第1話 処刑前夜、私はようやく思い出した
雨の音がしていた。
ぽつぽつ、という優しいものではない。
石造りの天井を叩きつけ、壁を伝い、地下牢の湿った空気にまで染み込んでくるような、重たい雨だった。
地下牢には窓がない。
外の空など見えない。
けれど、雨が降っていることだけは分かった。鼻の奥に残る土と苔のにおい。濡れた石床から這い上がってくる冷気。膝の上に置いた指先は、もう自分のものではないみたいに白く強張っていた。
手首の鉄枷が、少し動くだけで音を立てる。
がしゃり。
その音が嫌で、私は息を止めた。
明日の朝、私は処刑される。
王太子ユリウス殿下を毒殺しようとした罪。
妹セレーネに婚約者を奪われた嫉妬から、王家に牙を剥いた悪女。
それが、今の私に与えられた名前だった。
「……悪女、ね」
掠れた声が、石壁にぶつかって落ちる。
笑えたらよかった。
けれど、唇は乾ききっていて、笑うだけの力もなかった。
私は毒など盛っていない。
何度も言った。
王宮の大広間で。
取り調べの部屋で。
父の前で。
婚約者だったユリウス殿下の前で。
けれど、誰も信じなかった。
『エリシア。君がそんな女だったとは思わなかった』
殿下はそう言った。
その腕に、私の妹を抱いたまま。
セレーネは泣いていた。
柔らかな金髪を震わせ、白い頬を涙で濡らし、まるで小鳥のような声で言った。
『お姉様が、私を睨んだの。私、怖くて……でも、まさか殿下に毒を盛るなんて……』
私は睨んでなどいない。
ただ、見ていただけだ。
私の婚約者だった人の隣に、当然のように立つ妹を。
それを咎めもせず、むしろ庇うように肩を抱く殿下を。
私の人生が音もなく奪われていく、その瞬間を。
けれど、私が何を言っても、妹の涙ひとつに敵わなかった。
『エリシア。もういい。これ以上、家の恥を広げるな』
父は私を見なかった。
床を見ていた。
まるで、そこに落ちた小さな染みの方が、娘の命よりも大事だというように。
『認めなさい。そうすれば、せめてアルヴィナ公爵家への処分は軽くなる』
せめて。
その言葉が、今も耳に残っている。
私の命は、家を守るために差し出せるものなのだと。
父は、何のためらいもなくそう言った。
「……馬鹿みたい」
今度は、少しだけ笑えた。
笑った途端、喉の奥が焼けるように痛んだ。熱がある。昨夜からずっと身体が熱い。けれど、背中は冷たく、足先は痺れている。
明日の朝まで生きていられるのか。
そんなことを考えて、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。
生きていたところで、処刑台に立つだけなのに。
私は石壁に背を預け、目を閉じた。
その瞬間、世界が白く弾けた。
――消毒液のにおい。
まず思い出したのは、それだった。
白い天井。
薄いカーテン。
病室の窓辺に置かれた、少し萎びた花。
母の細い手。
『ごめんねぇ。あんたばっかりに、迷惑かけて』
違うよ、と私は笑った。
前世の私は、いつもそうやって笑っていた。
大丈夫。
気にしないで。
私がやるから。
平気だから。
口癖のように言っていた。
母の通院。職場の残業。上司の無茶振り。同僚の愚痴。友人の結婚式の準備。親戚からの電話。壊れかけた洗濯機。未払いの請求書。夜中のコンビニ弁当。
思い出が、ひどく生活臭かった。
美しいものなんて、ほとんどない。
誰かに語れるような夢もない。
ただ、毎日をこぼさないように両手で抱えて、必死に歩いていただけ。
なのに、最後の日の私は、部屋の床に座り込んでいた。
仕事用の鞄は玄関に落ちたまま。
スマートフォンには誰からの連絡もない。
冷蔵庫の中には、賞味期限の切れた豆腐と、半分だけ残った麦茶。
泣いていたのかどうかも覚えていない。
ただ、ぼんやり思った。
ああ。
私、何のために生きていたんだろう。
「……っ」
息を吸い込んだ瞬間、牢の冷気が肺に刺さった。
私は目を開ける。
違う。
違うけれど、同じだ。
前世の私も、今世の私も。
ずっと、誰かの都合のいい人間だった。
母のため。
会社のため。
家のため。
婚約者のため。
妹のため。
公爵家のため。
私自身のために、何かを選んだことがあっただろうか。
嫌だと言ったことがあっただろうか。
助けて、と言ったことがあっただろうか。
なかった。
いつも飲み込んだ。
いつも笑った。
いつも譲った。
そして最後には、罪まで着せられて死ぬ。
「……嫌」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
小さくて、震えていて、みっともない声。
けれど、初めて私自身の底から出た声だった。
「嫌よ」
手首の枷が鳴る。
私は拳を握った。爪が掌に食い込む。痛い。でも、その痛みが妙に嬉しかった。
まだ痛い。
まだ私は、生きている。
「死にたくない」
言ってしまうと、胸の奥に押し込めていたものが一気に溢れた。
「死にたくない……私は、やってない。毒なんて盛ってない。誰かのために黙って首を差し出すなんて、もう嫌……!」
声が掠れる。
涙は出なかった。涙まで枯れてしまったのかもしれない。
その時、牢の向こうで足音がした。
看守のものではない。
看守はもっとだらしなく歩く。靴底を引きずり、腰につけた鍵束をわざと鳴らし、牢の中の人間に自分の力を見せつけるように歩く。
けれど、その足音は違った。
静かで、迷いがなく、急いでもいない。
まるで、夜そのものが形を持って近づいてくるようだった。
「……誰?」
返事はない。
通路の暗がりに、黒い外套が見えた。
背の高い男だった。
灯りの少ない地下牢でも分かるほど、姿勢が美しい。乱れたところが一つもない。こんな場所に似つかわしくないほど上等な革手袋。濡れた外套の裾から、雨の匂いがした。
看守が慌てたように頭を下げる。
「ク、クラウゼル公爵閣下。ですが、その、こちらは明朝に処刑を控えた罪人でして……」
「知っている」
低い声だった。
冷たい。
けれど、不思議と耳に残る声。
男は鉄格子の前で足を止めた。
青灰色の瞳が、私を見下ろす。
レオンハルト・ヴァン・クラウゼル。
王国北方を治める公爵。
国境の反乱を三月で鎮め、裏切った貴族を一族ごと社交界から消した男。
氷の血を持つ北方の狼。
冷血公爵。
噂なら、いくらでも聞いたことがある。
舞踏会で彼に話しかけられた令嬢が、あまりの無表情に泣いて帰ったとか。
会議で彼に睨まれた財務官が、その場で辞表を書いたとか。
戦場で笑いもせず敵将の首を取ったとか。
どれが本当で、どれが尾ひれなのかは知らない。
ただ、今の私には関係のない人のはずだった。
「エリシア・フォン・アルヴィナ」
彼が私の名を呼んだ。
私は唇を舐める。乾いていて、少し切れていた。
「……悪女の最期を見物にいらしたのですか、公爵閣下」
自分でも嫌になるほど刺々しい声だった。
けれど、彼は眉ひとつ動かさなかった。
「違う」
「では、説教でしょうか。残念ですが、もう父にも殿下にも十分いただきました。今なら、どんな罵倒もあまり新鮮味がありません」
看守がぎょっとした顔をした。
「き、貴様、公爵閣下に向かって――」
「下がれ」
レオンハルトの一言で、看守は口を閉じた。
彼は私を見たまま、淡々と言った。
「君を処刑台から降ろしに来た」
意味が分からなかった。
私はじっと彼を見返す。
熱のせいで聞き間違えたのかと思った。
「……何と?」
「君を助けに来た、と言った」
「なぜ」
「君が無実だからだ」
その言葉は、あまりに簡単に差し出された。
私は息を呑む。
胸の奥が、痛いほど跳ねた。
無実。
その二文字を、誰も言ってくれなかった。
私自身が何度叫んでも、誰も聞かなかった。
父も。
殿下も。
幼い頃から私の髪を結ってくれた侍女でさえ、目を合わせなかった。
なのに、この男は。
私とまともに話したことすらない冷血公爵は、当たり前のように言った。
「……誰も、信じませんでした」
声が震えた。
悔しかった。
嬉しいのではない。そんな素直な感情ではなかった。
どうして今さら。
どうしてあなたが。
どうして、私が本当に欲しかった言葉を、何も知らない顔で言うの。
そんな、行き場のない怒りが込み上げた。
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「なら、私が信じる」
「簡単におっしゃるのですね」
「簡単ではない」
「いいえ、簡単です。信じる、助ける、守る。そういう言葉は、言うだけなら誰でもできます」
私は膝の上の拳を握った。
「父も昔は言いました。お前を守る、と。殿下も言いました。君を幸せにする、と。妹だって言いました。お姉様が大好き、と」
笑おうとして、失敗した。
「みんな、言うだけでした」
沈黙が落ちた。
雨音だけが遠く聞こえる。
看守は青ざめている。
冷血公爵に向かってこんな口を利く罪人など、見たことがないのだろう。私だって、昨日までなら絶対に言わなかった。
けれど、明日死ぬ女が今さら礼儀を守ってどうなる。
レオンハルトは怒らなかった。
彼は看守から鍵を受け取ると、鉄格子の扉に差し込んだ。
重い音を立てて、鍵が回る。
「私も言葉だけでは信用されないことくらい知っている」
扉が開いた。
「だから、先に行動する」
彼は牢の中へ入ってきた。
濡れた外套の裾が、石床をかすめる。
思ったより近い。彼の立つ場所だけ、空気が少し低くなるような気がした。
「エリシア。立てるか」
「立てないと言ったら?」
「抱える」
「……女性に対して、もう少し言い方というものがあるのでは」
「なら、どう言えばいい」
本気で分からない、という顔だった。
こんな状況でなければ、少し笑っていたかもしれない。
「せめて、大丈夫か、と聞くものです」
「大丈夫か」
「今、言われても遅いです」
「そうか」
会話が不格好すぎて、胸の奥に溜まっていた緊張がほんの少しだけ緩んだ。
私は壁に手をつき、立ち上がろうとした。
けれど、膝に力が入らない。鉄枷が鳴り、身体が傾く。
倒れる、と思った瞬間、腕を掴まれた。
強い手だった。
乱暴ではない。
けれど、絶対に落とさないという力があった。
「熱がある」
「……地下牢暮らしは、あまり健康に良くないようです」
「冗談を言えるなら、まだ意識はあるな」
「今のを冗談と受け取ってくださるなら、公爵閣下は意外と寛大ですね」
「私は寛大ではない」
「でしょうね」
レオンハルトが一瞬、黙った。
怒らせたかと思った。
けれど、彼はただ自分の外套を外し、私の肩にかけた。
重い。
雨と獣毛と、どこか冷たい夜風のにおいがした。
「必要ありません」
「震えている」
「熱のせいです」
「なら、なおさら必要だ」
「……私は、あなたを信用していません」
「構わない」
即答だった。
私は彼を睨む。
「利用するつもりでしょう」
「そうだ」
あまりに堂々と認められて、逆に言葉に詰まった。
「……普通、そこは否定するところでは?」
「否定してほしいのか」
「嘘をつかれるのは嫌いです」
「なら、正直に言う。私は君を利用する」
レオンハルトは私の手首の枷を見た。
看守に視線を向けるだけで、看守は慌てて鍵束を差し出した。
がちゃがちゃと不器用に鍵が鳴る。
やっと枷が外れた瞬間、手首に血が戻ってくるような痛みが走った。
私は顔をしかめる。
レオンハルトはその痕を見て、少しだけ眉を動かした。
本当に、ほんの少しだけ。
「痛むか」
「痛くないと言ったら、信じますか」
「信じない」
「では聞かないでください」
「確認だ」
「不器用ですね」
「よく言われる」
「言われるのですか」
「ああ。主に副官に」
思わず、息が漏れた。
笑ったのだと気づいて、自分で驚いた。
処刑前夜の地下牢で。
冷血公爵を相手に。
私は、ほんの少し笑ってしまった。
レオンハルトはその笑いを見ても、表情を変えなかった。
けれど、声だけが少し低くなった。
「その方がいい」
「何がですか」
「死ぬ顔よりは」
胸の奥を、何かが小さく刺した。
私は目を逸らした。
「……助けると言いましたね。具体的には、どうなさるおつもりですか。王命で決まった処刑です。いくらクラウゼル公爵家でも、簡単には覆せないでしょう」
「覆さない」
「では」
「止める」
短すぎる答えに、私は眉を寄せた。
「同じでは?」
「違う。無罪を証明するには時間がかかる。だが、明日の処刑を止めるだけなら方法がある」
「どんな方法ですか」
レオンハルトは、そこで初めて私の前に片膝をついた。
地下牢の濡れた石床に。
この国で最も恐れられる公爵が、罪人として鎖に繋がれていた女の前に。
看守が息を呑む音がした。
私は動けなかった。
彼は私を見上げる。
「私の婚約者になれ」
今度こそ、熱で幻聴を聞いたのだと思った。
「……はい?」
「私の婚約者になれ、エリシア・フォン・アルヴィナ」
「待ってください。話が飛びました。階段を三段どころか塔の上から落ちています」
「君が私の婚約者になれば、王家は明朝、君を勝手に処刑できない」
「なぜですか」
「君の身柄が、アルヴィナ公爵家でも王太子でもなく、クラウゼル公爵家に属することになるからだ」
「人を荷物のように言わないでください」
「すまない。他に適切な言い方が思いつかなかった」
本当に悪いとは思っていなさそうな顔だった。
けれど、嘘ではなかった。
この男は、たぶん本当に、他の言い方を知らない。
「求婚、ですか」
「契約だ」
「でしょうね」
「不満か」
「処刑前夜に地下牢で契約婚約を申し込まれて、不満を言わない令嬢がいたら会ってみたいです」
「君は言うのだな」
「明日死ぬ予定でしたので、遠慮する理由が減りました」
レオンハルトの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑った、のだろうか。
分かりにくすぎる。
「条件を説明する」
「まだ受けるとは言っていません」
「聞くだけ聞け。断るなら、その後でいい」
「断ったら?」
「別の手を考える」
「あるのですか」
「ないことはない」
「今、少し目を逸らしましたね」
「気のせいだ」
この人、意外と嘘が下手なのではないだろうか。
私はそんなことを思ってしまい、すぐに自分を叱った。
相手は冷血公爵だ。
油断してはいけない。
助けると言いながら、結局は私を別の檻に入れるだけかもしれない。
「あなたは、私に何をさせたいのですか」
「証人になってもらう」
「証人?」
「王太子毒殺未遂事件は、君一人を陥れるためだけのものではない。王宮の奥で、別のものが動いている」
彼の声が低くなる。
「君はその中心に近すぎた。だから消されかけた」
「……私は、何も知りません」
「知っているかどうかは問題ではない。君が覚えているもの、見ていたもの、保管していた書類、交わした手紙。その全てが必要だ」
心臓が嫌な音を立てた。
王太子妃教育の一環として、私は多くの書類に触れてきた。
王宮の予算。式典の準備。慈善基金の記録。貴族家への招待状。誰が誰と会い、どの派閥がどんな贈り物をしたか。
覚えたくて覚えたわけではない。
失敗すれば叱られるから、必死に覚えただけだ。
けれど、それが誰かにとっては都合の悪いものだったのだとしたら。
「……私を助けるのは、正義感からではないのですね」
「違う」
「本当に正直ですね」
「正義感だけで君を助けられるほど、私は王宮で信用されていない」
「ご自覚はあるのですね」
「ある」
私は小さく息を吐いた。
怖い。
この手を取れば、きっともっと大きなものに巻き込まれる。
王宮の陰謀。王太子。妹。父。王妃。公爵家。私を殺そうとした誰か。
逃げたい。
ただ静かな場所で、誰にも利用されずに生きたい。
でも。
今この手を取らなければ、私は明日の朝、何も言えないまま首を落とされる。
前世と同じだ。
大丈夫ですと笑って、限界まで黙って、最後にはひとりで終わる。
そんなのは、もう嫌だった。
「……私は、あなたを信用しません」
「構わない」
「感謝もしません」
「今は必要ない」
「あなたの思い通りに動くとも限りません」
「その方がいい」
私は眉をひそめた。
「なぜですか」
「自分で考えない者は、簡単にまた利用される」
その言葉に、胸が詰まった。
冷たい言い方だった。
優しくはない。慰めでもない。
けれど、正しかった。
私はずっと、誰かの言う通りに生きてきた。
父の言う通りに。
王妃教育係の言う通りに。
殿下の望む通りに。
家のために。
妹を責めないために。
その結果が、この地下牢だ。
私は、震える手を伸ばした。
レオンハルトの手は大きかった。
剣を握る人の手。書類だけを扱う貴族の手ではない。固く、温かく、逃げ場がないほど強い。
触れる直前、私は一度だけ手を止めた。
「公爵閣下」
「何だ」
「もし私が無実を証明した後、あなたの前から逃げたいと言ったら?」
「逃げればいい」
「追わないのですか」
彼は少しだけ黙った。
その沈黙が、なぜか答えよりも正直に思えた。
「必要なら追う」
「今、逃げればいいとおっしゃいました」
「君が危険な場所へ逃げるなら止める。安全な場所へ逃げるなら、邪魔はしない」
「……分かりにくい人ですね」
「よく言われる」
「副官に?」
「副官と、妹に」
「妹君がいらっしゃるのですか」
「いる。私より口が悪い」
「それは相当ですね」
「会えば分かる」
会えば。
まるで、明日以降も私が生きていることを当然のように言う。
その傲慢さに、少しだけ救われた。
私は彼の手を取った。
「契約します」
声は震えていた。
けれど、確かに言えた。
「私は、あなたを利用します。生きるために」
レオンハルトは立ち上がり、私の手を握ったまま告げた。
「それでいい」
牢の外で、看守が慌てふためいている。
「あ、あの、閣下、本当にこの罪人を……? 王太子殿下のご命令が……」
レオンハルトは振り向いた。
それだけで、看守の声が止まる。
「王太子殿下には私から伝える」
「し、しかし」
「明朝の処刑は中止だ」
「そんな、我々の一存では」
「お前たちの一存ではない」
彼の声が、地下牢の空気を凍らせた。
「私の決定だ」
看守の顔から血の気が引いた。
私は彼の横顔を見上げる。
さっきまで私と不器用な会話をしていた男とは、まるで別人のようだった。
冷血公爵。
北方の狼。
王国で最も敵に回してはいけない男。
その男が、今は私の手を握っている。
安心していいのか、恐れるべきなのか分からなかった。
ただ、一つだけ分かる。
私は明日の朝、処刑台には立たない。
レオンハルトが歩き出す。
私はよろめきながら、その隣に並んだ。
地下牢の通路は長く、暗い。
湿った石壁には灯火が揺れている。
一歩進むたび、足元がふらついた。
「歩けるか」
「歩けます」
「嘘だな」
「女性には、少しくらい見栄を張らせるものです」
「そうか」
次の瞬間、身体が浮いた。
「……公爵閣下!」
私は思わず彼の肩を掴んだ。
抱き上げられている。
横抱き。
いわゆる、物語の中で姫君がされるような抱え方。
けれど、状況は地下牢で、私は処刑前夜の罪人で、相手は冷血公爵だ。情緒がぐちゃぐちゃだった。
「下ろしてください」
「歩けない」
「歩けます」
「三歩で倒れそうだった」
「観察力が無駄に高いですね」
「役に立っている」
「そういう問題ではありません!」
声を荒げたせいで、喉が痛んだ。
咳き込むと、レオンハルトの腕に力がこもる。
「暴れるな。落とす」
「落とさないでください」
「では暴れるな」
「……あなた、本当に会話が上手ではありませんね」
「知っている」
悔しいことに、抱えられた方が楽だった。
身体は限界だったらしい。
外套の温かさと、彼の腕の安定感に気づいた途端、強張っていた力が抜けそうになる。
駄目だ。
気を許してはいけない。
そう思うのに、まぶたが重い。
「眠るな」
「命令ですか」
「確認だ」
「……少しだけなら」
「少しだけなら許す」
「公爵閣下」
「何だ」
「私は、本当に……助かるのですか」
聞くつもりはなかった。
けれど、口からこぼれてしまった。
子どもみたいな声だった。
レオンハルトは歩みを止めなかった。
ただ、私を抱える腕を少しだけ強くした。
「助ける」
「言葉だけなら、誰でもできます」
「なら、何度でも行動で示す」
涙が出そうになった。
出なかった。
まだ、泣くのは怖かった。
泣いてしまったら、全部崩れてしまいそうだった。
だから私は、目を閉じる代わりに、小さく息を吐いた。
「……ひどい夜です」
「ああ」
「最悪の求婚です」
「契約だ」
「もっと最悪です」
「生きている」
その短い言葉に、私は返事ができなかった。
地下牢の階段の先に、薄い光が見えた。
雨音が少し近くなる。
冷たい夜の空気が、頬を撫でた。
私は、まだ生きている。
そして、処刑前夜に冷血公爵の婚約者になった。
この契約が、私の人生を救うのか。
それとも、もっと深い地獄へ連れていくのか。
その時の私は、まだ知らなかった。
ただ一つだけ、胸の奥で決めていた。
もう二度と、黙って死んでなどやらない。




