第9話 冷血公爵は、優しい言葉が壊滅的に下手でした
レオンハルト公爵が屋敷を出てから、部屋の中は妙に静かになった。
もちろん、完全な静寂ではない。
暖炉の薪が時折ぱちりと音を立てる。
窓の外では、雨上がりの雫が葉から落ちている。
廊下の向こうでは、使用人が控えめな足取りで行き来している気配もあった。
けれど、あの人がいなくなっただけで、部屋の空気が少し広くなったように感じた。
……いい意味なのか、悪い意味なのかは分からない。
私は寝台の上で、紙とペンを膝に置いていた。
マルタは椅子に腰かけ、刺繍らしきものを手にしている。
ただし、その視線は刺繍よりも私に向いている時間の方が長い。
監視、ではない。
たぶん、見守り。
その違いを、私はまだうまく受け取れない。
「エリシア様」
「はい」
「また手が止まっています」
「……考えていました」
「休む言い訳ではなく?」
「少しだけ」
「では、少しだけ休みましょう」
そう言って、マルタは私の手からペンを取り上げた。
「あ」
「旦那様より、無理をさせるなと申しつかっております」
「公爵閣下は、王宮へ向かう前にそこまで?」
「はい。『倒れる前に止めろ』と」
「……私は、倒れることを前提にされすぎではありませんか」
「実績がございますので」
私は返す言葉を失った。
確かに、この屋敷に来てからも、その前からも、何度か倒れかけている。
でも、実績と言われると、妙に腹立たしい。
「不名誉な実績です」
「返上なさるには、まず休むことです」
「正論ですね」
「はい」
マルタは当然のように頷いた。
この屋敷の人たちは、正論を妙に遠慮なく投げてくる。
王宮の人々のように、絹で包んだ毒を差し出すよりはずっといい。
でも、正論は正論で痛い。
私は布団に背を預け、天井を見る。
白百合慈善基金。
モルガン商会。
白い花の香油。
王妃宮の侍女ミレイユ。
セレーネの証言。
変えられた席順。
私の部屋から見つかった毒瓶。
紙に書いた言葉が、頭の中で何度も並び直される。
誰が、何のために。
王妃殿下が関わっているのか。
セレーネは本当に何も知らないのか。
父はどこまで知っていたのか。
ユリウス殿下は、ただ利用されただけなのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。
「マルタさん」
「はい」
「王妃殿下とは、どのような方なのでしょうか」
マルタの手が止まった。
針先が布の上で、静かに光る。
「私から申し上げられることは多くありません」
「それは、話せないという意味ですか」
「話すべきではない、という意味です」
私は小さく頷いた。
「そうですよね」
「ただ」
マルタは少しだけ声を落とした。
「あの方は、微笑んでいる時ほど周囲をよく見ておられます」
私は王妃殿下の顔を思い出した。
扇の陰の微笑み。
柔らかな声。
白く整った指先。
そして、あの一言。
『命が延びてよかったわね』
背筋が、ぞくりとする。
「あの方は私を殺そうとしたのでしょうか」
口にしてから、部屋の空気が冷えた気がした。
マルタはすぐには答えなかった。
答えられるはずがない。
確証などないのだから。
「分かりません」
やがて、マルタはそう言った。
「ですが、分からない間は、最も危険な可能性を考えておくべきです」
「公爵閣下も同じことを言いそうです」
「旦那様なら、もう少し言葉が足りないと思います」
「例えば?」
「『敵だと思え』と」
あまりにも想像できて、私は思わず笑ってしまった。
確かに、あの人なら言う。
そして、こちらが「まだ確証はありません」と返せば、「確証が出てからでは遅い」と淡々と答えるのだろう。
「少し、分かってきました」
「旦那様のことですか」
「はい。言葉が足りなくて、命令が多くて、気遣いが軍の補給みたいで」
「的確です」
「でも、嘘は少ない」
「はい」
マルタは、そこでほんの少しだけ表情を緩めた。
「旦那様は、嘘をお嫌いです。正確には、嘘で人を動かすことを嫌っておられます」
「ご自分が不利になっても?」
「不利になってもです。ですから、社交界では敵も多い」
「でしょうね」
思わず本音が出た。
マルタが私を見る。
私は慌てて口元を押さえる。
「すみません」
「必要のない謝罪です」
「……はい」
言われると思った。
私は少しだけ笑った。
その時、廊下の向こうが騒がしくなった。
控えめだが、普段より足音が多い。
誰かが低い声で指示を出している。
マルタが立ち上がった。
「旦那様がお戻りかもしれません」
胸が小さく跳ねる。
思ったより早い。
それとも、思ったより長く感じていただけだろうか。
私は起き上がろうとして、マルタに手で制された。
「寝ていてくださいませ」
「でも」
「お戻りになったら、どうせ旦那様が同じことをおっしゃいます」
「……言いそうですね」
「はい」
扉が叩かれた。
マルタが応じると、レオンハルト公爵が入ってきた。
黒い外套の肩が少し濡れている。
雨は止んでいたはずだが、王宮から戻る途中でまた降ったのかもしれない。
彼の表情はいつも通り読めない。
けれど、部屋に入った瞬間、視線がまっすぐ私へ向いた。
「起きているな」
「起きています」
「寝ていろと言った」
「目が覚めてしまいました」
「書いたのか」
彼の視線が、机の上の紙へ向かう。
私は少しだけ目を逸らした。
「少しだけ」
「マルタ」
「途中で止めました」
「そうか」
「旦那様の予想通り、倒れる前に止めました」
「倒れかけたのか」
「倒れてはいません」
私はすぐに言った。
「まだ」
レオンハルト公爵がこちらを見る。
「まだ?」
「いえ、言葉の綾です」
「不吉な綾だな」
「すみません」
「謝る必要はない」
今度は公爵に言われた。
マルタが静かに頷く。
この屋敷では、謝罪にも審査があるらしい。
「王宮はどうでしたか」
私は本題に入った。
レオンハルト公爵は、外套を脱いでマルタに渡しながら答えた。
「毒瓶は保全した」
私は息を吐いた。
知らないうちに、かなり緊張していたらしい。
「無事だったのですね」
「ああ。王妃宮の侍女は、証拠確認と称して保管庫へ入ろうとしていた」
「誰でしたか」
「ミレイユ」
心臓が嫌な音を立てた。
やはり。
私の侍女アンナを部屋から離れさせた、王妃宮の中級侍女。
白百合慈善基金の確認を止めたかもしれない女。
「彼女は何と?」
「王妃殿下の名代として、証拠品の封印状態を確認する必要があると主張した」
「普通のことなのですか」
「異例だ」
「では、なぜそんなことを」
「焦ったのだろう」
レオンハルト公爵は短く言った。
「法務卿が再調査を始める前に、毒瓶に触れたかった」
「証拠を消すために?」
「もしくは、別の証拠を足すために」
私は布団を握った。
消すだけではない。
足す。
そんなこともあるのだ。
「毒瓶から、何か分かりましたか」
「瓶の口に香油の痕跡があった」
「香油……」
「白い花の香りだ」
息が止まった。
部屋の中が、急に遠くなる。
白い花の香り。
セレーネが自慢していた香油。
私の部屋に残っていた匂い。
王妃宮から贈られた特別な香り。
「では、やはりセレーネが……」
「まだ断定できない」
レオンハルト公爵が遮った。
その声は冷静だった。
「香油を使っていたのはセレーネ嬢だけとは限らない。王妃宮にも同じ香油があった可能性がある」
「でも、私の部屋に入ったのは」
「セレーネ嬢本人か、彼女の侍女か、王妃宮の侍女か。まだ複数ある」
私は唇を噛んだ。
焦っている。
自分でも分かった。
早く犯人を見つけたい。
早く無実を証明したい。
早く、あの地下牢の寒さを終わったものにしたい。
でも、急げば間違える。
そして間違えれば、相手はそこを突いてくる。
「……分かりました」
私はゆっくり息を吸った。
「断定しません」
「それでいい」
レオンハルト公爵は、椅子を引いて座った。
その動きが自然すぎて、私は少し首を傾げる。
「公爵閣下」
「何だ」
「なぜ、またそこに座るのですか」
「話すためだ」
「お忙しいのでは」
「忙しい」
「では」
「だが、報告は必要だ」
彼は当然のように言った。
「君の事件だ」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
私の事件。
王家の威信でも、アルヴィナ家の面目でも、ユリウス殿下の名誉でもない。
私の命に関わる事件。
そう言ってくれる人がいるだけで、少し呼吸が楽になる。
「ありがとうございます」
「ああ」
レオンハルト公爵は紙を広げた。
「毒瓶は法務卿の管理下に置いた。クラウゼル家の封印も追加した。次に開ける時は、法務卿、私、第三者の立会いが必要になる」
「王妃宮は抗議しませんでしたか」
「した」
「大丈夫なのですか」
「問題ない」
「どうして」
「私も抗議した」
言い方があまりにも単純で、私は一瞬黙った。
「……抗議と抗議で相殺されるものなのですか」
「最後は権限と証拠だ」
「力技ですね」
「王宮ではよくある」
「嫌な場所ですね」
「そうだ」
即答だった。
私は少しだけ笑ってしまった。
王宮を嫌な場所だと言う貴族は多くない。
少なくとも、私の周囲にはいなかった。
皆、王宮を美しい場所だと言った。
名誉の場所、憧れの場所、権力の中心。
でも、私にとっては、息が詰まる場所だった。
「私、王宮が苦手でした」
ぽつりと漏れた。
レオンハルト公爵がこちらを見る。
私は続けた。
「でも、苦手だと思ってはいけない気がしていました。王太子妃になる予定の人間が、王宮を嫌うなんて許されないと思って」
「嫌いなのか」
「……嫌い、だったのかもしれません」
口にすると、少しだけ胸が軽くなった。
嫌い。
そんな単純な言葉でよかったのかもしれない。
私は王宮が怖かった。
息苦しかった。
でも、それを高貴な責任だとか、未熟な自分への戒めだとか、いろんな言葉で隠していた。
「私は、王宮でずっと背筋を伸ばしていました」
「今も伸びている」
「癖です」
「悪い癖か」
「分かりません。背筋を伸ばしていないと、自分が崩れそうで」
「今は寝台だ。崩れてもいい」
「寝台だから崩れていい、という考え方は初めて聞きました」
「床より安全だ」
私は一拍置いてから、笑った。
この人は本気で言っている。
だから余計におかしい。
「公爵閣下」
「何だ」
「あなた、励まそうとしてくださっていますか」
レオンハルト公爵は黙った。
沈黙が長い。
私は目を瞬いた。
「……もしかして、今の質問は難しかったですか」
「励ましているつもりではあった」
「やはり」
「失敗か」
「いえ。何と言いますか」
私は少し考えた。
「あなたの励ましは、優しさより先に実用性が来るのですね」
「悪いか」
「悪くはありません。床より寝台が安全なのは、確かにそうです」
「そうだ」
「でも、普通は『無理をしなくていい』とか、『ここでは気を張らなくていい』とか、そういう言い方をします」
「なるほど」
レオンハルト公爵は真剣に頷いた。
「では、言う」
「今からですか」
「ああ」
彼は私をまっすぐ見た。
そして、低い声で言った。
「無理をするな。ここでは気を張らなくていい。崩れるなら寝台の上で崩れろ」
最後。
最後が台無しだった。
私はしばらく我慢した。
でも、無理だった。
吹き出してしまった。
「エリシア?」
「す、すみません……」
「笑うところか」
「最後です。最後が」
「おかしかったか」
「はい。かなり」
私は口元を押さえた。
こんなに笑ったのは、いつぶりだろう。
大きな声で笑ったわけではない。
でも、胸の奥から自然に笑いが出た。
地下牢の夜。
王宮での断罪。
父の署名。
王太子の手紙。
毒瓶。
王妃宮。
全部消えたわけではない。
でも、一瞬だけ、息ができた。
レオンハルト公爵は、少し困ったように私を見ていた。
困った顔。
珍しい。
「公爵閣下も、そういう顔をなさるのですね」
「どういう顔だ」
「困った顔です」
「困っている」
「何に?」
「君が笑った理由を理解しきれていない」
「そこですか」
「そこだ」
また笑いそうになった。
マルタが部屋の隅で、静かに咳払いをした。
たぶん、笑いを隠したのだと思う。
「旦那様」
「何だ」
「励ましのお言葉は、最後の一文を削るとよろしいかと」
「そうか」
「はい」
「次からそうする」
「次があるのですね」
私が言うと、レオンハルト公爵は当然のように答えた。
「必要なら」
その言葉に、胸の奥がまた柔らかくなる。
必要なら、この人はまた励まそうとしてくれるのだろう。
たとえ言葉選びが壊滅的でも。
マルタが卓上の紙を片づけながら尋ねた。
「旦那様。王妃宮の侍女ミレイユは、拘束されたのですか」
「いや。王妃宮に戻った」
「戻したのですか」
「今拘束すれば、王妃に切られる」
「証言が取れなくなる、ということですね」
「ああ」
私は真顔に戻った。
「では、泳がせるのですか」
「そうだ」
「危険ではありませんか」
「危険だ」
「公爵閣下」
「何だ」
「危険だと分かっていて平然と言わないでください」
「平然とはしていない」
「そう見えます」
「顔に出にくい」
「便利ですね」
「不便でもある」
その答えに、少しだけ驚いた。
顔に出にくいことを、不便と言うのか。
私もずっと、顔に出さないようにしてきた。
それは必要な武器だと思っていた。
でも、この人は違うのかもしれない。
「公爵閣下は、顔に出ないことで困ったことがあるのですか」
「ある」
「例えば?」
「妹が泣いた」
「妹君が?」
「ああ。昔、私が贈り物を渡した時だ」
「贈り物で泣いたのですか」
「怒って泣いた」
「なぜ」
「喜んでいるように見えなかったらしい」
私は想像した。
無表情で贈り物を差し出す幼いレオンハルト公爵。
受け取った妹君。
何を考えているか分からない兄。
泣く妹。
少し、分かる気がした。
「公爵閣下は、本当は喜んでほしかったのですね」
「ああ」
「顔に出なかった」
「出なかった」
「何を贈ったのですか」
「短剣」
私は黙った。
マルタも黙った。
レオンハルト公爵は、何かおかしいかという顔をしている。
「……妹君は、おいくつでしたか」
「八歳」
「八歳の妹君に短剣を」
「護身用だ」
「公爵閣下」
「何だ」
「それは泣きます」
「そうか」
「はい」
マルタが深く頷いた。
「旦那様。その件は何度も申し上げました」
「良い品だった」
「品の問題ではございません」
「今なら分かる」
「少し遅いです」
私はまた笑ってしまった。
冷血公爵と呼ばれる人が、八歳の妹に護身用短剣を贈って泣かれた。
そして今も、それを「良い品だった」と言う。
不器用すぎる。
でも、その不器用さが少しだけ可笑しく、少しだけ温かかった。
「では、妹君への贈り物も練習中なのですね」
「今は花も贈る」
「進歩しています」
「ただし鉢植えだ」
「なぜですか」
「切り花は枯れる」
「それはそうですが」
「妹には『情緒がない』と言われた」
「妹君は正しいです」
「そうか」
レオンハルト公爵は、少しだけ考え込むような顔をした。
その顔を見ているうちに、私はふと気づく。
この人は、人の心が分からないわけではない。
分かろうとしている。
ただ、入口をよく間違えるのだ。
慰めようとして「寝台なら崩れても安全」と言う。
贈り物に短剣を選ぶ。
食べられない人に「食べろ」と命じる。
けれど、その奥にあるものは、たぶん悪意ではない。
「公爵閣下」
「何だ」
「あなたの優しい言葉は、かなり下手です」
「そうか」
「はい。壊滅的です」
「壊滅的か」
「でも」
私は少しだけ視線を落とした。
「嫌ではありません」
部屋が静かになった。
言ってから、急に恥ずかしくなる。
何を言っているのだろう。
契約婚約者。
私はまだ彼を信用していない。
この人は私を利用すると言った。
私も利用すると決めた。
なのに、嫌ではないなんて。
「……今のは、忘れてください」
「忘れない」
即答だった。
私は顔を上げる。
「そこは忘れてくださるところでは?」
「嫌ではないと言われたことを、なぜ忘れる」
「恥ずかしいからです」
「恥ずかしいのか」
「はい」
「なら、覚えておく」
「なぜですか」
「君が恥ずかしがることも覚えておく必要がある」
「必要ありません!」
声が少し大きくなった。
マルタがまた咳払いをする。
今度は完全に笑いを隠している。
「旦那様」
「何だ」
「そういうところです」
「そういうところか」
「はい」
レオンハルト公爵は真剣に頷いた。
私は布団を引き上げ、少し顔を隠した。
熱のせいだ。
たぶん熱のせいで顔が熱い。
そう思うことにする。
その時、扉が叩かれた。
先ほどとは違い、少し急いだ音だった。
マルタが扉を開けると、若い侍女が立っていた。
彼女はマルタに小さく耳打ちする。
マルタの表情が、わずかに険しくなった。
「旦那様」
「何だ」
「王都で噂が広まり始めているそうです」
胸が、嫌な音を立てた。
レオンハルト公爵の目が細くなる。
「内容は」
マルタは一瞬だけ私を見た。
言うべきか迷っている。
私は布団を握りしめた。
「聞きます」
「エリシア様」
「聞かない方が、怖いです」
マルタは静かに頷いた。
「……王太子殿下を毒殺しようとした悪女が、今度はクラウゼル公爵閣下を色仕掛けで籠絡した、と」
部屋の空気が凍った。
思ったより、胸に刺さらなかった。
いや、刺さっている。
でも、驚きより先に、変な納得があった。
そう来るのか。
私は悪役令嬢で、毒婦で、今度は男を惑わす女。
物語は勝手に書き換えられていく。
王宮の誰かに都合のいい形で。
「……早いですね」
私は呟いた。
声は少し震えた。
レオンハルト公爵が立ち上がる。
その表情は変わらない。
けれど、部屋の温度が下がった気がした。
「誰が流した」
「まだ確認中です。ただ、王妃宮周辺の商人筋から広がっている可能性があると」
「モルガン商会か」
「その名も挙がっております」
白い花の香油。
王妃宮。
毒瓶。
そして噂。
繋がりが、少しずつ太くなっていく。
私は手首の包帯を見た。
私の体の傷は布で隠せる。
けれど、噂は隠せない。
王都中に広がれば、私はまた悪女になる。
毒を盛った女。
妹を虐げた姉。
冷血公爵をたぶらかした女。
「エリシア」
レオンハルト公爵が私の名を呼んだ。
「はい」
「顔が悪い」
「顔色ですか」
「顔色だ」
「少し上達しましたね」
「今は冗談を言わなくていい」
「……はい」
公爵は私の前に立った。
「噂は潰す」
「どうやって」
「出どころを探る。商会を押さえる。必要なら、名誉毀損で訴える」
「それで消えますか」
「完全には消えない」
正直だった。
やはり、この人は甘い嘘をくれない。
「では」
「だが、放置はしない」
その言葉に、私は顔を上げた。
「君が聞こえない場所で傷つけられていることも、傷ついていないことにはならない」
喉の奥が詰まった。
噂なんて気にするな。
分かる人だけ分かればいい。
放っておけば消える。
そう言われると思っていた。
でも、この人は違った。
聞こえない場所で傷つけられていることも、傷ついていないことにはならない。
私が今まで何度も飲み込んできた痛みを、勝手に小さくしない。
「……公爵閣下」
「何だ」
「今のは、かなり優しい言葉でした」
レオンハルト公爵は少し黙った。
「成功か」
「はい」
「そうか」
彼は、ほんの少しだけ目を伏せた。
その反応が、どこか照れているように見えて、私はまた少し笑いそうになった。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「私にできることはありますか」
「休め」
「またそれですか」
「まず休め。その後、王都で広がっている噂を整理する。どの言葉が使われているか、誰に都合がいいかを見る」
「噂の言葉を見るのですか」
「噂は、流した者の願望が混じる」
レオンハルト公爵は言った。
「君を毒婦にしたいのか、セレーネ嬢を被害者にしたいのか、私を愚かな男にしたいのか。どこを強調しているかで、出どころが見える」
私は頷いた。
なるほど。
噂も証拠になる。
傷つくだけのものではない。
誰かの意図が滲むものでもある。
「分かりました」
「今は寝ろ」
「……はい」
今回は逆らわなかった。
体がまた重くなっている。
笑ったり、話したり、考えたりするだけで、思った以上に力を使ったらしい。
私は布団に横になった。
マルタが窓のカーテンを少し引く。
部屋の光が柔らかくなった。
レオンハルト公爵は扉の方へ向かう。
「公爵閣下」
「何だ」
「また王宮へ?」
「いや。まずは屋敷内で指示を出す」
「お忙しいですね」
「忙しい」
「それなのに、私のところへ報告に来てくださったのですか」
「君の事件だからな」
また同じことを言った。
けれど、何度聞いても胸に残る。
「ありがとうございます」
「ああ」
「それと」
「何だ」
「次に励ます時は、『寝台で崩れろ』は削ってください」
レオンハルト公爵は真面目な顔で頷いた。
「分かった」
マルタが横から言う。
「旦那様。今のは、よくできました」
「そうか」
「はい」
私は布団の中で、小さく笑った。
冷血公爵は、優しい言葉が壊滅的に下手だ。
でも、下手なままでも、何度も言葉を探そうとしてくれる。
それが今の私には、少しだけ怖くて。
少しだけ、温かかった。
そして同時に、王都では私を悪女にする新しい物語が広がり始めている。
私は目を閉じた。
休まなければならない。
戦うために。
もう、誰かが勝手に作った悪役の仮面を、黙って被るつもりはなかった。




