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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第6話 冷血公爵家の使用人たちは、私を歓迎しません

 クラウゼル公爵家の玄関広間は、王宮ほど華やかではなかった。


 王宮のように金細工が光っているわけでも、壁一面に絵画が並んでいるわけでもない。

 床は黒に近い灰色の石。壁も重い石造り。天井は高く、窓から差し込む朝の光は薄い。


 けれど、不思議と荒れてはいなかった。


 磨かれた床には塵一つなく、壁に掛けられた古い剣や盾は、飾りでありながらも手入れが行き届いている。玄関脇に置かれた花瓶には、派手な花ではなく、白と青の小さな花が生けられていた。


 寒い屋敷だと思った。


 でも、冷たいだけではない。


 無駄なものを削ぎ落として、それでも残ったものを大事にしている屋敷。


 そんな印象だった。


 その中で、私はひどく浮いていた。


 地下牢帰りの乱れた髪。

 レオンハルト公爵の外套。

 手首に残る枷の傷。

 夜着に近い白い衣服。


 整列した使用人たちの視線が、痛いほど刺さる。


 彼らは礼儀正しかった。

 誰一人、あからさまに眉をひそめたり、囁いたりはしない。


 けれど、分かる。


 歓迎されていない。


 当然だ。


 彼らにしてみれば、主人が突然、王太子毒殺未遂の容疑者を婚約者として連れ帰ってきたのだ。

 警戒するなという方が無理だろう。


 私は背筋を伸ばした。


 倒れそうだった。

 熱もある。足も震えている。


 それでも、ここで崩れるわけにはいかない。


 泣いて庇われる女にはなりたくなかった。

 かといって、何も感じないふりをして高慢に振る舞うのも違う。


 私は、私として立たなければならない。


 先頭に立つ侍女長マルタが、もう一度深く礼をした。


「エリシア様。お部屋へご案内いたします」


 声は丁寧だった。


 けれど、温度はない。


「ありがとうございます」


 私も頭を下げる。


 その瞬間、使用人たちの間にほんのわずかな空気の揺れが走った。


 おそらく、私が頭を下げるとは思っていなかったのだろう。


 公爵令嬢。

 元王太子妃候補。

 毒殺未遂の容疑者。

 突然やってきた主人の婚約者。


 彼らの中で私は、どんな化け物になっていたのだろう。


 レオンハルト公爵が横から言った。


「マルタ、医師を呼べ」


「すでに手配しております」


「湯も」


「ご用意しております」


「食事は」


「消化の良いものを」


「警備は」


「客室前に二名。外周は通常の倍にしております」


 会話が速い。


 しかも、ほとんど確認だけで進んでいる。


 私は二人のやり取りを見て、思わず口を挟んだ。


「あの」


 レオンハルト公爵とマルタが、同時にこちらを見る。


 少し怖い。


 いえ、かなり怖い。


「……私は、囚人として扱われるのでしょうか」


 マルタの表情は変わらなかった。


「そのようにお感じになりましたか」


「客室前に警備が二名と聞こえましたので」


「エリシア様を閉じ込めるためではございません」


 マルタはきっぱり言った。


「外から入ってくる者を止めるためです」


 私は言葉に詰まった。


 外から。


 私を追ってくる者。

 私を殺そうとする者。

 あるいは、連れ戻そうとする者。


 そういう人間がいるかもしれないのだと、改めて思い知らされる。


 レオンハルト公爵が私を見る。


「君を監視するためではない」


「……そうですか」


「逃げたいなら、正門から出ろ」


「え?」


「裏口は危険だ。庭の北側も警備が薄い。逃げるなら正門を使え」


 玄関広間が静まり返った。


 使用人たちも、マルタでさえ、一瞬だけ目を瞬いた。


 私はしばらく公爵を見つめた。


「公爵閣下」


「何だ」


「普通、逃げ道を教えますか」


「危ない場所から逃げられるよりはいい」


「そういう問題ではないと思います」


「そうか」


「そうです」


 マルタが小さく咳払いをした。


 笑ったのか、呆れたのかは分からない。


「旦那様。エリシア様はお疲れです。まずはお部屋へ」


「ああ」


 レオンハルト公爵が頷く。


 私はマルタに案内され、玄関広間から奥の廊下へ進んだ。


 歩き出してすぐ、足元が少しふらつく。


 レオンハルト公爵が隣で腕を出した。


「掴まれ」


「歩けます」


「掴まって歩け」


「それは歩けるに含まれますか」


「含まれる」


「公爵閣下の中では、かなり広いのですね」


「倒れなければいい」


 私は少し迷ってから、公爵の腕に手を添えた。


 悔しい。

 けれど、支えがあると歩ける。


 そのことを認めるのも、今の私には必要なのかもしれない。


 廊下は静かだった。


 王宮の廊下とは違う。

 王宮はいつも誰かの気配があった。侍女、近衛兵、官吏、貴族。誰かがどこかで囁き、足音を響かせ、扉の向こうで笑っていた。


 ここは違う。


 音が少ない。

 それでいて、死んだような静けさではない。


 働く人の気配はある。

 遠くで食器の触れ合う音。誰かが薪を運ぶ低い足音。布を払うかすかな音。

 ただ、無駄な声がないのだ。


 規律のある屋敷。


 そう思った。


 私が案内されたのは、二階の南側の客室だった。


 扉を開けると、淡い灰色と白で整えられた部屋が現れる。大きすぎず、小さすぎない。窓からは雨上がりの庭が見えた。暖炉にはすでに火が入っており、部屋全体に穏やかな暖かさがある。


 寝台には清潔なリネン。

 机には紙とインク。

 洗面台には湯気の立つ湯。

 椅子の背には、女性用の室内着らしい柔らかな衣服が掛けられている。


 用意が良すぎる。


 私は、少しだけ戸惑った。


「……ここを、私が使ってよろしいのですか」


 マルタが振り返る。


「そのために整えました」


「ずいぶん早く」


「旦那様から夜明け前に早馬が届きましたので」


 私はレオンハルト公爵を見る。


「夜明け前に?」


「地下牢へ行く前だ」


「……私が契約を断ったら、どうするおつもりだったのですか」


「別の保護対象が来るかもしれない、と伝えた」


「曖昧すぎませんか」


「マルタには通じる」


 マルタが無表情のまま頷いた。


「旦那様は昔から、説明が足りませんので」


「否定はしない」


「否定なさってください。主人として」


「事実だ」


 マルタは深くため息をついた。


 そのため息には、長年この主人を相手にしてきた人間の疲れが滲んでいた。

 私は少しだけ親近感を覚えてしまった。


 レオンハルト公爵が私に言う。


「マルタは信用できる」


 マルタがすぐに返した。


「旦那様。そういうことは、ご本人が判断なさるものです」


「そうか」


「そうです」


「では、判断しろ」


 公爵は私を見る。


 私は思わず困った顔になった。


「今すぐですか」


「今すぐでなくていい」


「では、なぜ今おっしゃったのですか」


「言っておいた方がいいと思った」


「……あなたは本当に」


 言葉に迷っていると、マルタが淡々と続けた。


「エリシア様。私はクラウゼル家の侍女長として、旦那様の命には従います。あなた様を罪人として扱うことはいたしません。ですが、何も知らぬまま心からお仕え申し上げることもできません」


 正直な言葉だった。


 胸がちくりとしたが、不思議と不快ではなかった。


 王宮では、誰も本音を言わなかった。

 微笑みながら疑い、礼をしながら噂し、心配するふりをして突き放す。


 それに比べれば、マルタの言葉はずっとましだった。


「分かります」


 私は答えた。


「当然だと思います。私は、この屋敷の方々から見れば、突然持ち込まれた厄介事です」


「厄介事だとご自覚はあるのですね」


「あります」


 マルタの目が、ほんの少し細くなる。


「怒らないのですか」


「怒る元気があまりありません」


「では、元気でしたら?」


「少し怒ったかもしれません」


「正直ですね」


「今朝から、正直な人ばかりに囲まれておりますので、うつったのかもしれません」


 マルタの口元が、わずかに動いた。


 本当にわずかだ。


 けれど、さっきまでよりも空気が少しだけ柔らかくなった気がした。


 レオンハルト公爵が言った。


「医師が来るまで休め」


「その前に、契約書を」


「後でいい」


「ですが」


「君は今、立っているだけで限界だ」


「……そこまで顔に出ていますか」


「出ている」


 マルタも頷いた。


「出ております」


 二対一だった。


 私は反論を諦めた。


「では、少しだけ」


「少しではない。寝ろ」


「公爵閣下」


「何だ」


「命令が多いです」


「必要だからな」


「契約書に、命令回数の上限も入れるべきでした」


「検討する」


「本当に検討しないでください」


 言いながら、私は寝台の方へ歩こうとした。


 しかし、一歩踏み出したところで膝が抜けた。


 あ、と思った時には、もう身体が傾いていた。


 床は近づかなかった。


 レオンハルト公爵が、当然のように支えていたからだ。


「言っただろう」


「……はい」


「限界だ」


「認めます」


 悔しい。

 でも、もう強がる余裕がなかった。


 マルタが近づき、私の反対側を支える。


 その手つきは驚くほど慣れていた。

 乱暴ではないが、甘やかしでもない。必要な力だけで私を寝台へ座らせる。


「失礼いたします。お召し物を替える前に、手首を見せてくださいませ」


 私は少し躊躇した。


 手首の傷を見られるのが嫌だった。


 痛々しいからではない。

 これを見られると、自分が本当に牢に入れられていたのだと、改めて認めなければならない気がしたからだ。


 でも、マルタは待っていた。


 急かさず、同情もせず。


 私はそっと手を差し出した。


 マルタは私の手首を見て、眉ひとつ動かさなかった。


 けれど、ほんのわずかに呼吸が変わった。


「……枷が小さすぎます」


「え?」


「女性用ではありません。男の囚人に使うものです。これでは擦り傷で済む方が不思議です」


 そう言って、マルタはレオンハルト公爵を見た。


「旦那様」


「ああ」


 短いやり取りだった。


 それだけで、公爵の目が冷えたのが分かった。


「地下牢の看守長を調べる」


「お願いいたします」


「今すぐ手配する」


 公爵が扉へ向かおうとする。


 私は思わず声を出した。


「あの、そこまでしなくても」


 レオンハルト公爵が振り返る。


 マルタも私を見た。


 二人とも、少しだけ怖い顔をしていた。


「エリシア様」


 マルタの声が、初めて少し低くなった。


「そこまでしなくても、という言葉は、あなた様が使うものではございません」


「ですが、私だけ特別扱いを」


「特別ではありません」


 マルタはきっぱりと言った。


「囚人であっても、合わない枷で傷を負わせることは管理不備です。ましてあなた様は、まだ罪人ではございません」


 私は言葉を失った。


 まだ罪人ではない。


 王前会議室でも言われた。

 でも、マルタの口から聞くと、また違って聞こえた。


 この人は私を完全に信用しているわけではない。

 歓迎しているわけでもない。


 それでも、筋の通らない扱いは認めない。


 それが、クラウゼル家の侍女長なのだろう。


「……すみません」


 私は小さく言った。


 マルタの眉がわずかに寄る。


「謝る必要はございません」


「癖です」


 口に出してから、少しだけ苦笑した。


「何かあると、すぐ謝ってしまうんです。相手が怒る前に謝れば、場が収まることが多かったので」


 マルタはしばらく私を見ていた。


 その目はまだ厳しい。

 でも、最初ほど冷たくはなかった。


「この屋敷では、必要のない謝罪は不要です」


「……難しそうですね」


「慣れてくださいませ」


 レオンハルト公爵が横から言った。


「私も言われた」


 マルタがすぐに返す。


「旦那様はまだ慣れておられません」


「努力はしている」


「努力の方向が独特でございます」


「そうか」


「そうです」


 私は思わず、少しだけ笑った。


 マルタとレオンハルト公爵の会話は、主従というより、長年一つ屋根の下で互いの欠点を知り尽くした家族のようだった。


 その空気が、少し眩しかった。


 私はこの屋敷では異物だ。

 けれど、この屋敷には確かに日常がある。


 誰かが主人の説明不足にため息をつき、誰かが暖炉に火を入れ、誰かが食事を用意する。

 その日常の中に、私は突然投げ込まれた。


「エリシア様」


 マルタが言った。


「湯浴みは医師の診察後にいたしましょう。今は体を温める程度に。こちらの衣服に着替えていただきます。お手伝いしても?」


 私は少し身体を強張らせた。


 着替えを手伝われる。


 令嬢としては当たり前のことだ。

 けれど、今の私は、人に触れられることが少し怖かった。


 地下牢で看守に腕を掴まれた感覚。

 枷をはめられた時の冷たさ。

 取り調べの部屋で、逃げ道のない椅子に座らされた記憶。


 全部、身体が覚えている。


 マルタはすぐに気づいたらしい。


「無理にはいたしません」


「……いえ、大丈夫です」


「大丈夫という言葉も、癖ですか」


 私は黙った。


 マルタは小さく頷いた。


「では、確認いたします。お手伝いしてよろしいですか」


 私は驚いて彼女を見た。


 許可を求められた。


 ただ着替えを手伝うだけなのに。


 私の身体に触れる前に、確認してくれた。


 それだけのことが、胸に刺さった。


「……お願いします」


 声が少し震えた。


「承知いたしました」


 マルタは丁寧に礼をする。


 レオンハルト公爵は、その場に立ったままだった。


 私は彼を見る。


「公爵閣下」


「何だ」


「出ていってください」


 マルタが目を閉じた。

 たぶん、当然ですと言いたかったのだろう。


 レオンハルト公爵は一拍置いて頷いた。


「ああ」


「なぜ一拍置いたのですか」


「医師が来るまでいた方がいいかと思った」


「着替えます」


「そうだった」


「忘れないでください」


 公爵は扉へ向かう。


 その途中で、振り返った。


「エリシア」


「はい」


「何かあれば呼べ」


「はい」


「遠慮するな」


「……努力します」


「努力では足りない」


「では、善処します」


「同じだ」


「公爵閣下、早く出てください」


 マルタが淡々と告げる。


「旦那様」


「分かった」


 レオンハルト公爵は、ようやく部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 部屋の中には、私とマルタだけが残った。


 急に静かになった。


 暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。


 マルタは衣服を手に取りながら言った。


「旦那様は、言葉が足りません」


「存じ上げ始めています」


「ですが、嘘はお嫌いです」


「それも、少し分かります」


「不器用ですが、約束は守ります」


 私はマルタの横顔を見た。


「マルタさんは、公爵閣下を信頼しているのですね」


「しております」


 即答だった。


「ただし、褒めて甘やかす気はございません」


「それは見ていて分かりました」


「旦那様には、その方がよろしいので」


 マルタの声には、ほんの少しだけ温度があった。


 この人はレオンハルト公爵を大切に思っている。

 それは、主従の忠誠というより、もっと生活の中で積み重なった信頼に見えた。


 信用は、求めるものではなく積むもの。


 馬車の中で公爵が言った言葉を思い出す。


 この二人の間には、それが積まれているのだ。


「エリシア様」


 マルタが私の髪に触れながら、静かに言った。


「痛むところがあれば、黙らずおっしゃってください」


「……はい」


「怖いことがあれば、それも」


 私は少しだけ目を伏せた。


「怖いことだらけです」


「でしょうね」


 あまりに普通に返されたので、私は顔を上げた。


 マルタは手際よく外套を外しながら続ける。


「昨日まで処刑されるはずだった方が、怖くないわけがございません。怖いとおっしゃる方が自然です」


「自然……ですか」


「はい」


 その言葉は、ゆっくり染み込んできた。


 怖いことが自然。


 弱音ではない。

 恥ではない。

 迷惑でもない。


 ただ、自然。


「……私は、怖がるのが下手です」


「では、練習なさいませ」


「練習するものなのですか」


「何事も練習です。旦那様も会話を練習中です」


「成果は?」


「道半ばです」


 真顔で言うものだから、私は今度こそ少し笑ってしまった。


 マルタの口元も、ほんのわずかに緩んだ気がした。


 着替えが終わると、私は柔らかな室内着に包まれていた。


 肌触りがよい。

 けれど華美ではない。

 白ではなく、淡い青灰色。


 王宮やアルヴィナ家で用意される衣服とは違う。私を飾るためではなく、休ませるための服だった。


 そのことに気づいた瞬間、胸の奥がまた痛くなった。


 私は長い間、見栄えのための服ばかり着ていた。

 王太子の隣に立つためのドレス。

 父の面目を保つための宝石。

 妹より大人らしく見えるための落ち着いた色。


 休むための服。


 そんなものが自分に必要だと思ったことがなかった。


「少し横になってくださいませ」


 マルタが寝台を整える。


「医師が来るまで、眠れずとも目を閉じているだけで結構です」


「眠れる気がしません」


「眠れない時は、眠れないままで構いません」


「無理に寝ろとは言わないのですね」


「旦那様なら言います」


「言いそうです」


「私は言いません。ですが、目は閉じてください」


「結局、命令では?」


「お願いです」


 私は寝台に横になった。


 温かい。


 柔らかい。


 地下牢の石床とは違う。

 身体が沈み、布団の重みが肩にかかる。


 それだけで、急に喉の奥が詰まった。


 眠っていい場所。

 目を閉じても、すぐに処刑台へ連れていかれない場所。


 本当に?


 大丈夫?


 目を閉じた瞬間、また牢に戻っているのでは?


 手が震えた。


 マルタがそれに気づき、寝台脇に立つ。


「エリシア様」


「はい」


「扉の外に護衛がおります。旦那様も屋敷内におります。医師も間もなく来ます」


「……はい」


「今、この部屋にあなた様を害する者はおりません」


 その言葉に、涙が出そうになった。


 でも、私は泣かなかった。


 泣けなかった。


 ただ、布団を握った。


「マルタさん」


「はい」


「私は、この屋敷にいてもいいのでしょうか」


 自分でも情けない声だった。


 でも、どうしても聞きたかった。


 マルタは少し黙った。


 そして言った。


「旦那様が連れてきました。ですから、屋敷としては受け入れます」


 やはり、温かい言葉ではない。


 けれど、続きがあった。


「私個人としては、まだあなた様を存じ上げません。ですから、簡単に歓迎しますとは申し上げません」


「……はい」


「ですが」


 マルタの声が、少しだけ柔らかくなる。


「傷ついた方を、傷ついたまま廊下に立たせておくほど、この屋敷は薄情ではございません」


 私は目を閉じた。


 その言葉は、歓迎ではない。

 信頼でもない。

 愛情でもない。


 でも、居場所の入口くらいにはなった。


「ありがとうございます」


「礼は、回復してからになさいませ」


「はい」


「それと」


「はい」


「必要のない謝罪は不要です」


 私は閉じた目のまま、少し笑った。


「努力します」


「努力では足りません」


「……この屋敷の方は、皆さん厳しいのですね」


「旦那様の屋敷ですので」


 扉の外で、低い声がした。


「聞こえているぞ、マルタ」


 私は目を開けた。


 マルタは表情一つ変えずに扉の方を見た。


「聞こえるように申し上げました」


 少しの沈黙。


 それから、レオンハルト公爵の声。


「そうか」


「はい」


「医師が着いた」


「すぐに」


 マルタが扉へ向かう。


 その前に、私の方を振り返った。


「エリシア様。医師が診察いたします。嫌なことがあれば、嫌だとおっしゃってください」


「……言えるか分かりません」


「言えない時は、手を握ってください。私が止めます」


 私は、思わず彼女を見た。


「止めてくださるのですか」


「必要なら」


 当然のように言った。


 その当然が、胸に沁みた。


 扉が開く。


 レオンハルト公爵と、医師らしき中年の男性が入ってくる。

 公爵は私を見るなり、眉を寄せた。


「泣いたのか」


「泣いていません」


「泣きそうな顔だ」


「公爵閣下は、もう少し言葉を選んでください」


「努力する」


「本当に道半ばですね」


 マルタが小さく頷いた。


 医師が困ったように笑う。


 その一瞬だけ、部屋の空気が少しだけ普通になった。


 病人がいて、口下手な主人がいて、厳しい侍女長がいて、困った医師がいる。


 ただそれだけの、普通の朝。


 私は、その普通に救われそうになっていた。


 けれど、診察が始まる直前、扉の外で慌ただしい足音がした。


 護衛の声がする。


「旦那様。王宮より使者です」


 レオンハルト公爵の目が鋭くなる。


「誰からだ」


「王太子殿下より、エリシア様宛ての書状を預かっていると」


 部屋の中が静まり返った。


 私の手が、布団を握りしめる。


 ユリウス殿下から。


 今さら、何を。


 レオンハルト公爵が私を見た。


「読む必要はない」


 短い言葉だった。


 マルタも言う。


「診察が先です」


 私はしばらく黙っていた。


 読みたくない。

 怖い。

 また責められるかもしれない。

 戻れと言われるかもしれない。

 あるいは、中途半端に謝られるかもしれない。


 どれも嫌だった。


 でも。


 私はゆっくり息を吸った。


「診察の後で、読みます」


 レオンハルト公爵の眉が動く。


「無理をするな」


「無理かもしれません」


「なら」


「でも、逃げ続けるのも嫌です」


 私は手首の傷を見た。


 まだ痛む。

 けれど、枷はもうない。


「私は、殿下からの言葉に怯えています。でも、怯えているからこそ、自分で読むか読まないかを決めたいです」


 レオンハルト公爵はしばらく黙っていた。


 やがて、静かに頷く。


「分かった」


「ただし」


「何だ」


「読んでいる途中で嫌になったら、破ってもいいですか」


 公爵の口元が、ほんの少し動いた。


「燃やしてもいい」


 マルタがすかさず言った。


「暖炉はよく燃えております」


 医師が咳き込んだ。


 私は、今度こそ小さく笑った。


 歓迎されているわけではない。


 疑われている。

 警戒されている。

 この屋敷の誰も、まだ私を知らない。


 それでも。


 ここでは、嫌だと言ってもいいらしい。

 破ってもいいらしい。

 必要のない謝罪はしなくていいらしい。


 私は布団の中で、そっと息を吐いた。


 冷血公爵家の使用人たちは、私を歓迎しなかった。


 けれど、少なくとも。


 私を黙って傷つけるつもりも、ないようだった。


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