第3話 妹は泣き、元婚約者は私を責めました
王前会議室は、夜明け前とは思えないほど明るかった。
壁に並ぶ燭台には火が入り、長い卓の上にも銀の燭台がいくつも置かれている。磨き上げられた黒樫の机に、火の色が揺れていた。
けれど、温かさはなかった。
むしろ地下牢よりも冷たい。
そう思ったのは、きっとこの部屋にいる人たちの視線のせいだ。
国王陛下。
王妃殿下。
宰相。
法務卿。
近衛騎士団長。
王宮薬品庫の管理官。
そして、少し遅れて入ってきた王太子ユリウス殿下と、妹セレーネ。さらに父であるアルヴィナ公爵。
この国の中枢が、夜明け前の一室に集まっている。
その中心に、私は立っていた。
冷血公爵レオンハルトの外套を肩にかけ、手首には枷の痕を残し、髪も乱れたまま。
処刑前夜の罪人としては、ずいぶん場違いだった。
公爵令嬢としては、もっと場違いだった。
王妃殿下が、扇の陰で微笑む。
「まあ……生きていたのね」
小さな声だった。
けれど、私の耳にははっきり届いた。
生きていたのね。
まるで、死んでいるはずだったものを見つけたような言い方。
私は喉の奥が冷えるのを感じた。
レオンハルト公爵が一歩前に出る。
「王妃殿下」
「あら、クラウゼル公爵。何か?」
「今のお言葉は、どういう意味でしょうか」
部屋の空気がわずかに張り詰めた。
王妃殿下は、ほんの少し目を丸くしてみせた。わざとらしくない。むしろ自然すぎるほど自然な驚き方だった。
「言葉通りですわ。あのような寒い牢に一晩いては、体の弱い令嬢なら命を落としていても不思議ではありませんもの。ねえ、陛下?」
国王陛下は疲れたように眉間を揉んだ。
この場に呼ばれたこと自体、納得していないのだろう。
まだ夜明け前。おそらく寝所から起こされたばかりだ。重い王冠こそ被っていないものの、羽織っただけの濃紺の上衣に、疲労の色が滲んでいた。
「今は言葉尻を争う場ではない」
陛下の声は低かった。
「クラウゼル公爵。処刑を止めると申し出たそうだな」
「はい」
「理由は」
「裁定に重大な不備があります」
レオンハルト公爵は、用意していたらしい書類の束を卓上に置いた。
厚い紙の音が、部屋に響く。
私は、その書類を見た。
いつ用意したのだろう。
私が地下牢で震えていた間、この人は何を調べ、誰を動かし、どこまで手を回していたのか。
怖くもあり、頼もしくもあった。
そして少しだけ、腹が立った。
こんなに調べられる人がいたのなら、どうして私が牢に入れられる前に止めてくれなかったのか。
そう思ってしまう自分が嫌だった。
助けてもらっている立場で、身勝手だ。
でも、身勝手な怒りすら、今までの私は持つことを許してこなかったのかもしれない。
「まず、毒の入手経路が確定しておりません」
レオンハルト公爵は淡々と続けた。
「押収された毒瓶は、エリシア嬢の私室から見つかったとされています。しかし押収時の立会人が二名しかおらず、そのうち一名はセレーネ嬢付きの侍女です。封印記録も不完全です」
「それは……急を要したからだ」
ユリウス殿下が口を挟んだ。
「私は毒を盛られたんだぞ。通常の手続きなど待っていられるか」
「殿下は生きておられます」
「何だと?」
「命に別状はない。医師の診断では、一時的な嘔吐と発熱。毒物の種類も確定していない」
「私が苦しんだことに変わりはない!」
「苦しんだことと、誰が毒を盛ったかは別問題です」
レオンハルト公爵の言葉は、刃物のようだった。
鋭いけれど、声を荒げない。
だから余計に逃げ場がない。
ユリウス殿下は顔を赤くした。
「君は昔からそうだ。何でも理屈で切り捨てる。人の感情というものを考えない」
「考えています」
「嘘をつくな」
「感情で人の首を落とすべきではない、と考えています」
その一言で、殿下は黙った。
私は指先を握りしめる。
人の首。
それは、私の首だ。
会議室では、あまりにも簡単に扱われている。
手続き。裁定。不備。王家の威信。感情。証言。
その言葉の裏にあるのは、私の命なのに。
「エリシア」
国王陛下が私を見た。
その視線に、私は背筋を伸ばす。
「そなたは、王太子に毒を盛ったのか」
まっすぐな問いだった。
昨日の取り調べでは、一度もこう聞かれなかった。
あの時は、こうだった。
『なぜ毒を盛った』
『誰に命じられた』
『嫉妬したのだろう』
『認めれば家への処罰は軽くなる』
罪を前提にした問いばかり。
私は深く息を吸った。
「いいえ。私は、ユリウス殿下に毒を盛っておりません」
声は震えなかった。
ほんの少しだけ、自分を褒めたくなった。
国王陛下は目を細める。
「では、妹セレーネの証言はどう説明する」
セレーネがびくりと肩を震わせた。
部屋の端で、ユリウス殿下の腕に寄り添うように立っている。
薄桃色のショールを握る指が白い。泣きそうな顔。守ってあげなければと思わせる顔。
昔から、あの顔に何度も負けてきた。
私だけではない。父も、使用人も、家庭教師も、そして今は王太子も。
けれど今日は、目を逸らさなかった。
「セレーネは、私が睨んでいたと言いました」
「お姉様……」
セレーネの唇が震える。
「だって、本当に怖かったの。私、嘘なんて……」
「では、セレーネ。聞かせて」
私は妹を見る。
「私は、いつ、どこで、あなたを睨んだの?」
「え……?」
「毒が盛られた茶会の前? 後? 廊下? 控え室? 庭園?」
「それは……」
セレーネは目を泳がせた。
ユリウス殿下が彼女の肩を抱く。
「エリシア、妹を追い詰めるな」
「確認しているだけです」
「その言い方が追い詰めているんだ!」
私は一瞬、黙った。
いつもなら謝っていた。
申し訳ありません、そんなつもりでは、と言っていた。
でも、今は違う。
「殿下」
私は静かに言った。
「私が昨日からずっと何をされていたか、ご存じですか」
「何を……」
「確認です。尋問です。詰問です。毒瓶を見せられ、証言を突きつけられ、認めろと言われました。誰も私の体調を気にしませんでした。誰も私が怖いとは考えませんでした」
殿下の顔がわずかに強張る。
「なぜ、セレーネに質問することだけが、追い詰めることになるのですか」
「それは……彼女は君と違って繊細で」
言った瞬間、殿下自身もまずいと思ったのだろう。
けれど、もう遅かった。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
宰相が目を伏せる。
法務卿が軽く咳払いをする。
父は苦々しげに私を睨んでいる。
君と違って繊細。
私は繊細ではない。
傷つかない。
泣かない。
壊れない。
だから、何をしてもいい。
きっと、そう思われていた。
「……そうですね」
私は頷いた。
「私は、繊細ではなかったのかもしれません」
レオンハルト公爵が、わずかにこちらを見た。
私は続けた。
「少なくとも、繊細でいることは許されませんでした。王太子殿下の婚約者として、父の娘として、妹の姉として。泣くより先に考えろ、傷つくより先に役に立て、怖がるより先に正しくあれ。そう教えられてきました」
セレーネの顔が歪む。
「そんなの……お姉様が勝手に完璧でいたかっただけじゃない」
その声には、はっきりと苛立ちが混じっていた。
「誰も頼んでないわ。いつも先回りして、全部分かった顔をして、私が何か失敗するとすぐ直して。お父様も先生も、最後にはお姉様に任せればいいって言うの。私だって……私だって頑張ってたのに」
初めて、セレーネの言葉に本音が見えた。
私はその顔を見て、胸が痛んだ。
可哀想だと思ってしまった。
同時に、腹立たしかった。
この子は私を羨んでいたのだろう。
私も、この子を羨んでいた。
泣けば誰かが来てくれる妹。
間違えても「仕方ない」と許される妹。
弱くていい妹。
お互いに、相手の持っているものばかり見ていた。
けれど。
「セレーネ」
私は言った。
「あなたが私を嫌っていたことと、私に罪を着せていいことは、別です」
妹は、はっとしたように唇を噛んだ。
「私は罪なんて……!」
「なら、事実を話して」
私は一歩前に出た。
レオンハルト公爵が支えようとしたが、私は小さく首を振る。今だけは、自分の足で立ちたかった。
「あなたは、どこで私を見たの? 私は何をしていた? どんな顔で、何を言った?」
「だから……お姉様は、怖い顔で……」
「どこで?」
「廊下よ」
「どの廊下?」
「西棟の……」
「茶会は東庭園で開かれました。私は茶会の開始前から王妃殿下の控え室にいました。控え室へ向かうには、東回廊を通ります。西棟へは行っていません」
セレーネの顔が白くなる。
「で、でも、私は見たの」
「何時頃?」
「そんなの、覚えて……」
「茶会の前? 後?」
「前、よ」
「茶会の前、あなたはユリウス殿下と庭園にいたはずです」
ユリウス殿下が眉をひそめる。
「なぜ君がそれを知っている」
「招待客の動線と警備配置を確認していたからです。王太子殿下とセレーネが庭園に出ることも、護衛が二名つくことも、私が事前に手配しました」
殿下は言葉を失った。
そうだろう。
きっと覚えていない。
茶会の招待状も、座席の配置も、護衛の数も、毒見役の順番も、誰がどの扉から入るかも。
全部、私が確認していた。
私がやっていたことは、誰の目にも残らない。
失敗しなければ、そこに仕事があったことすら気づかれない。
けれど、今はそれが私を守っている。
王妃殿下が扇を閉じた。
「エリシア嬢」
柔らかな声だった。
「あなた、とてもよく覚えているのね」
「必要でしたので」
「そう。けれど、人は自分に都合の良いことを覚えているものよ」
王妃殿下の微笑みは崩れない。
「セレーネ嬢が混乱しているように、あなたもまた、恐怖で記憶を都合よく並べ替えている可能性がありますわ」
「それは、あります」
私がそう言うと、王妃殿下は少しだけ意外そうな顔をした。
否定すると思ったのだろう。
「私は自分の記憶が絶対だとは申しません。ですから、記録を確認してください。茶会前の警備配置表、王妃殿下の控え室に出入りした侍女の記録、東回廊の当番兵の証言。私が西棟にいたかどうか、調べれば分かります」
王妃殿下の目が、ほんの少し細くなった。
笑っているのに、笑っていない目。
「ずいぶん落ち着いているのね。処刑を控えていた令嬢とは思えないわ」
それは褒め言葉ではなかった。
罪人らしく怯えていない。
泣き崩れていない。
だから怪しい。
そう言いたいのだ。
私は答えようとした。
けれど、その前にレオンハルト公爵が口を開いた。
「昨夜から地下牢で高熱を出し、手首に枷の傷を負った女に対して、落ち着いていることを責めるのですか」
王妃殿下の笑みが薄くなる。
「責めてなどおりませんわ。ただ、不思議だと思っただけ」
「不思議ではありません」
「なぜ?」
「崩れたところで、誰も助けなかったからです」
胸の奥を、強く掴まれたような気がした。
私は公爵を見た。
この人は、私が泣かなかった理由を勝手に決めつけている。
でも、間違っていなかった。
泣いても無駄だった。
崩れても無駄だった。
助けてと言っても、誰も聞かなかった。
だから私は、立っているしかなかった。
「クラウゼル公爵」
国王陛下が重い声で言う。
「そなたの主張は分かった。だが、王太子への毒殺未遂は重大な事件だ。世に示しがつかぬ」
「真犯人を処罰すれば示しはつきます」
「それがすぐに分かれば苦労はない」
「だから、処刑延期が必要です」
法務卿が口を開いた。
「陛下。手続き上、正式な再調査命令を出すことは可能です。ただし、その間のエリシア嬢の身柄をどこに置くかが問題となります」
「王宮内の監視室では不十分か?」
「今回、王宮内部の管理記録に不備がある以上、王宮内に置くこと自体が危険かと」
危険。
その言葉に、私は背筋が冷えた。
つまり、王宮内に私を殺そうとした者がいるかもしれない、ということだ。
いいえ、いるのだろう。
そうでなければ、毒瓶が私の部屋から見つかるはずがない。
証言が用意されるはずがない。
私の弁明だけが記録から抜け落ちるはずがない。
「ならば、アルヴィナ公爵家で預かる」
父がすぐに言った。
「娘の監督責任は私にあります。今後は我が家で厳重に――」
「反対です」
自分でも驚くほど早く、言葉が出た。
父がこちらを見る。
「エリシア。お前は黙っていなさい」
その一言に、以前の私なら口を閉じていた。
父の声には、長年かけて私に染み込ませた命令の響きがあった。
逆らえば失望される。
怒られる。
見捨てられる。
でも、もう見捨てられている。
なら、怖がる意味がどれほどあるだろう。
「黙りません」
父の目が見開かれた。
「何だと?」
「私は、アルヴィナ公爵家には戻りません」
「お前、自分の立場が分かっているのか!」
「分かっています。だから戻りません」
声は震えていた。
でも、言い切った。
「昨夜、お父様は私に罪を認めろとおっしゃいました。家のために。アルヴィナ公爵家のために。私の無実ではなく、家の処分の軽減を気にされました」
「それは当然だ! お前一人の問題ではないのだぞ!」
「私一人の命は、家より軽いということですね」
父が詰まった。
言い過ぎたのかもしれない。
けれど、取り消す気にはなれなかった。
「エリシア、親に向かってその口の利き方は何だ」
「親なら、娘に死ねと言わないでください」
会議室が静まり返った。
自分の言葉が、胸の中に深く沈む。
言ってしまった。
でも、不思議と後悔はなかった。
父の顔が、怒りで赤くなっていく。
その隣で、セレーネが小さく震えた。
「お姉様……そんな言い方、お父様が可哀想よ」
私は妹を見た。
セレーネは、本気でそう思っている顔だった。
父が可哀想。
自分が可哀想。
ユリウス殿下が可哀想。
では、私は?
「セレーネ」
私は静かに言った。
「あなたは、私が可哀想だと思ったことはある?」
妹は息を止めた。
「え……」
「昨日、私が牢に入れられた時。明日の朝には処刑されると聞いた時。少しでも、私が怖いだろうと思った?」
「それは……」
「思わなかったのね」
「違うわ!」
「では、いつ思ったの?」
セレーネは答えられなかった。
涙がまた目に浮かぶ。
けれど今度は、誰もすぐに庇わなかった。
ユリウス殿下だけが、困惑した顔で彼女を見ている。
たぶん殿下は初めて見たのだ。
セレーネが泣いているのに、場が彼女の味方一色にならない瞬間を。
レオンハルト公爵が口を開いた。
「エリシア嬢の身柄は、クラウゼル公爵家で預かります」
「ならぬ」
王妃殿下が、穏やかな声で言った。
全員の視線が王妃へ向かう。
「クラウゼル公爵。あなたが彼女を庇っていることは理解しましたわ。けれど、だからこそ公平性に欠けます。婚約者になるとおっしゃるなら、なおさら」
「婚約者だからこそ、保護します」
「保護と隠蔽は紙一重です」
「王宮内で証拠が消えた可能性がある以上、この場でそれを言える立場に王宮はありません」
王妃殿下の目が、冷えた。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間には、また優雅な微笑みに戻っていた。
「随分と強い言葉を使うのね」
「事実です」
「あなたは、その娘のために王家と争うつもり?」
「必要なら」
迷いのない答えだった。
会議室にいる全員が、レオンハルト公爵を見る。
私も見た。
この人は、何を考えているのだろう。
私を利用すると言った。
王宮の陰謀を暴くためだと。
正義感だけではないと。
でも、それにしても、この場で王妃殿下に真正面から逆らうのは危険すぎる。
私一人のために、そこまでする必要があるのか。
私が戸惑っていると、レオンハルト公爵が低い声で言った。
「エリシア」
「はい」
「座れ」
「またですか」
「今度は命令だ」
「理由は」
「倒れそうだ」
「……倒れません」
「唇が白い」
言われて、初めて自分の身体が限界に近いことに気づいた。
足元がふわふわする。
燭台の火が滲んで見える。
背中に冷たい汗が流れていた。
でも、この場で座るのは悔しかった。
弱っていると見られたくない。
また「繊細ではない」と言われるのも、「やはり罪人は演技がうまい」と言われるのも嫌だった。
私が迷っていると、レオンハルト公爵は近くの椅子を引いた。
ぎい、と重い音がする。
「座れ」
「公爵閣下、人前で命令されるのは少し」
「人前で倒れるよりはいい」
「あなたは本当に、言い方が……」
「悪いのは知っている」
「直す気は?」
「努力する」
「今すぐお願いします」
緊迫した会議室で、なぜこんな会話をしているのだろう。
宰相が軽く口元を押さえた。
笑ったのか、咳を隠したのかは分からない。
私は結局、椅子に座った。
悔しいことに、座った途端、身体が少し楽になった。
レオンハルト公爵は私の背後に立つ。
それは、守る位置だった。
国王陛下が深く息を吐いた。
「……分かった」
「陛下」
王妃殿下が声を上げる。
国王は片手でそれを制した。
「処刑は延期する」
その言葉が、会議室に落ちた。
私は、一瞬、意味を理解できなかった。
処刑は延期する。
つまり。
明日の朝、私は死なない。
手首の傷が急に痛み始めた。
喉が熱くなる。目の奥がじんとした。
泣かない。
そう決めていたのに。
それでも、視界が滲みそうになった。
「ただし」
国王陛下は続けた。
「エリシア・フォン・アルヴィナの無罪が確定したわけではない。再調査の間、彼女の身柄はクラウゼル公爵家に預ける。王宮から監察官を一名つける。外部との接触は制限する」
「承知しました」
レオンハルト公爵が答える。
「毒殺未遂事件については、法務卿が再調査を行う。王宮薬品庫、茶会出席者、警備記録、押収記録、すべて確認せよ」
「はっ」
法務卿が頭を下げる。
父が悔しそうに口を開いた。
「陛下、しかし娘をクラウゼル公爵家に預けるなど、アルヴィナ家の面目が」
「面目?」
国王陛下の声が低くなる。
「娘の命より面目か、アルヴィナ公爵」
父は青ざめた。
「い、いえ、そのような意味では……」
「では黙っておれ」
父が唇を噛む。
私は、その姿を見ても、思ったほど胸が痛まなかった。
たぶん痛みの許容量を超えていたのだろう。
セレーネが小さく泣き出した。
「私……私、本当に怖かっただけなのに……」
誰に向けた言葉なのか分からない。
殿下か。
父か。
国王か。
それとも、自分自身か。
ユリウス殿下が彼女の肩を抱こうとして、途中で手を止めた。
その迷いを、私は見てしまった。
昨日までなら、殿下は迷わず彼女を抱きしめていた。
そして私を責めた。
けれど今は、ほんの少しだけ、何かが揺らいでいる。
私が無実かもしれない。
セレーネの証言が曖昧かもしれない。
自分が取り返しのつかないことをしたかもしれない。
その可能性が、殿下の中に生まれたのだ。
ざまあみろ、と思えたら楽だった。
けれど実際には、胸の奥が重かった。
私が欲しかったのは、この人を苦しめることだったのだろうか。
それとも、最初からちゃんと信じてほしかっただけなのだろうか。
「エリシア」
殿下が私を呼んだ。
さっきより、声が弱い。
「君は……本当に、私を殺そうとしていないのか」
私は彼を見た。
何を今さら。
喉元まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
飲み込んだのは、彼を気遣ったからではない。
自分の言葉を安売りしたくなかったからだ。
「何度も申し上げました」
「だが、私は……」
「信じなかった」
殿下は黙った。
「殿下は、私ではなくセレーネを信じました。それは殿下の選択です」
「私は王太子として、被害者として」
「はい。そうですね」
私は頷いた。
「だから私も、自分の命を守るために、殿下から離れます」
殿下の顔が歪んだ。
「離れる?」
「私はクラウゼル公爵家へ参ります」
「君は……本気で、レオンハルトの婚約者になるつもりなのか」
その問いに、なぜか部屋中の視線が集まった。
セレーネも泣き止み、父もこちらを見た。
王妃殿下は扇で口元を隠している。
私はレオンハルト公爵を見上げた。
彼は無表情だった。
相変わらず、何を考えているのか分からない。
でも、地下牢で言ったことを思い出す。
『私は君を利用する。君も私を利用しろ』
優しい嘘より、冷たい本当の方が、今は信じられる。
「はい」
私は答えた。
「私は、クラウゼル公爵閣下の契約婚約者になります」
ユリウス殿下が息を呑んだ。
「契約……?」
しまった。
そう思った時には遅かった。
王妃殿下の目が、わずかに光る。
「あら。契約婚約なの?」
レオンハルト公爵がすぐに口を挟む。
「婚約です」
「でも、エリシア嬢は今、契約と」
「結婚に至るまでの条件を定めるのは珍しいことではありません」
「まあ、冷静なのね。処刑前夜に助け出した令嬢との婚約にしては」
「感情で婚約してほしかったのですか」
「いいえ。あなたらしいと思っただけ」
王妃殿下は微笑んだ。
その笑みを見て、背筋が冷える。
この人は危険だ。
泣くセレーネよりも、怒る父よりも、責めるユリウス殿下よりも。
この優雅に笑う王妃の方が、ずっと底が見えない。
「では、決まりですね」
王妃殿下は扇を広げた。
「エリシア嬢はクラウゼル公爵家へ。再調査の結果が出るまでは、罪人ではなく容疑者として扱う。けれど、無実と決まったわけではない。そうでしょう、陛下」
国王陛下は重々しく頷いた。
「ああ」
「エリシア嬢」
王妃殿下が私を見る。
「命が延びてよかったわね」
柔らかな声だった。
でも、その奥にあるものを、私は聞き逃さなかった。
命が助かってよかった、ではない。
命が延びてよかった。
まるで、終わりが少し先に伸びただけだと言うように。
私は椅子の上で、ゆっくりと背筋を伸ばした。
「はい」
声は、まだ少し掠れていた。
「ですが、延びただけで終わらせるつもりはありません」
王妃殿下の目が細くなる。
私は続けた。
「私は、私に着せられた罪を晴らします」
会議室が静かになった。
「そして、私を殺そうとした方がいるなら、その方にも同じ問いを返したいと思います」
「問い?」
王妃殿下が微笑む。
私はその目を見返した。
「なぜ、私が黙って死ぬと思ったのですか、と」
初めて、王妃殿下の笑みがほんのわずかに崩れた。
ほんの一瞬。
瞬きほどの短い時間。
でも、私は見た。
レオンハルト公爵も、きっと見ていた。
「……体調が悪いわりに、よく喋る娘ね」
王妃殿下が静かに言った。
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めていません」
「存じております」
自分でも信じられない返しだった。
父がぎょっとした顔をしている。
セレーネは口を半開きにしていた。
ユリウス殿下は、まるで知らない人間を見るように私を見ていた。
レオンハルト公爵だけが、私の背後で低く言った。
「いい返事だ」
「今、褒めるところでしたか」
「今だ」
「判断基準が分かりません」
「慣れろ」
「契約婚約者に求めることが多いですね」
「君も私を利用するのだろう」
「……そうでした」
小さな会話だった。
けれど、そのおかげで、張り詰めていた息が少しだけ戻ってきた。
国王陛下が会議を締める。
「夜明けまでに正式な書面を作成せよ。クラウゼル公爵は、エリシア嬢を連れて下がれ。法務卿はすぐに再調査の準備を始めよ。ユリウス、お前は後で私の執務室へ来い」
「……はい、父上」
殿下の声は沈んでいた。
セレーネが不安そうに彼を見上げる。
「ユリウス様、私は……」
「セレーネ、君も部屋に戻って休むんだ」
「でも」
「いいから」
その言い方は、いつもの甘さを少し失っていた。
セレーネが傷ついた顔をする。
私は、それを見て胸が痛まない自分に気づいた。
たぶん、私は冷たくなったのではない。
今までずっと、自分の痛みを後回しにしすぎていただけだ。
レオンハルト公爵が私の椅子の横に来た。
「立てるか」
「立てます」
「本当か」
「今度は十歩くらいなら」
「増えたな」
「成長しています」
「では十一歩目で抱える」
「なぜそうなるのですか」
「倒れる前提で考えるのが合理的だ」
「合理的という言葉を、女性を抱える口実に使わないでください」
近くにいた法務卿が、今度こそ咳をした。
たぶん笑いを誤魔化したのだと思う。
私は立ち上がった。
足元はまだ頼りない。
けれど、地下牢を出た時よりはましだった。
レオンハルト公爵の腕を借りながら、会議室の扉へ向かう。
その途中で、ユリウス殿下が小さく呼んだ。
「エリシア」
私は足を止めた。
振り返らないまま、返事をする。
「何でしょうか」
「私は……」
長い沈黙。
謝罪か。
言い訳か。
命令か。
どれでも聞きたくなかった。
殿下は結局、言った。
「君は、変わったな」
私はゆっくり振り返った。
殿下の顔には、怒りと戸惑いと、ほんの少しの寂しさが混ざっていた。
私は静かに答える。
「いいえ、殿下」
ほんの少しだけ、笑えた。
「たぶん私は、ようやく自分の声で話しただけです」
殿下は何も言わなかった。
私は今度こそ、会議室を出た。
扉が閉まる直前、王妃殿下の声が聞こえた。
「……厄介ね」
誰に向けた言葉だったのか。
私か。
レオンハルト公爵か。
それとも、この状況そのものか。
分からない。
けれど、その一言は、確かに私の背中を追ってきた。
廊下に出ると、夜明け前の空気が肌に触れた。
窓の外では雨が弱まり始めている。
私はそこで、急に力が抜けた。
「エリシア」
レオンハルト公爵の声が近くで聞こえる。
「大丈夫です」
「嘘だな」
「……はい」
今度は、素直に認めた。
「嘘です」
足元が崩れた。
けれど床に倒れることはなかった。
レオンハルト公爵が、当然のように私を抱き止めていたからだ。
「言っただろう。十一歩目で抱えると」
「……数えていたのですか」
「十歩だった」
「では、まだ一歩残っていました」
「誤差だ」
「ひどい計算です」
文句を言いながら、私はもう立っていられなかった。
彼の腕に体を預ける。
悔しい。
でも、温かい。
レオンハルト公爵は私を横抱きにすると、歩き出した。
「少し眠れ」
「眠ったら、また牢に戻されませんか」
「戻さない」
「本当に?」
「本当に」
「……公爵閣下」
「何だ」
「私は、怖いです」
言ってから、息が止まりそうになった。
そんなことを言うつもりはなかった。
弱音を吐くつもりもなかった。
けれど、言ってしまった。
レオンハルト公爵は、歩みを止めなかった。
ただ、低い声で言った。
「怖くていい」
「いいのですか」
「ああ」
「公爵閣下は、怖くならないのですか」
「なる」
意外な答えだった。
私は目を開けて、彼の横顔を見る。
「あなたが?」
「私も人間だ」
「……少し意外です」
「よく言われる」
「でしょうね」
彼の口元が、ほんの少しだけ動いた気がした。
「怖いなら覚えておけ」
「何をですか」
「君は怖くても、さっき王妃に言い返した」
「……あれは、少し言い過ぎました」
「いや」
レオンハルト公爵は短く言った。
「ちょうどよかった」
ちょうどよかった。
私の中の何かが、また少し緩んだ。
泣きそうだった。
でも、今度は泣いてもいいのかもしれないと思った。
泣いても、誰かの迷惑になるだけではないのかもしれない。
泣いた後でも、立てるのかもしれない。
私は目を閉じた。
雨の音が、遠くなる。
処刑は延期された。
私はまだ容疑者で、無実は証明されていない。
王妃は私を見て「厄介」と言った。
妹の証言は揺らぎ、元婚約者はようやく戸惑い始めた。
何も終わっていない。
むしろ、ここから始まるのだ。
けれど、地下牢の冷たい床で朝を待っていた時より、私はずっと生きている気がした。
「公爵閣下」
「何だ」
「私、あなたを信用していません」
「聞いた」
「でも……少しだけ、助かりました」
彼は答えなかった。
代わりに、私を抱える腕がほんの少しだけ安定した。
それだけで十分だった。
夜明け前の王宮の廊下を、冷血公爵は黙って歩いていく。
私を処刑台ではなく、外の世界へ連れ出すために。




