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処刑前夜に前世を思い出した悪役令嬢、冷血公爵に「君の首を守る」と言われました 〜断罪回避のために静かに逃げたいのに、元婚約者も家族も今さら追ってくる〜  作者: 鳳凰院暁月刃夜


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第2話 冷血公爵は、私の首を買い取りました

 地下牢を出た途端、雨の匂いが濃くなった。


 夜明け前の王宮は、ひどく静かだった。

 人がいないわけではない。むしろ、通路の角や扉の前には近衛兵や侍従が何人も立っている。けれど誰も声を出さない。こちらを見て、すぐに目を逸らし、それでも気になってまた盗み見る。


 罪人の私が、冷血公爵に抱えられているからだろう。


 ……冷静に考えると、あまりにも異様な光景だった。


 処刑前夜の女。

 その女を横抱きにして歩く、王国一恐れられている公爵。

 しかも私は彼の外套に包まれていて、足元は裸足に近い。地下牢に入れられた時、靴は取り上げられていた。白かったはずの寝間着の裾は泥と血で汚れ、髪もほどけている。


 公爵令嬢としては、完全に終わっていた。


 でも、明日の朝に首が落ちる予定だった女としては、まだましなのかもしれない。


「……公爵閣下」


「何だ」


「やはり、下ろしてください」


「駄目だ」


「即答なさらないでください。せめて理由くらい聞くふりを」


「聞いても下ろさない」


「会話の意味がありません」


「君は歩けない」


「少しなら歩けます」


「三歩で倒れかけた」


「四歩目から持ち直すかもしれません」


「賭ける価値がない」


 レオンハルト公爵は、まったく表情を変えずに言った。


 声だけ聞けば、軍議の最中に兵糧の数でも確認しているようだった。

 抱えられているこちらとしては、もう少し何かあってもいいと思う。気まずさとか、遠慮とか、恥じらいとか。


 この人には、そういうものが標準装備されていないらしい。


「人前です」


「見れば分かる」


「分かっていて、これですか」


「君を落とすよりはいい」


「そういう問題では……」


 言いかけて、私は口を閉じた。


 通路の先に、人影があった。


 近衛兵が二人。

 その後ろに、鮮やかな青い外套をまとった青年。


 ユリウス王太子殿下だった。


 金の髪は少し乱れ、いつも整っていた襟元も歪んでいる。夜中に叩き起こされたのだろう。いや、眠っていなかったのかもしれない。私の処刑を翌朝に控えて、眠れなかった――などと考えて、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。


 殿下は、私ではなく、まずレオンハルト公爵を見た。


 それから、公爵に抱えられている私を見て、顔色を変えた。


「レオンハルト……! これはどういうつもりだ!」


 その声は、怒りというより狼狽に近かった。


 私は反射的に身を固くする。


 昨日まで、私はこの人の婚約者だった。

 幼い頃から、隣に立つために教育を受け、笑い方も、歩幅も、食事の作法も、会話の順番さえも教え込まれてきた。


 この人を支えることが、私の役目だった。


 なのに今、彼は私を罪人として見ている。

 あるいは、罪人であってほしいと願っている。


 そうでなければ、自分がしたことを認めなければならないから。


「見ての通りだ」


 レオンハルト公爵は足を止めた。


 私を抱えたまま、少しも慌てない。


「彼女を連れて行く」


「連れて行く? どこへだ。彼女は明朝、処刑される罪人だぞ」


「処刑は中止だ」


「何を勝手なことを!」


 殿下の声が廊下に響いた。


 近衛兵たちが気まずそうに視線を落とす。

 誰も口を挟まない。王太子とクラウゼル公爵の間に割って入れる者など、この場にはいなかった。


 私は公爵の腕の中で息を潜めた。


 ……情けない。


 ついさっき、もう黙って死なないと決めたばかりなのに。

 殿下の声を聞いただけで、身体が勝手に強張ってしまう。


 レオンハルト公爵が、わずかに私を抱える腕に力を込めた。


 それは誰にも分からないほど小さな動きだった。

 けれど、私には分かった。


 大丈夫だ、と言われた気がした。


 いや、たぶん本人はそこまで優しい意味を込めていない。

 この人のことだから、単に落とさないよう持ち直しただけかもしれない。


 でも、今はそれでよかった。


「ユリウス殿下」


 レオンハルト公爵の声は低かった。


「エリシア・フォン・アルヴィナへの処刑命令には、重大な手続き上の瑕疵がある」


「瑕疵だと?」


「毒の入手経路が確定していない。証言者は被害者側の婚約者候補に偏っている。押収記録には王宮薬品庫の封蝋確認が抜けている。さらに、本人の弁明を正式な書面として残していない」


 殿下の顔が固まった。


 私も、思わず公爵を見上げた。


 ……知っていたの?


 私が何度も「やっていない」と言ったこと。

 それが記録に残されていないこと。

 あの取り調べが、最初から私を犯人にするためのものだったこと。


「そんなものは後から確認すればよい」


 殿下は苛立ったように言った。


「今は王家の威信がかかっている。王太子である私に毒が盛られたのだ。犯人を裁かねば、王宮の秩序が――」


「犯人ではない女の首を落とすことが、王宮の秩序か」


 廊下の空気が、さらに冷えた。


 殿下の頬が引きつる。


「……言葉に気をつけろ、レオンハルト」


「気をつけている。だから今、私は殿下に直接申し上げている」


「何だと」


「これ以上手続きの不備を重ねれば、王家ではなく、殿下個人の失態になる」


 殿下の目に、はっきりと怒りが浮かんだ。


 昔から、殿下はこういう言い方を嫌った。


 自分の誤りを、正面から指摘されること。

 それも、言い逃れできない形で突きつけられること。


 私は何度も見てきた。

 会議で殿下が確認を怠った時も、外交文書の返答期限を忘れた時も、慈善基金の支出明細を読まないまま署名しようとした時も。


 私はいつも、殿下の顔を潰さないよう、遠回しに伝えていた。


『殿下、こちらの書類ですが、念のため私の方でもう一度確認してもよろしいでしょうか』


『殿下のお考えをより正確に反映するため、文面を少し整えておきますね』


『殿下はお忙しいでしょうから、こちらは私が先に目を通しておきます』


 そうやって、殿下の失敗を失敗にしないようにしてきた。


 でも、その結果、殿下は自分が失敗していないと思い込んだ。


 私がいなくても、同じようにできるのだと。


「エリシア」


 突然、殿下が私の名を呼んだ。


 身体が跳ねた。


 嫌だ。

 その声で呼ばれたくない。


 かつては、その声に応えることが私の義務だった。

 けれど今は、首輪を引かれたような気分になる。


「君からも何か言ったらどうだ」


 殿下は私を睨んだ。


「いつまでそうして被害者のような顔をしている。君は、私を殺そうとしたのだぞ」


 違います。


 いつもの私なら、すぐにそう言った。

 震えながらでも、丁寧に、必死に、相手の怒りを鎮めるように。


 でも今は、言葉が出なかった。


 喉が詰まった。

 怒りなのか、恐怖なのか、失望なのか、自分でも分からなかった。


 レオンハルト公爵が私を床に下ろそうとした。


 私は驚いて彼を見る。


「立てるか」


「……立てます」


「本当に?」


「今は、立たせてください」


 公爵は一拍だけ私を見つめ、それから静かに下ろしてくれた。


 足裏が冷たい床に触れる。

 膝が震えた。けれど、倒れなかった。


 公爵の外套を肩にかけたまま、私は殿下と向き合った。


 近くで見ると、殿下はひどく疲れていた。

 それなのに、目だけは妙にぎらついている。自分が間違っていないと証明してほしい人間の目だった。


「エリシア」


 殿下がもう一度、私の名を呼ぶ。


「君が罪を認めれば、セレーネの心も少しは救われる。彼女は怯えているんだ。君のしたことに傷ついて――」


「私は、やっておりません」


 声は、思ったより静かに出た。


 殿下が眉を寄せる。


「まだ言うのか」


「何度でも申し上げます。私は殿下に毒を盛っておりません。セレーネを脅してもおりません。嫉妬で王家に害をなそうなど、考えたこともありません」


「では、誰がやったと言うんだ!」


「それを調べるのが、裁きではないのですか」


 殿下の口が止まった。


 自分で言って、私は少し驚いていた。


 今までなら、こんな言い方はしなかった。

 殿下を追い詰めるようなことは言わなかった。


 けれど一度口にすると、胸の奥に沈んでいた言葉が次々浮かんでくる。


「私は昨日、弁明を求められませんでした。ただ、認めろと言われただけです。毒瓶を見せられ、妹の証言を聞かされ、父から家のために黙れと言われました」


「それは……状況が明白だったからだ」


「明白だったのではありません。そう見えるように並べられていただけです」


「エリシア!」


 殿下が一歩踏み出した。


 その瞬間、レオンハルト公爵が私の前に立った。


 剣を抜いたわけではない。

 声を荒げたわけでもない。


 ただ、一歩、間に入っただけ。


 それだけで、殿下は足を止めた。


「彼女に近づくな」


「私の元婚約者だ!」


「今は違う」


 レオンハルト公爵は静かに言った。


「彼女は私の婚約者だ」


 廊下の空気が止まった。


 近衛兵の一人が、目を見開く。

 侍従が小さく息を呑む。

 私は、その言葉を聞いているのに、どこか遠くの出来事のように感じていた。


 私の婚約者。


 昨日まで、その言葉はユリウス殿下のものだった。


 けれど殿下は、妹を選んだ。

 そして私に罪を着せた。


 今、その言葉を口にしたのは、地下牢で私に「利用しろ」と言った冷血公爵だった。


「ふざけるな……」


 殿下の声が震えた。


「レオンハルト。いくら君でも、その冗談は笑えない」


「冗談ではない」


「エリシアは罪人だぞ!」


「まだ有罪判決は確定していない」


「明朝には確定する!」


「しない。私が異議を申し立てた」


「王太子である私の命令を退けるつもりか!」


「殿下の命令が王国法に反するなら」


 殿下は唇を噛んだ。


 そこへ、背後から小さな足音が聞こえた。


「ユリウス様……?」


 甘く震える声。


 聞き慣れた声だった。


 セレーネ。


 薄桃色の夜着にショールを羽織り、金髪をゆるく結んだ妹が、侍女に支えられながら現れた。目元は赤く、いかにも泣き明かしたように見える。


 昔から、セレーネは泣くのが上手だった。


 正確に言えば、泣いている自分を美しく見せるのが上手かった。


 頬に涙をひとすじだけ残す角度。

 震える指先。

 か細い声。

 相手が庇いたくなる沈黙。


 私は、それを意地悪だと思わないようにしてきた。


 妹は体が弱いから。

 妹はまだ幼いから。

 妹は母に愛されて育たなかったから。


 そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。


 でも今は、もう無理だった。


「お姉様……」


 セレーネは私を見た瞬間、怯えたように殿下の後ろへ隠れた。


「どうして、ここに……? 明日の朝まで、牢にいるはずじゃ……」


 その言葉に、廊下が一瞬静かになった。


 私は妹を見た。


 明日の朝まで、牢にいるはず。


 普通なら「無事でよかった」と言う場面で。

 罪を疑いながらでも、姉が地下牢から出てきたことに驚く場面で。


 妹は、そう言った。


 明日の朝まで、牢にいるはず。


 レオンハルト公爵が、わずかに横目で私を見た。

 今の言葉を聞き逃さなかったらしい。


 セレーネ自身も、言ってから気づいたのだろう。

 慌てて口元を押さえた。


「あ、違うの。私、そういう意味じゃなくて……だって、お姉様が急に出ていらしたから、怖くて……」


 殿下がすぐに彼女を庇う。


「セレーネは怯えているんだ。追い詰めるな」


 私は、思わず笑いそうになった。


 誰が誰を追い詰めているのか。

 もう分からないのだろうか、この人たちは。


「セレーネ」


 私は妹の名を呼んだ。


 妹の肩がびくりと震える。


 私は一歩踏み出そうとして、足元が揺れた。すぐにレオンハルト公爵の手が私の背に添えられる。


 支えるというより、倒れることを許さない手だった。


「私はあなたに聞きたいことがあります」


「な、何……? 私、もう怖いの。お姉様、お願いだから、そんな顔で見ないで」


「私は今、どんな顔をしていますか」


「え……?」


「怒っている顔ですか。怖い顔ですか。あなたを傷つけようとしている顔ですか」


 セレーネは答えなかった。


 代わりに、涙を浮かべる。


「そんなこと、分からないわ……でも、お姉様は昔から、私を見る時、冷たかったもの」


「冷たかった?」


「そうよ。いつも正しくて、何でもできて、私のことを子どもみたいに見て……私がどれだけ頑張っても、お父様も周りの人も、お姉様ばかり見ていた」


 初めて、妹の声に涙以外のものが混じった。


 棘だった。

 甘い声の底に沈んでいた、古い棘。


「だから、殿下が私を見てくださった時、私……初めて、誰かに選ばれた気がしたの」


「それで、私に罪を?」


「違う!」


 セレーネは叫んだ。


 その瞬間だけ、可憐な妹の仮面が剥がれた。


「私は毒なんて知らない! 本当に知らないの! ただ、あの時、お姉様が私を睨んでいたから……怖かったから……だから、そう言っただけで……」


「そう言っただけ」


 私はその言葉を繰り返した。


 声が震えた。


「あなたの“そう言っただけ”で、私は明日死ぬところだったの」


 セレーネの顔から血の気が引いた。


「そんな……私は、そんなつもりじゃ……」


「どんなつもりならよかったの?」


 自分の声が、思ったより低く響いた。


「私が牢に入るだけならよかった? 婚約を失うだけなら? 社交界から追放されるだけなら? それとも、処刑はされても、あなたが泣いていれば仕方なかった?」


「やめてよ……」


 セレーネの目から涙がこぼれる。


「そんな言い方、ひどいわ。お姉様はいつもそう。正しいことを言って、人を追い詰めるの。私が悪いみたいに……」


「悪くないのですか」


 セレーネは言葉を失った。


 殿下が険しい顔で私を睨む。


「エリシア、もう十分だ。セレーネは混乱している」


「私は昨夜からずっと混乱しています」


 つい、言い返していた。


「地下牢は思ったより寒いのです。ご存じでしたか、殿下。石床は体温を奪います。手首の枷は、少し動くだけで皮膚が裂けます。明日の朝に死ぬのだと思うと、喉が乾いても水を飲む意味があるのか分からなくなる」


 殿下の表情が、わずかに揺れた。


 私は止まらなかった。


「その間、セレーネは混乱していたのですね。殿下に庇われ、侍女に支えられ、温かい寝台で泣きながら」


「エリシア!」


 殿下が怒鳴る。


 でも私は、もうびくりとしなかった。


 怖くないわけではない。

 手も足も震えている。今すぐ座り込みたい。


 それでも、ここで黙ったら、私はまた元に戻ってしまう。


 誰かの怒りを恐れて、自分の傷をなかったことにする女に。


「殿下」


 私は背筋を伸ばした。


「私は、あなたを殺そうとしていません」


「まだ――」


「そして、あなたをもう愛してもいません」


 廊下の空気が、奇妙なほど静かになった。


 殿下が目を見開く。


 私自身も、驚いていた。


 愛していない。


 その言葉は、私の中でずっと形にならなかったものだった。

 義務と習慣と恐怖と諦めが絡み合って、もう何が愛なのか分からなくなっていた。


 でも、今なら分かる。


 私はこの人を愛していたのではない。


 愛さなければならないと思っていただけだ。


「な……何を言っている」


 殿下の声が掠れた。


「君は、私の婚約者だっただろう」


「昨日までです」


「私たちは、幼い頃から――」


「幼い頃から、私は殿下のために生きるよう教えられました。でも、それだけです」


 殿下の顔が赤くなった。


 怒りか、羞恥か、分からない。


 セレーネは呆然と私を見ていた。

 まるで、姉がこんな言葉を口にするとは思っていなかった、という顔だった。


「エリシア」


 低い声が割って入った。


 レオンハルト公爵だった。


「座れ」


「今ですか」


「顔色が悪い」


「話の流れというものが」


「倒れてからでは遅い」


「……本当に、あなたは」


 緊張で張り詰めていたものが、少しだけ抜けた。


 この人は、王太子の前でも、妹の涙の前でも、私の顔色の悪さを優先するらしい。


 おかしい。

 おかしいのに、少し救われる。


「レオンハルト!」


 殿下が叫んだ。


「勝手に話を終わらせるな!」


「終わらせていない。場所を変える」


「どこへ連れて行くつもりだ」


「王前会議室だ。国王陛下、王妃殿下、宰相、法務卿を呼んである」


「何だと?」


 殿下の顔色が変わった。


「父上を? この時間に?」


「すでにお待ちだ」


「君が呼んだのか」


「そうだ」


「勝手なことを……!」


「勝手に処刑を進めた者に言われる筋合いはない」


 レオンハルト公爵の声は淡々としていた。


 けれど、廊下全体がその言葉の重さに押された。


 殿下は何か言い返そうとして、できなかった。

 セレーネは不安そうに殿下の袖を掴む。


「ユリウス様……私、怖いです。お父様たちも来るの? 私、何か聞かれるの?」


「大丈夫だ、セレーネ。君は何も悪くない」


 殿下はそう言った。


 けれど、その声にはさっきまでの確信がなかった。


 私はそれを聞いて、胸の奥が冷えるのを感じた。


 何も悪くない。


 その言葉を、私は一度ももらえなかった。


 レオンハルト公爵が、私の方を見た。


「歩くか」


「……歩きます」


「本当に?」


「今度は五歩くらいはいけます」


「少ない」


「では六歩で」


「交渉になっていない」


 彼はほんの少しだけ息を吐いた。


 呆れられたのだと思う。

 けれど、その横顔は不快そうではなかった。


 私は公爵の腕を借りて歩き出した。


 背後で、殿下とセレーネの足音が続く。

 そのさらに後ろから、慌ただしい靴音が近づいてきた。


「エリシア!」


 その声に、胃の奥が重くなった。


 父だった。


 アルヴィナ公爵。

 私の父。


 寝間着の上に上着を引っかけただけの姿で、息を切らしている。いつも整えられていた髭も乱れ、顔には怒りと焦りが浮かんでいた。


「これはどういうことだ。なぜ牢から出ている。お前は、自分が何をしたのか分かっているのか!」


 私は足を止めた。


 父は私を見て、それからレオンハルト公爵を見た。

 そして、私が公爵の外套を羽織っていることに気づき、顔を歪めた。


「エリシア、お前……公爵閣下にまで取り入ったのか。家の恥をどこまで広げれば気が済む」


 取り入った。


 その言葉が、妙にゆっくり耳に入った。


 地下牢から出てきた娘を見て、父が最初に言うことがそれなのか。


 手首の傷も。

 裸足の足も。

 熱でふらつく身体も。

 目に入らないのか。


 いいえ。


 入っているのに、見ないことにしているのだ。


「お父様」


 私は静かに言った。


「私は、あなたの娘ですか」


 父は眉をひそめた。


「何を馬鹿なことを」


「娘ですか。それとも、家の恥ですか」


「エリシア!」


「どちらなのでしょう」


 父は口を開けたまま、言葉を詰まらせた。


 答えられないのだ。

 答えれば、自分が何を捨てたのか分かってしまうから。


 レオンハルト公爵が、私の背に添えた手を離さずに言った。


「アルヴィナ公爵」


「……クラウゼル公爵閣下。これは我が家の問題でもあります。娘の身柄は、こちらに」


「彼女の身柄は、すでに私が預かっている」


「は?」


「正式な婚約契約を結ぶ」


 父の顔が固まった。


「婚約……? エリシアと、閣下が?」


「そうだ」


「馬鹿な。そんなこと、認められるはずがない。エリシアは王太子殿下への毒殺未遂の罪で――」


「だからこそだ」


 レオンハルト公爵は父を見据えた。


「私は彼女の保護者として、今回の裁定に異議を申し立てる」


「保護者、だと……」


「アルヴィナ公爵家が保護しないのなら、私がする」


 父の顔が赤くなった。


「余計なお世話ですな。これは我が家の――」


「昨夜、あなたは彼女に罪を認めろと言ったそうだな」


 父の言葉が止まった。


「家を守るために、娘に死ねと」


「そ、それは……王家への忠義を示すためで」


「忠義と保身を取り違えるな」


 鋭い一言だった。


 父が完全に黙る。


 私は、父の横顔を見ていた。


 この人に褒められたかった。

 長い間、ずっと。


 王妃教育で寝不足になっても、妹の失敗を庇っても、殿下の書類を徹夜で整えても、父が一言「よくやった」と言ってくれたら、それだけで報われる気がしていた。


 でも、父が私を見る時、その目にあったのは愛情ではなかった。


 便利な娘への評価。

 役に立つ道具への満足。

 そして今は、不良品への苛立ち。


 私は、そっと息を吐いた。


 胸は痛んだ。

 でも、思っていたほど壊れなかった。


「参ります、公爵閣下」


 私は父から目を逸らした。


「会議室へ」


 レオンハルト公爵が私を見る。


「歩けるか」


「……七歩くらいなら」


「増えたな」


「努力しています」


「なら、八歩目で支える」


「最初から支える気ですね」


「当然だ」


 その当然、という言い方が、なぜか胸に残った。


 私たちは歩き出した。


 王太子が後ろで何か言っている。

 セレーネが泣きそうな声で呼んでいる。

 父が怒りを押し殺した声で私を責めている。


 けれど、もう振り返らなかった。


 王前会議室の扉が見えてきた。


 重厚な黒樫の扉。

 その向こうに、国王と王妃と、この国の裁きが待っている。


 怖くないわけがない。


 でも、地下牢で明日を待つだけだった夜よりは、ずっといい。


 扉の前で、レオンハルト公爵が足を止めた。


「エリシア」


「はい」


「この先で、君はまた責められる」


「でしょうね」


「泣いてもいい」


「泣きません」


「怒ってもいい」


「怒るのは……少し苦手です」


「なら、私が怒る」


 私は思わず彼を見上げた。


 公爵は無表情だった。

 冗談ではないらしい。


「あなたが怒ると、会議室が凍りませんか」


「凍るだけなら問題ない」


「問題しかありません」


 そう言うと、公爵は少しだけ目を細めた。


 笑ったのかもしれない。

 やはり分かりにくい。


 彼は扉に手をかけた。


「行くぞ」


 私は頷いた。


 扉が開く。


 眩しい灯りが、私の目を刺した。


 長い卓。

 集まった重臣たち。

 険しい顔の国王。

 そして、優雅な微笑みを浮かべた王妃。


 その視線が、一斉に私へ向けられる。


 昨日までなら、それだけで膝を折っていたかもしれない。


 けれど今、私はレオンハルト公爵の外套を肩に、手首に枷の痕を残したまま、ゆっくりと頭を上げた。


 王妃の唇が、わずかに動いた。


「まあ……生きていたのね」


 その小さな一言を、私は聞き逃さなかった。


 レオンハルト公爵も、たぶん。


 彼の隣で、私は冷えた指先を握りしめる。


 処刑は、まだ止まっただけだ。

 私の無実が証明されたわけではない。

 私を殺そうとした誰かは、まだこの王宮のどこかにいる。


 それでも、もう地下牢には戻らない。


 私は静かに息を吸った。


 そして、生まれて初めて、王妃の目を正面から見返した。


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