第21話 冷血公爵は、なぜか私の嫌いな菓子を覚えていました
王宮控室の書類棚についての問い合わせは、その日のうちに法務卿へ送られた。
アンナの所在確認も、オスカーが動いてくれている。
王太子殿下が持っているはずの予備鍵。
封鎖までの空白の半刻。
白百合慈善基金の覚書。
消えたかもしれない記録。
物事は少しずつ動いている。
けれど、動いているからといって、私の心が追いつくとは限らなかった。
長椅子に座り、膝掛けをかけられ、私はぼんやりと窓の外を見ていた。
庭では、庭師が薬草区画の世話をしている。
朝、会釈を返してくれた人だ。名前はまだ知らない。
けれど、顔は覚えた。
この屋敷には、私の知らない人がたくさんいる。
私をまだ完全には歓迎していない人もいる。
それでも、厨房のトマはスープの感想を聞きに来た。庭師は会釈を返した。マルタは私の痛みを見逃さない。レオンハルト公爵は、私が食事を怖がることを当たり前のように覚えている。
不思議だ。
王宮には長くいたのに、私という人間はあまり覚えられていなかった気がする。
私ができることは覚えられていた。
私が失敗しないことも。
私が場を整えることも。
私が怒らず、泣かず、最後には折れることも。
でも、私が何を嫌いかは、誰も覚えていなかった。
「エリシア様」
マルタが部屋に入ってきた。
手には小さな銀の盆がある。
「お茶の時間でございます」
「もうそんな時間ですか」
「はい。記憶を掘る作業の後は、糖分も必要です」
「それは医師の指示ですか」
「私の指示です」
「医師より強そうですね」
「場合によっては」
マルタは涼しい顔で言い、テーブルに盆を置いた。
温かい茶。
小さな焼き菓子。
蜂蜜を塗った薄いパン。
柔らかい果実の煮たもの。
そして、菓子皿の端に、丸い焼き菓子が二つ。
私はそれを見て、少しだけ目を瞬いた。
白薔薇の砂糖菓子がない。
王宮で茶の時間と言えば、必ずと言っていいほど出てきた菓子だった。
白い花びらを模した砂糖菓子。甘い香りが強く、口に入れると舌の上でほろりと崩れる。
見た目は美しい。令嬢たちには人気だった。
セレーネも好きだった。
王妃宮の侍女たちも、よく「エリシア様のお好きな白薔薇菓子です」と言って出してきた。
けれど、私はあれが苦手だった。
甘すぎる。
香りが強すぎる。
食べると喉の奥に花の匂いが残って、少し頭が痛くなる。
でも、嫌いだと言えなかった。
ユリウス殿下が何度も贈ってくださったから。
セレーネが「お姉様もお好きよね」と無邪気に笑ったから。
王妃殿下が「女性はこういう可憐なお菓子を喜ぶものよ」と言ったから。
私は、笑って受け取った。
食べられない分は、後でアンナに下げてもらった。
時にはセレーネへ譲った。
セレーネは嬉しそうに食べた。
そのうち、周囲は私が白薔薇菓子を好きだと思うようになった。
違うと言わなかったのは、私だ。
言えばよかったのに。
ただ、「苦手です」と。
それだけのことなのに。
「エリシア様?」
マルタが私を見る。
「お顔が、少し複雑です」
「複雑な顔とは、便利な表現ですね」
「泣きそうでもあり、怒りそうでもあり、少し笑いそうでもあります」
「本当に複雑ですね」
私は菓子皿を見つめた。
「白薔薇の砂糖菓子がないと思って」
「お嫌いだと伺いましたので」
私は顔を上げた。
「誰から?」
「旦那様からです」
今度こそ、言葉が止まった。
「公爵閣下が?」
「はい」
「なぜ、公爵閣下がそれを?」
「直接お聞きになった方がよろしいかと」
マルタはそう言って、茶を注いだ。
その直後、まるで話を聞いていたかのように扉が叩かれた。
「入る」
返事を待たずに、レオンハルト公爵が入ってきた。
マルタが眉を上げる。
「旦那様。入室の確認は、相手のお返事を待ってからでございます」
「聞こえた」
「返事はまだでした」
「そうか」
「そうです」
レオンハルト公爵は私を見た。
「邪魔か」
「今それを聞くのですか」
「必要かと思った」
「入った後ですが」
「出るか」
「いえ、もう大丈夫です」
何だか、少し笑ってしまった。
彼は本当に、順番が少しおかしい。
でも、そのおかしさに慣れてきている自分もいる。
公爵は私の向かいに座った。
マルタが彼の分の茶も用意する。
私は菓子皿を見た。
白薔薇菓子はない。
代わりにあるのは、蜂蜜と胡桃の焼き菓子、薄く焼いた林檎の菓子、そして小さな塩気のあるクラッカーのようなものだった。
「公爵閣下」
「何だ」
「白薔薇の砂糖菓子がありません」
「ああ」
「公爵閣下が、私が嫌いだとおっしゃったと聞きました」
「ああ」
「なぜご存じなのですか」
公爵は茶を一口飲んだ。
答えるまでの間が、妙に長い。
私は少しだけ身構えた。
何か調査で分かったのか。
王宮の贈答記録からか。
それともアンナから何か聞いたのか。
けれど、公爵は淡々と言った。
「食べていなかった」
「……いつの話ですか」
「三年前の王宮晩餐会」
私は瞬いた。
三年前。
そんな昔?
「覚えていません」
「君は王太子の隣にいた。白薔薇菓子が出た。セレーネ嬢は二つ食べた。君は皿の端に寄せた」
「……見ていたのですか」
「見えた」
「公爵閣下は、晩餐会で他人の菓子皿を観察していたのですか」
「退屈だった」
あまりにも真顔で言うので、私はしばらく言葉を失った。
マルタが横で静かに咳払いをする。
「旦那様。その説明では不審者に近うございます」
「そうか」
「はい」
レオンハルト公爵は少し考えた。
「君が何度も同じ菓子を残していたから覚えた」
「何度も?」
「ああ。王宮茶会でも、晩餐会でも。皿には置くが食べない。時々、セレーネ嬢に渡していた」
私は菓子皿を見つめた。
そんなことを、覚えていたのか。
私自身でさえ、ただの癖のように流していたことを。
「なぜ……そんなことを?」
「不自然だったからだ」
「不自然」
「好きだと言われている菓子を、毎回食べない。嫌いなのだろうと思った」
簡単に言われた。
胸の奥が、少し変なふうに痛む。
嬉しいのか。
恥ずかしいのか。
悲しいのか。
分からない。
「王宮の方々は、私があれを好きだと思っていました」
「そうだろうな」
「殿下も、よく贈ってくださいました」
「ああ」
「セレーネも、私が好きだと思っていました」
「違ったのだろう」
「はい」
私は少しだけ笑った。
「苦手でした。甘すぎて、香りが強くて。食べると頭が痛くなることもあって」
「なら、なぜ言わなかった」
真っ直ぐな問いだった。
責められているわけではない。
ただ、本当に疑問なのだろう。
私は少し迷ってから答えた。
「言うほどのことではないと思っていました」
「頭が痛くなるのに?」
「我慢できましたから」
「我慢できることと、言わなくていいことは違う」
胸に刺さった。
この人の言葉は、時々、短いのに逃げ場がない。
「……そうですね」
私は小さく頷いた。
「でも、王宮では、嫌いなものを嫌いと言うのは意外と難しいんです。殿下から贈られたものを苦手だと言えば、殿下の厚意を拒むことになります。王妃殿下が選んだものを食べられないと言えば、気を悪くされるかもしれない。セレーネが好きなものを嫌いだと言えば、あの子が悲しむかもしれない」
「だから我慢した」
「はい」
「菓子一つで」
「菓子一つです」
自分で言って、少し可笑しくなった。
菓子一つ。
でも、その菓子一つにも、私は自分を曲げていた。
嫌いと言わない。
残したことを気づかれないようにする。
誰かに譲る。
笑って、好きなふりをする。
小さな我慢。
そんなものが積み重なって、私はいつの間にか、自分が何を嫌いかも言えない女になっていた。
レオンハルト公爵は、菓子皿を私の方へ少し押した。
「ここでは、嫌いなものは嫌いと言え」
「また簡単におっしゃいますね」
「難しいか」
「難しいです」
「なら、練習しろ」
「訓練ですか」
「そうだ」
私は思わず笑った。
「庭歩きも、食事も、嫌いなものを言うのも、全部訓練なのですね」
「生きる訓練だ」
その言葉に、笑いが止まった。
生きる訓練。
大げさなようで、そうではない気がした。
私は、今まで生きるためではなく、誰かに必要とされるために動いていた。
嫌いなものを嫌いと言うこと。
痛い時に痛いと言うこと。
怖い時に怖いと言うこと。
食べたいものを食べること。
休みたい時に休むこと。
それらは全部、私が私として生きるために必要な訓練なのかもしれない。
マルタが菓子を一つ取り分けてくれた。
「こちらは蜂蜜と胡桃の焼き菓子です。甘さは控えめにしております」
「私のために?」
「はい」
「厨房の方が?」
「料理長が、白薔薇菓子を出すなと旦那様に言われて、では何がよいのかと大変悩んでおりました」
レオンハルト公爵が言った。
「甘すぎないもの。香りが強すぎないもの。手で持ちやすく、口の中で崩れにくいもの」
私は公爵を見た。
「そこまで指定されたのですか」
「ああ」
「なぜ」
「君は手首が痛む。崩れる菓子は食べにくい」
胸の奥が、また変なふうに鳴った。
手首が痛いから。
崩れる菓子は食べにくいから。
そんなことまで。
「……公爵閣下」
「何だ」
「あなたは時々、優しさの向け方が細かすぎて怖いです」
言ってしまってから、私は慌てた。
失礼だったかもしれない。
けれど、公爵は真顔で少し考えた。
「怖いのか」
「悪い意味ではありません」
「では?」
「慣れないのです」
私は焼き菓子を見つめた。
「誰かが私の嫌いなものを覚えていることに。食べにくいかもしれないと考えてくれることに。私が我慢しなくていいように、先に取り除いてくれることに」
声が少し小さくなる。
「慣れていません」
レオンハルト公爵は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、相変わらず急かさない沈黙だった。
「慣れろ」
やがて彼は言った。
マルタがすぐに低い声で言う。
「旦那様」
「……ゆっくり慣れればいい」
即座に言い直された。
私は笑ってしまった。
「今のは、マルタさんに叱られる前提でしたか」
「叱られると思った」
「成長なさいましたね」
「そうか」
マルタが静かに頷く。
「旦那様、八十八点です」
「また上がった」
「はい。ただし最初の『慣れろ』で減点しております」
「厳しいな」
「必要です」
私は焼き菓子を一口食べた。
蜂蜜の甘さが、ふわりと広がる。
でも、くどくない。
胡桃の香ばしさがあって、噛むと少しだけほろりと崩れる。
香りは強すぎず、口の中に嫌な甘さも残らない。
おいしい。
素直にそう思えた。
「……おいしいです」
私が言うと、マルタがすぐに頷いた。
「料理長に伝えます」
「今日は鍋を磨きますか」
「おそらく、二つ磨きます」
「二つも」
私は少し笑った。
レオンハルト公爵が私の顔を見て言う。
「気に入ったか」
「はい」
「なら、次もこれにする」
「あ、でも」
私は慌てて言った。
「毎回同じでなくても大丈夫です。嫌いなものを避けていただければ、それで」
「他に嫌いなものは」
真剣な声だった。
私は少し困った。
「急に聞かれると、出てきません」
「考えろ」
「訓練ですか」
「ああ」
「今ですか」
「今だ」
私は少しだけ菓子を見つめた。
嫌いなもの。
今まで、そんなものを人前で並べたことがあっただろうか。
嫌いなものを口にすると、わがままだと思われる気がした。
贅沢だと。
面倒だと。
可愛げがないと。
でも、ここでは訓練らしい。
なら、言ってみる。
「白薔薇の砂糖菓子は苦手です」
「ああ」
「香りの強すぎる茶も、少し苦手です」
「なぜ」
「喉に残るので」
「分かった」
「あと……砂糖漬けの果物がたくさん入った重い焼き菓子も。嫌いというほどではありませんが、一切れで十分です」
「一切れまで」
「はい」
「他には」
「辛すぎる薬湯」
マルタが少し眉を上げた。
「辛すぎる薬湯は、お菓子ではございません」
「でも苦手です」
「それは認めます」
「認められました」
私は少し得意な気持ちになった。
嫌いなものを言えた。
たったそれだけなのに。
レオンハルト公爵は真剣に聞いている。
「好きなものは」
「え」
「嫌いなものだけでは足りない」
「足りない?」
「避けるだけでは、食卓が貧しくなる」
私は少し驚いた。
避けるだけではなく、好きなものも。
好きなもの。
それも、すぐには出てこなかった。
「……焼いた林檎は好きです」
「今日の皿にある」
「はい。嬉しいです」
「他は」
「蜂蜜。あまり強すぎないもの。あとは、温かいパンに少し塩気のあるバターをつけたもの」
「菓子ではないな」
「でも好きです」
「分かった」
公爵は頷いた。
まるで軍議のように真剣だった。
私はその顔を見て、急におかしくなる。
「公爵閣下」
「何だ」
「これは、そんなに重要な情報ですか」
「重要だ」
「なぜ」
「食べるものだから」
また、逃げ場のない短い言葉。
私は笑えなくなった。
食べるものだから重要。
当たり前のことを、当たり前のように言われる。
それが、こんなに胸に来るなんて。
「……王宮では、食べるものは重要ではありませんでした」
私は小さく言った。
「少なくとも、私の好みは」
「ここでは重要だ」
「はい」
菓子をもう一口食べる。
おいしい。
私は、それを忘れないようにした。
その時、扉が叩かれた。
オスカーだった。
彼はいつものように軽い調子で入ってきたが、手に持った書類を見れば、用件が軽くないことはすぐ分かった。
「お茶の時間を邪魔して申し訳ありません。菓子が残っていれば、私も一ついただきたいところですが」
「用件を言え」
レオンハルト公爵が即座に言った。
「はい。旦那様の冷たさで砂糖が凍りそうです」
「オスカー」
マルタが低く呼ぶ。
「失礼しました」
オスカーはさっと姿勢を正した。
「王太子殿下の執務室から回答がありました。書類棚の鍵については『確認中』とのこと」
「逃げたな」
レオンハルト公爵が言う。
「はい。少なくとも即答できない事情がある」
私は菓子を持つ手を止めた。
確認中。
持っていないなら、そう言えばいい。
返したなら、そう言えばいい。
確認中ということは。
「殿下は、鍵をまだ持っている可能性が高いですね」
私が言うと、オスカーがこちらを見た。
「その見立てでよろしいかと」
胸が少し冷える。
甘い菓子の味が、急に遠くなりそうだった。
レオンハルト公爵がそれに気づいたように言う。
「菓子を置け」
「え?」
「手が止まっている。崩れる」
見れば、焼き菓子を握る指に力が入っていた。
私は慌てて皿に戻す。
「すみません」
「必要のある謝罪か?」
マルタがすぐに言った。
「……ありません」
「はい」
私は息を整えた。
オスカーは続ける。
「もう一点。控室の書類棚について、封印前に誰かが触れた可能性があります。法務棟の下級書記が棚の扉に擦れ跡を見たそうです。ただし正式記録には載っていません」
「鍵穴は」
レオンハルト公爵が問う。
「現在確認中です。ですが、棚の中身について、妙な点が一つ」
私は顔を上げた。
「何でしょう」
「毒瓶が発見された際の押収目録には、香油棚と鏡台周辺のものは記録されています。ですが、書類棚の中身については『確認不要』とされている」
「なぜですか」
「毒物と無関係だから、という判断です」
私は眉を寄せた。
「無関係かどうか、確認していないのに?」
「その通りです」
「それは、おかしいです」
思わず声が強くなった。
「毒瓶が置かれた部屋にあるものなら、すべて確認対象のはずです。まして書類棚には鍵がかかっていた。鍵のかかった場所が荒らされていないか、確認しない方が不自然です」
オスカーが少し口元を上げた。
「よく分かっておいでで」
「王宮行事の後始末でも同じです。何か問題が起きた部屋では、関係なさそうなものほど確認します。関係なさそうに見せるために、そこへ隠すことがあるから」
言ってから、自分で少し驚いた。
私は、普通に話していた。
調査の話を。
自分の知識で。
誰かに遮られず。
レオンハルト公爵が短く言う。
「正しい」
その一言で、背筋が少し伸びた。
オスカーが書類を閉じる。
「法務卿には、書類棚の再確認を求めます。王太子殿下の鍵についても、返却記録の有無を確認中です」
「お願いします」
私は言った。
オスカーは少しだけ笑った。
「エリシア様にお願いされると、断りにくいですね」
「断る予定だったのですか」
「まさか。旦那様に断ったら、北方の雪山より冷たい目で見られます」
「今も見られている」
レオンハルト公爵が言った。
「ですね。では退散します」
オスカーは軽く礼をして、部屋を出ていった。
部屋には、再び茶と菓子の香りが残った。
けれど、先ほどより空気は重い。
王太子殿下の鍵。
書類棚。
確認不要とされた中身。
少しずつ、疑いが形になっていく。
私は皿の上の焼き菓子を見た。
さっきまでおいしかったものが、急に遠くなっている。
レオンハルト公爵が言った。
「食べなくていい」
「……でも、せっかく用意していただいたのに」
「食べたい時に食べろ」
「残しても?」
「残していい」
私はその言葉を聞いて、菓子を見つめた。
残していい。
嫌いなものは嫌いと言っていい。
好きなものも言っていい。
食べたい時に食べ、食べられない時は残していい。
そんな小さな自由が、今の私には大きすぎる。
「少しだけ、後で食べます」
「分かった」
「料理長には、まずおいしかったと伝えてください」
マルタが頷く。
「承知しました」
「それから……白薔薇菓子を出さないでくださって、ありがとうございます、とも」
「はい」
レオンハルト公爵が私を見る。
「私には?」
「え?」
「私にも礼を言う流れではないのか」
あまりに真顔で言うので、私は一瞬固まった。
マルタが横で口元を押さえた。
笑いをこらえている。
「公爵閣下」
「何だ」
「今のは、ご自分で要求するものではないと思います」
「そうか」
「はい」
「だが、聞きたい」
胸が、跳ねた。
不意打ちだった。
この人は時々、本当に真っ直ぐすぎる。
私は少しだけ視線を落とした。
「……ありがとうございます」
「ああ」
「私の嫌いな菓子を、覚えていてくださって」
「ああ」
「私が食べやすいものを、考えてくださって」
「ああ」
「それから」
私は少し迷った。
でも、言うことにした。
「私が嫌いなものを嫌いと言ってもいい場所を、作ってくださって」
レオンハルト公爵は、しばらく黙った。
そして、低く言った。
「まだ作っている途中だ」
「はい」
「完成はしていない」
「分かっています」
「だが、作る」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。
作る。
居場所を。
食べられる場所を。
嫌いと言える場所を。
私が私として息をできる場所を。
契約婚約のはずだった。
利用し合うための関係だった。
今も、そうだ。
でも、それだけではなくなり始めている。
私はそれを、少し怖いと思った。
そして、それ以上に、嬉しいと思ってしまった。
マルタが新しい茶を注ぐ。
「では、エリシア様。次の訓練です」
「まだあるのですか」
「はい。好きな菓子をもう一つ、料理長に伝えること」
「今?」
「今です」
私は少し考えた。
好きな菓子。
白薔薇ではなく。
誰かが決めた好きではなく。
自分の好き。
「……焼き林檎に、少しだけ蜂蜜をかけたものが好きです」
言えた。
マルタは頷いた。
「承知しました」
レオンハルト公爵も、なぜか真剣に頷く。
「覚えた」
私は小さく笑った。
「また覚えるのですか」
「重要だからな」
「食べるものだから?」
「ああ」
私は窓の外を見た。
庭の薬草が、風に揺れている。
調査は進んでいる。
危険も近づいている。
王太子殿下の疑惑も、王妃宮の影も、まだ消えない。
それでも、この部屋には温かい茶があり、嫌いな菓子は置かれていない。
それは小さなことだ。
でも、私にとっては、小さくない。
私はもう一度、焼き菓子を手に取った。
今度は、力を入れすぎずに。
そして、ゆっくり食べた。
蜂蜜と胡桃の味がした。
私が好きだと言える味だった。




