下です」


 部屋が静かになった。


 私はゆっくりと思い出す。


 あれは半年ほど前だった。


 王太子殿下の執務補佐をする中で、私が控室に保管していた行事進行表を殿下が急ぎで必要とした。

 私は別の会議に出ていて不在だった。

 その時、殿下は控室へ入れず、結局その日の進行に遅れが出た。


 後日、殿下は笑いながら言った。


『君の書類は本当に頼りになる。いざという時のために、予備鍵を預かっても構わないかな』


 私は迷った。

 けれど、相手は婚約者であり王太子だった。


 拒む理由がなかった。


 いや。


 本当は少し嫌だったのだ。


 私の整理したものを、勝手に見られるような気がして。


 でも、その嫌だという気持ちを、私は飲み込んだ。


『もちろんです、殿下。必要な時にお使いください』


 そう答えた。


「殿下が、予備鍵を持っています」


 私は言った。


「少なくとも、茶会の時点では返却されていません」


 オスカーが低く口笛を吹きかけ、マルタに睨まれて止めた。


「失礼。これは、大きいですね」


「ですが、殿下が開けたとは限りません」


「ええ。ですが、開けられる人物が増えました」


 オスカーは書類へ書き込む。


「王太子殿下、王太子付き侍従、またはその鍵を借りた者」


 私は指先が冷えるのを感じた。


 ユリウス殿下が。


 私の書類棚を。


 あの人は、私の言葉を聞かなかった。

 私を信じなかった。

 セレーネを庇った。

 でも、それでも。


 毒瓶の前に、私の棚を開けたのだろうか。


 何を探すために?


 白百合慈善基金の控え?

 王妃宮に関する覚書?

 それとも、私に不利な何かを探すために?


 扉が再び叩かれた。


 今度は、返事を待つ前にレオンハルト公爵が入ってきた。


 彼は部屋に漂う空気を見て、すぐに察したようだった。


「進んだな」


「はい」


 オスカーが書類を差し出す。


 レオンハルト公爵は素早く目を通した。


 そして、私を見た。


「書類棚」


「はい」


「王太子が鍵を持っているのか」


「はい」


「なぜ渡した」


 鋭い問いだった。


 責めるというより、理由を確認する声。


 それでも、胸に少し刺さった。


「必要だと言われたからです」


「君は嫌だったのか」


 私は少し黙った。


 そして、正直に答えた。


「少し」


「なら、なぜ断らなかった」


 レオンハルト公爵の声は変わらない。


 けれど、その問いは痛かった。


 なぜ断らなかったのか。


 王太子だから。

 婚約者だから。

 信じるべき相手だったから。

 断れば、冷たいと思われるから。

 可愛げがないと言われるから。


「断るという選択肢が、あると思っていませんでした」


 私は言った。


 部屋が静かになる。


「殿下に求められたら、応えるものだと思っていました。それが婚約者の役目で、王太子妃候補の務めだと」


「そうか」


 レオンハルト公爵は短く言った。


 それだけだった。


 責めない。

 慰めもしない。


 ただ、受け止めた。


「その棚に何を入れていた」


「白百合慈善基金の覚書。王宮行事の進行表。席順の控え。贈答記録。王妃宮からの指示書の写し。あとは、殿下の執務で気づいた未処理事項の一覧です」


 オスカーが少し顔をしかめた。


「宝の山ですね」


「え?」


「情報としては、です」


 レオンハルト公爵が頷く。


「その棚を開ければ、君が何に気づいていたか分かる」


「……私が白百合慈善基金を怪しんでいたことも」


「分かる可能性がある」


 私は手を握った。


「つまり、毒瓶を置く前に、誰かが私の棚を開けて、私が何を知っているか確認したかもしれない」


「ああ」


「そして、私を黙らせるために」


 言葉が喉で止まった。


 処刑。


 私を黙らせる一番確実な方法。


 毒殺未遂の罪を着せ、処刑すること。


 胸の奥が冷える。


 レオンハルト公爵が低く言った。


「まだ断定するな」


「はい」


「だが、調べる」


「はい」


「法務卿に、控室の書類棚の状態確認を要求する。封印の有無、鍵穴の傷、棚の中身、欠落書類。すべてだ」


 オスカーが頷く。


「すぐ手配します」


「アンナの所在も急げ」


「はい。西門記録の筆跡と担当門衛も当たります」


 レオンハルト公爵は次に私を見た。


「エリシア」


「はい」


「書類棚の中身を、可能な限り思い出せ」


「分かりました」


「ただし、口述だ」


 私が紙へ手を伸ばす前に言われた。


 マルタが満足そうに頷く。


「旦那様、先回りが上達なさいました」


「必要だからな」


「はい」


 私は少しだけ笑ってしまった。


「では、口述でお願いします」


 そうして、私は棚の中身を思い出し始めた。


 上段。

 王宮行事の進行表。

 春告げの茶会の席順案。

 王妃宮からの修正指示。

 招待客の食物禁忌一覧。


 中段。

 白百合慈善基金の収支控え。

 孤児院別の支出比較。

 救貧院一覧。

 モルガン商会の納品品目。

 香油、薬草、包帯、保存食。


 下段。

 殿下の未処理書類一覧。

 王太子付き侍従への伝達控え。

 父への未送付の相談下書き。

 セレーネの教育進捗メモ。


 口にしながら、私は自分がどれだけ多くのものを抱えていたのか、ようやく見えた気がした。


 仕事。

 気遣い。

 心配。

 違和感。

 誰にも言えなかった小さな不安。


 それらが、あの細い書類棚に押し込められていた。


「セレーネの教育進捗メモとは?」


 オスカーが尋ねた。


「セレーネが王宮行事で困らないよう、覚えたことと苦手なことをまとめていました。礼の順番、家名、話題、避けるべき相手」


「それは、本人に見せていましたか」


「いいえ。見せたら傷つくと思ったので」


「なるほど」


 オスカーは少し複雑な顔をした。


「優しさも、隠し方を間違えると厄介ですね」


 胸に刺さった。


 でも、腹は立たなかった。


「そうですね」


 私は言った。


「私も、間違えていたのだと思います」


 レオンハルト公爵が私を見る。


「今は自分を裁く時間ではない」


「はい。分かっています」


「本当に?」


「少しだけ裁きかけました」


「正直だな」


「この屋敷で鍛えられました」


 マルタが静かに頷く。


「よろしい傾向です」


 そのやり取りで、また少しだけ呼吸が楽になる。


 口述を終えた頃には、私はかなり疲れていた。


 マルタがすぐに薬湯を用意する。


「蜂蜜入りです」


「今日は先回りされました」


「不満を言えた実績がございますので」


「実績が増えていますね」


「はい」


 私は苦笑して、薬湯を受け取った。


 レオンハルト公爵は書類をまとめながら言った。


「王太子に確認する」


 私はカップを持つ手を止めた。


「直接ですか」


「ああ」


「殿下は、否定するでしょう」


「だろうな」


「怒るかもしれません」


「怒ればいい」


「公爵閣下は、いつもそれですね」


「事実だからな」


 彼は私を見た。


「君は、どうしたい」


 その問いに、私は少し考えた。


 ユリウス殿下に問い詰めたいのか。

 責めたいのか。

 怖いのか。


 全部、少しずつある。


 でも、今いちばん強いのは。


「知りたいです」


 私は言った。


「殿下が私の書類棚を開けたのか。開けたなら、何を見たのか。何を探したのか」


 声は静かだった。


「そして、もし殿下が何も知らなかったとしても、殿下の鍵が使われたなら、それは殿下の責任です」


 レオンハルト公爵の目が、ほんの少し細くなった。


「いい」


「いい、ですか」


「ああ。責任の置き場所が見えている」


 私は胸の奥で、その言葉を受け取った。


 責任の置き場所。


 私は今まで、責任を全部自分の中へ入れようとしていた。

 誰かが泣けば私のせい。

 誰かが怒れば私のせい。

 場が乱れれば私のせい。


 でも違う。


 鍵を持った者には、鍵を持つ責任がある。


 王太子であっても。


 元婚約者であっても。


「王太子殿下」


 私は小さく呟いた。


 その声は、誰に向けたものでもなかった。


 でも、部屋の中に落ちた。


「私の書類棚を、開けましたね」


 言ってから、胸が少し震えた。


 疑いの言葉。


 私はついに、あの人へ向けてそれを持った。


 信じてほしかった相手を、今度は私が疑う。


 痛い。


 けれど、必要な痛みだった。


 レオンハルト公爵が静かに言った。


「その疑問は、記録に残す」


「はい」


「そして、答えを取る」


「はい」


 オスカーが書類をまとめ、礼をした。


「では、私は動きます。アンナ嬢、書類棚、王太子殿下の予備鍵。今日はなかなか忙しくなりそうです」


「お気をつけて」


 私が言うと、オスカーは少し意外そうな顔をした。


「ありがとうございます。旦那様、聞きましたか。気遣いです。王都では絶滅危惧種の」


「早く行け」


「はいはい」


 マルタが睨む。


「はい、は一回です」


「はい」


 オスカーは軽く礼をし、部屋を出ていった。


 残された私は、薬湯を一口飲んだ。


 蜂蜜入りでも、やはり苦い。


 けれど、飲めないほどではない。


 苦いものを、苦いまま飲み込む。


 真実も、たぶんそうなのだろう。


 甘くはならない。

 都合よく優しくもならない。

 でも、飲み込まなければ前へ進めない。


 私の部屋に毒瓶はなかった。


 私の書類棚は、誰かに開けられたかもしれない。


 そして王太子殿下は、その鍵を持っていた。


 物語はまた、静かに角度を変えた。


 私はもう、ただ疑われる側ではない。


 疑問を持つ側に立っている。


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