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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第8話 私は悪役令嬢ではなく、ただの濡れ衣の女です

 目が覚めた時、最初に見えたのは知らない天井だった。


 高すぎない天井。

 白ではなく、淡い灰色。

 王宮のように金の装飾があるわけでも、アルヴィナ家の自室のように花模様が描かれているわけでもない。


 ただ、静かだった。


 暖炉の薪が、ぱち、と小さな音を立てる。


 私はしばらく、その音を聞いていた。


 どこだろう。


 そう思った直後、記憶が戻ってきた。


 地下牢。

 処刑前夜。

 冷血公爵。

 契約婚約。

 王前会議室。

 父の処刑同意書。

 クラウゼル公爵家。

 温かいスープ。

 ユリウス殿下からの手紙。


 胸の奥が、じわりと重くなる。


 夢ではなかった。


 私は生きている。

 そして、まだ無実にはなっていない。


「……起きたか」


 低い声がした。


 私は驚いて顔を向ける。


 部屋の隅、窓際の椅子に、レオンハルト公爵が座っていた。

 黒い上着を少し緩め、膝の上に書類を置いている。まさか本当に、私が目覚めるまで部屋にいたのだろうか。


 私は慌てて起き上がろうとした。


「おはようございます、公爵閣下。申し訳ございません、私、どれくらい眠って……」


「起きなくていい」


「ですが」


「寝ていろ」


「命令が早いです」


「必要だからな」


 相変わらずだった。


 私は枕に背を預け、少しだけ息を吐く。


 身体はまだ重い。

 けれど、地下牢を出た直後よりはましだった。熱も少し下がったのか、頭の中を覆っていた霞が薄くなっている。


 窓の外は明るかった。


「今は……」


「昼過ぎだ」


「昼過ぎ」


 思わず声が裏返った。


「そんなに眠っていたのですか」


「足りないくらいだ」


「足りない」


「オルドは夕方まで寝かせろと言っていた」


「では、なぜ公爵閣下は私を起こしたのですか」


「起こしていない。勝手に起きた」


「……それはそうですが」


 言い返せない。


 レオンハルト公爵は書類を閉じ、立ち上がった。


「水を飲めるか」


「はい」


 彼は寝台脇の卓に置かれていた水差しから、杯に水を注いだ。

 それを差し出されて、私は一瞬だけ手を止める。


 水。


 透明な液体。


 毒。


 身体が、勝手に警戒する。


 レオンハルト公爵は私の手元を見て、何も言わずに先に杯へ口をつけた。


 一口飲んでから、差し出す。


「毒はない」


 私は、胸の奥が少し痛くなった。


「毎回それをなさるおつもりですか」


「必要なら」


「公爵閣下の胃が先に壊れそうです」


「毒ではなく水だ」


「そういう問題ではありません」


「君が飲めない方が問題だ」


 また、それだ。


 この人は、私の恐怖を責めない。

 面倒だとも言わない。


 ただ、当たり前のように手順を増やす。


 私は杯を受け取って、水を飲んだ。


 冷たすぎない。

 喉を通る水が、少しだけ体に戻っていく。


「ありがとうございます」


「ああ」


 レオンハルト公爵は、窓際の机から書類の束を持ってきた。


 私はその厚みに気づき、眉を寄せる。


「それは?」


「事件資料だ」


 胸が、小さく跳ねた。


 昨日までなら、見たくないと思ったかもしれない。

 けれど今は違う。


 怖い。

 でも、知りたい。


 何が起きたのか。

 誰が私を犯人にしたのか。

 どこで、何を見落としたのか。


「見せてください」


「熱は」


「下がっています」


「顔色は悪い」


「生まれつきということにしてください」


「無理がある」


「では、少し悪いだけです」


「かなり悪い」


「……公爵閣下は、もう少し誤魔化される練習をしてください」


「する必要がない」


「あります。女性の顔色については特に」


「分かった。努力する」


 たぶん、してくれないと思う。


 レオンハルト公爵は寝台横の椅子に腰を下ろした。


 その距離が近すぎる気がして、私は少しだけ布団を握った。

 けれど、彼は書類を広げるだけで、余計なことはしない。


「無理だと思ったら止める」


「はい」


「嘘をつくな」


「……はい」


「顔に出る」


「分かりました」


 私は小さく息を吸った。


 最初に出されたのは、茶会の出席者名簿だった。


 王妃主催の春告げの茶会。

 王宮東庭園で開かれた、小規模な内輪の茶会。


 出席者は、王妃殿下、ユリウス王太子殿下、セレーネ、数名の高位貴族令嬢、そして私。


 私の名前の横には、細い線で印がつけられていた。


「これは?」


「当日の席順だ」


 レオンハルト公爵は別の紙を重ねた。


 庭園の簡易図。

 茶卓の配置。

 給仕の動線。

 控え室の位置。

 庭園へ出る扉。


 私はそれを見て、すぐに違和感を覚えた。


「……私の席が、殿下の茶器に一番近い」


「ああ」


「本来の席順では、私は王妃殿下の右隣だったはずです。王太子妃候補として、そう指定されていました」


「実際には変更されていた」


「誰が?」


「王妃宮の侍女長の指示だ」


 王妃宮。


 私は紙を見つめる。


 思い出す。


 あの日、私は茶会の直前、控え室で待たされていた。

 王妃殿下の侍女がやってきて、微笑みながら言った。


『エリシア様。本日は少し席順を変えさせていただきます。セレーネ様が緊張されているようですので、殿下のお近くに』


 私は不自然だと思った。


 でも、セレーネが緊張しているなら仕方がない。

 王妃殿下の指示なら従うべきだ。


 そう思って、受け入れた。


「……私が殿下の茶器に触れやすい位置へ移されたのですね」


「そうだ」


「そして、セレーネは殿下の隣」


「正確には、殿下の右隣だ」


 レオンハルト公爵は淡々と続ける。


「毒が混入されたとされる茶器は、殿下の左側に置かれていた。君の席側だ」


「つまり、私が手を伸ばせば触れられる」


「ああ」


 私は手を握った。


 知らなかった。


 いえ、見ていた。

 見ていたはずなのに、意味を考えなかった。


 自分が不自然な位置に置かれていることに、気づかなかった。


「次だ」


 レオンハルト公爵は、押収記録を見せた。


 私の私室から見つかったとされる毒瓶。


 発見者は王宮警備官二名。

 立会人は、セレーネ付き侍女リタと、王妃宮の下級侍女。


 私の侍女の名は、ない。


「……私の部屋なのに、私付きの侍女が立ち会っていない」


「理由は、君付きの侍女が体調不良で部屋を離れていたため、とある」


「嘘です」


 思わず即答していた。


 レオンハルト公爵が私を見る。


「覚えているか」


「はい。私の侍女アンナは、あの日ずっと私の支度をしていました。茶会前に離れたのは、王妃宮から追加の髪飾りが届いたと言われ、それを取りに行った時だけです」


「誰に言われた」


「王妃宮の侍女です。名前は……」


 私は目を閉じる。


 顔を思い出す。

 年は二十代後半。黒髪。左頬に小さなほくろ。落ち着いた声。


「ミレイユ、だったと思います」


「王妃宮の中級侍女だ」


「ご存じなのですか」


「調べた」


 この人は本当に、どこまで調べているのだろう。


 私は押収記録へ視線を戻す。


 立会人。

 発見場所。

 毒瓶の封蝋。

 証拠品番号。


 几帳面に書かれている。

 一見すれば、正式な記録のように見える。


 でも、肝心な部分が不自然だった。


「私の部屋へ、セレーネ付きの侍女が入る理由がありません」


「ない」


「王妃宮の侍女も」


「通常ならない」


「なのに、毒瓶の発見時だけそこにいた」


「ああ」


 胸の奥に、冷たいものが溜まっていく。


 偶然ではない。


 席順。

 私の部屋。

 侍女を離れさせる指示。

 毒瓶の発見者。

 セレーネの証言。


 一つ一つなら、まだ言い訳できる。


 でも、並べると形が見えてくる。


 私は、最初から犯人にされる位置に置かれていた。


「次は証言記録だ」


 レオンハルト公爵が言った。


 彼は数枚の紙を広げる。


 セレーネの証言。


『姉は茶会前から様子がおかしかった』

『私を睨んでいた』

『殿下の茶器の近くで手を動かしていたように見えた』

『私は怖くて何も言えなかった』


 ユリウス殿下の証言。


『エリシアは婚約解消に強い不満を持っていた』

『セレーネに嫉妬していた』

『最近、以前より冷たくなっていた』


 父の証言。


『娘は責任感が強いが、感情を溜め込むところがある』

『王太子殿下との関係に悩んでいた』

『家のためにも、早く罪を認めてほしい』


 私は、父の証言のところで手が止まった。


 早く罪を認めてほしい。


 父は、調べる前からそう言ったのだ。


 私がやったかどうかではなく、早く終わらせることを望んだ。


「……私は」


 声が掠れた。


「私は、いつから悪役だったのでしょうか」


 レオンハルト公爵は答えなかった。


「セレーネを睨んだ。嫉妬していた。冷たかった。感情を溜め込んでいた。殿下を殺そうとした」


 紙の上の言葉が、私ではない誰かを作っていく。


 可愛げがない姉。

 嫉妬深い元婚約者。

 妹を憎む悪女。

 王太子に毒を盛る令嬢。


 私の知らない私が、そこにいる。


「私は……そんな人間だったのでしょうか」


「違う」


 即答だった。


 私は顔を上げる。


 レオンハルト公爵は、少しも迷っていなかった。


「君は悪役令嬢ではない」


 その言葉に、胸が詰まった。


 悪役令嬢。


 誰かの物語で、都合よく断罪される女。

 泣く妹の前で冷たく笑い、愛されるヒロインを虐げ、最後には自業自得だと切り捨てられる女。


 王宮の人々は、きっと私をそう見たかったのだ。


 そうすれば簡単だから。


 妹は可哀想な被害者。

 王太子は騙された恋人。

 父は家を守ろうとした公爵。

 王妃は秩序を守る裁定者。


 そして私は、悪役。


 悪役なら、殺しても心が痛まない。


「君は、濡れ衣を着せられた女だ」


 レオンハルト公爵は静かに言った。


「ただ、それだけだ」


 ただ、それだけ。


 その言葉は、乱暴なほど単純だった。


 でも、私は救われた。


 私は悪役ではない。

 罪人でもない。

 誰かの物語を盛り上げるために断罪される女でもない。


 ただの、濡れ衣の女。


 だから、晴らせる。


「……はい」


 私は小さく頷いた。


「私は、やっていません」


「ああ」


「私は、殿下を殺そうとしていません」


「分かっている」


「セレーネを殺そうとも、脅そうともしていません」


「ああ」


「嫉妬は……していました」


 そこで、私は自分の言葉に少し笑った。


 笑いといっても、明るいものではない。


「セレーネが羨ましかった。泣けば許される妹が。弱くいられる妹が。殿下に選ばれた妹が。父に可愛がられる妹が」


 レオンハルト公爵は黙っている。


 私は続けた。


「でも、羨ましかったことと、毒を盛ったことは違います」


「違う」


「嫌いだと思った瞬間があったことと、殺そうとしたことも違います」


「違う」


「私は、綺麗な被害者ではありません」


「綺麗である必要はない」


 レオンハルト公爵の返事は、いつも短い。


 でも、その短さに逃げ道があった。


 私は綺麗なだけの被害者ではない。

 妹を羨み、父に愛されたくて、殿下に失望しながらも執着していた。

 心の中には、怒りも嫉妬も惨めさもあった。


 でも、それでも。


 罪を着せられて死んでいい理由にはならない。


「公爵閣下」


「何だ」


「私は、自分が思っていたより嫌な女かもしれません」


「そうか」


「否定しないのですね」


「私は君の心の中を全部知っているわけではない」


「正直ですね」


「だが」


 彼は、証言記録を指で押さえた。


「嫌な女であることと、犯人であることは別だ」


 私は、ぽかんと彼を見た。


 そして、笑ってしまった。


 今度はちゃんと声が出た。


「公爵閣下」


「何だ」


「慰めが下手すぎます」


「慰めたつもりだった」


「でしょうね」


「失敗か」


「半分くらい成功です」


「半分か」


「かなり高得点だと思ってください」


「分かった」


 胸の奥が、ほんの少し軽くなった。


 私が笑うと、レオンハルト公爵は一瞬だけ目を細めた。

 それが笑みなのかどうかは、まだ分からない。


「資料を続けてもいいか」


「はい」


「次は、毒の種類だ」


 彼は別の書類を出した。


 王宮医師の診断書。

 ユリウス殿下が茶会中に吐き気と発熱を起こした。

 命に別状なし。

 使用された毒は未確定。


 そして、別紙。


 クラウゼル公爵家が独自に入手した薬品分析の仮報告。


「王宮側は毒物未確定としている。だが、症状から見て、強い毒ではない」


「強い毒ではない?」


「殺すためというより、毒殺未遂事件を作るためのものだ」


 私は息を呑んだ。


「では、殿下を本当に殺すつもりはなかった」


「おそらく」


「私を犯人にすることが目的……」


「ああ」


 私は診断書を見る。


 ユリウス殿下は、本当に死にかけたわけではなかった。

 もちろん苦しんだのだろう。そこは軽んじてはいけない。


 けれど、殺害ではなく、事件化。


 犯人として私を処刑するための舞台。


 胃の奥が冷える。


「私を殺すために、殿下を毒で苦しめたのですか」


「そう考えるのが自然だ」


「……ひどい」


 誰が。


 王妃か。

 セレーネか。

 セレーネの侍女か。

 父か。

 それとも、まだ見えていない誰かか。


 分からない。


 けれど、誰かがそこまでした。


 ユリウス殿下でさえ、道具にした。


「殿下は、このことを知っているのでしょうか」


「おそらく知らない」


「では、殿下も利用されたのですね」


「被害者の一人ではある」


 私は唇を噛んだ。


 ユリウス殿下は私を信じなかった。

 責めた。

 手紙で、私に謝罪を求めた。


 それでも、利用された人間でもある。


 簡単に憎めたら楽なのに。


「難しい顔をしている」


「難しいことを考えていますので」


「ユリウス殿下のことか」


「……はい」


 隠しても、この人には顔で分かるらしい。


「殿下を許したいわけではありません。でも、もし殿下も利用されていたなら、私は何を怒ればいいのか分からなくなります」


「怒る相手は一人に絞らなくていい」


 私は瞬いた。


 レオンハルト公爵は、当然のように言った。


「君を信じなかった殿下に怒っていい。殿下を利用した者にも怒っていい。毒を使った者にも、証言を歪めた者にも、娘を見捨てた父にも」


「……そんなに怒ったら、疲れませんか」


「疲れる」


「では」


「だが、怒りをなかったことにする方がもっと疲れる」


 私は黙った。


 その通りだと思った。


 私はずっと、怒りをなかったことにしてきた。

 悲しみも、嫉妬も、寂しさも。


 その方が場が収まるから。

 その方が可愛げがあるから。

 その方が立派だから。


 でも、なかったことにした感情は消えない。

 心の底で腐って、自分自身を責める形で戻ってくる。


「怒ってもいいのですね」


「ああ」


「王太子殿下に」


「ああ」


「父に」


「ああ」


「セレーネに」


「ああ」


「自分に少しだけ」


 レオンハルト公爵は、そこで少しだけ眉を寄せた。


「少しなら」


「許可制ですか」


「自分だけを責め始めるなら止める」


「……公爵閣下は、たまに過保護ですね」


「契約婚約者だからな」


「便利な言葉にしないでください」


「便利だ」


「認めましたね」


 私は少しだけ笑った。


 笑ったあと、資料に視線を戻す。


「公爵閣下。この資料、写しをいただけますか」


「何に使う」


「確認します」


「今日は休め」


「少しだけ」


「駄目だ」


「公爵閣下」


「駄目だ」


「まだ何も言っていません」


「顔が言っている」


「本当に厄介な観察力ですね」


 レオンハルト公爵は、資料をまとめようとした。


 私は慌てて手を伸ばす。


「待ってください。せめて、白百合慈善基金の資料だけ」


「寝ろ」


「事件と関係があるかもしれません」


「あるかもしれない。だからこそ、熱が下がってからだ」


「でも、今思い出したことを忘れるかもしれません」


「なら、口で言え。私が書く」


 私は動きを止めた。


「公爵閣下が?」


「ああ」


「ご自分で?」


「そうだ」


「面倒ではありませんか」


「必要なことだ」


 私は少しだけ迷った。


 誰かに書いてもらう。

 自分の記憶を預ける。


 少し怖い。


 でも、今は本当に体が重い。


「……では、お願いします」


 レオンハルト公爵は、机から紙とペンを持ってきた。


 椅子に座り、書く姿勢になる。


 私は枕に背を預けたまま、目を閉じた。


「白百合慈善基金。三ヶ月前の収支表。孤児院への支出が、毎月同じ金額でした。普通、食料費や医療費は季節で変動します。なのに、三ヶ月続けて同額」


 ペンが紙を走る音がする。


「受領書の筆跡も、似ていました。三つの施設で同じ人が書いたように見えました。でも、王妃宮の侍女に確認を止められました」


「侍女の名は」


「たぶん、ミレイユ」


「続けろ」


「それから、モルガン商会。香油、茶葉、薬草を扱っている商会です。王妃宮に出入りしていました。セレーネが王妃殿下から白い花の香油をいただいたと自慢していました」


「白い花」


「はい。毒瓶が見つかった日の私の部屋にも、同じような香りが残っていた気がします」


 そこまで言って、私は目を開けた。


「でも、確証はありません」


「確証でなくていい。今は手がかりだ」


 レオンハルト公爵は書き続ける。


 私は少しだけ彼の手元を見た。


 やはり字が綺麗だ。

 無駄がなく、読みやすい。


「公爵閣下は、字がお上手ですね」


 思わず言うと、彼の手が一瞬止まった。


「そうか」


「意外です」


「意外?」


「もっとこう……剣で紙を斬るような字かと」


「どんな字だ」


「力強く、威圧的で、少し読みにくい字です」


「偏見だな」


「冷血公爵への偏見です」


「君は時々、遠慮がない」


「病人なので」


「便利な言葉だな」


「便利です」


 言ってから、少しだけ笑う。


 こんな会話をしている場合ではないのかもしれない。

 でも、こういうくだらない会話が挟まると、息ができる。


 事件資料の冷たさだけを見続けていたら、きっと心が凍ってしまう。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


 マルタが入ってくる。


「旦那様。王宮より、法務卿の使者が参りました」


 レオンハルト公爵が顔を上げる。


「用件は」


「毒瓶の正式保管庫への移送前に、王妃宮の侍女が証拠確認を申し出たとのことです」


 空気が変わった。


 私は意味を理解するのに少し時間がかかった。


「証拠確認……?」


 レオンハルト公爵の目が、鋭く冷える。


「誰の許可で」


「王妃殿下の名代として、と」


「止めろ」


「すでに法務卿が一時停止させたそうです。ただ、現場では王妃宮側が強く抗議していると」


 証拠品。


 毒瓶。


 王妃宮の侍女。


 胸の奥で、警鐘が鳴った。


「まさか……証拠を消すつもりですか」


 私が呟くと、レオンハルト公爵は立ち上がった。


「その可能性が高い」


「でも、そんな堂々と」


「堂々と行う方が、止めにくいこともある」


 マルタが静かに言う。


「旦那様、馬車を」


「用意しろ」


「はい」


 レオンハルト公爵は私を見る。


「君はここにいろ」


「行きます」


「駄目だ」


「私の事件です」


「熱がある」


「でも」


「ここで倒れれば、向こうの思うつぼだ」


 その言葉に、私は動きを止めた。


 向こうの思うつぼ。


 私が焦って動くこと。

 無理をして倒れること。

 感情的になって、また悪役らしく見えること。


 それを待っている誰かがいるかもしれない。


「……分かりました」


 悔しい。


 でも、分かってしまった。


「私は、ここにいます」


「マルタを残す」


「はい」


「誰が来ても、許可なく入れるな」


 マルタが頷く。


「承知しました」


 レオンハルト公爵は書きかけの紙を折り、私の横に置いた。


「思い出したことがあれば、マルタに言え」


「はい」


「無理はするな」


「努力します」


「努力では足りない」


「善処します」


「同じだ」


 私は少しだけ笑った。


「では、命令を守ります」


「そうしろ」


 レオンハルト公爵は扉へ向かう。


 その背中を見て、私は思わず声をかけた。


「公爵閣下」


 彼が振り返る。


「何だ」


「お気をつけて」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 でも、言いたかった。


 彼は一瞬だけ黙った。


 そして、短く答える。


「ああ」


 扉が閉まる。


 部屋に、私とマルタだけが残った。


 暖炉の火が揺れる。

 机の上には、事件資料と、私の記憶を書き留めた紙。


 私はそれを見つめた。


 私は悪役令嬢ではない。


 ただの濡れ衣の女だ。


 でも、濡れ衣を着せた誰かは、今も動いている。


 証拠を消そうとしている。


 なら、もう泣いているだけではいられない。


「マルタさん」


「はい」


「紙とペンを、もう少しいただけますか」


「旦那様は休むようにと」


「寝台の上で書きます」


「それは休んでいると言えるのでしょうか」


「……半分くらいは」


「旦那様に似てきましたね」


「それは困ります」


 マルタは小さく息を吐いた。


 けれど、紙とペンを用意してくれた。


「無理をなさったら取り上げます」


「はい」


「本気です」


「分かっています」


 私はペンを握った。


 手首が痛む。

 指先も少し震える。


 それでも、書いた。


 白百合慈善基金。

 モルガン商会。

 白い花の香油。

 王妃宮の侍女ミレイユ。

 セレーネの証言。

 席順変更。

 毒瓶のあった私室。


 私を悪役にするために並べられたものを、一つずつ書き出す。


 もう、誰かの涙で消されないように。


 もう、誰かの都合で歪められないように。


 私は、私の記憶を取り戻していく。


 その時、窓の外で馬車の音が遠ざかった。


 レオンハルト公爵が王宮へ向かったのだろう。


 私はペンを握り直した。


 怖い。


 でも、もう怖いだけでは終わらせない。


 私は悪役令嬢ではない。


 だからこそ、物語の終わりを他人に決めさせるつもりはなかった。


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