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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第4話 父は私を見捨てたくせに、家の恥だと言いました

 王前会議室を出たあと、私はしばらく何も話せなかった。


 廊下は長く、夜明け前の王宮はまだ薄暗い。

 燭台の火が壁に揺れ、磨かれた床に私たちの影を伸ばしていた。


 私はレオンハルト公爵に抱えられていた。


 また、である。


 もう抗議する気力もなかった。

 正確に言えば、抗議した。

 会議室を出てすぐに「歩けます」と言った。

 けれど公爵は私の顔を一瞥し、「嘘だ」とだけ答えて、そのまま抱き上げた。


 雑だった。


 あまりにも雑だった。


 普通、もう少しあるだろう。

 「失礼する」とか、「少し我慢しろ」とか、「無理をするな」とか。

 そういう言葉が。


 なのに、この人は当然のように私を抱える。


 まるで、床に落ちそうな書類束を拾うみたいに。


 ……いや、書類束よりは丁寧かもしれない。

 たぶん。


「公爵閣下」


「何だ」


「私は荷物ではありません」


「知っている」


「では、もう少し荷物ではない扱いをしてください」


「具体的には」


「抱き上げる前に一言あるとか」


「次から言う」


「次がある前提なのですね」


「君はすぐ倒れそうになる」


「好きで倒れそうになっているわけではありません」


「知っている」


 短い返事だった。


 冷たいようで、妙に責めていない声だった。


 そのせいで、私はそれ以上強く言えなくなった。


 悔しい。


 この人は、不器用なくせに、たまに逃げ道を塞ぐような優しさを見せる。


「……重くありませんか」


「軽い」


「それはそれで、令嬢として少し複雑です」


「地下牢に一晩いた女に、体重を気にする余裕があるのか」


「あります。女ですので」


「そうか」


「そこはもう少し気の利いたことを言うところです」


「痩せすぎだ。食べさせる」


「気の利き方が軍馬の管理みたいです」


「軍馬は大事だ」


「私は軍馬ではありません」


「知っている」


 公爵の返事は相変わらず短い。


 けれど、その声を聞いていると、不思議と地下牢の冷たさが遠のいていく気がした。


 会議室での出来事が、少しずつ現実になっていく。


 処刑は延期された。

 私は明日の朝には死なない。

 けれど無実になったわけではない。

 クラウゼル公爵家に預けられる。

 王妃は私を「厄介」と言った。

 セレーネの証言は揺らいだ。

 ユリウス殿下は、初めて迷った。


 そして父は。


『娘の命より面目か、アルヴィナ公爵』


 国王陛下の声が、まだ耳に残っている。


 父は何も言えなかった。


 それが、答えだった。


 胸の奥が鈍く痛む。


 怒りとは違う。

 悲しみとも少し違う。

 もっと古くて、もっとみっともないもの。


 幼い頃からずっと、父に褒められたかった。


 ただ、それだけだったのかもしれない。


 立派な公爵令嬢になれば。

 王太子殿下の婚約者として恥ずかしくない女になれば。

 妹の失敗を責めず、家の不和を外に見せず、王宮で完璧に振る舞えば。


 いつか父は私を見てくれる。


 そう思っていた。


 見てはくれていた。

 ただし、娘としてではなく。


 役に立つ駒として。


「エリシア」


 レオンハルト公爵が私の名を呼んだ。


「顔が悪い」


「顔色、ではなく?」


「顔色が悪い」


「今のは、少し傷つきました」


「すまない」


 素直に謝られて、逆に困った。


「……考え事をしていただけです」


「父親のことか」


 あまりに直球だったので、私は黙った。


 この人は本当に、心の傷口を遠慮なく指で押すようなことを言う。

 しかも悪意なく。


「公爵閣下」


「何だ」


「人が考えないようにしていることを、正面から言わないでください」


「考えないようにしても、顔に出ている」


「では見ないでください」


「それは無理だ」


「なぜです」


「抱えているからだ」


「……そうでした」


 会話が変なところで終わる。


 でも、その変な会話のおかげで、涙が出ずに済んだ。


 階段を下り、王宮の正面玄関へ向かう。


 外は雨が小降りになっていた。

 窓の向こうに、夜明け前の青い光が滲んでいる。


 王宮の玄関広間には、すでにクラウゼル公爵家の馬車が用意されていた。


 黒塗りの馬車。

 扉には銀の狼の紋章。

 馬も御者も、妙に静かだった。


 その馬車を見た瞬間、私はようやく実感した。


 本当に、王宮を出るのだ。


 王太子の婚約者として何度も通った場所。

 失敗しないように、笑い方一つまで気を張って歩いた廊下。

 誰かの視線、誰かの評価、誰かの機嫌ばかり気にしていた場所。


 そこから私は、罪人としてではなく、容疑者としてでもなく。


 冷血公爵の契約婚約者として出ていく。


 ……冷静に考えると、やはり状況がおかしい。


「レオンハルト公爵閣下!」


 その声で、私の身体はびくりと震えた。


 父だった。


 アルヴィナ公爵は、息を切らしながら玄関広間に駆け込んできた。

 いつもの父なら、決してそんな姿を人前に見せない。髪の乱れも、上着の皺も、乱れた呼吸も、すべて隠す人だった。


 でも今は違う。


 父は焦っていた。


 それが分かってしまう程度には、私は父を見てきた。


「お待ちください。娘と話をさせていただきたい」


 レオンハルト公爵は足を止めた。


 ただし、私を下ろす気配はない。


 父の目が、私を抱えている公爵の腕に向かう。

 その視線に、嫌悪のようなものが混じった。


「エリシア。いつまでそのような格好でいるつもりだ」


 最初の言葉が、それだった。


 私は思わず笑いそうになった。


 手首の傷でもない。

 顔色でもない。

 生きていてよかった、でもない。


 格好。


 家の恥にならないか。

 人目にどう映るか。

 父にとって、最初に気になるのはそこなのだ。


「地下牢帰りですので」


 私は静かに答えた。


「礼服を選ぶ余裕がございませんでした」


 父の眉が跳ねる。


「口答えをするな」


 その言葉に、昔の私が少しだけ肩を竦めた。


 でも、今の私は黙らなかった。


「質問に答えただけです」


「エリシア!」


 父が怒鳴る。


 玄関広間に声が響いた。

 控えていた侍従や兵たちが、気まずそうに目を逸らす。


 レオンハルト公爵の腕が、ほんの少し強くなった。


「声を荒らげるな」


「クラウゼル公爵閣下。これは我が家の問題です」


「昨夜、あなたはその“我が家の問題”として、彼女を処刑台へ送ろうとした」


 父の顔が歪んだ。


「違う。私は家を守ろうとしたのです」


「娘を犠牲にして」


「貴族とはそういうものだ!」


 父の声に、必死さが滲んだ。


「家があってこその個人だ。公爵家の名が潰れれば、使用人も領民も路頭に迷う。セレーネの将来もなくなる。私には守るべきものがある!」


 私は黙って父を見ていた。


 言っていることは、きっと完全な嘘ではない。


 公爵家を守る責任。

 領地。使用人。婚姻関係。派閥。王家との繋がり。

 父には父の重荷があったのだろう。


 でも。


「その守るべきものの中に、私は入っていましたか」


 父の口が止まった。


 玄関広間に、雨音だけが残る。


 私はレオンハルト公爵の腕の中から、父を見下ろす形になっていた。

 本当は床に下りたかった。自分の足で立って言いたかった。


 けれど、今の私は立てない。


 それでも、言葉だけは自分のものだった。


「お父様。私はずっと、家のために生きてきました」


「それは当然だ。お前はアルヴィナ公爵家の長女として――」


「当然ではありません」


 父が目を見開く。


「私は、当然だと思うように育てられました。でも、本当は当然ではありません」


 声が震えた。


 悔しい。

 父の前では、まだ震える。


 怖いのか。

 悲しいのか。

 子どもの頃の癖が残っているのか。


 分からない。


「王太子妃教育を受けるのも、殿下の失敗を補うのも、セレーネの失言を謝るのも、継母の機嫌を損ねないようにするのも、家の帳簿の不自然な数字に目をつぶるのも」


「エリシア!」


 父の顔色が変わった。


 帳簿。


 その言葉に反応した。


 私は胸の奥が冷えるのを感じた。


 今、父は何を恐れたのだろう。


「……やはり、何かあるのですね」


「黙れ」


「何を黙ればよいのですか。家の帳簿ですか。それとも、私が気づいていたことですか」


「お前は何も分かっていない」


「はい。分かっていませんでした」


 私は小さく息を吸った。


「お父様が、私を娘として見ていなかったことも」


 父の頬が引きつった。


「ふざけるな。私はお前を育てた」


「育ててくださいました。教育も受けさせてくださいました。ドレスも宝石も与えてくださいました」


「ならば――」


「でも、守ってはくださいませんでした」


 父は黙った。


 私は続けた。


「私が処刑されそうになった時、お父様は私に罪を認めろとおっしゃいました。私はやっていないと、何度も言いました。それでも、お父様は私を信じなかった」


「状況が悪すぎたのだ!」


「娘の言葉を信じるには、状況が必要なのですか」


 父の目が揺れた。


 ほんの少しだけ。


 そこに後悔があったのか、怒りがあったのかは分からない。


「……お前は昔からそうだ」


 父が低く言った。


「正しいことばかり言う。相手がどれほど苦しい立場にいるか考えもせず、自分の正しさを突きつける。だから、可愛げがないのだ」


 可愛げがない。


 その言葉は、思った以上に胸を刺した。


 私は知っていた。


 父がセレーネを見る時の目と、私を見る時の目は違う。

 セレーネが泣けば父は困った顔で慰める。

 私が困れば、父は眉をひそめて「しっかりしなさい」と言う。


 可愛げがない。

 泣かない。

 甘えない。

 頼らない。


 そうなるように育てたのは、誰だったのだろう。


「そうですね」


 私は言った。


「私は、可愛げのない娘でした」


 父は少しだけ、勝ったような顔をした。


 だから私は、続けた。


「でも、可愛げがないから殺されてもいい理由にはなりません」


 父の顔が固まる。


 レオンハルト公爵が、背後でほんのかすかに息を吐いた。

 笑ったのかもしれない。

 怒りを抑えたのかもしれない。


「お父様。私は、もうアルヴィナ公爵家には戻りません」


「許さん」


「許していただく必要はありません」


「エリシア!」


「お父様は昨夜、私を手放しました」


 父の目が見開かれる。


「家のために死ねと。罪を認めろと。そうおっしゃいました」


「言っていない!」


「同じ意味です」


 私は、ゆっくりと言った。


「お父様が私を娘として守らないのなら、私も娘として従うことはできません」


 父の顔が赤くなった。


「お前……誰に向かって口を利いている。私がいなければ、お前は何者でもないのだぞ。アルヴィナの名がなければ、社交界で生きていけると思うのか」


 その言葉に、少し前の私なら打ちのめされていた。


 アルヴィナの名。

 公爵令嬢という立場。

 王太子の婚約者という価値。


 それがなくなれば、自分には何もないと思っていた。


 でも、昨夜、地下牢で思い出した。


 前世の私は、何の肩書きもない女だった。

 それでも働いて、母を看て、毎日を生きていた。

 上手に生きられなかったけれど、それでも確かに生きていた。


 肩書きがなければ何者でもない。

 そんなことはない。


 たとえ何者でもなくても、私は私だ。


「では、何者でもないところから始めます」


 父が息を呑んだ。


「な……」


「アルヴィナ公爵家の長女でも、王太子殿下の元婚約者でも、家の恥でもなく」


 私は、少しだけ震える唇で言った。


「ただのエリシアとして、生きます」


 父は、まるで理解できないものを見るように私を見た。


 その顔に、ほんのわずかに恐怖があった。


 自分の命令が届かない娘。

 家の名で縛れない娘。

 父の失望を恐れない娘。


 父にとって、それはきっと初めて見る私だった。


「クラウゼル公爵」


 父は私から視線を外し、レオンハルト公爵を睨んだ。


「娘を惑わせたのはあなたか」


「違う」


「では、なぜ急にこのような口を」


「急ではない」


 レオンハルト公爵の声は冷たかった。


「あなたが聞かなかっただけだ」


 父の肩が揺れる。


「何を知ったようなことを」


「昨夜の地下牢で、彼女は何度も言った。死にたくないと。自分はやっていないと」


「……」


「その声を、あなたは聞かなかった」


 父は言い返せなかった。


 レオンハルト公爵は続けた。


「家の恥と呼んだ娘を、家の都合で返せと言う。随分と都合の良い父親だな」


「貴様……!」


 父が怒りで顔を歪める。


 近くにいたクラウゼル家の護衛が、わずかに動いた。

 剣に手をかけたわけではない。けれど、それだけで父は一歩引いた。


 公爵家同士とはいえ、クラウゼル公爵家の軍事力は別格だ。

 父もそれを知っている。


 レオンハルト公爵は、淡々と言った。


「アルヴィナ公爵。今後、エリシアに接触する際は、私を通せ」


「父である私に、娘と会う許可を取れと言うのか」


「昨夜、父親であることを放棄したのはあなたです」


 父の顔から、怒りの色が引いていく。


 代わりに、奇妙な焦りが浮かんだ。


「エリシア」


 父は私を見た。


 さっきまでの命令口調ではなかった。


「……戻りなさい」


 その声に、私は胸の奥を掴まれた。


 初めてだった。


 父が、少しだけ弱い声で私を呼んだのは。


「今なら、まだ間に合う。クラウゼル公爵家に行けば、もう後戻りはできん。お前は王宮にも、我が家にも、簡単には戻れなくなる」


「戻る場所が、あったのですか」


「エリシア」


「私の部屋は、昨夜捜索されたのでしょう。毒瓶が見つかったとされた部屋です。私の侍女たちは、もう私を主人とは思っていないでしょう。家の中では、私は王太子を殺そうとした娘です」


「それは……誤解が解ければ」


「誤解が解けるまで、私はどこで息をすればよいのですか」


 父は黙った。


「お父様。私は、あの家で息ができません」


 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。


 でも、それは本当だった。


 公爵家の大きな屋敷。

 私のために用意された豪華な部屋。

 上質な家具。

 季節ごとに替えられる花。

 宝石箱。

 王妃教育の書類。

 殿下から贈られた、義務のような宝飾品。


 あの部屋で、私はいつも息苦しかった。


 でも、それを贅沢な悩みだと思っていた。


 屋根があり、食事があり、服がある。

 なのに苦しいなんて、わがままだと。


 でも違った。


 人は、宝石に囲まれていても、息ができなくなる。


「私は戻りません」


 今度は、はっきり言えた。


 父はしばらく私を見ていた。


 その目に、怒りと戸惑いと、ほんの少しの傷つきが混じる。


 傷ついているのか。


 父が。


 私を地下牢に置き去りにした父が、私に拒絶されて傷ついている。


 そのことが、ひどく人間臭くて、少しだけ嫌だった。


 完全な悪人ならよかった。

 私を道具としか思っていない冷たい父なら、憎むだけで済んだ。


 でも、父はきっと、父なりに家を守ろうとしていた。

 父なりに私を育てたつもりだった。

 父なりに、正しいと思っていた。


 だから厄介なのだ。


 人は、自分が正しいと思いながら誰かを傷つける。


 それが一番、痛い。


「……勝手にしろ」


 父は低く言った。


 その声は、怒鳴り声よりもずっと冷たかった。


「お前がそこまで言うなら、好きにすればいい。だが覚えておけ。アルヴィナの名を捨てるということは、守りも失うということだ。社交界は甘くない。王宮も、世間も、お前が思うほど優しくはない」


「存じております」


「分かっていない!」


 父が声を荒げる。


「お前は、守られていたのだ! 家に、名に、私に! その外に出れば、どれほど冷たいか――」


「地下牢よりも?」


 父の言葉が止まった。


 私は静かに続けた。


「地下牢よりも冷たい場所なら、確かに怖いです」


「エリシア……」


「でも、あの場所に私を置いたのは、お父様です」


 父はもう何も言わなかった。


 私はレオンハルト公爵を見上げる。


「公爵閣下。馬車へ」


「ああ」


 公爵は歩き出した。


 父の横を通り過ぎる時、父が小さく言った。


「……後悔するぞ」


 私は返事をしなかった。


 後悔なら、もう山ほどしている。


 もっと早く嫌だと言えばよかった。

 もっと早く助けてと言えばよかった。

 もっと早く、自分の人生を誰かに預けるのをやめればよかった。


 だから、これ以上同じ後悔を増やしたくない。


 馬車の扉が開く。


 レオンハルト公爵は私を座席に下ろした。

 柔らかな座面に沈んだ瞬間、身体中の力が抜けそうになる。


 公爵も向かいに乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 外の音が少し遠くなった。


 雨に濡れた王宮の玄関広間。

 そこに立つ父の姿が、小窓越しに見えた。


 父はまだ、こちらを見ていた。


 怒っているのか。

 悔やんでいるのか。

 それとも、ただ面目を潰されたことに苛立っているのか。


 分からない。


 分からないままでいいのかもしれない。


 馬車がゆっくり動き出す。


 車輪が石畳を踏む音がした。


「エリシア」


 レオンハルト公爵が私の名を呼んだ。


「はい」


「今のは、よく言った」


 私は目を瞬いた。


「褒めているのですか」


「そうだ」


「分かりにくいです」


「では、もう一度言う。よく言った」


 胸の奥が、じわりと熱くなった。


 父に言ってほしかった言葉だった。


 よくやった。

 よく言った。

 お前は間違っていない。


 それを、なぜこの人が言うのだろう。


「……今、それを言うのはずるいです」


「ずるい?」


「泣きそうになります」


「泣けばいい」


「簡単におっしゃいますね」


「涙は証拠にならない。だが、毒にもならない」


「何ですか、その慰めは」


「慰めに聞こえたなら成功だ」


「半分くらい失敗です」


 そう言うと、ほんの少しだけ息が漏れた。


 笑ったのか、泣き損ねたのか、自分でも分からない。


 レオンハルト公爵は、座席の横に置かれていた膝掛けを私に差し出した。


「使え」


「ありがとうございます」


「食事も用意させている」


「まだ食べられる気がしません」


「一口でいい」


「公爵閣下は、私を軍馬か何かだと思っていませんか」


「軍馬より食が細い」


「比較対象を変えてください」


 会話は相変わらず噛み合っているようで噛み合わない。


 でも、少しだけ落ち着いた。


 私は膝掛けを握りしめ、窓の外を見た。


 王宮の門が近づいている。


 その先に、私は行ったことのない場所が待っている。

 クラウゼル公爵家。

 冷血公爵の屋敷。

 私を利用するという男の領域。


 怖くないわけがない。


 それでも、地下牢へ戻るよりはいい。


「公爵閣下」


「何だ」


「父は……私を愛していなかったのでしょうか」


 聞いた瞬間、自分で後悔した。


 子どもみたいな質問だった。


 でも、言葉は戻せない。


 レオンハルト公爵は、すぐには答えなかった。


 馬車の揺れる音だけが続く。


 やがて彼は言った。


「私には分からない」


 正直な答えだった。


「ただ」


「ただ?」


「愛していたとしても、守らなかった。それは事実だ」


 胸が痛んだ。


 でも、その痛みは不思議とまっすぐだった。


「愛していたかどうかは、後で考えればいい。今は、守られなかった事実を忘れるな」


「厳しいですね」


「忘れると、また戻りたくなる」


 私は黙った。


 この人は、どうしてそこまで分かるのだろう。


 父が少し弱い声で「戻りなさい」と言った瞬間、私は揺れた。


 ほんの少し。

 本当にほんの少しだけ。


 もしかしたら、戻れば今度こそ分かってもらえるのではないか。

 父も反省して、私を娘として見てくれるのではないか。


 そんな愚かな期待が、胸の奥に浮かんだ。


 レオンハルト公爵は、それを見抜いていたのかもしれない。


「……覚えておきます」


「ああ」


 馬車が王宮の門を抜けた。


 その瞬間、空が少しだけ明るくなった。


 雨上がりの朝の匂いが、窓の隙間から入ってくる。

 冷たくて、湿っていて、それでも地下牢の空気とは違う。


 私は目を閉じた。


 終わったわけではない。

 何一つ、解決していない。


 でも、私は王宮の外へ出た。


 処刑台ではなく、生きるために。


 しばらくして、レオンハルト公爵が低く言った。


「エリシア」


「はい」


「一つ、伝えておくことがある」


 私は目を開けた。


 公爵の表情は変わらない。

 けれど、声が少しだけ硬かった。


「昨夜、君の処刑同意書に署名した者の中に、アルヴィナ公爵の名がある」


 息が止まった。


 窓の外で、王宮が遠ざかっていく。


 父が私を信じなかったことは知っていた。

 家のために罪を認めろと言ったことも知っていた。


 でも。


 処刑同意書。


 署名。


 私の死を、紙の上で認めた。


「……そう、ですか」


 声は、自分でも驚くほど静かだった。


 レオンハルト公爵が私を見る。


「今すぐ受け止めなくていい」


「いいえ」


 私は膝掛けを握りしめた。


「受け止めます」


 胸の奥で、何かが軋む。


 でも、もう折れなかった。


「お父様は、私を手放したのではありませんね」


 私は窓の外を見た。


 雨に濡れた王都の石畳が、朝の光を受けて鈍く光っている。


「私を、殺す側に立ったのですね」


 レオンハルト公爵は否定しなかった。


 その沈黙が、何よりの答えだった。


 私はゆっくり息を吐く。


 涙は出なかった。


 代わりに、胸の奥に冷たい火が灯った。


 もう戻らない。


 父がどんな声で呼んでも。

 家がどんな言葉で縛ってきても。

 妹が泣いても。

 元婚約者が後悔しても。


 私はもう、処刑台へ続く家には戻らない。


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