第24話 元婚約者は、謝り方を知らないようです
ユリウス殿下から三通目の手紙が届いたのは、焼き林檎の皿が下げられた少し後だった。
私は、アルヴィナ家とモルガン商会の借入記録について聞いたばかりで、まだ胸の奥に重いものを抱えていた。
父が私を守らなかったこと。
処刑同意書に署名したこと。
その直後、モルガン商会からの督促が止まっていたこと。
偶然かもしれない。
まだ断定はできない。
けれど、偶然だと思うには、あまりにも嫌な形をしている。
そんな時に届いた王太子殿下の封書は、見慣れた薄い青の封蝋で閉じられていた。
以前の私なら、その封蝋を見ただけで背筋を伸ばしただろう。
殿下からの手紙。
早く読まなければ。
すぐ返事を考えなければ。
殿下が何を望んでいるのか読み取らなければ。
けれど今の私は、封書を見た瞬間に、まず疲れた。
「エリシア様」
マルタが、盆に乗せた封書を見せながら言った。
「王宮より、王太子殿下のお手紙です」
「……またですか」
思わず本音が出た。
マルタは表情を変えない。
「はい。またでございます」
その言い方が少しだけ面白くて、私は笑いそうになった。
でも、笑いきれなかった。
王太子殿下の手紙は、いつも私の中にある古い癖を呼び起こす。
返さなければ。
応じなければ。
理解しなければ。
それはもう、私の義務ではないはずなのに。
レオンハルト公爵は、部屋の端でオスカーと何か短く話していた。
私が封書を見て固まったことに気づくと、すぐこちらへ目を向ける。
「読まなくていい」
いつもの短い言葉だった。
「でも、鍵のことが書かれているかもしれません」
「なら、私が読む」
「それは……」
私は少し迷った。
読まずに済むなら、そうしたい。
けれど、私に関する手紙を私が読まないことに、まだ少し抵抗があった。
逃げているような気がする。
その言葉が顔に出たのだろう。
レオンハルト公爵は眉を動かした。
「逃げてもいい」
「まだ何も言っていません」
「顔に出ている」
「この屋敷の皆さんは、私の顔を読みすぎです」
「分かりやすい」
「嬉しくありません」
マルタが静かに言う。
「では、選択肢を整理いたしましょう」
「選択肢?」
「はい。一つ、読まない。二つ、旦那様が読む。三つ、私が読む。四つ、エリシア様が読み、途中で止める。五つ、全員で読み、感想を言い合う」
「最後だけ茶会の遊びのようですね」
「不快な手紙を一人で抱え込まないための方法です」
私は封書を見た。
一人で抱え込まない。
以前なら考えられなかった。
王太子殿下からの手紙は、私が一人で受け取り、一人で意味を読み取り、一人で正しい返事を考えるものだった。
けれど今は、そうしなくていい。
「四つ目にします」
私は言った。
「私が読みます。ただし、途中で無理だと思ったら止めます」
「合図は?」
マルタがすぐに聞く。
「封書を伏せます」
「よろしいです」
レオンハルト公爵は短く頷いた。
「私もここにいる」
「はい」
オスカーが少し離れたところで手を挙げる。
「私は退出しましょうか? 王太子殿下の情緒的な文章を聞く趣味は、あまりありませんが」
「いてください」
自分でも意外なほど早く言っていた。
オスカーが少し目を丸くする。
「よろしいのですか」
「はい。鍵や書類棚の件があるなら、あなたにも聞いていただいた方がいいと思います」
「承知しました。では、情緒は無視して実務だけ拾います」
「それはそれで少し助かります」
私は封を切った。
手紙は、以前より長かった。
文字は整っている。
王太子として習った、乱れのない美しい筆跡。
けれど、その美しさを見ただけで、胸が少し痛んだ。
私はゆっくり読み始めた。
『エリシアへ。
まず、君を傷つけたことについて、私は考え続けている。法務棟で君に拒まれた時、私は大きな衝撃を受けた。君があのように私との対話を拒むとは、正直に言えば思っていなかった。
だが、君がそれほど追い詰められていたのだと考えると、胸が痛む。私は君を追い詰めるつもりはなかった。君を守る方法を、あの時の私は見誤ったのかもしれない』
私は、そこで一度手紙を下ろした。
「見誤った」
呟くと、レオンハルト公爵が低く言った。
「便利な言葉だ」
「はい」
見誤った。
それは、間違えたと似ているようで違う。
間違えたのは仕方がなかった。
状況が悪かった。
判断が難しかった。
そんな逃げ道が、言葉の中に作られている。
私は続きを読んだ。
『君は、私がセレーネばかりを庇ったと思っているのだろう。だが、あの子もまた怯えていた。私は王太子として、混乱を鎮めなければならなかった。君は強い女性だ。だから、私は君なら分かってくれると、どこかで甘えていたのかもしれない』
「出ましたね」
オスカーが小さく言った。
マルタが冷たい目を向ける。
「何がですか」
「強い女性だから我慢できる、というやつです。社交界と王宮で便利に使われる最低の理屈ですね」
私は少しだけ笑ってしまった。
最低の理屈。
確かに。
強いから大丈夫。
賢いから分かってくれる。
しっかりしているから任せられる。
泣かないから傷ついていない。
そうやって、私はいろいろなものを渡されてきた。
「続けます」
私は言った。
『それから、クラウゼル公爵家から問い合わせのあった、君の控室の書類棚の鍵について。
確かに、以前君から予備鍵を預かったことがある。返却が遅れていたことは、私の不注意だ。この点については謝る。
だが、誤解しないでほしい。私は君の私物を暴くために鍵を預かったのではない。君が不在の時、王宮行事に必要な書類を確認できるようにするためだった。君もそれを理解して渡してくれたはずだ』
私は手紙を見つめた。
返却が遅れていた。
不注意。
謝る。
その文字だけを見れば、謝罪の形をしている。
けれど。
「謝っているようで、謝っていませんね」
自分の口から出た言葉は、とても静かだった。
マルタが頷く。
「はい」
レオンハルト公爵も短く言った。
「責任を小さくしている」
「そうですね」
私は紙を指で押さえた。
「鍵を返さなかったことを、不注意にしています。でも、本当に問題なのは、鍵を持ち続けたことだけではありません」
「開けたかどうかだ」
公爵が言う。
「はい」
私は続きを読んだ。
『棚を開けたかどうかについては、記憶が曖昧だ。一度、急ぎの行事書類を確認したことはあったかもしれない。ただし、それは君の仕事を助けるためであり、君を害する意図など一切なかった。
白百合慈善基金に関する覚書を、君が棚に置いていたことも、私は詳しくは知らない。もし目にしたとしても、それを誰かに渡したことはない。母上を疑うような記録があれば、私は驚いただろうが、それは王家を守る立場として当然のことだ』
私の指が止まった。
記憶が曖昧。
一度、開けたことはあったかもしれない。
君を助けるため。
王家を守る立場として当然。
言葉が、次々に自分を守る壁になっていく。
私はゆっくり息を吸った。
「開けていますね」
レオンハルト公爵が言った。
「はい」
オスカーも頷く。
「“記憶が曖昧”は、かなり開けています」
「かなり開けている、という表現はあるのですか」
「今作りました」
「便利ですね」
「便利です」
軽い会話のはずなのに、胸は重かった。
殿下は、開けた。
私の書類棚を。
私が嫌だと思いながらも渡した鍵で。
そして、今になって、記憶が曖昧だと言う。
私は、もう少し読み進めた。
『エリシア、私は今でも君を責めたいわけではない。むしろ、あの時もっと君の話を聞くべきだったのかもしれないと考えている。
だが、君も理解してほしい。私は毒を盛られた側だった。苦しみ、混乱し、周囲から多くの声を聞いた。セレーネは震えていた。父君も、君が何かを抱えていたのではないかと心配していた。
あの場で私が君だけを信じることは、王太子として簡単なことではなかった』
私は目を閉じた。
苦しみ。
混乱。
毒を盛られた側。
それは事実だ。
ユリウス殿下も、事件の被害者ではあった。
毒が命を奪うほど強くなかったとしても、苦しんだのは事実だろう。怖かったのも事実だろう。
でも。
「自分がどれだけ大変だったかばかりですね」
私は言った。
誰も、すぐには言葉を挟まなかった。
「私に何をしたかではなく、自分がなぜそうしたかを書いています」
手紙の文字が、少しぼやける。
泣きそうなのではない。
怒りで目が熱くなっているのだと思う。
「殿下は、毒を盛られて苦しかった。セレーネは震えていた。父は心配していた。王太子として簡単ではなかった。だから、私を信じられなかった」
私は紙を伏せなかった。
まだ読める。
「でも、私が何をされたかが、どこにもありません」
牢に入れられた。
弁明を聞かれなかった。
処刑されかけた。
父に署名された。
妹の涙で罪を補強された。
王太子に、信じてもらえなかった。
それらが、手紙の中では薄い。
私の痛みではなく、殿下の苦悩の背景にされている。
レオンハルト公爵が低く言った。
「読むのを止めてもいい」
「読みます」
私は紙を持ち直した。
『もし君が望むなら、改めて話す機会を設けたい。クラウゼル公爵を通さず、君と私だけで。昔のようにとは言わない。だが、君は私がまったく君を思っていなかったわけではないと知るべきだ。
君が王宮から離れ、クラウゼル公爵のそばにいることで、事態はより大きくなっている。君自身の名誉のためにも、感情的な対立を長引かせるべきではない。
私は、君が戻れる道をまだ閉ざしていない』
そこまで読んで、私は手紙を伏せた。
合図だった。
マルタがすぐに近づく。
「白湯を」
「ありがとうございます」
私はカップを受け取り、一口飲んだ。
喉が乾いていた。
「続きは?」
レオンハルト公爵が尋ねる。
「読みます。ですが、今のところで一度止めたかっただけです」
「なぜ」
「腹が立ったので」
「いい判断だ」
彼は真面目に言った。
「怒っている時に一度止まれるのは、いい」
そう言われると、少しだけ気が抜けた。
「褒めていますか」
「褒めている」
「分かりやすいです」
「努力した」
マルタが静かに言う。
「旦那様、九十一点です」
「上がった」
「はい。今のはよろしゅうございました」
オスカーが横から小声で言う。
「採点制度、私にも導入されます?」
「あなたはまず減点が多すぎます」
「厳しい」
そのやり取りで、少しだけ呼吸が戻った。
私は最後まで手紙を読んだ。
『最後に、セレーネについても触れさせてほしい。あの子は今、非常に不安定だ。君を傷つけたことを悔やんでいる。だが、君から拒まれたことでさらに追い詰められている。
私は、君に彼女を許せとは言わない。ただ、あの子の心を壊すようなことはしないでほしい。君は本来、人の痛みが分かる女性だと私は知っている。
鍵の件については、必要であれば法務卿に説明する。だが、どうかこれ以上、私たちの間の信頼を壊すような方向へ進まないでほしい。
ユリウス』
読み終えた後、私はしばらく手紙を見ていた。
私たちの間の信頼。
その言葉が、一番胸に残った。
まだあると思っているのだろうか。
それとも、壊したのは私だと思っているのだろうか。
「元婚約者は」
私は静かに言った。
「謝り方を知らないようです」
誰も否定しなかった。
オスカーが少しだけ頭を傾ける。
「謝っているつもりは、あるのでしょうね」
「はい」
私は頷いた。
「だから厄介です」
殿下は、自分では謝っているつもりなのだろう。
苦しかった。
混乱していた。
君を助けるつもりだった。
悪意はなかった。
君にも分かってほしい。
それらの言葉を重ねれば、謝罪になると思っている。
でも、違う。
「謝罪に必要なのは、自分がどれだけ苦しかったかではありません」
私は手紙を丁寧に畳んだ。
「自分が相手に何をしたかを見ることです」
胸が痛い。
けれど、言葉ははっきりしていた。
「殿下は、まだそれを見ていません。毒を盛られた自分、混乱した自分、セレーネを守りたかった自分、王太子として難しい判断をした自分を見ています。でも、地下牢に入れられ、処刑されかけた私を見ていません」
レオンハルト公爵の目が、静かに細くなった。
「正しい」
「はい」
オスカーが紙を一枚取り出す。
「実務的には、この手紙はかなり使えます」
「使える?」
「はい。王太子殿下は、書類棚の鍵を預かっていたこと、返していなかったこと、棚を開けた可能性があることを自筆で認めています」
私は手紙を見る。
確かに。
感情的には疲れる。
でも、証拠としては大きい。
「この手紙も保管します」
私は言った。
「はい」
マルタが、いつもの鍵付き小箱を持ってきた。
王太子殿下からの一通目。
二通目。
そして、三通目。
謝罪ではない手紙たち。
でも、証拠ではある。
私は三通目を小箱へ入れた。
蓋を閉じる音が、小さく響く。
「返事は書きますか」
レオンハルト公爵が尋ねた。
私は少し考えた。
以前なら、書いただろう。
殿下を傷つけない言葉を探して。
セレーネを追い詰めないように配慮して。
父に迷惑がかからないように、王宮を刺激しないように。
でも今は。
「返事は書きません」
私は答えた。
「少なくとも、今は」
「理由は」
「返事を書けば、殿下は対話が始まったと思うでしょう。私の言葉を、自分に向けられたものとして受け取る。そうすると、また殿下の感情を中心に話が進みます」
私は小箱の上に手を置いた。
「私は今、殿下の心を整えるために言葉を使いたくありません」
言った瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
レオンハルト公爵が頷く。
「いい」
「いい、ですか」
「ああ。君の言葉だ」
君の言葉。
それは、まだ少し慣れない響きだった。
私の言葉は、ずっと誰かのために整えるものだった。
父のため。
殿下のため。
セレーネのため。
家のため。
王宮のため。
でも今は、自分のために使っていい。
「ただし」
私はオスカーを見た。
「法務卿には、この手紙の写しを提出してください。鍵の件に関する部分だけでなく、全体を」
「全体ですか」
「はい。殿下が何を認め、何を曖昧にし、何を私に求めているかも記録に残したいので」
オスカーがにやりとした。
「なかなか容赦がない」
「容赦をしていたら、処刑されかけましたので」
言ってから、部屋が一瞬静かになった。
自分でも少し強い言い方だったと思う。
けれど、取り消す気はなかった。
レオンハルト公爵が短く言う。
「その通りだ」
マルタも頷いた。
「必要な容赦と、不要な遠慮は別でございます」
「また覚えることが増えました」
「ゆっくりで構いません」
ゆっくり。
その言葉が、今日は少し優しく聞こえた。
オスカーは手紙の写しを取る手配のために部屋を出ていった。
マルタは茶を入れ直してくれた。
香りの薄い、飲みやすい茶。
私はそれを一口飲んだ。
苦くない。
甘すぎもしない。
「エリシア」
レオンハルト公爵が呼ぶ。
「はい」
「傷ついたか」
まっすぐな問いだった。
私はカップを置き、少し考えた。
「はい」
正直に答える。
「傷つきました。でも、以前とは違います」
「何が」
「以前なら、殿下が苦しんでいることに、私が何か返さなければと思いました。私が折れて、殿下の苦しさを軽くしてあげなければと」
「今は」
「今は、殿下の苦しさは殿下のものだと思えます」
自分で言って、少し驚いた。
言葉にすると、はっきりする。
「私は、私の傷を見ます。殿下が見ないのなら、なおさら」
レオンハルト公爵は、少しだけ黙った。
そして言った。
「強いな」
胸が小さく揺れた。
強い。
その言葉は、以前なら嫌だった。
強いから大丈夫。
強いから我慢できる。
強いから傷つかない。
でも、公爵の言い方は違った。
我慢を押しつけるためではない。
私が自分の傷を見ようとしていることへの言葉だった。
「……強いと言われるのは、少し苦手です」
「そうか」
「でも、今のは嫌ではありませんでした」
「なら、覚える」
「何をですか」
「強いと言う時は、意味を間違えない」
不意に、胸が熱くなった。
この人は、本当に覚える。
白薔薇菓子が苦手なことも。
焼き林檎に蜂蜜を少しが好きなことも。
沈黙を許すことも。
強いという言葉の扱いも。
「公爵閣下」
「何だ」
「あなたは、覚えることが多くて大変ではありませんか」
「必要なことは覚える」
「私に関することばかり増えています」
「そうだな」
「否定しないのですか」
「事実だ」
私は困って、少し笑った。
顔が熱い。
マルタが静かに茶器を整えながら言う。
「旦那様、本日は九十二点です」
「上がった」
「はい。最後のあたりは非常によろしかったかと」
「そうか」
「ただし、入室時の午後のおはようが響いております」
「まだ響くのか」
「響きます」
私はとうとう笑ってしまった。
手紙で傷ついたはずなのに。
王太子殿下の言葉に、また古い痛みを引っかかれたはずなのに。
私は、ここで笑っている。
それは忘れたからではない。
傷ついていないからでもない。
傷ついたまま、笑える場所にいるからだ。
私は小箱を見た。
その中には、謝罪ではない手紙が三通入っている。
殿下は、まだ謝り方を知らない。
父は、私を売ったかもしれない。
妹は、涙の後ろで何をしたのか分からない。
王妃宮とモルガン商会の影は、まだ濃い。
それでも、私は少しずつ学んでいる。
読まない選択。
返事をしない選択。
傷ついたと言う選択。
相手の苦しさを、自分が背負わない選択。
どれも、以前の私にはできなかったことだ。
私はもう、殿下の心を整えるための婚約者ではない。
元婚約者の謝罪未満の手紙を、小箱にしまう女だ。
そして、必要ならその手紙を証拠として使う女でもある。
悪女らしいだろうか。
少しだけ、そうかもしれない。
でも私は、それでいいと思い始めていた。




