第5話 契約婚約者の馬車は、思ったより静かでした
王宮の門を抜けると、馬車の中は急に静かになった。
不思議なものだと思う。
つい先ほどまで、私は地下牢にいた。
処刑されるはずだった。
王前会議室で国王陛下や王妃殿下に囲まれ、妹に泣かれ、元婚約者に責められ、父には家の恥だと言われた。
なのに今、聞こえるのは馬車の車輪が石畳を踏む音と、窓を叩く細い雨音だけ。
世界が急に遠ざかったみたいだった。
私は膝の上で両手を握っていた。
手首には枷の痕が残っている。
赤黒く擦れて、ところどころ皮膚が破れていた。見ないようにしても、痛みは消えない。
けれど、その痛みよりも、父の言葉の方がずっと深く残っていた。
『昨夜、君の処刑同意書に署名した者の中に、アルヴィナ公爵の名がある』
父は、私の死に署名した。
家を守るために。
面目を守るために。
セレーネの将来を守るために。
きっと父には父の理由があったのだろう。
そう考えようとして、やめた。
理由があれば、娘の死に署名していいわけではない。
私は窓の外を見た。
雨に濡れた王都の街並みが、薄明かりの中を流れていく。早朝のため、人影は少ない。石造りの建物の軒下で、パン屋の職人らしき男が戸板を開けていた。煙突から細い煙が立ち上る。
あの人たちには、いつも通りの朝なのだろう。
誰かが処刑台から逃れたことも、王宮で毒殺未遂事件の再調査が決まったことも、冷血公爵の馬車に元王太子妃候補が乗っていることも知らない。
世界は、人が一人死にかけても、案外普通に朝を迎える。
「食べろ」
向かいの席から、短い声が飛んできた。
私は視線を戻す。
レオンハルト公爵が、いつの間にか小さな包みを開いていた。中には白い布に包まれたパンと、薄切りの燻製肉、蜂蜜を塗った焼き菓子が入っている。
馬車の中に、かすかに温かな匂いが広がった。
「……今ですか」
「今だ」
「私はつい先ほど、自分の父が処刑同意書に署名していたと聞かされたばかりなのですが」
「だから食べろ」
「繋がりが分かりません」
「空腹のまま考えると、悪い方へ落ちる」
その言い方があまりにも実用的で、私は一瞬返事に詰まった。
慰めではない。
励ましでもない。
ただの対処法。
この人の優しさは、いつも薬みたいだ。甘くはない。むしろ苦い。でも、効くかもしれないと思わせるところがある。
「食欲がありません」
「一口でいい」
「一口で公爵閣下は納得なさるのですか」
「二口ならなおいい」
「増えましたね」
「交渉だ」
「交渉の形をした命令では?」
「よく分かったな」
「分かります」
私は小さく息を吐いた。
そして、差し出されたパンを見た。
正直、食べ物を見るだけで胃が重くなる。昨夜からほとんど何も口にしていないのに、不思議と空腹を感じなかった。身体が、食べることを忘れているようだった。
でも。
私はパンを受け取った。
指先が震えて、少しだけ布を落としそうになる。
レオンハルト公爵の手が伸びたが、私は首を振った。
「自分で持てます」
「落としそうだ」
「落としたら拾います」
「床に落ちたものは食べるな」
「さすがに食べません」
「念のためだ」
「公爵閣下の中で、私はどういう令嬢になっているのですか」
「地下牢帰りで、熱があり、三歩で倒れ、食事を拒む令嬢」
「事実の並べ方に悪意があります」
「悪意はない」
「悪意がないのが一番困ります」
パンを少しだけ口に入れた。
硬い。
思ったより硬い。
けれど、噛んでいるうちに小麦の甘さがじわりと広がった。地下牢の湿った空気ではなく、ちゃんとした食べ物の味がした。
それだけで、胸の奥が奇妙に揺れた。
私は生きている。
パンを噛んで、飲み込んで、まだ生きている。
「……一口、食べました」
「よくやった」
その言葉に、喉が詰まりそうになった。
よくやった。
たかがパンを一口食べただけなのに。
それでも、今の私には、その一言が妙に沁みた。
「今のは、幼子に言う言葉ではありませんか」
「病人にも言う」
「私は病人ですか」
「違うのか」
「……否定できません」
私はもう一口、パンを食べた。
レオンハルト公爵は、何も言わずに小さな革袋を差し出した。中には温かい茶が入っているらしい。受け取ると、掌にじんわりと熱が移った。
「毒は入っていない」
公爵が言った。
私は革袋を見つめる。
「……疑っているように見えましたか」
「見えた」
「顔に出ていましたか」
「少し」
「公爵閣下は、観察力が高すぎます」
「必要だからな」
私は革袋の口を開け、そっと香りを嗅いだ。
薬草茶だった。
少し苦く、土のような匂いがする。王宮で出される花の香りの紅茶とはまるで違う。飾り気がなくて、正直、あまりおいしそうではなかった。
「先に飲みましょうか」
レオンハルト公爵が言う。
私は慌てて首を振った。
「いえ。大丈夫です」
「無理をするな」
「無理ではありません。ただ……」
「ただ?」
「あなたが先に口をつけたものを私が飲むのは、それはそれで別の問題が発生します」
言ってから、しまったと思った。
レオンハルト公爵は、一拍置いて革袋を見た。
それから私を見た。
「別の問題」
「忘れてください」
「具体的には?」
「忘れてください」
「気になる」
「気にしないでください」
「分かった」
すぐ引かれると、それはそれで恥ずかしい。
私は薬草茶を飲んだ。
苦い。
とても苦い。
思わず顔が歪む。
「まずいか」
「……体に良さそうな味です」
「まずいのだな」
「はい」
「正直でいい」
「今のは褒められていますか」
「たぶん」
「たぶん」
少しだけ笑ってしまった。
声にはならない。
でも、胸の奥がほんの少し軽くなる。
こんな朝に笑えるなんて、思わなかった。
馬車は王都の中心街を抜け、貴族街へ向かっているらしい。窓の外の建物が少しずつ大きく、整ったものになっていく。通りの掃除をしていた使用人が、黒い馬車の紋章に気づいて慌てて頭を下げた。
銀の狼。
クラウゼル公爵家。
私がこれから身を置く場所。
「公爵閣下」
「何だ」
「契約の内容を確認させてください」
レオンハルト公爵は、わずかに目を細めた。
「今か」
「今です」
「熱がある」
「熱があっても、契約は確認できます」
「食事は途中だ」
「食べながら聞きます」
「器用だな」
「王太子妃教育で、微笑みながら不愉快な話を聞く訓練を受けました」
「役に立っているのか」
「非常に不本意ながら」
公爵は少しだけ黙った。
そして、懐から折りたたまれた書類を取り出した。
すでに契約書の草案が用意されている。
本当に用意がいい。
「……いつ作ったのですか」
「昨夜」
「昨夜、私は地下牢にいたのですが」
「だから急いだ」
「急いで婚約契約書を作る人生、なかなかありませんね」
「私も初めてだ」
「でしょうね」
公爵は書類を広げた。
几帳面な字だった。
意外だった。もっと荒々しい字を想像していた。
内容は簡潔だった。
一つ。
エリシア・フォン・アルヴィナは、再調査終了までクラウゼル公爵家の保護下に入る。
二つ。
レオンハルト・ヴァン・クラウゼルは、エリシアの身の安全を保証する。
三つ。
エリシアは、自身の無実を証明するため、記憶・記録・証言の提供に協力する。
四つ。
婚約は契約上のものであり、無実の証明後、双方の合意により解消できる。
五つ。
レオンハルトは、エリシアに婚姻・同衾・社交的義務を強制しない。
私は、その五つ目で目を止めた。
「……ずいぶん、明確に書かれているのですね」
「必要だろう」
「私が疑うと思いましたか」
「疑って当然だ」
レオンハルト公爵は、当たり前のように言った。
「処刑前夜の女を助け、婚約者にする男など、信用しない方がいい」
「ご自分でおっしゃいますか」
「事実だ」
「では、公爵閣下は信用しない方がいい男なのですね」
「今はな」
今は。
その言い方が、少しだけ引っかかった。
「いずれ信用してほしい、という意味ですか」
尋ねると、公爵は黙った。
長い沈黙だった。
馬車の車輪の音が、規則正しく続く。
やがて彼は言った。
「信用は、求めるものではない」
「では?」
「積むものだ」
短い言葉だった。
でも、妙に胸に残った。
信用は求めるものではなく、積むもの。
私は、これまで誰かに信用してほしいと必死に願っていた。
父に。
ユリウス殿下に。
王宮の人々に。
でも、彼らは私を信用しなかった。
私がどれだけ積んできたと思っていたものも、妹の涙一つで崩れた。
「積んでも、崩れることがあります」
「ある」
「では、意味がないのでは」
「崩した相手を覚えられる」
私は顔を上げた。
レオンハルト公爵の表情は変わらない。
「君は今回、誰が君を信じず、誰が君を売り、誰が黙っていたかを知った」
「……嫌な言い方ですね」
「だが必要だ」
「必要なことは、だいたい痛いのですね」
「そういうものだ」
「公爵閣下は、痛いことに慣れていそうです」
言ってから、少し踏み込みすぎたと思った。
けれど公爵は怒らなかった。
「慣れてはいない」
「そうなのですか」
「ああ。痛いものは痛い」
意外なほど普通の答えだった。
私は少しだけ目を瞬いた。
「冷血公爵なのに?」
「血はある」
「涙は?」
「少ない」
「あるのですね」
「たぶん」
また、少し笑いそうになった。
この人の会話は、時々ひどくずれている。
でも、そのずれ方が妙に人間らしい。
完璧な慰めを言われるより、ずっと気が楽だった。
私は契約書に視線を戻す。
「私からも条件があります」
「言え」
「まず、私の侍女をクラウゼル公爵家に呼ばないでください」
「理由は」
「誰が私を見捨て、誰が脅されて黙ったのか、まだ分かりません。今の私には、以前の使用人を信じることができません」
「分かった」
公爵は即答した。
「次に、父やセレーネ、ユリウス殿下との面会は、私の同意なしに行わないでください」
「当然だ」
「当然、ですか」
「君を傷つけた相手を、無断で近づける理由がない」
胸が、また変なふうに痛んだ。
父もユリウス殿下も、私には何の断りもなく踏み込んできた。
私の部屋に。
私の役目に。
私の人生に。
嫌だと言う権利があるのだと、誰も教えてくれなかった。
「それから」
私は少し迷った。
けれど、言うべきだと思った。
「私を、必要以上に憐れまないでください」
レオンハルト公爵が、静かに私を見る。
「憐れまれるのは嫌か」
「嫌です」
「なぜ」
「惨めになるからです」
言ってから、私は自分の膝を見た。
布の下で指先が震えている。
「私は確かに、ひどい目に遭いました。怖かったです。今も怖い。でも、可哀想なだけの女として扱われると、立てなくなりそうで」
言葉を探しながら続ける。
「同情されると、泣いていい気がしてしまうんです。泣いたら、たぶん止まらなくなる。止まらなくなったら、自分が何をしたかったのか分からなくなります」
レオンハルト公爵は黙って聞いていた。
遮らない。
急かさない。
慰めようともしない。
その沈黙がありがたかった。
「だから、憐れまないでください。必要なら使ってください。私もあなたを利用します。けれど、可哀想だから助けた、という顔はしないでください」
「分かった」
あまりにも簡単に返されたので、私は拍子抜けした。
「……分かったのですか」
「君は、憐れまれるより対等に扱われたい」
「対等、というほど立派なものでは」
「対等だ」
公爵は書類を指で押さえた。
「契約だからな」
契約。
冷たい言葉のはずなのに、今の私には少しだけ温かかった。
契約なら、条件を言える。
拒否もできる。
一方的に与えられるだけではない。
「では、私からも条件を追加する」
公爵が言った。
「何でしょう」
「食事を抜くな」
「それは契約条件なのですか」
「重要だ」
「事件の再調査や身の安全と同列に並ぶのですか」
「君はすぐ軽視しそうだ」
「……否定しきれません」
「睡眠も取れ」
「公爵閣下」
「何だ」
「契約婚約者というより、厳しい乳母のようになっています」
「乳母は経験がない」
「経験があったら驚きます」
「だが、兵の管理ならある」
「また軍の話になりました」
私は焼き菓子を少し割った。
蜂蜜の香りがする。
甘いものは喉を通らないと思ったが、少しかじると意外にも食べられた。
甘い。
その甘さに、急に目の奥が熱くなった。
地下牢で、私はもう二度と甘いものを食べることはないと思っていた。
明日の朝には死ぬのだから、味なんて意味がないと思っていた。
でも今、蜂蜜の甘さが舌の上にある。
私は生きている。
「……公爵閣下」
「何だ」
「私、明日の朝、死なないのですね」
声が震えた。
自分でも驚いた。
何度も確認したはずなのに。
国王陛下が処刑延期を命じた。
王宮を出た。
馬車に乗っている。
それでも、まだ心のどこかが信じていなかった。
レオンハルト公爵は、すぐに答えた。
「死なない」
「本当に?」
「本当だ」
「でも、王妃殿下は……」
「今朝は死なない」
私は小さく息を呑んだ。
今朝は。
その言い方は、優しくない。
希望だけを与えてくれる言葉ではない。
けれど、現実だった。
私はまだ狙われているかもしれない。
王妃が敵かどうかは分からない。
父も、妹も、ユリウス殿下も、何をするか分からない。
でも、今朝は死なない。
それだけで十分だった。
「……では、明日も生きるために、何をすればよいですか」
レオンハルト公爵は、少しだけ私を見る目を変えた。
ほんのわずかに。
でも分かった。
今の私は、守られるだけの女ではなく、生きるために動こうとしている女として見られたのだと思う。
「まず、寝ろ」
「またそれですか」
「熱がある」
「その次は?」
「起きたら、覚えていることをすべて書き出す」
「茶会のことですね」
「茶会だけではない。王太子妃教育で触れた書類、慈善基金、王宮薬品庫、セレーネ嬢の侍女、王妃宮に出入りしていた商人。些細なことでもいい」
「私が覚えているとは限りません」
「覚えている」
「なぜそう言い切れるのですか」
「君は、さっき会議室で警備配置を暗唱した」
「必要だったからです」
「だから覚えている」
レオンハルト公爵は、淡々と言った。
「君は自分が思うより、ずっと多くのものを見ている」
胸が、また痛んだ。
父にも、ユリウス殿下にも、私が見ていたものの価値は伝わらなかった。
私がどれだけ覚え、整え、補ってきたか、誰も知らなかった。
でも、この人はそれを利用価値として見ている。
それが少し悔しくて、少し嬉しい。
「私を褒めているのですか、利用しているのですか」
「両方だ」
「正直ですね」
「嘘は嫌いなのだろう」
「はい」
「なら、嘘はつかない」
私は焼き菓子をもう一口食べた。
甘さが、今度は少しだけ苦く感じた。
「公爵閣下は、なぜそこまで王宮を調べているのですか」
ずっと気になっていたことを聞いた。
レオンハルト公爵は、すぐには答えなかった。
馬車が角を曲がる。
外の景色が、王都の中心から貴族街の奥へ変わっていく。塀の高い屋敷が増え、門にはそれぞれ家紋が掲げられている。
「数年前」
やがて、公爵が口を開いた。
「北方への軍費が削られた」
「軍費が?」
「表向きは慈善基金への転用だった。孤児院、救貧院、戦災未亡人への支援。反対しにくい名目だ」
「それは……」
私は眉をひそめた。
聞き覚えがある。
王妃殿下が力を入れていた慈善基金。
王太子妃教育の一環として、私も何度か収支表を見たことがあった。
美しい名前の基金だった。
白百合慈善基金。
「でも、支援先のいくつかは実在しなかった」
レオンハルト公爵が言った。
私は息を止めた。
「実在しない?」
「書類上だけの孤児院。閉鎖済みの救貧院。受け取ったはずの金が届いていない未亡人たち」
「そんな……」
言いかけて、私は口を閉じた。
ないと言い切れなかった。
思い出したのだ。
収支表の中に、妙に整いすぎた数字があったことを。
毎月同じ金額。
同じ筆跡の受領書。
確認を求めたら、王妃宮の侍女に「王妃殿下がすでにご覧になっています」と言われたこと。
私はそれ以上、踏み込まなかった。
王太子妃候補である私が、王妃殿下の事業に疑問を呈することは許されないと思ったから。
「……私、見たかもしれません」
声が掠れた。
「何を」
「白百合慈善基金の収支表です。変な数字がありました。でも私は、確認しませんでした。王妃殿下の管轄だからと」
「今はそれでいい。思い出せ」
責めない声だった。
それが逆に苦しかった。
「私がもっと早く調べていれば」
「君は当時、王太子妃候補の令嬢に過ぎない」
「でも、見ていました」
「見ていたことと、止められたことは違う」
「公爵閣下は、すぐそうやって切り分けますね」
「混ぜると潰れる」
公爵の言葉は短い。
でも、確かにそうなのかもしれない。
見ていた罪悪感。
止められなかった無力感。
今さら思い出した恐怖。
全部を一緒に抱えれば、私は潰れる。
「では、一つずつ考えます」
「ああ」
「まず、白百合慈善基金。次に王宮薬品庫。それから、茶会の警備配置。セレーネの侍女。毒瓶の押収記録」
「十分だ」
「まだあります」
私は少し考える。
「王妃宮に出入りしていた香料商人がいます。名前は確か、モルガン商会。茶会の三日前、セレーネの部屋にも香油を届けていました」
レオンハルト公爵の目が鋭くなった。
「それは記録にあるか」
「王妃宮の出入り記録にはあるはずです。ただ、セレーネの部屋への届け物は私的な贈答扱いで、正式記録には残っていないかもしれません」
「なぜ知っている」
「セレーネが自慢していたので」
「自慢?」
「王妃殿下から特別にいただいた香りだと。ユリウス殿下が好きな白い花の香りだから、と」
言ってから、私は固まった。
白い花の香り。
毒の瓶が見つかった時、私の部屋にかすかに残っていた香り。
あれは。
「エリシア」
レオンハルト公爵の声が低くなる。
「顔色が変わった」
「……思い出しました」
「何を」
「毒瓶が見つかったとされた日、私の部屋に白い花の香りが残っていました。私は、セレーネがまた勝手に私の部屋に入ったのだと思って……でも、侍女には言いませんでした。妹を叱れば、また私が冷たいと言われると思って」
指先が冷たくなる。
小さな見逃し。
飲み込んだ違和感。
それが今になって、毒のように戻ってくる。
「白い花の香りか」
レオンハルト公爵は、低く呟いた。
「モルガン商会。王妃宮。セレーネ嬢の香油。毒瓶のあった部屋」
「……繋がりますか」
「調べる価値はある」
私の心臓が速くなる。
怖い。
でも、初めて道が見えた気がした。
誰かが私の部屋に毒瓶を置いた。
その誰かは白い花の香りをまとっていたかもしれない。
セレーネなのか、セレーネの侍女なのか、王妃宮の誰かなのか。
分からない。
でも、分からないまま処刑される朝はもう過ぎた。
「公爵閣下」
「何だ」
「私、役に立ちますか」
聞いてから、自分で嫌になった。
また、役に立つかどうかを気にしている。
価値があるか。
使えるか。
必要とされるか。
前世からずっと染みついた癖。
レオンハルト公爵は、しばらく私を見ていた。
そして言った。
「役に立たなくても、君の首は守る」
息が止まった。
「……契約と違います」
「違わない」
「私はあなたに情報を提供する。その代わりにあなたは私を保護する。そういう契約では?」
「そうだ」
「なら、私が役に立たなければ」
「契約は破棄しない」
「なぜ」
「君が無実であることと、君が役に立つことは別だからだ」
言葉が出なかった。
何かをしなければ守られないと思っていた。
役に立たなければ捨てられると思っていた。
失敗すれば価値がなくなると思っていた。
なのに、この人は平然と言う。
役に立たなくても、首は守ると。
「……そういうことを言うのは、ずるいです」
「またずるいのか」
「はい」
「では慣れろ」
「慣れたくありません」
「なぜ」
「泣きそうになるので」
「泣けばいい」
「またそれですか」
私は顔を背けた。
窓の外を見るふりをする。
雨はほとんど止んでいた。
雲の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
目の奥が熱い。
でも、涙はこぼれなかった。
まだ、泣くのは怖い。
代わりに、私は小さく呟いた。
「……少しだけ、信用しそうになります」
レオンハルト公爵は答えなかった。
ただ、向かいの席で静かに座っている。
その沈黙が、急かさないものだったので助かった。
馬車はやがて、大きな門の前で速度を落とした。
窓の外に、黒い鉄柵と、銀狼の紋章が見える。
その奥には、重厚な石造りの屋敷があった。
クラウゼル公爵邸。
王宮の華やかさとは違う。
装飾は少なく、どこか要塞のようだ。壁は灰色で、窓は高く、庭の木々もきちんと刈り込まれている。
美しいというより、隙がない。
「着いた」
レオンハルト公爵が言った。
私は膝の上で手を握る。
「ここが、あなたのお屋敷ですか」
「ああ」
「冷血公爵家らしいですね」
「褒めているのか」
「感想です」
「そうか」
馬車が玄関前で止まった。
扉の外に、人の気配がある。
私は息を整えた。
これから私は、クラウゼル公爵家の人々と会う。
彼らにとって私は、王太子毒殺未遂の容疑者だ。
公爵が突然連れ帰った契約婚約者だ。
歓迎されるとは思えない。
扉が開いた。
冷たい朝の空気が流れ込む。
レオンハルト公爵が先に降り、私へ手を差し出した。
「歩けるか」
「歩けます」
「本当に?」
「屋敷の方々の前で横抱きにされるのは、できれば避けたいです」
「倒れたら抱える」
「倒れません」
「ならいい」
私は彼の手を借りて、馬車を降りた。
足元が少しふらつく。
けれど、倒れなかった。
玄関前には、使用人たちが整列していた。
その先頭に立つのは、年配の女性だった。
背筋が伸び、銀混じりの髪をきっちり結い上げている。黒い侍女服には皺一つない。鋭い目が、私を上から下まで見た。
その視線に、私は思わず背筋を伸ばした。
女性は深く礼をする。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ。マルタ、客室を用意しろ」
「すでに」
マルタと呼ばれた女性は、もう一度私を見る。
礼儀正しい。
でも、温かくはない。
「そちらが、エリシア・フォン・アルヴィナ様でいらっしゃいますね」
「はい」
私はかすれた声で答えた。
「突然のことで、ご迷惑をおかけいたします」
マルタは表情を変えなかった。
「迷惑かどうかを判断するには、まだ材料が足りません」
はっきりした言葉だった。
後ろの使用人たちが、わずかにざわつく。
レオンハルト公爵が眉を動かす。
「マルタ」
「旦那様」
マルタは少しも怯まなかった。
「屋敷の者は皆、旦那様のご決定には従います。ですが、王太子殿下への毒殺未遂で処刑されるはずだった令嬢を、突然婚約者として迎えると聞かされれば、戸惑わぬ者はおりません」
空気が冷えた。
私は唇を噛む。
当然だ。
当然の反応だ。
それなのに、胸は痛んだ。
レオンハルト公爵が低く言う。
「彼女は容疑者であって、罪人ではない」
「承知しております」
マルタは私を見たまま言った。
「ですから、罪人としては扱いません」
そして、少しだけ目を細める。
「ただし、奥様として扱うかどうかは、これから拝見いたします」
奥様。
その言葉に、使用人たちの視線が一斉に私へ向いた。
歓迎ではない。
好奇心。警戒。不信。
私は、王宮を出てもまだ、誰かの視線の中にいる。
けれど、地下牢とは違う。
ここでは、まだ何も始まっていない。
私は震える足に力を入れ、マルタを見返した。
「分かりました」
声は細かった。
でも、逃げなかった。
「でしたら、私も見ていただけるよう努めます。罪人ではなく、ただ守られるだけの女でもなく」
少し息を吸う。
「エリシアという人間として」
マルタの眉が、ほんのわずかに動いた。
レオンハルト公爵は何も言わない。
ただ、私の隣に立っていた。
クラウゼル公爵家の玄関扉が、重い音を立てて開く。
その奥にある屋敷は、王宮よりもずっと静かで、ずっと冷たく見えた。
私は、そこへ一歩踏み出した。
処刑台から逃げた先が、温かな楽園だとは限らない。
でも、ここから始めるしかない。
私はもう、黙って死ぬ女ではないのだから。




