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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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20/24

第21話 冷血公爵は、なぜか私の嫌いな菓子を覚えていました

 王宮控室の書類棚についての問い合わせは、その日のうちに法務卿へ送られた。


 アンナの所在確認も、オスカーが動いてくれている。


 王太子殿下が持っているはずの予備鍵。

 封鎖までの空白の半刻。

 白百合慈善基金の覚書。

 消えたかもしれない記録。


 物事は少しずつ動いている。


 けれど、動いているからといって、私の心が追いつくとは限らなかった。


 長椅子に座り、膝掛けをかけられ、私はぼんやりと窓の外を見ていた。


 庭では、庭師が薬草区画の世話をしている。

 朝、会釈を返してくれた人だ。名前はまだ知らない。

 けれど、顔は覚えた。


 この屋敷には、私の知らない人がたくさんいる。

 私をまだ完全には歓迎していない人もいる。

 それでも、厨房のトマはスープの感想を聞きに来た。庭師は会釈を返した。マルタは私の痛みを見逃さない。レオンハルト公爵は、私が食事を怖がることを当たり前のように覚えている。


 不思議だ。


 王宮には長くいたのに、私という人間はあまり覚えられていなかった気がする。


 私ができることは覚えられていた。

 私が失敗しないことも。

 私が場を整えることも。

 私が怒らず、泣かず、最後には折れることも。


 でも、私が何を嫌いかは、誰も覚えていなかった。


「エリシア様」


 マルタが部屋に入ってきた。


 手には小さな銀の盆がある。


「お茶の時間でございます」


「もうそんな時間ですか」


「はい。記憶を掘る作業の後は、糖分も必要です」


「それは医師の指示ですか」


「私の指示です」


「医師より強そうですね」


「場合によっては」


 マルタは涼しい顔で言い、テーブルに盆を置いた。


 温かい茶。

 小さな焼き菓子。

 蜂蜜を塗った薄いパン。

 柔らかい果実の煮たもの。


 そして、菓子皿の端に、丸い焼き菓子が二つ。


 私はそれを見て、少しだけ目を瞬いた。


 白薔薇の砂糖菓子がない。


 王宮で茶の時間と言えば、必ずと言っていいほど出てきた菓子だった。

 白い花びらを模した砂糖菓子。甘い香りが強く、口に入れると舌の上でほろりと崩れる。

 見た目は美しい。令嬢たちには人気だった。


 セレーネも好きだった。

 王妃宮の侍女たちも、よく「エリシア様のお好きな白薔薇菓子です」と言って出してきた。


 けれど、私はあれが苦手だった。


 甘すぎる。

 香りが強すぎる。

 食べると喉の奥に花の匂いが残って、少し頭が痛くなる。


 でも、嫌いだと言えなかった。


 ユリウス殿下が何度も贈ってくださったから。

 セレーネが「お姉様もお好きよね」と無邪気に笑ったから。

 王妃殿下が「女性はこういう可憐なお菓子を喜ぶものよ」と言ったから。


 私は、笑って受け取った。


 食べられない分は、後でアンナに下げてもらった。

 時にはセレーネへ譲った。

 セレーネは嬉しそうに食べた。


 そのうち、周囲は私が白薔薇菓子を好きだと思うようになった。


 違うと言わなかったのは、私だ。


 言えばよかったのに。


 ただ、「苦手です」と。


 それだけのことなのに。


「エリシア様?」


 マルタが私を見る。


「お顔が、少し複雑です」


「複雑な顔とは、便利な表現ですね」


「泣きそうでもあり、怒りそうでもあり、少し笑いそうでもあります」


「本当に複雑ですね」


 私は菓子皿を見つめた。


「白薔薇の砂糖菓子がないと思って」


「お嫌いだと伺いましたので」


 私は顔を上げた。


「誰から?」


「旦那様からです」


 今度こそ、言葉が止まった。


「公爵閣下が?」


「はい」


「なぜ、公爵閣下がそれを?」


「直接お聞きになった方がよろしいかと」


 マルタはそう言って、茶を注いだ。


 その直後、まるで話を聞いていたかのように扉が叩かれた。


「入る」


 返事を待たずに、レオンハルト公爵が入ってきた。


 マルタが眉を上げる。


「旦那様。入室の確認は、相手のお返事を待ってからでございます」


「聞こえた」


「返事はまだでした」


「そうか」


「そうです」


 レオンハルト公爵は私を見た。


「邪魔か」


「今それを聞くのですか」


「必要かと思った」


「入った後ですが」


「出るか」


「いえ、もう大丈夫です」


 何だか、少し笑ってしまった。


 彼は本当に、順番が少しおかしい。


 でも、そのおかしさに慣れてきている自分もいる。


 公爵は私の向かいに座った。

 マルタが彼の分の茶も用意する。


 私は菓子皿を見た。


 白薔薇菓子はない。


 代わりにあるのは、蜂蜜と胡桃の焼き菓子、薄く焼いた林檎の菓子、そして小さな塩気のあるクラッカーのようなものだった。


「公爵閣下」


「何だ」


「白薔薇の砂糖菓子がありません」


「ああ」


「公爵閣下が、私が嫌いだとおっしゃったと聞きました」


「ああ」


「なぜご存じなのですか」


 公爵は茶を一口飲んだ。


 答えるまでの間が、妙に長い。


 私は少しだけ身構えた。


 何か調査で分かったのか。

 王宮の贈答記録からか。

 それともアンナから何か聞いたのか。


 けれど、公爵は淡々と言った。


「食べていなかった」


「……いつの話ですか」


「三年前の王宮晩餐会」


 私は瞬いた。


 三年前。


 そんな昔?


「覚えていません」


「君は王太子の隣にいた。白薔薇菓子が出た。セレーネ嬢は二つ食べた。君は皿の端に寄せた」


「……見ていたのですか」


「見えた」


「公爵閣下は、晩餐会で他人の菓子皿を観察していたのですか」


「退屈だった」


 あまりにも真顔で言うので、私はしばらく言葉を失った。


 マルタが横で静かに咳払いをする。


「旦那様。その説明では不審者に近うございます」


「そうか」


「はい」


 レオンハルト公爵は少し考えた。


「君が何度も同じ菓子を残していたから覚えた」


「何度も?」


「ああ。王宮茶会でも、晩餐会でも。皿には置くが食べない。時々、セレーネ嬢に渡していた」


 私は菓子皿を見つめた。


 そんなことを、覚えていたのか。


 私自身でさえ、ただの癖のように流していたことを。


「なぜ……そんなことを?」


「不自然だったからだ」


「不自然」


「好きだと言われている菓子を、毎回食べない。嫌いなのだろうと思った」


 簡単に言われた。


 胸の奥が、少し変なふうに痛む。


 嬉しいのか。

 恥ずかしいのか。

 悲しいのか。


 分からない。


「王宮の方々は、私があれを好きだと思っていました」


「そうだろうな」


「殿下も、よく贈ってくださいました」


「ああ」


「セレーネも、私が好きだと思っていました」


「違ったのだろう」


「はい」


 私は少しだけ笑った。


「苦手でした。甘すぎて、香りが強くて。食べると頭が痛くなることもあって」


「なら、なぜ言わなかった」


 真っ直ぐな問いだった。


 責められているわけではない。

 ただ、本当に疑問なのだろう。


 私は少し迷ってから答えた。


「言うほどのことではないと思っていました」


「頭が痛くなるのに?」


「我慢できましたから」


「我慢できることと、言わなくていいことは違う」


 胸に刺さった。


 この人の言葉は、時々、短いのに逃げ場がない。


「……そうですね」


 私は小さく頷いた。


「でも、王宮では、嫌いなものを嫌いと言うのは意外と難しいんです。殿下から贈られたものを苦手だと言えば、殿下の厚意を拒むことになります。王妃殿下が選んだものを食べられないと言えば、気を悪くされるかもしれない。セレーネが好きなものを嫌いだと言えば、あの子が悲しむかもしれない」


「だから我慢した」


「はい」


「菓子一つで」


「菓子一つです」


 自分で言って、少し可笑しくなった。


 菓子一つ。


 でも、その菓子一つにも、私は自分を曲げていた。


 嫌いと言わない。

 残したことを気づかれないようにする。

 誰かに譲る。

 笑って、好きなふりをする。


 小さな我慢。


 そんなものが積み重なって、私はいつの間にか、自分が何を嫌いかも言えない女になっていた。


 レオンハルト公爵は、菓子皿を私の方へ少し押した。


「ここでは、嫌いなものは嫌いと言え」


「また簡単におっしゃいますね」


「難しいか」


「難しいです」


「なら、練習しろ」


「訓練ですか」


「そうだ」


 私は思わず笑った。


「庭歩きも、食事も、嫌いなものを言うのも、全部訓練なのですね」


「生きる訓練だ」


 その言葉に、笑いが止まった。


 生きる訓練。


 大げさなようで、そうではない気がした。


 私は、今まで生きるためではなく、誰かに必要とされるために動いていた。

 嫌いなものを嫌いと言うこと。

 痛い時に痛いと言うこと。

 怖い時に怖いと言うこと。

 食べたいものを食べること。

 休みたい時に休むこと。


 それらは全部、私が私として生きるために必要な訓練なのかもしれない。


 マルタが菓子を一つ取り分けてくれた。


「こちらは蜂蜜と胡桃の焼き菓子です。甘さは控えめにしております」


「私のために?」


「はい」


「厨房の方が?」


「料理長が、白薔薇菓子を出すなと旦那様に言われて、では何がよいのかと大変悩んでおりました」


 レオンハルト公爵が言った。


「甘すぎないもの。香りが強すぎないもの。手で持ちやすく、口の中で崩れにくいもの」


 私は公爵を見た。


「そこまで指定されたのですか」


「ああ」


「なぜ」


「君は手首が痛む。崩れる菓子は食べにくい」


 胸の奥が、また変なふうに鳴った。


 手首が痛いから。

 崩れる菓子は食べにくいから。


 そんなことまで。


「……公爵閣下」


「何だ」


「あなたは時々、優しさの向け方が細かすぎて怖いです」


 言ってしまってから、私は慌てた。


 失礼だったかもしれない。


 けれど、公爵は真顔で少し考えた。


「怖いのか」


「悪い意味ではありません」


「では?」


「慣れないのです」


 私は焼き菓子を見つめた。


「誰かが私の嫌いなものを覚えていることに。食べにくいかもしれないと考えてくれることに。私が我慢しなくていいように、先に取り除いてくれることに」


 声が少し小さくなる。


「慣れていません」


 レオンハルト公爵は、しばらく黙っていた。


 その沈黙は、相変わらず急かさない沈黙だった。


「慣れろ」


 やがて彼は言った。


 マルタがすぐに低い声で言う。


「旦那様」


「……ゆっくり慣れればいい」


 即座に言い直された。


 私は笑ってしまった。


「今のは、マルタさんに叱られる前提でしたか」


「叱られると思った」


「成長なさいましたね」


「そうか」


 マルタが静かに頷く。


「旦那様、八十八点です」


「また上がった」


「はい。ただし最初の『慣れろ』で減点しております」


「厳しいな」


「必要です」


 私は焼き菓子を一口食べた。


 蜂蜜の甘さが、ふわりと広がる。

 でも、くどくない。

 胡桃の香ばしさがあって、噛むと少しだけほろりと崩れる。

 香りは強すぎず、口の中に嫌な甘さも残らない。


 おいしい。


 素直にそう思えた。


「……おいしいです」


 私が言うと、マルタがすぐに頷いた。


「料理長に伝えます」


「今日は鍋を磨きますか」


「おそらく、二つ磨きます」


「二つも」


 私は少し笑った。


 レオンハルト公爵が私の顔を見て言う。


「気に入ったか」


「はい」


「なら、次もこれにする」


「あ、でも」


 私は慌てて言った。


「毎回同じでなくても大丈夫です。嫌いなものを避けていただければ、それで」


「他に嫌いなものは」


 真剣な声だった。


 私は少し困った。


「急に聞かれると、出てきません」


「考えろ」


「訓練ですか」


「ああ」


「今ですか」


「今だ」


 私は少しだけ菓子を見つめた。


 嫌いなもの。


 今まで、そんなものを人前で並べたことがあっただろうか。


 嫌いなものを口にすると、わがままだと思われる気がした。

 贅沢だと。

 面倒だと。

 可愛げがないと。


 でも、ここでは訓練らしい。


 なら、言ってみる。


「白薔薇の砂糖菓子は苦手です」


「ああ」


「香りの強すぎる茶も、少し苦手です」


「なぜ」


「喉に残るので」


「分かった」


「あと……砂糖漬けの果物がたくさん入った重い焼き菓子も。嫌いというほどではありませんが、一切れで十分です」


「一切れまで」


「はい」


「他には」


「辛すぎる薬湯」


 マルタが少し眉を上げた。


「辛すぎる薬湯は、お菓子ではございません」


「でも苦手です」


「それは認めます」


「認められました」


 私は少し得意な気持ちになった。


 嫌いなものを言えた。


 たったそれだけなのに。


 レオンハルト公爵は真剣に聞いている。


「好きなものは」


「え」


「嫌いなものだけでは足りない」


「足りない?」


「避けるだけでは、食卓が貧しくなる」


 私は少し驚いた。


 避けるだけではなく、好きなものも。


 好きなもの。


 それも、すぐには出てこなかった。


「……焼いた林檎は好きです」


「今日の皿にある」


「はい。嬉しいです」


「他は」


「蜂蜜。あまり強すぎないもの。あとは、温かいパンに少し塩気のあるバターをつけたもの」


「菓子ではないな」


「でも好きです」


「分かった」


 公爵は頷いた。


 まるで軍議のように真剣だった。


 私はその顔を見て、急におかしくなる。


「公爵閣下」


「何だ」


「これは、そんなに重要な情報ですか」


「重要だ」


「なぜ」


「食べるものだから」


 また、逃げ場のない短い言葉。


 私は笑えなくなった。


 食べるものだから重要。


 当たり前のことを、当たり前のように言われる。


 それが、こんなに胸に来るなんて。


「……王宮では、食べるものは重要ではありませんでした」


 私は小さく言った。


「少なくとも、私の好みは」


「ここでは重要だ」


「はい」


 菓子をもう一口食べる。


 おいしい。


 私は、それを忘れないようにした。


 その時、扉が叩かれた。


 オスカーだった。


 彼はいつものように軽い調子で入ってきたが、手に持った書類を見れば、用件が軽くないことはすぐ分かった。


「お茶の時間を邪魔して申し訳ありません。菓子が残っていれば、私も一ついただきたいところですが」


「用件を言え」


 レオンハルト公爵が即座に言った。


「はい。旦那様の冷たさで砂糖が凍りそうです」


「オスカー」


 マルタが低く呼ぶ。


「失礼しました」


 オスカーはさっと姿勢を正した。


「王太子殿下の執務室から回答がありました。書類棚の鍵については『確認中』とのこと」


「逃げたな」


 レオンハルト公爵が言う。


「はい。少なくとも即答できない事情がある」


 私は菓子を持つ手を止めた。


 確認中。


 持っていないなら、そう言えばいい。

 返したなら、そう言えばいい。


 確認中ということは。


「殿下は、鍵をまだ持っている可能性が高いですね」


 私が言うと、オスカーがこちらを見た。


「その見立てでよろしいかと」


 胸が少し冷える。


 甘い菓子の味が、急に遠くなりそうだった。


 レオンハルト公爵がそれに気づいたように言う。


「菓子を置け」


「え?」


「手が止まっている。崩れる」


 見れば、焼き菓子を握る指に力が入っていた。


 私は慌てて皿に戻す。


「すみません」


「必要のある謝罪か?」


 マルタがすぐに言った。


「……ありません」


「はい」


 私は息を整えた。


 オスカーは続ける。


「もう一点。控室の書類棚について、封印前に誰かが触れた可能性があります。法務棟の下級書記が棚の扉に擦れ跡を見たそうです。ただし正式記録には載っていません」


「鍵穴は」


 レオンハルト公爵が問う。


「現在確認中です。ですが、棚の中身について、妙な点が一つ」


 私は顔を上げた。


「何でしょう」


「毒瓶が発見された際の押収目録には、香油棚と鏡台周辺のものは記録されています。ですが、書類棚の中身については『確認不要』とされている」


「なぜですか」


「毒物と無関係だから、という判断です」


 私は眉を寄せた。


「無関係かどうか、確認していないのに?」


「その通りです」


「それは、おかしいです」


 思わず声が強くなった。


「毒瓶が置かれた部屋にあるものなら、すべて確認対象のはずです。まして書類棚には鍵がかかっていた。鍵のかかった場所が荒らされていないか、確認しない方が不自然です」


 オスカーが少し口元を上げた。


「よく分かっておいでで」


「王宮行事の後始末でも同じです。何か問題が起きた部屋では、関係なさそうなものほど確認します。関係なさそうに見せるために、そこへ隠すことがあるから」


 言ってから、自分で少し驚いた。


 私は、普通に話していた。


 調査の話を。

 自分の知識で。

 誰かに遮られず。


 レオンハルト公爵が短く言う。


「正しい」


 その一言で、背筋が少し伸びた。


 オスカーが書類を閉じる。


「法務卿には、書類棚の再確認を求めます。王太子殿下の鍵についても、返却記録の有無を確認中です」


「お願いします」


 私は言った。


 オスカーは少しだけ笑った。


「エリシア様にお願いされると、断りにくいですね」


「断る予定だったのですか」


「まさか。旦那様に断ったら、北方の雪山より冷たい目で見られます」


「今も見られている」


 レオンハルト公爵が言った。


「ですね。では退散します」


 オスカーは軽く礼をして、部屋を出ていった。


 部屋には、再び茶と菓子の香りが残った。


 けれど、先ほどより空気は重い。


 王太子殿下の鍵。

 書類棚。

 確認不要とされた中身。


 少しずつ、疑いが形になっていく。


 私は皿の上の焼き菓子を見た。


 さっきまでおいしかったものが、急に遠くなっている。


 レオンハルト公爵が言った。


「食べなくていい」


「……でも、せっかく用意していただいたのに」


「食べたい時に食べろ」


「残しても?」


「残していい」


 私はその言葉を聞いて、菓子を見つめた。


 残していい。


 嫌いなものは嫌いと言っていい。

 好きなものも言っていい。

 食べたい時に食べ、食べられない時は残していい。


 そんな小さな自由が、今の私には大きすぎる。


「少しだけ、後で食べます」


「分かった」


「料理長には、まずおいしかったと伝えてください」


 マルタが頷く。


「承知しました」


「それから……白薔薇菓子を出さないでくださって、ありがとうございます、とも」


「はい」


 レオンハルト公爵が私を見る。


「私には?」


「え?」


「私にも礼を言う流れではないのか」


 あまりに真顔で言うので、私は一瞬固まった。


 マルタが横で口元を押さえた。


 笑いをこらえている。


「公爵閣下」


「何だ」


「今のは、ご自分で要求するものではないと思います」


「そうか」


「はい」


「だが、聞きたい」


 胸が、跳ねた。


 不意打ちだった。


 この人は時々、本当に真っ直ぐすぎる。


 私は少しだけ視線を落とした。


「……ありがとうございます」


「ああ」


「私の嫌いな菓子を、覚えていてくださって」


「ああ」


「私が食べやすいものを、考えてくださって」


「ああ」


「それから」


 私は少し迷った。


 でも、言うことにした。


「私が嫌いなものを嫌いと言ってもいい場所を、作ってくださって」


 レオンハルト公爵は、しばらく黙った。


 そして、低く言った。


「まだ作っている途中だ」


「はい」


「完成はしていない」


「分かっています」


「だが、作る」


 その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。


 作る。


 居場所を。

 食べられる場所を。

 嫌いと言える場所を。

 私が私として息をできる場所を。


 契約婚約のはずだった。


 利用し合うための関係だった。


 今も、そうだ。


 でも、それだけではなくなり始めている。


 私はそれを、少し怖いと思った。


 そして、それ以上に、嬉しいと思ってしまった。


 マルタが新しい茶を注ぐ。


「では、エリシア様。次の訓練です」


「まだあるのですか」


「はい。好きな菓子をもう一つ、料理長に伝えること」


「今?」


「今です」


 私は少し考えた。


 好きな菓子。


 白薔薇ではなく。

 誰かが決めた好きではなく。


 自分の好き。


「……焼き林檎に、少しだけ蜂蜜をかけたものが好きです」


 言えた。


 マルタは頷いた。


「承知しました」


 レオンハルト公爵も、なぜか真剣に頷く。


「覚えた」


 私は小さく笑った。


「また覚えるのですか」


「重要だからな」


「食べるものだから?」


「ああ」


 私は窓の外を見た。


 庭の薬草が、風に揺れている。


 調査は進んでいる。

 危険も近づいている。

 王太子殿下の疑惑も、王妃宮の影も、まだ消えない。


 それでも、この部屋には温かい茶があり、嫌いな菓子は置かれていない。


 それは小さなことだ。


 でも、私にとっては、小さくない。


 私はもう一度、焼き菓子を手に取った。


 今度は、力を入れすぎずに。


 そして、ゆっくり食べた。


 蜂蜜と胡桃の味がした。


 私が好きだと言える味だった。


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