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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第22話 私の悪評を流した人間が、一人分かりました

 好きな菓子を言う訓練は、思ったより疲れた。


 普通の人なら、ただの茶の時間で終わるのだと思う。

 これは嫌い。これは好き。これは少しなら食べられる。

 それだけの話だ。


 けれど私にとっては、まるで小さな箱を一つずつ開けていくような作業だった。


 白薔薇の砂糖菓子は苦手。

 香りの強すぎる茶も苦手。

 砂糖漬けの果物がたくさん入った重い焼き菓子は、一切れで十分。

 焼き林檎に蜂蜜を少しかけたものは好き。

 温かいパンに塩気のあるバターをつけたものも好き。


 言葉にしてみると、あまりにもささやかだった。


 それなのに、そのささやかな好みを、私は今までどこにも置けずにいた。


「エリシア様」


 マルタが、空になった茶器を片づけながら言った。


「本日の訓練は、なかなか良い成果でございました」


「嫌いな菓子を言えたことが、成果になるのですね」


「なります」


「王太子妃教育では、そんな項目はありませんでした」


「だから今、必要なのでは?」


 あまりにも正論だった。


 私は何も言えず、少し笑った。


 レオンハルト公爵は、向かいで書類を読んでいる。

 茶の時間だと言いながら、途中から完全に執務の顔になっていた。けれど、私の皿に焼き菓子が残っていることには時々目を向ける。


 食べろという圧ではない。


 食べられるかを見ているのだ。


 これも慣れない。


「公爵閣下」


「何だ」


「見られると食べにくいです」


「そうか」


 彼は書類へ視線を戻した。


 素直すぎる。


「ですが、見ていなさすぎると、それはそれで落ち着かないですね」


 つい言ってしまった。


 レオンハルト公爵が顔を上げる。


「どちらだ」


「私にも分かりません」


「難しいな」


「はい」


 マルタが横から静かに言う。


「旦那様。今のは、見守られていることに慣れていないという意味でございます」


「そうか」


「はい。見張られるのと見守られるのは違いますので」


 私は少しだけ視線を落とした。


 見張られる。


 王宮では、よく見られていた。


 礼の角度。

 微笑みのタイミング。

 セレーネへの言葉遣い。

 王太子殿下への態度。

 王妃殿下の前での振る舞い。


 けれど、あれは見守られていたわけではない。

 間違えないか、場にふさわしいか、役に立つかを測られていた。


 ここでは少し違う。


 食べられるか。

 痛くないか。

 寒くないか。

 疲れていないか。


 そんなことを見られるのは、奇妙で、くすぐったくて、少し怖い。


「慣れろ」


 レオンハルト公爵が言った。


 マルタがすぐに彼を見る。


 公爵は、一拍置いて言い直した。


「……ゆっくりでいい」


「旦那様、学習が早くなっております」


「そうか」


「はい。八十九点です」


「一つ上がった」


 公爵が少し満足そうに見えたのは、気のせいだろうか。


 その時、扉が叩かれた。


 今度は、きちんと返事を待つ間があった。


「どうぞ」


 マルタが答えると、オスカーが入ってきた。


 彼はいつも通りの軽い笑みを浮かべていたが、目の奥には疲労が濃い。

 外套の肩には、薄く埃がついている。王都中を動き回っていたのだろう。


「お邪魔します。甘い空気のところ申し訳ありません」


 私は飲みかけの茶でむせかけた。


 マルタが即座に視線を鋭くする。


「オスカー」


「言葉の選択を誤りました。訂正します。焼き菓子の香りがするところ申し訳ありません」


「最初からそう言いなさい」


「はい」


 レオンハルト公爵は、表情を変えずに言った。


「報告を」


「はい。まず、王太子殿下の鍵については、まだ『確認中』から動きがありません」


「逃げ続けるか」


「ええ。ですが、焦ってはいます」


「根拠は」


「王太子付き侍従の一人が、昨日から鍵管理簿を探しています。しかも、普段なら触らない古い記録まで」


 レオンハルト公爵の目が細くなる。


「鍵はまだ殿下の手元にある可能性が高いな」


「同感です」


 私は膝の上で手を重ねた。


 王太子殿下の鍵。


 その言葉を聞くたびに、胸の奥が鈍く痛む。


 信じたかった相手が、疑うべき相手になる。

 それは、頭で分かっていても簡単には慣れない。


 オスカーは次の書類を出した。


「それから、悪評の出どころについて、一人分かりました」


 部屋の空気が変わった。


 私は顔を上げる。


「一人、ですか」


「はい。少なくとも、王都南側のサロンで最初に『エリシア嬢が妹君を脅して泣かせた』と具体的に話した人物です」


 喉が少し乾いた。


 噂。


 毒婦。

 魔女。

 妹を泣かせた冷酷な姉。

 冷血公爵を色香で惑わした女。


 王都で私の形を勝手に作った言葉たち。


「誰ですか」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 オスカーは一瞬だけ私を見た。


 それから答える。


「リディア・ベルジュ子爵令嬢」


 リディア。


 私は目を伏せた。


 知っている名前だった。


 セレーネの友人の一人。

 年はセレーネより一つ上。華やかな顔立ちで、よく笑い、よく喋る。

 王宮茶会ではいつもセレーネの近くにいた。


 私は彼女を、少し苦手に思っていた。


 悪い人ではない。

 少なくとも、分かりやすい悪意を向けられた記憶はない。


 ただ、彼女はいつも誰かの反応を見て話す人だった。

 笑われると思えば大げさに笑い、同情されると思えば声を震わせ、強い相手の側に立てば少しだけ強くなる。


 王宮には、そういう人が多かった。


「リディア嬢……」


 私は小さく繰り返した。


 マルタが尋ねる。


「ご存じの方ですか」


「はい。セレーネの友人です。よく一緒にいました。私にも礼儀正しく接してくれましたが……私がいないところでは、どうだったか分かりません」


「彼女は何と言った?」


 レオンハルト公爵がオスカーに問う。


 オスカーは書類を見ながら答えた。


「ロザリンド侯爵夫人のサロンに出入りする令嬢から聞いた話です。リディア嬢は茶会翌日の集まりで、こう話したそうです」


 彼は一度、私を見た。


「聞けますか」


 その確認に、少し驚いた。


 私は頷く。


「聞きます」


「無理なら止めます」


「大丈夫です」


 マルタが横からすかさず言う。


「エリシア様、その『大丈夫』は正確ですか」


「……怖いですが、聞けます」


「よろしいです」


 オスカーは少しだけ口元を緩めた。


「クラウゼル家式確認ですね」


「はい」


 私が答えると、彼は書類を読み上げた。


「リディア嬢は、『セレーネ様は、茶会の前からお姉様に怯えていらしたの。エリシア様は王太子殿下の心が妹君に傾いているのを知って、ずっと冷たい目で見ていたそうよ』と」


 私は黙って聞いた。


 冷たい目。


 言われ慣れた言葉だ。


「続けて、『毒のことは私には分からないけれど、あの方なら何かしても不思議ではないわ。だって、妹君が泣いているのに、謝りもしなかったのよ』と」


 胸の奥が少し痛んだ。


 謝らなかった。


 あの場で、私は謝らなかった。


 初めて、セレーネの涙に膝を折らなかった。


 それが、私の悪評になった。


 オスカーは少し声を落とす。


「さらに、『クラウゼル公爵が連れ去ったのも、エリシア様が以前から公爵へ色目を使っていたからではないかしら』と」


「色目……」


 私は思わず呟いた。


 レオンハルト公爵を見る。


 公爵は無表情だった。


 ただ、室温が少し下がった気がした。


「公爵閣下」


「何だ」


「私、以前から公爵閣下へ色目を使っていましたか」


「知らん」


「そこは否定してください」


「使われた覚えはない」


「それはそれで少し傷つきます」


「なぜだ」


「私にも分かりません」


 マルタが低く言った。


「旦那様。女性への返答としては、六十点です」


「下がったな」


「かなり」


 オスカーが横で小さく笑いかけ、マルタに睨まれて咳払いした。


 私は、少しだけ笑えた。


 笑えたことに、自分で驚く。


 悪評を聞いているのに。

 私を毒婦にし、妹を泣かせた冷酷な姉にし、さらに色仕掛けの女にする言葉を聞いているのに。


 私は完全には崩れなかった。


 たぶん、この部屋にいるからだ。


 ここでは、噂の私ではなく、私自身として扱われている。


 レオンハルト公爵が言った。


「リディア嬢は、自分で考えたのか」


「そこが問題です」


 オスカーは書類を一枚めくった。


「言葉のいくつかが、別の場所でも出ています。特に『毒のことは分からないけれど、あの方なら何かしても不思議ではない』という表現。これはモルガン商会の番頭の妻が、商人筋の集まりで似た言い回しを使っています」


「モルガン商会……」


 白い花の香油。

 王妃宮への納品。

 消えた記録。


 その名前が、また出た。


「はい。さらに、モルガン商会の若い手代が、王妃宮侍女ミレイユと接触しているのを見た者がいます。場所は王宮西門近くの裏通り。茶会の二日前です」


 ミレイユ。


 リディア。

 モルガン商会。

 ミレイユ。


 線が、少しずつ繋がる。


 レオンハルト公爵が低く言った。


「噂を三方向へ流したか」


「その可能性があります」


 オスカーは指を折る。


「令嬢筋にはリディア嬢。商人筋にはモルガン商会関係者。王宮内部にはミレイユまたは王妃宮周辺。内容は少しずつ違いますが、核は同じです」


「核?」


 私が尋ねると、オスカーは答えた。


「エリシア様は嫉妬していた。妹君は怯えていた。毒は分からないが、やりかねない。クラウゼル公爵の保護は公正なものではなく、男女の関係または政治的な取引である」


「なるほど」


 私はゆっくり息を吐いた。


「私の証言能力を落とす噂ですね」


 オスカーが少し目を丸くした。


 レオンハルト公爵は、わずかに頷く。


「続けろ」


「私が嫉妬深い姉なら、セレーネの証言は信じられやすくなります。私が毒を盛りかねない女なら、証拠が弱くても疑いは残る。公爵閣下が私を保護している理由が公正さではなく色恋や政治的な取引だと思われれば、再調査そのものが私情と見なされる」


 言葉にしていくと、怒りより先に冷たさが湧いた。


 よくできている。


 嫌になるほど。


「つまり、これは単なる悪口ではありません」


 私は言った。


「再調査を潰すための下準備です」


 オスカーが小さく口笛を吹いた。


 今度はマルタに睨まれる前に、すぐ口を閉じた。


「失礼。見事な分析です」


「嬉しくありません」


「でしょうね」


 レオンハルト公爵は、私を見た。


「気分は」


「悪いです」


「正直だな」


「鍛えられましたので」


「続けられるか」


「続けます」


「無理なら止める」


「はい」


 私は菓子皿を見た。


 さっきまで残していた蜂蜜と胡桃の焼き菓子を、一口食べた。


 甘い。


 おいしい。


 まだ、味が分かる。


 なら大丈夫。


「リディア嬢は、セレーネから直接聞いたと言っていましたか」


 私が尋ねると、オスカーは頷いた。


「はい。『セレーネ様ご本人が、震えながら話してくださった』と」


 胸が痛んだ。


 セレーネ。


 あの子は本当に、リディアにそう話したのだろうか。


 それとも、リディアが勝手に話を大きくしたのか。


 あるいは、誰かに言わされたのか。


「セレーネが、自分から話した可能性もあります」


 私は言った。


 マルタが少し心配そうに私を見る。


 私は続けた。


「でも、リディア嬢がそのまま話したとは限りません。彼女は場の空気に合わせて話を足す人です。セレーネの『怖かった』を、聞き手が喜ぶ形に整えた可能性があります」


「庇うのか」


 レオンハルト公爵が尋ねた。


 私は少し考えた。


「庇いたいわけではありません」


 言葉を選ぶ。


「セレーネが何をしたのかは知りたいです。責任もあります。でも、あの子だけを黒幕にすれば、楽になります。楽な結論は、たぶん危険です」


 レオンハルト公爵の目が静かに細くなった。


「いい」


「いい、ですか」


「ああ。怒りながら見えている」


 怒りながら見えている。


 その言葉は、少し嬉しかった。


 怒っていい。

 それでも、見ればいい。


 怒りと冷静さは、同時に持てる。


 以前の私は、怒りを持ったら失格だと思っていた。

 けれど今は違う。


 怒りは、目を曇らせることもある。

 でも、何かがおかしいと教えてくれることもある。


「リディア嬢に直接確認しますか」


 オスカーが尋ねた。


 レオンハルト公爵はすぐには答えず、私を見た。


「君はどうしたい」


 また、私に聞く。


 最近、この問いを向けられるたびに、少し怖くて、少し嬉しい。


 私は考えた。


 リディアに会う。

 怖くないわけではない。

 彼女はきっと泣くか、笑ってごまかすか、セレーネの名前を出す。

 あるいは、私をさらに悪者にする。


 でも、今すぐ直接問い詰めれば、相手は身構える。

 後ろにいる誰かが逃げるかもしれない。


「今は、直接会いません」


 私は言った。


「リディア嬢は、たぶん一番上ではありません。彼女は噂を流した人間ですが、噂を作った人間とは限りません」


「泳がせるか」


 レオンハルト公爵が言う。


「はい」


 自分で言って、少し驚いた。


 泳がせる。


 悪女らしい言葉だ。


 でも、必要だと思った。


「リディア嬢が誰と会うか、誰から情報を受けているかを見たいです。特にモルガン商会とミレイユに繋がるなら、焦って切るのは惜しい」


 オスカーが楽しそうに目を細める。


「エリシア様、なかなか怖いことをおっしゃる」


「怖いですか」


「ええ。良い意味で」


「良い意味の怖いが増えました」


 マルタが横で淡々と言う。


「悪女様としては、順調ではないでしょうか」


「マルタさんまで」


「ロザリンド侯爵夫人に招かれた肩書きでございますので」


 私は苦笑した。


 悪女。


 以前なら、その言葉だけで傷ついた。


 今も、まったく痛くないわけではない。


 でも、少しだけ使えるようになってきた。


 誰かに押しつけられた仮面なら、自分の都合のいい角度で使えばいい。


「では、リディア嬢は監視します」


 オスカーが言った。


「監視という言葉が穏やかではありませんね」


「観察と記録です」


「言い換えましたね」


「社交界では大事です」


 マルタが頷く。


「言葉は衣装と同じです。目的に合わせて選ぶものです」


「では、観察と記録でお願いします」


「承知しました」


 オスカーは次に、小さな紙片を取り出した。


「それから、これはロザリンド侯爵夫人からです」


「夫人から?」


「はい。公爵家宛てではなく、エリシア様宛てに」


 私は受け取った。


 深紫の封筒ではない。

 小さな紙片に、流れるような筆跡で一文だけ書かれていた。


『安い噂には、必ず安い舌があるものよ。けれど本当に買うべきなのは、その舌に砂糖を乗せた手です。――退屈を少し殺された女より』


 私はしばらく紙片を見つめた。


「……夫人らしいですね」


「翻訳すると?」


 レオンハルト公爵が言った。


 私は少し考えた。


「リディア嬢は舌。噂を喋った人。でも、その舌に甘いものを乗せた人がいる。つまり、彼女に噂を流す利益や理由を与えた人を探せ、という意味だと思います」


「同意する」


 公爵が頷く。


 オスカーは腕を組む。


「リディア嬢は最近、モルガン商会の新作香油を何度か身につけています。子爵家の財政状況を考えると、少し高価すぎる品です」


「贈られた可能性があるのですね」


「はい」


「誰から?」


「そこを探ります」


 白い花の香油。

 新作香油。

 令嬢たちの間で流行らせたい商会。

 王妃宮への納品。


 噂と言葉だけではない。


 物も動いている。


「リディア嬢は、香油をもらって噂を流したのでしょうか」


 私が言うと、オスカーは肩をすくめた。


「意図的かどうかはまだ。贈り物をもらい、気分よくなり、聞かされた話を少し盛って喋っただけかもしれません」


「その“だけ”で、人は死にかけます」


 自分でも驚くほど冷たい声が出た。


 オスカーは、軽口を返さなかった。


 まっすぐ私を見る。


「おっしゃる通りです」


 部屋が少し静かになった。


 私も、自分の声に少し驚いていた。


 人は軽い気持ちで話す。

 場を盛り上げるために。

 自分が情報通だと思われるために。

 強い相手に近づくために。

 可哀想な誰かに寄り添うふりをするために。


 でも、その軽い言葉で誰かが死ぬこともある。


 私がそうだった。


「噂は、軽くありませんね」


 私は呟いた。


 レオンハルト公爵が言う。


「武器だ」


「はい」


「だから、使った者にも責任がある」


「リディア嬢にも」


「ああ」


「セレーネにも」


「必要なら」


 胸が痛んだ。


 けれど、私は頷いた。


「はい」


 オスカーが書類をまとめる。


「では、リディア嬢、モルガン商会、ミレイユの接触を追います。ロザリンド侯爵夫人にも、こちらが食いついたことは匂わせますか?」


 レオンハルト公爵が私を見る。


「どうする」


「夫人には、礼だけ返します」


「礼?」


「はい。情報に対する礼と、こちらが餌に気づいたことを示す程度に」


「文面は」


 私は少し考えた。


「『安い舌に乗せられた砂糖の味を、少し確かめてみます』……では、挑発的すぎますか?」


 マルタが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「ロザリンド侯爵夫人には、ちょうどよろしいかと」


 オスカーも笑う。


「かなり悪女様らしいですね」


「褒めていますか」


「もちろんです」


 レオンハルト公爵が頷く。


「いい」


「本当にいいのですか」


「ああ。夫人は退屈しない」


「それが良いことなのか、まだ判断できません」


「今は有用だ」


「そうですね」


 私は紙片を折りたたんだ。


 ロザリンド夫人。

 リディア。

 モルガン商会。

 ミレイユ。

 そして王太子殿下の鍵。


 少しずつ、敵の輪郭が見えてきた。


 でも、同時に怖さも増している。


 誰がどこまで知っているのか。

 誰が本当に私を殺そうとしたのか。

 セレーネはどこまで関わっているのか。

 ユリウス殿下は何を見たのか。


 真実に近づくほど、足元が冷たくなる。


 その時、レオンハルト公爵が菓子皿をこちらへ押した。


「食べろ」


 私は目を瞬いた。


「今ですか」


「今だ」


「調査の話の途中ですが」


「だからだ」


 私は焼き菓子を見た。


 蜂蜜と胡桃の菓子。

 好きだと言える味。


 私は小さく笑った。


「公爵閣下は、調査と菓子を同じ机に置くのですね」


「どちらも必要だ」


「そうですか」


「ああ」


 私は菓子を一口食べた。


 甘さが、まだ分かる。


 怒りもある。

 怖さもある。

 でも、味も分かる。


 なら、私はまだ大丈夫だ。


「私の悪評を流した人間が、一人分かりました」


 私は静かに言った。


「でも、そこで終わらせません」


 レオンハルト公爵が頷く。


「ああ」


「噂を喋った舌だけではなく、砂糖を乗せた手も探します」


「探せる」


「はい」


 私はもう一口、菓子を食べた。


 甘い。


 けれど、甘いだけではない。


 胡桃の苦みが少しあって、噛むほど味が残る。


 まるで今の状況のようだと思った。


 苦いものも混ざっている。

 でも、飲み込めないほどではない。


 私は顔を上げた。


「オスカーさん」


「はい」


「リディア嬢を観察してください。彼女が次に誰へ話すのか、誰から何を受け取るのか。できれば、香油の出どころも」


「承知しました」


「マルタさん」


「はい」


「ロザリンド侯爵夫人への返書を、口述でお願いします。手首を使いすぎると怒られますので」


「大変よろしい判断です」


「公爵閣下」


「何だ」


「私は今日、少し怒っています」


「そうか」


「でも、怒っているまま考えます」


「それでいい」


 短い返事。


 でも、十分だった。


 私はもう、悪評に怯えて黙るだけの女ではない。


 私を悪女にしたいなら。


 その悪女らしく、噂の糸を手繰ってやる。


 舌の先から、砂糖を乗せた手まで。


 必ず。


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