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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第20話 妹は初めて、姉の不在に怯えました

 セレーネ・フォン・アルヴィナは、泣けば誰かが助けてくれると思っていた。


 いや、正確には、そう思うようになっていた。


 幼い頃から、そうだった。


 彼女が泣けば、母が抱きしめてくれた。

 父は困った顔をしながらも、最後には優しい声を出した。

 使用人たちは慌てて甘い菓子を用意した。

 王宮に出入りするようになってからは、王太子ユリウスも眉を下げて、セレーネの手を取ってくれた。


 そして、姉は。


 エリシアは、いつも少し遠い顔で、後始末をしてくれた。


 セレーネが家名を間違えた時。

 招待状の敬称を書き損じた時。

 王宮茶会で話してはいけない相手に、うっかり父の愚痴を言いかけた時。

 遅刻しそうになった時。

 王妃の前で礼の順番を忘れた時。


 エリシアは怒った。


 怒ったように見えた。


 実際、怒っていたのかもしれない。


『セレーネ、何度も言ったでしょう。ローレン侯爵夫人には、先に亡くなったご子息の話題を出してはいけないの』


『でも、知らなかったもの』


『知らないまま話すから危ないのです』


『お姉様は、いつもそうやって私を責めるのね』


 その時、セレーネが涙ぐむと、周囲はすぐに姉を見た。


 エリシア様は厳しすぎる。

 妹君が可哀想。

 少しは優しく教えて差し上げればいいのに。


 セレーネは、その視線に守られていた。


 だから、気づかなかった。


 姉がいなくなれば、自分を守るものも一緒になくなることに。


「セレーネ」


 父アルヴィナ公爵の声が、執務室に低く響いた。


 セレーネは肩を震わせた。


 いつも父は、セレーネにはもっと柔らかく声をかけた。

 少なくとも、以前はそうだった。


 けれど、ここ数日の父は違う。


 目の下に疲れが浮かび、口元は固く結ばれている。

 机の上には書類が積み上がり、封の切られていない手紙がいくつも重なっていた。


 その大半が、エリシアがいれば処理していたはずのものだった。


「はい、お父様」


「この返書は、まだ出していないのか」


 父が一通の手紙を机に叩くように置いた。


 セレーネはびくりとする。


「それは……あの、どちらの」


「読んでいないのか」


「読みました。でも、内容が少し難しくて……お姉様なら、こういう時は」


 言いかけて、セレーネは口を閉じた。


 父の顔が、さらに険しくなったからだ。


「その姉はここにいない」


 低い声。


 セレーネは俯いた。


「……はい」


「では、お前が覚えなければならない」


「でも、私はまだ」


「まだ?」


 父が苛立ったように言う。


「お前は王太子殿下のそばにいるのだろう。エリシアがいなくなった今、アルヴィナ家から王宮へ出入りできる娘はお前だけだ」


 その言葉は、本来ならセレーネにとって嬉しいはずだった。


 姉ではなく、自分が選ばれる。

 姉の影ではなく、自分が殿下の隣に立つ。


 ずっと欲しかったものだった。


 けれど、今はその言葉が重かった。


 王宮へ出入りする。

 殿下のそばにいる。

 それは、ただ綺麗なドレスを着て微笑むことではなかった。


 返書。

 礼状。

 招待客の整理。

 家ごとの関係。

 誰と誰が不仲で、どの話題を避けるべきか。

 どの夫人には花を贈り、どの老侯爵には珍しい茶葉を贈るべきか。


 エリシアは、それを全部覚えていた。


 セレーネは、知らなかった。


 知らなくてもいいと思っていた。


「お父様、でも、私には教えてくださる方が……」


「だから、これから覚えろと言っている」


「急には無理です」


 つい、声が震えた。


 父の眉が上がる。


「無理?」


「だって、お姉様は何年もかけて覚えたのでしょう? 私は、そんな……一度に全部なんて」


「エリシアは、できた」


 その一言が、セレーネの胸に刺さった。


 エリシアはできた。


 まただ。


 どこへ行っても、最後には姉が出てくる。


 姉は正しい。

 姉は優秀。

 姉ならできた。

 姉なら間違えなかった。


 でも、その姉を。


 父も、王太子も、自分も、見捨てたのではなかったか。


 セレーネは喉の奥がきゅっと詰まるのを感じた。


「お姉様は……」


 言いかけて、声が小さくなる。


「お姉様は、もう戻ってこないのですか」


 父はすぐには答えなかった。


 その沈黙が怖かった。


「戻す」


 やがて父は言った。


「アルヴィナ家の娘が、いつまでもクラウゼル公爵家にいるなど許されん」


「でも、法務卿が……」


「法務卿が何と言おうと、あれは私の娘だ」


 その言葉に、セレーネは少しだけ安心しかけた。


 父は、姉を娘だと言った。


 けれど次の瞬間、父は机の上の書類を忌々しげに見た。


「戻ってもらわねば困る。家の書類が回らん。王宮からの問い合わせも、どれもこれもエリシアが処理していたものばかりだ」


 安心は、すぐに冷えた。


 娘だからではない。


 困るから。


 父は、姉がいなくて困っている。


 セレーネは、それを聞いてはいけないもののように感じた。


「お父様……お姉様は、怒っているでしょうか」


「怒っていようが、家のためなら戻るべきだ」


「でも、処刑されそうになって」


「その話は終わった」


 父の声が冷たくなる。


 セレーネはびくっとした。


「まだ終わっていません。法務卿の調査も、公爵閣下の調査も……それに、殿下も」


「セレーネ」


 父が鋭く遮った。


「お前まで余計なことを考えるな」


 余計なこと。


 姉が死にかけたこと。

 自分の証言が姉を追い詰めたこと。

 あの日、本当に何が起きたのか。


 それは、余計なことなのだろうか。


 セレーネは自分の指を握った。


 爪が柔らかい掌に食い込む。


 痛い。


 でも、痛みより不安が大きい。


「私は……何をすればいいのですか」


 ようやくそれだけ言うと、父は深く息を吐いた。


「まず、この返書を書け。ロザリンド侯爵夫人への茶会欠席の詫びだ」


「ロザリンド侯爵夫人……」


 その名を聞いた瞬間、セレーネの胸が嫌な音を立てた。


 あの夫人は苦手だった。


 美しくて、強くて、笑っているのに目が怖い。

 セレーネが少し言葉に詰まると、助けるどころか、その沈黙まで観察してくるような人。


 姉なら、平然と対応した。


 いや、平然としているように見えた。


「何と書けば」


「そんなことも分からんのか」


 父は苛立って言った。


 セレーネの目に涙が浮かぶ。


 いつもの癖だった。


 困った時、怖い時、責められた時。


 涙が出る。


 そうすると、たいてい誰かが声を柔らかくしてくれた。


 でも、父は今日は違った。


「泣くな」


 セレーネは息を止めた。


 泣くな。


 父にそんなふうに言われたのは、初めてかもしれない。


「泣いても返書は書けん」


「……っ」


「エリシアなら、泣かずに書いた」


 また。


 また、姉。


 セレーネは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 悲しみなのか、悔しさなのか、怒りなのか分からない。


「お姉様なら、お姉様ならって……!」


 気づけば、声が出ていた。


 父が目を見開く。


 セレーネ自身も驚いた。


 でも、止まらなかった。


「そんなにお姉様が必要なら、どうして信じてあげなかったのですか! どうして牢に入れたのですか! どうして処刑に……っ」


「セレーネ!」


 父が机を叩いた。


 大きな音。


 セレーネは身体を縮めた。


 涙がこぼれる。


 父はすぐに後悔したような顔をしたが、謝らなかった。


「……部屋へ戻れ」


「お父様」


「戻れと言っている」


 セレーネは震えながら礼をし、執務室を出た。


 廊下へ出ると、使用人たちが慌てて視線を逸らした。


 聞かれていた。


 そう思うと、顔が熱くなった。


 恥ずかしい。

 惨め。

 怖い。


 姉なら、廊下で泣いたりしない。

 姉なら、使用人に見られる前に顔を整える。

 姉なら、父を怒らせず、返書も書き、家の面目も守る。


 でも、私は姉ではない。


 セレーネは足早に自分の部屋へ戻った。


 部屋は相変わらず可愛らしかった。


 淡い桃色の壁紙。

 白いレースの天蓋。

 小さな花柄のクッション。

 王太子殿下から贈られた菫色のリボン。

 王妃殿下から下賜された白い花の香油。


 全部、好きだった。


 好きなものに囲まれた部屋のはずなのに、今日は息苦しい。


 セレーネは椅子に座り、机の上に置かれた練習用の便箋を見た。


 返書。


 ロザリンド侯爵夫人への詫び状。


 何を書けばいいのか、分からない。


 お姉様なら。


 その言葉が、また頭をよぎる。


 セレーネは唇を噛んだ。


「お姉様なら、って……」


 小さく呟く。


「私だって、最初から全部できるわけじゃないのに」


 声が震えた。


 誰に言っているのか分からなかった。


 父に。

 王太子殿下に。

 姉に。

 自分に。


 その時、扉が叩かれた。


「セレーネ様」


 侍女リタの声だった。


「入って」


 リタが入ってくる。


 セレーネ付きの侍女で、いつも穏やかに笑う女性だ。

 少し年上で、セレーネの味方をしてくれる。少なくとも、セレーネはそう思っていた。


 リタは手に小さな盆を持っていた。


「お茶をお持ちしました。落ち着かれますよ」


「ありがとう、リタ」


 セレーネは涙を拭いた。


 リタはそれを見て、眉を下げる。


「公爵閣下に叱られたのですね」


「……叱られた、というか」


「お可哀想に。旦那様も、エリシア様がいなくなって苛立っておいでなのですわ」


 その言葉に、セレーネは少し顔を上げた。


「やっぱり、お父様はお姉様がいないから怒っているの?」


「それはそうでしょう。エリシア様は、家のことをよくなさっていましたもの」


 リタは茶を注ぐ。


「でも、セレーネ様が気に病むことはございません。あなた様は、あなた様でよろしいのです」


 いつもなら、その言葉に安心した。


 あなたはあなたでいい。

 できなくてもいい。

 泣いてもいい。

 可愛いままでいい。


 でも、今日はその言葉が少しだけ空っぽに聞こえた。


「でも、返書が書けないの」


「そんなもの、書記に任せればよろしいのでは?」


「お父様は、私が覚えろって」


「まあ、旦那様も無茶をおっしゃいますね」


 リタは困ったように笑った。


「エリシア様と同じことをセレーネ様に求めるなんて」


 同じこと。


 セレーネは膝の上で手を握った。


「リタ」


「はい」


「お姉様は、いつからできるようになったの?」


 リタは少し驚いたようだった。


「いつから、と申しますと」


「返書とか、席順とか、家名とか。全部、最初からできたの?」


「それは……」


 リタは少し迷った。


「エリシア様は、とても努力なさっていましたから」


 努力。


 その言葉が、胸に小さく刺さった。


 姉は、最初からできたわけではない。


 努力した。


 当たり前のことなのに、セレーネは今までそこを考えたことがなかった。


 姉はできる人。

 自分は可愛い人。


 そう分けることで、楽になっていた。


「お姉様は、私のことも……記録していたのかな」


 リタの手が一瞬止まった。


 ほんの一瞬。


 けれど、セレーネは気づいた。


「リタ?」


「何のことでしょう」


「私の礼の順番とか、苦手な家名とか。お姉様は、そういうのも書いていた?」


「さあ……私は存じません」


 リタは目を逸らした。


 その仕草が、セレーネの胸に引っかかった。


 昨日までなら、気にしなかったかもしれない。


 でも今は、ロザリンド侯爵夫人の話を聞いた姉の言葉が耳に残っていた。


『あなたの怖さで、私の罪は作れません』


 怖い。


 セレーネは、怖かった。


 姉が怖かった。

 正しい言葉で自分を刺してくる姉が怖かった。

 王太子殿下の隣に当然のように立つ姉が怖かった。

 父が何だかんだで頼りにしている姉が怖かった。


 でも、その怖さで何が作られたのだろう。


 姉の罪?


 自分の涙?


 誰かの都合?


「リタ」


「はい」


「春告げの茶会の日、私……お姉様の控室へ行ったわよね」


 リタの表情が固まった。


 ほんのわずかに。


「……ええ。少しだけ」


「私、どうして行ったの?」


「緊張なさっていたからでは?」


「そうかしら」


「セレーネ様は、エリシア様のお顔を見ると落ち着くとおっしゃって」


 そうだった。


 そう言った。


 でも、本当に自分から行きたいと言ったのだろうか。


 誰かに、行ってみたら、と言われなかったか。


 姉のところへ行けば、殿下が心配してくれる。

 姉に冷たくされたら、あなたが怖かったと言えばいい。


 そんな言葉。


 誰が言った?


 リタ?

 ミレイユ?

 王妃宮の誰か?


 記憶が霧のように曖昧だった。


「私、あの時……小棚に触った?」


 リタの顔から、笑みが消えた。


「なぜ、そのようなことを?」


「覚えていないの。でも、お姉様の控室で、少しふらついた気がして」


「セレーネ様は緊張していらしたのです。細かいことは覚えていなくて当然ですわ」


「でも」


「思い出す必要はございません」


 リタの声が、いつもより少し強かった。


 セレーネは息を止める。


 思い出す必要はない。


 その言葉は優しいようで、怖かった。


「どうして?」


「思い出しても、つらくなるだけです」


「でも、お姉様は」


「エリシア様は、今やクラウゼル公爵家の方です」


 リタはにこりと笑った。


 いつもの笑顔。


 でも、どこか硬い。


「セレーネ様は、王太子殿下のおそばにいらっしゃるべき方です。余計なことを考えず、今はご自分の立場を守ることをお考えください」


 ご自分の立場。


 その言葉は、父の言葉に似ていた。


 家のため。

 王宮のため。

 殿下のため。

 立場のため。


 姉の無実や、自分の記憶は、どこへ行くのだろう。


 セレーネは茶器を見た。


 湯気が上がっている。


 白い花の香りが、部屋の隅から微かに漂ってきた。


 王妃からもらった香油。


 あの日も、この香りがした。


 姉の控室で。

 自分の袖から。

 そして、毒瓶が見つかった部屋で。


 セレーネは急に気分が悪くなった。


「リタ」


「はい」


「この香油、片づけて」


「お気に召しませんか?」


「いいから、片づけて」


 少し強い声になった。


 リタは一瞬だけ表情を失ったが、すぐに微笑んだ。


「かしこまりました」


 リタが香油瓶を手に取る。


 その指先が、妙に慎重だった。


 セレーネはそれを見ていた。


 見てしまった。


 リタが部屋を出ていくと、セレーネは一人になった。


 机の上には白い便箋。

 書けない返書。

 冷めていく紅茶。


 そして、姉がいない部屋の静けさ。


 セレーネは初めて、その静けさが怖いと思った。


 姉がいない。


 怒る人がいない。

 訂正する人がいない。

 先回りして穴を塞ぐ人がいない。

 自分の涙の後始末をしてくれる人がいない。


 自由になったはずだった。


 姉の影から出られたはずだった。


 なのに、そこにあったのは、広すぎる場所に一人で立たされたような怖さだった。


「お姉様……」


 小さく呼んだ。


 返事はない。


 当然だ。


 姉はクラウゼル公爵家にいる。

 もう、ここにはいない。


 セレーネは便箋を見つめた。


 返書を書かなければ。

 でも、どう書けばいいのか分からない。


 泣いても、誰も代わりに書いてくれない。


 その事実が、胸にずしりと落ちた。


 同じ頃、王宮ではユリウス王太子もまた、落ち着かない時間を過ごしていた。


 執務室の机には、未処理の書類が積まれている。


 いつもなら、エリシアが分類していた。

 緊急のもの、後回しでよいもの、返答だけで済むもの、事前に根回しが必要なもの。

 彼女は黙ってそれを整え、ユリウスが手を伸ばせばすぐ分かるようにしていた。


 今、その机は乱れていた。


「殿下、こちらの決裁を」


 侍従が書類を差し出す。


 ユリウスは眉を寄せた。


「それは昨日見た」


「いえ、昨日のものは侯爵家からの請願書で、こちらは商会登録に関する承認です」


「似たような封だ」


「封は似ておりますが、中身が」


「分かっている」


 ユリウスは苛立って言った。


 分かっていなかった。


 だが、それを認めたくなかった。


 エリシアなら、こういう時に黙って横から一枚差し出した。


『殿下、こちらが先です。こちらは午後でも間に合います』


 その声が聞こえない。


 静かすぎる執務室が、逆に落ち着かなかった。


「エリシアから返事は」


 ユリウスは不意に尋ねた。


 侍従が気まずそうに目を伏せる。


「まだ、ございません」


「二通も送ったのに?」


「はい」


「……意地を張っているのか」


 言ってから、ユリウスは自分の声の薄さに気づいた。


 意地。


 本当にそうなのだろうか。


 法務棟で、扉越しに聞こえたエリシアの声を思い出す。


『私のためという言葉は、もう受け取りません』


 あの声は、意地というより。


 拒絶だった。


 ユリウスは胸がざわつくのを感じた。


 なぜ、あんな言い方をしたのだろう。


 自分は、ただ話したかっただけだ。

 セレーネも苦しんでいる。

 エリシアも混乱している。

 三人で話せば、きっと落ち着く。


 そう思っていた。


 だが、エリシアは会わなかった。


 会わないと、自分で決めた。


 あのエリシアが。


 いつも自分の呼び出しに応じていたエリシアが。


「殿下」


 侍従が控えめに声をかける。


「クラウゼル公爵家より、法務卿を通じて問い合わせが届いております」


「問い合わせ?」


「エリシア嬢の王宮控室にあった書類棚について」


 ユリウスの手が止まった。


「書類棚……」


「はい。封印状態、鍵の管理、棚の中身、欠落書類の有無について確認したいとのことです」


 ユリウスは、なぜか喉が渇いた。


 書類棚。


 彼はその鍵を持っていた。


 エリシアから預かった鍵。


 半年ほど前。

 急ぎの書類が必要だと言って、彼女から受け取った。


 それを、返しただろうか。


 記憶が曖昧だった。


 いや。


 返していない。


 引き出しの奥に、まだあるはずだ。


「殿下?」


 侍従が不安そうに呼ぶ。


 ユリウスは、机の引き出しへ目を向けた。


 そこに、ある。


 エリシアの控室の鍵。


 自分は、あの棚を開けただろうか。


 一度だけ、開けたかもしれない。


 いつだ。


 茶会の前か。

 もっと前か。


 エリシアが王妃宮の帳簿に妙な顔をしていたことがあった。

 彼女は何かを控えに写していた。

 ユリウスが尋ねると、彼女は少し迷ってから「後ほど確認いたします」と言った。


 その時、ユリウスは思った。


 また難しい顔をしている。

 また余計なことに気づいている。


 王妃宮のことだった。


 母に関わること。


 ユリウスは、エリシアの記録を見たかった。


 彼女が何を気にしているのか。

 何を疑っているのか。


 彼は、鍵を使った。


 そうだ。


 一度、開けた。


 ただし、盗むつもりではなかった。


 確認するだけだった。


 母の名誉を守るため。

 王宮の混乱を避けるため。

 エリシアが早合点をしていないか確かめるため。


 そう思っていた。


 だが、その後の記憶が曖昧だった。


 棚の中には、彼女らしい整った書類が並んでいた。

 白百合慈善基金の控え。

 モルガン商会の納品記録。

 孤児院支出の比較。

 そして、セレーネの教育進捗メモ。


 ユリウスは、それを見て少し嫌な気持ちになった。


 エリシアは、セレーネまで記録していたのか。

 管理するように。

 採点するように。


 その時は、そう感じた。


 だが今思えば。


 それは管理ではなく、保護だったのかもしれない。


「殿下」


 侍従の声で、ユリウスは我に返った。


「どう回答いたしましょう」


 ユリウスは少し黙った。


 ここで、自分が鍵を持っていると正直に言うべきか。


 いや、言えば疑われる。


 クラウゼル公爵は必ず食いつく。

 エリシアも、知るだろう。


 王太子殿下、私の書類棚を開けましたね。


 そんな声が聞こえた気がした。


 ユリウスは唇を結んだ。


「鍵は……」


 言いかけて、止まる。


 自分は何を言おうとしている?


 持っていないと?

 知らないと?


 それは嘘だ。


 けれど、本当のことを言えば、自分は何を失うのだろう。


 エリシアの信頼?


 もう失っている。


 では、何を守ろうとしている?


 王太子としての面子。

 母への疑いを避けたい気持ち。

 自分が間違えたと認めたくない弱さ。


 ユリウスは、初めて自分の弱さを少しだけ見た気がした。


 そして、それがあまりにも見苦しくて、すぐに目を逸らした。


「確認中だと返せ」


 彼は言った。


 侍従が頭を下げる。


「かしこまりました」


「それから……」


 ユリウスは引き出しへ視線を向けた。


「私の執務室の鍵類を整理しておけ」


「鍵類、でございますか」


「ああ」


「承知いたしました」


 侍従が退出すると、ユリウスは一人になった。


 机の上には書類の山。

 引き出しの中には、返し忘れた鍵。

 心の中には、返せなかった言葉。


 エリシアがいないだけで、王宮はこんなにも不便になる。


 不便。


 その言葉を思った瞬間、ユリウスは自分で嫌になった。


 彼女を、また便利か不便かで考えている。


 そうではない。


 そうではないはずなのに。


 では、自分にとってエリシアとは何だったのか。


 婚約者。

 補佐。

 厳しい友人。

 都合のいい支え。

 いつもそこにいると思っていた人。


 いなくなって初めて、分からなくなった。


 その夜、セレーネは結局、ロザリンド侯爵夫人への返書を書けなかった。


 何度も書き出して、何度も破った。


『このたびは失礼を――』

 違う気がする。


『体調不良により――』

 嘘ではないが、弱すぎる気がする。


『姉の件で混乱しており――』

 それを書くべきではない気がする。


 気づけば、机の上には破った紙が散らばっていた。


 セレーネはその紙を見て、ゆっくりと泣き出した。


 声を上げてではない。


 誰かに聞こえるようにでもない。


 ただ、どうしようもなく涙が落ちた。


 泣いても、返書は書けない。


 泣いても、姉は来ない。


 泣いても、誰も正しい言葉を用意してくれない。


 その夜、セレーネは初めて、自分の涙が何も解決しないことを知った。


 そして同時に、姉がどれほど多くのものを、自分の涙の後ろで片づけていたのかを、ほんの少しだけ知った。


 怖かった。


 姉がいないことが。


 姉が戻ってこないかもしれないことが。


 そして何より、自分が姉を戻れない場所まで追いやったかもしれないことが。


「お姉様……」


 小さな声は、誰にも届かなかった。


 白い花の香りが消えた部屋で、セレーネは破れた便箋を抱えるようにして、ただ震えていた。


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